教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 4月24日

植物学の日

 

1862(文久2)年の旧暦の4月24日、植物学者の牧野富太郎(1862~1957年)が土佐国佐川村(現:高知県高岡郡佐川町)で生まれました。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

1862年文久2年)のこの日(旧暦の4月24日)、植物学者の牧野富太郎(まきの とみたろう、1862~1957年)が土佐国佐川村(現:高知県高岡郡佐川町)で生まれた。

その家は近隣から「佐川の岸屋」と呼ばれた商家で、雑貨業と酒造業を営む裕福な家だった。そして、彼は幼少のころから植物に興味を示していたと伝わる。

 

牧野富太郎

 

牧野博士は「日本の植物学の父」といわれ、独学で植物分類学を研究し、94歳でこの世を去るまでの生涯を植物研究に費やした。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。

また、新種・変種約2,500種を発見・命名した。佐川小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。

牧野博士が死去した翌年の1958年(昭和33年)4月、博士の業績を記念した建物として、高知市五台山に「高知県立牧野植物園」が開園した。

 

 

1999年(平成11年)には園内に「牧野富太郎記念館」(内藤廣設計)が新設され、博士が収集した蔵書、直筆の原稿、植物画など58,000点を収蔵した牧野文庫を始め、植物に関する研究室や、博士の生涯に関する展示などがある。

 

 

2008年(平成20年)4月には南園に東洋の園芸植物を観賞できる「50周年記念庭園」が誕生した。園内には「博士ゆかりの野生植物」など約3,000種の植物が栽培されている。また、同園では4月24日を「マキノの日」としており、この日は入園が無料になるほか、園内の植物観察ツアーなど、特別なツアーが開催される。

 

マキノの日

 

 

ウェザーニュース」に掲載された記事より紹介します。

「日本植物学の父」牧野富太郎の誕生日。「人間は植物に感謝して生きなさい」

2023/04/24 13:19 ウェザーニュース

4月24日は「植物学の日」でもあります。「日本植物学の父」「植物の神様」などと呼ばれる牧野富太郎(まきのとみたろう/1862~1957)の生まれた日であるため、制定されました。

現在、放映されているNHK連続テレビ小説(朝ドラ)『らんまん』の主人公、槙野万太郎のモデルは牧野富太郎です。

牧野富太郎はどのような思いで植物に向き合っていたのか、幕末の文久2年に生まれ、昭和32年まで生きた牧野富太郎はどんな人物だったのか、植物学の日(牧野富太郎生誕の日)に、その一端を探ってみましょう。


「雑草という植物などない」
日本に自生する植物は約7000種といわれます。牧野はそのうち1500種以上に学名を付けました。そして今も、日本の植物の約300種は、牧野が付けた学名が使われています。たとえば、ケヤキキンモクセイクチナシなどの学名は牧野が付けました。

「植物の精」「植物の愛人」を自称していた牧野は、植物をとことん愛した人物でした。

「雑草という植物などない。名がないなら、付ければよい。一つ一つの草花にはそれぞれに違いがあって、それぞれに精一杯生きているんだ」

牧野はそうした言葉も残していると伝わります。


尋常ならざるツバキ愛?
牧野がとりわけ愛した植物の一つにツバキがありました。「ツバキはわが日本の名花で、あのとおりの美花を開き葉をあわせて大いに鑑賞せらるべき資格を備えたもの」と激賞しています。

日本中のあらゆるツバキを集めて、ツバキ園を造ることまで提案しています。さらに、ひと山すべてをツバキで埋め尽くすツバキ園まで考えたようですから、牧野のツバキ愛はいささか度を超していたかもしれません。

そのツバキは、漢字では「椿」と書きます。しかしこれは、漢名ではなく和字(国字)なのですが、そのことも牧野は指摘しています。

「椿」は「峠」「榊」「働」などと同じく、もともとは中国の漢字ではなく、日本で作られた漢字、すなわち和字で、ツバキは春に盛んに花を咲かせるため、木偏に春と書いて「ツバキ」と読ませるようになったということです。


カキツバタは「杜若」でも「燕子花」でもない!?
牧野は1500種以上の植物に名前を付けただけに、植物の名称、特に漢字の使い方には厳しい目を向けています。

たとえば、初夏に花を咲かせるカキツバタ。『万葉集』にも詠まれた歌があるように、カキツバタは日本では古くから親しまれてきた植物です。

このカキツバタは漢字で「杜若」や「燕子花」と書き、これは多くの辞書にも載っています。しかし牧野は、これはおかしい、間違いである、と断じています。

中国に「杜若(トジャク)」という草があって、日本の学者がこれをカキツバタであると信じたことから、カキツバタ=杜若という「間違い」が始まってしまったと嘆いています。

江戸時代前期の俳人で、俳聖ともいわれる松尾芭蕉に「杜若われに発句のおもひあり」の一句がありますが、牧野にかかると、これも「おかしい」ということになりそうです。

同様に「カキツバタは断じて燕子花ではない」とも言い切っていて、カキツバタを燕子花であると思っている学者たちの「お顔を拝見すると思わずハハハハハハと笑いたくなる」とまで書いています。

生涯、信じるわが道を突き進んでいった牧野富太郎。物言いも、歯に衣着せぬところがあったようです。


「植物の名前はすべてカタカナで書くのが望ましい」
カキツバタだけでなく、ケヤキを「欅」、アジサイを「紫陽花」、フキを「蕗」、ショウブを「菖蒲」、スギを「杉」などと書くことも「誤用である」と断じていて、古典学者などを除けば、植物の名前はすべてカタカナで書くのが望ましいと主張しています。

この考えは1887(明治20)年以来変わらないと、1943(昭和18)年に書いているから、少なくとも56年間は一貫していたようです。

しかし、2023年の現在も、これらの漢字は辞書に載っています。この現状を牧野は草葉の陰で嘆いているかもしれません。


愛妻への思いから付けられた植物の名
牧野は1890(明治23)年、満年齢で26歳のとき、10代半ばの壽衛子(すえこ)と結婚し、その後、13人の子供を授かっています(壽衛子の前にも、妻と呼べる女性がいたと伝わります)。

牧野は土佐の富裕な商家に生まれた「いいところの若(わか)」で、壽衛子は彦根藩の士族の娘という高い身分で裕福な家の出です。

当初は牧野の実家から援助があり、牧野自身も東京大学に職を得たのですが、一家の生活費に加え、牧野の研究費、植物採集の旅費など、莫大な金銭を必要としたため、食費にも事欠くほどの貧乏暮らしが続きました。その困窮生活を支えたのは壽衛子でした。

牧野は次のような言葉も残しています。

「私が終生植物の研究に身を委ねることが出来たのは何といっても、亡妻壽衛子のお蔭が多分にある」
「よくもあんな貧乏生活の中で専ら植物にのみ熱中して研究が出来たものだと、われながら不思議になることがある。それほど妻は私に尽くしてくれた」

壽衛子は50代半ばで亡くなりました。同時期に仙台で発見したササに、牧野は「スエコザサ」(和名。学名は「ササエラ・スエコアナ・マキノ」~正式にはラテン語で表記)と名づけました。


「人間は植物がないと生活できない」
牧野は「(人間は)植物に感謝せよ」と熱く語り、次のような言葉を残しています。

「植物は人間がいなくても少しも構わずに生活できるが、人間は植物がないと生活できない。ならば、人間と植物とを比べると、人間のほうが弱虫といえよう。
人間は植物にオジギをしないといけない。衣食住は人間にとって、必要欠くべからざるものである。人間のその要求を満足させてくれるものが植物である。
人間は植物を神様だと尊崇し、礼拝し、感謝の真心を捧ぐべきなのだ」

牧野富太郎生誕の日に、噛み締めたい言葉です。


牧野は満90歳ごろまで植物採集に出かけ、93歳まで徹夜もしたというから、驚かされます。

行年は94。存分に生ききり、大きな足跡を残した人生だったといえるでしょう。

 

参考資料など
牧野富太郎 なぜ花は匂うか』(著者/牧野富太郎、発行所/平凡社)、『草木とともに 牧野富太郎自伝』(著者/牧野富太郎、発行所/KADOKAWA)、『牧野富太郎 雑草という草はない 日本植物学の父』(著者/青山誠、発行所/KADOKAWA)、『牧野富太郎 植物博士の人生図鑑』(編者/コロナ・ブックス編集部、発行所/平凡社)、『MAKINO』編者/高知新聞社、発行所/北隆館)、『牧野富太郎 植物の神様といわれた男』(著者/横山充男、イラストレーター/ウチダヒロコ、発行所/くもん出版)、『牧野富太郎 日本植物学の父』(文/清水洋美、絵/里見和彦、発行所/汐文社)、『もっと知りたい牧野富太郎』(著者/池田博田中純子、発行所/東京美術)、『牧野富太郎ものがたり 草木とみた夢』(文/谷本雄治、絵/大野八生、解説/田中伸幸、発行所/出版ワークス)、『日本の365日を愛おしむ』(著者/本間美加子、発行所/飛鳥新社)、『俳句の花図鑑』(監修/復本一郎、発行所/成美堂出版)、『四季の花の名前と育て方』(監修者/川原田邦彦、発行所/日東書院本社)

 

きょうは何の日 4月21日

創造性とイノベーションの世界デー

 

「創造性とイノベーションの世界デー」は、2017(平成29)年4月の国連総会で制定された国際デーの一つです。英語表記は「World Creativity and Innovation Day:WCID」。

「持続可能な開発」の実施や問題解決における創造性とイノベーションの役割についての意識を高めるための日です。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

この国際デーは、2002年(平成14年)4月21日に世界50ヵ国以上で初めて記念日として祝われた。その後、2006年(平成18年)に4月15日~21日の一週間が「World Creativity and Innovation Week:WCIW」となった。初日の4月15日はイタリアの芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)の誕生日でもある。彼は芸術と科学の分野を超えた創造性の象徴であり、これらの分野が互いに情報を交換し、高め合う方法を例示している。

レオナルド・ダ・ヴィンチは発明家としても知られ、ヘリコプターの原理を考案したことから、日本において4月15日は「ヘリコプターの日」にもなっている。

イノベーション(innovation)」は、日本語では「革新」「刷新」「一新」の意味であり、「技術革新」と訳されることも多い言葉である。一般的に「新しい技術の発明」を指すと思われがちだが、「新しい思い付きや手法の利用」という意味であり、小さなことでも新しいアイデアを利用すればイノベーションとなる。

新しいアイデアから社会的意義のある新たな価値を創造し、社会的に変化を起こすことが「持続可能な開発」の達成において重要であると思われる。

 

 

きょうは何の日 4月18日

発明の日

 

明治18年(1885年)4月18日に、初代特許庁長官を務めた高橋是清らが現在の特許法の前身である「専売特許条例」を公布し、日本の特許制度が始まりました。

これを記念し、昭和29年(1954年)1月28日に、通商産業省(現在の経済産業省)は、特許制度をはじめとする産業財産権制度の普及・啓発を図ることを目的として、毎年4月18日を「発明の日」とすることを決定しました。

                          (特許庁のHPより)

 

「日本化工塗料」のHPより引用します。

日本の特許第一号について

 1867年(慶応3)、福沢諭吉が自著『海外事情外編』にて欧米の特許制度を日本に初めて紹介(*1)し、その後1883年(明治16)には特許権などの国際的保護に関するパリ条約が締結されました。これらを受け、日本では、開国以来の懸念であった不平等条約改正問題を解決し、国際的地位を向上させるためにも特許法を制定すべきという声が高まり、1885年(明治18)4月18日に『専売特許条例』が公布されます。

  当時、彫刻家・漆工芸家として世に知られた堀田瑞松は、そのころたまたま政府要人の間で語られていたある話に研究心を刺激されます。それは、「世界の鉄製船舶が海水によって船底を浸食されるため、6ヶ月ごとに入渠して塗装しなおさなければならない。もし、もっと強力な防錆塗料が開発されて入渠周期を延長できれば、わが国はもとより世界の大きな利益となろう」というものでした。さっそく瑞松は漆を主成分とする船底塗料の研究に着手し、横須賀造船所の周辺海域で実験を繰り返し、海軍の船で実船テストを行い成功を収めます。

  テストの結果に自信を得た瑞松は、1885年(明治18)7月1日に農商務省工務局の専売特許所(今の特許庁・当時の所長は高橋是清)へ出願し、同年8月14日付で特許を取得しました。

 

 

(*1) 「有益ノ物ヲ発明シタル者ヘハ官府ヨリ国法ヲ以テ若干ノ時限ヲ定メ其ノ間ハ発明ニ由テ得ル所ノ利潤ヲ独リ其発明者ニ附与シ以テ人心ヲ鼓舞スル一助トナセリ之ヲ発明ノ免許(パテント)ト名ツク」

 

瑞松の出願内容は以下の通りです(一部表示できない表記を現代の文字に直してあります)

専売特許願

一、堀田錆止塗料及ビ其塗法

 右ハ私ノ發明ニシテ従来世上ニ使用セラレザル塗料及塗法ナルハ勿論一切御條例ニ相觸候儀無之且此願書及別封明細書ニ記載セル事實ニ相違之廉無之段確信候間拾五箇年ヲ期限トシ専賣特許證御下付相成度依テ御免許料金貳拾圓相添此段奉願候也

明治十八年七月一日

東京府京橋区山城町八番地居住

唐木彫刻及漆器

堀田瑞松

 

特許明細書の内容は、

東京府平民堀田瑞松ヨリ明治十八年七月一日ニ出願シ明治十八年八月十四日附ヲ以テ十五箇年を期限トシ特許シタル第壹號専賣特許證ニ屬スル明細書摘要左ノ如シ堀田錆止塗料及ビ其塗法

鐵製及ビ鋼製ノ艦体橋梁其他同質製ノ機械器具等ノ錆蝕ヲ豫防スルニ使用スベキ新奇有益ノ塗料即チ命ジテ堀田錆止塗料ト稱スル組成劑及ビ其塗法ヲ發明セリ之ヲ左ニ明解ス

此塗料ニ四種アリ其第一號塗料ハ生漆、鐵粉、鉛丹、油煤、柿澁、酒精、生姜、酢及ビ鐵漿第二號塗料ハ生漆、鐵粉、鉛丹、油煤、柿澁、酢及ビ鐵漿第三號塗料ハ生漆、鐵粉、鉛丹、油煤、柿澁、生姜、酢及ビ鐵漿第四號塗料ハ生漆、鐵粉、鉛丹、油煤、酢及ビ鐵漿ヲ混合攪擾シテ製成スルモノトス即チ其成分ノ割合ヲ掲グル事左ノ如シ

 

その配合表は次のようになっていました。

 
  第一號塗料
(匁) 
第二號塗料
(匁) 

第三號塗料
(匁)

第四號塗料
(匁)
生漆 100.0 100.0 100.0  100.0
 鐵粉  20.0 20.0   20.0  20.0
鉛丹 2.0 2.0 2.0 2.0
油煤 0.3 0.3 0.3 0.3
柿澁 1.0 1.0 1.0
酒精 0.4
生姜 0.4 0.4
1.0 1.0 1.0 1.0
鐵漿 0.5 0.5 0.5 0.5
右諸成分ノ割合ヲ少ク變更スルモ可ナリ又帯色塗料ヲ欲スルトキハ適宜ノ顔料ヲ添加ス

 

さらにその塗装方法と効果を説明しています。

此塗料ヲ塗抹スルニハ先ヅ其塗抹スベキ物体ニ生ゼル錆ヲ削脱シ清水ヲ以テ洗浄シ又鹽気ヲ含ムモノニ在テハ順次ニ稀硫酸及ビ清水ヲ以テ丁寧ニ洗浄シ之ヲ速カニ乾燥シ然ル后強毛製ノ刷子ヲ回旋シテ第一號塗料ヲ塗抹シ其上ニ第二號塗料ヲ前ノ如クニ塗抹シ次ニ第三號塗料ヲ横ニ塗抹シ砂紙ヲ以テ摩擦シテ平滑ナラシメ最后ニ第四號塗料ヲ交互縱横ニ塗スル事二回ヅ丶ニシテ乾燥シ其工ヲ竣ル但シ冬日ニ在テハ大氣中ノ水分少キヲ以テ塗料ノ乾燥速カナラズ故ニ蒸氣ヲ噴射シ其乾燥ヲ助クベシ此塗料ハ通常ノ生漆ニ異リ之ヲ鐵製及ビ鋼製ノ艦体橋梁其他同質製ノ機械器具等ニ施ストキハ善ク密着シ其乾燥シタル后ハ堅硬ニシテ鐵及ビ鋼ト弾性ヲ一ニシ龜裂剥脱ノ憂ナシ故ニ大ニ防錆ノ効アリ殊ニ艦体ノ如キハ常ニ海水中ニ在ルヲ以テ電氣ヲ發生シ為ニ其錆蝕ヲ来ス事速カニシテ在來ノ防錆劑ヲ用フトキハ僅六ヶ月ヲ保タズト雖モ此塗料ヲ施ストキハ少クトモ三年間ハ艦体ニ錆ヲ生ズル事ナシ加之介藻ヲモ附着セズ常ニ光澤ヲ保有

此發明ノ専賣特許ヲ請求する區域ハ上文ニ記載セル第一號乃至第四號塗料及ビ其塗法是ナリ

 

これら4種類の塗料はいずれも生漆を主成分とし、これに鉄粉、鉛丹、油煤そのほかを加えたうえに柿渋、生姜を含むことは興味深いといえます。しかも、いずれもが国産原料であり、いかにも「明治日本」的な発明です。特許の標題には「錆止塗料」とありますが、実は「防錆」と「防汚」の両機能を併せ持ったものでした。 まず、防錆顔料として鉛丹を使用するとともに、柿渋に含まれるタンニンと鉄粉との反応でタンニン酸鉄を生成し、塗膜の強化と防錆力の向上を図っています。また生姜を併用し、その成分であるフェノール系物質により防藻、防貝性を持たせたとみられます。鉄粉を生漆に次ぐウエイトで配合し、硬化膜の応力緩和、塗膜割れの防止、層間付着性の改善を図っています。さらに4種類の塗料を重ね塗りして多層構造を形成し、全硬化塗膜の応力緩和・塗膜割れの防止などが図られています。

 

Wikipedia」の「発明の日」より引用します。

知的財産権に関する他の記念日との関係
2000年に世界知的所有権機関WIPO)によって、4月26日が世界知的所有権の日に定められたが、日本では同じ4月にある発明の日がすでに定着していたため、イベント等は4月18日を中心に開催されている。

また、同じく4月の4月23日は、国際連合教育科学文化機関ユネスコ)によって、知的財産権のひとつである著作権の保護の促進を目的とする世界図書・著作権デーに定められている。しかし、この日は日本では子ども読書の日またはサン・ジョルディの日としてより知られており、著作権に特化した大きなイベントは行われていない。

さらに、8月14日は、この日に日本初の特許が認められたことに因み、専売特許の日とされているが、特許庁などによるイベントは特に行われていない。

 

おなじみの早口言葉「東京特許許可局」について、「吉川国際特許商標事務所」のHPより引用します。

Q
東京特許許可局』は本当にあるのですか?
A
東京特許許可局』は存在したことはない。早口言葉のためにつくられた幻の官庁である。産業財産権を取得するためには、東京の霞ヶ関にある『特許庁』に出願書類を提出しなくてはならない。

 

きょうは何の日 4月15日

東京ディズニーランド開園の日

 

1983(昭和58)年4月15日、千葉県浦安市東京ディズニーランドTDL)が開業しました。

 

「OLC」のHPより引用します。

1983年4月15日、あいにくの雨とはなったものの、ついに東京ディズニーランドが開園の時を迎えます。
開園に先立ち、髙橋社長とディズニー社のカードン・ウォーカー会長、ミッキーマウスなどのディズニーキャラクターたちによるテープカットが行われ、メインエントランスのゲートがオープン。開園を待っていた約3000名のゲストが入園を開始しました。そして、ワールドバザール内で行われた式典の壇上に髙橋社長が立ち、「1983年4月15日、ここに東京ディズニーランドの開園を宣言します!」と高らかに開園を宣言しました。
1983年4月15日、「夢と魔法の王国の扉」が開かれ、日本のレジャー史に燦然と輝く歴史の1頁が刻まれたのです。

 

 

「Forbes」に掲載された「39年前、東京ディズニーランドが開園した日」(2022.04.15)より引用します。

その日(1983年4月15日)は雨天にもかかわらず、入場ゲート前では約3000人が午前9時の開園を待っていました。一番乗りは、2日前から並んでいた埼玉県の男子大学生で、初日の来園者数は約2万5000人を数えました。

TDLの入園者数は、開業翌年の1984年4月2日に累計1000万人を達成。その後、1991年には累計1億人目のゲストを迎え、1998年にはTDL単体として最高となる1746万人の年間入場者数を記録しました。順調に成長を続けましたが、今回のコロナ禍で年間入場者数は大幅に落ち込み、2021年(3月期)は756万人と過去最低に。オリエンタルランドも、1996年の上場以来、初の赤字となりました。

とはいえ、この2月26日には東京ディズニーシーTDS)とTDS、両テーマパークを合わせた入園者数が累計で8億人を突破。2023年度には、日本でも大ヒットした映画「アナと雪の女王」などをテーマにした新エリア「ファンタジースプリングス(Fantasy Springs)」がTDSに完成する予定で、東洋一をめざした「夢と魔法の王国」はさらなる進化を続けています。

 

 

きょうは何の日 4月12日

世界宇宙飛行の日

 

1961(昭和36)年4月12日、世界初の有人宇宙衛星船であるソビエト連邦の「ヴォストーク1号」が打ち上げられました。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

1961年(昭和36年)のこの日、世界初の有人宇宙衛星船・ソビエト連邦のヴォストーク1号が打ち上げられた。

この歴史的な出来事は、全人類のための宇宙探査への道を開いた。

宇宙飛行士ガガーリン
宇宙飛行士ガガーリン

この日は国連が制定した国際デーの一つでもある。英語表記は「International Day of Human Space Flight」で、日本語では「国際有人宇宙飛行デー」とされる。2011年(平成23年)4月の国連総会で記念日とすることが採択された。持続可能な開発の目標を達成し、国家と人々の幸福を増進し、平和目的のために宇宙を維持することを目的としている。

宇宙船の「ヴォストーク(Восток)」という名前は、ロシア語で「東」を意味する一般名詞である。ヴォストーク1号は地球を一周し、無事に帰還。人類初の有人宇宙飛行に成功した。打ち上げから帰還までは108分だった。搭乗したユーリイ・ガガーリン少佐(Yuri Gagarin、1934~1968年)は、帰還後に宇宙から地球を見た時の感想を「地球は青かった」と表現したとされ、日本において名言となっている。

宇宙から見た地球
宇宙から見た地球

ガガーリンの言葉とされる「地球は青かった」は、日本においてのみ有名で、また原文の意味とは多少異なり、直訳だと「空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた」になるという。日本以外では、ガガーリンの地球周回中の言葉とされる「ここに神は見当たらない」の方が有名であるが、記録にはその発言が残っていない。色々な噂があるが、ガガーリンが宇宙へ赴いた最初の人類であることは確かである。

 

Wikipedia」の「ボストーク1号」より引用します。

ボストーク1号の特徴
ボストークの船体は乗組員用の再突入用モジュール(再突入カプセル)と、計器類、圧縮窒素、圧縮酸素、姿勢制御用のロケットなどがついた機械部から構成された。カプセルは再突入時の加熱に耐えるため断熱材で覆われていた。また、着陸の衝撃が乗組員に悪影響を与える恐れがあるため、カプセルには空中脱出用の射出座席が備えられていた。 万が一のミッション失敗の際に軌道で生存することを考慮に入れ10日間の生命維持用の備品を積んでいたが、それによる荷重制限でバックアップ用の逆推進エンジンは無かった。

なお、打ち上げにはクラスター方式のボストークロケット(R-7ミサイルの改良型)が使用された。

ファイル:Vostok spacecraft.jpg

打ち上げロケット最上段と結合した状態のボストーク宇宙船。

メンバー
乗組員:ユーリイ・ガガーリン
バックアップクルー:ゲルマン・チトフ
予備要員:アンドリアン・ニコラエフ
ミッションハイライト

ファイル:Vostokpanel.JPG

ボストーク宇宙船で使用された計器パネル。
ガガーリンは108分間の飛行の後、無傷で帰還した。地上7kmの位置で射出座席によりカプセルから脱出し、パラシュートで地上に降り立った(カプセルにもパラシュートがついていたが、減速用であり人間用ではなかった)。

ボストーク1号の姿勢制御は自動装置によって行われた。医療班もエンジニアも無重力が人間にどう作用するかがわからなかったためである。このため、緊急時にガガーリン自身が自動コントロールを解除するためのコードも封筒に入れて配置されたものの、地上管制官パイロットであるガガーリンが飛行制御をするのを防止するために締め出され、打ち上げ25分後まで安定軌道到達したかどうかも知らなかったという。ボストークは自らの軌道を変えることができないため宇宙船に姿勢を任せた。飛行中、ほとんどの姿勢は漂流にまかせた。ボストーク1号の自動システムが動いたのは、飛行中の逆推進のための姿勢制御、その他一時間程度であった。

逆推進は着地予定地より8000km手前、アフリカ西岸アンゴラ付近で42分間ほどの逆噴射によって行われた。再点火の後、再突入モジュール(カプセル部位)に備え付けモジュール(水と酸素のタンク)がワイヤでついたままで残っていることがわかった。この二つは本来10秒後に分離するはずだったが、10分たつまで分離しなかった。ボストーク1号は自然に回転したがモジュールが落ち、ワイヤが燃えてしまったため、適切な再突入状態に戻った。

1961年当時の国際航空連盟 (FAI) のルールでは公式な宇宙飛行となる条件にパイロットは必ず宇宙船と共に着陸することを要求していた。最初、ソ連ガガーリンはボストークと共に着陸したと主張したため、FAIもこれを認めたが、後になってガガーリンは、上記のようにカプセルから脱出して着陸したことが判明している。

ソ連の書記官FAIがボストーク1号の飛行記録を書き込んだ際に、発射場所はバイコヌールで北緯47°22′00″、東経65°29′00″としたが、実際は発射場所はチュラタム(レニンスク)近郊北緯45°55′12.72″、東経63°20′32.32″の位置であり、バイコヌールの南西250kmほどの位置にある。これは宇宙基地の場所を秘匿するために行われたものだと考えられる(なお、その後の1995年カザフスタンとロシアはチュラタムを正式にバイコヌールに改名している)。

再突入時のカプセルは現在コロリョフにあるRKKエネルギヤ博物館で展示されている。

 

 

 

 

きょうは何の日 4月9日

大仏の日

 

752(天平勝宝4)年4月9日、奈良・東大寺の大仏が完成し、開眼供養会が行われました。

 

東大寺のHPより引用します。

盧舎那(毘盧遮那)仏

仏さまは正しくは盧舎那(るしゃな)仏もしくは毘盧遮那(びるしゃな/ヴァイローチャナ)仏と言い、その意味は、知慧と慈悲の光明を遍く照し出されているほとけということである。インドのカピラ城に生まれた釈尊は29歳のときに出家し、以後6年間難行苦行を重ね、ついに尼連禅河(にれんぜんが)のほとりの菩提樹下で大いなる宗教体験を得られた。『大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)』は時間と空間を超えたほとけとなられたその瞬間の釈尊のお姿を描いたお経で、偉大で、正しく、広大なほとけの世界を、菩薩のさまざまな実践の華によって飾ることを説いている。このお経によれば、鳥の声、花の色、水の流れ、雲の姿すべてが生きとし生けるものを救おうとされるビルシャナ仏の説法なのである。大仏尊像の台座の周りの蓮弁には「蓮華蔵世界」と呼ばれている毛彫図が刻まれているが、これはそうした『華厳経』の説く「悟りの世界」を絵に表わしたもので、われわれ一人ひとりの存在ばかりでなく、あらゆるものが無限のつながりと広がりをもち、これらすべてのものが、ビルシャナ仏の光明に包まれているという考えを美しく表現している。


盧舎那大仏と大仏殿

正倉院に伝わる聖武天皇の遺愛の品々は、天平時代の華やかさを思わせる。だが天皇治世中の政治・社会情勢は決して穏やかなものではなかった。長屋王の変に象徴される権力闘争、光明皇后の兄弟たちを死に追いやった天然痘の流行、九州での藤原広嗣の反乱と、10年以上にわたる激変が続いた。聖武天皇はこうした世の中を癒し、国家の安泰と民衆の幸福をはかるには仏教思想による以外にないと、仏教への傾斜を強められたのであろう。藤原広嗣が反乱を起こした天平12年(740)以降、天皇平城京を離れて幾度か都を遷されたが、その間の天平13年(741)、恭仁京(くにきょう)において国分寺国分尼寺建立の詔を出し、天平15年(743)には紫香楽(しがらき)宮で盧舎那大仏造顕の詔を出された。国分寺の場合は『金光明(きんこうみょう)最勝王経』と『法華経』を、大仏発願は『華厳経』を拠としている。国分寺の正式名「金光明四天王護国之寺」に見られるように、一国を単位として国と民衆の安寧を祈るという趣旨が、2年後の大仏造顕の場合はその範囲をはるかに超えて、「動植咸くに栄えむ」と華厳の円融無礙(えんゆうむげ)の世界を望まれ、大仏造立のために「一枝の草、一把の土を持て像を助け造らん」と願う人々の協力を求められた。こうして天平12年に河内の知識寺(ちしきでら)に行幸して盧舎那仏を拝されて以来、天皇は華厳の教えに対する理解を深めておられたが、天平感宝元年(749)には正式に『華厳経』をもって根本とする旨を表明されたのである

さて、天平17年(745)の平城還都以来、東大寺前身の金鍾山寺(きんしょうさんじ)の寺域で再開された盧舎那大仏の造立は、金光明寺造仏所、のちの造東大寺司によって工事が進められ、3カ年8度の鋳継ぎにより天平勝宝元年(749)10月に仏身が鋳造、翌々年には大仏殿も造営され、同4年(752)4月には盛大な開眼供養会(かいげんくようえ)が執り行なわれた。この大事業は、勧進に当たって民衆の力を結集した行基菩薩や初代の東大寺別当良弁僧正など、多くの人々の協力があって実現したが、そのことを象徴して、東大寺聖武天皇行基菩薩・良弁僧正と、開眼の導師を勤めた婆羅門僧正菩提僊那(ばらもんそうじょうぼだいせんな)の4人による「四聖建立の寺」とも称される。

平安時代になると、早くも大仏さまの背部に損傷が見られたり、傾斜を止めるために背後に盛り土をするなど補修工事がなされたが、斉衡2年(855)、大地震により頭部が落ち、修復がなされた。一方、大仏殿をはじめ諸伽藍も、天災や失火などにより修復を迫られることが多かった。こうした事業や寺院本来の教学活動のための財源を得るため、この時代には荘園が営まれていたが、平安時代末期になると、東大寺はその荘園をめぐって様々な紛争に巻き込まれ、ついに治承4年(1180)、平重衡(たいらのしげひら)の兵火によって伽藍の大半が灰燼に帰した。

東大寺の復興造営に大きな功績を残したのは重源上人であった。上人は養和元年(1181)、61歳で勧進職に任じられて以来、後白河法皇源頼朝の援助を受けながら20数年間の後半生を復興事業に捧げた。まず宋の鋳物師陳和卿(ちんなけい)の協力を得て、頭部や左手など大仏さまを補鋳、文治元年(1185)に開眼供養を行なった。続いて大仏殿再建のための用材確保に苦慮したが、周防国(すおうのくに)と備前国東大寺造営料所に当てられてからは造営が急速に進み、建久6年(1195)に落慶供養会が営まれた。さらに翌年には大仏殿の両脇侍と四天王が僅か半年で造られたという。以後、境内の諸伽藍が次々と再建され、鎌倉時代の盛時を生み出した。

室町時代に入ると、東大寺はもはや昔日の勢いはなくなっていたが、それに拍車をかけたのは永禄10年(1567)の三好・松永の兵火であった。大仏殿、戒壇堂、浄土堂、唐禅院、四聖坊などが焼失した。大仏さまは山田道安によって補修され、仮屋も建てられたが、やがて仮屋は大風で倒れ、100年近く風雨にさらされた。その痛ましい姿を見て大仏殿再建の志を抱いたのが公慶上人で、貞享元年(1684)、江戸幕府に大仏殿修造を願って許され、同3年から大仏鋳造に着手、仏頭と蓮弁18枚を補鋳、元禄5年(1692)に開眼供養が行なわれた。また同時に大仏殿の再建も進められたが、天平・鎌倉期の規模を踏襲することは当時の経済事情が許さず、現在見られるような東西を約6割に縮小した形で再建され、宝永6年(1709)に落慶供養が盛大に行なわれた。しかし中門や廻廊が完工するにはさらに30年を要した。

この世界最大級の木造建造物はその後焼けることなく明治時代を迎えたが、傷みが激しく、軒は副柱でかろうじて支えられるという状態で、明治39年(1906)から解体修理に着手、内部に鉄骨を用いて補強するなど新しい工法を併用して明治45年(1912)に完成した。しかし屋根工事に問題があったらしく、時折殿内に雨水が見られるようになったことから、昭和48年(1973)から7年の歳月をかけて大修理が行なわれ、同55年(1980)秋、落慶法要が盛大に営まれた。

 

大仏建立に関するお薦めの1冊です。

『新装版 奈良の大仏 (日本人はどのように建造物をつくってきたか) 』
香取忠彦 (著), 穂積和夫 (イラスト)   草思社 (2010/2/23) 1760円

※旧版は1981年に出版されました。

奈良の大仏の建造は、日本が統一されてから初めて行われた国家的な規模の大事業であった。史上空前の大鋳造仏建設の波瀾に富んだ全過程を描いた力作。ソフトカバー新装版になって再登場。」(Amazonより)

自己肯定感はほめれば育つってもんじゃない

朝日新聞に「多事奏論」というコラム欄がある。その筆者の一人である岡崎明子さん(くらし報道部・科学みらい部次長)の直近の記事の一部を抜粋して紹介する。

 

2024.3.30 朝日新聞「多事奏論」

自己肯定感も自己愛も
「ほめて育てる」親は不適切?
              くらし報道部・科学みらい部次長 岡崎 明子

 

 ……。

 世代でくくることへの違和感はあるが、Z世代の60%以上が上司に「人前でほめられたくない」と考えているという調査結果もある。……金沢大の金間大介教授の著書「先生、どうか皆の前でほめないで下さい」では、自己肯定感の低さが背後にはあると指摘している。
 ……。
 心理学者の榎本博明さんは「ほめるだけでは、自己肯定感は育たない」と喝破する。今の時代の子育ては、自分の思い通りにならないとすぐ心が折れる、注意されると「自分が否定された」と過剰反応するような子どもを量産しているという。「自己肯定感は、厳しい状況を自分の力で乗り越えたときに高まるもの。 特に頑張っていないのにほめられても高まらないし、自己評価を他者に依存させてしまうことにつながるんです」
 ほめ言葉は子どものやる気と自己肯定感を上げると、露ほども疑ってこなかった。……。

 「ほめて育てる」の発祥の地、米国でも、ほめすぎが自己愛を肥大させるという負の側面が問題になっているそうだ。サンディエゴ州立大のジーン・トウェンギ教授によると2000年代以降、自愛性人格が強い大学生が急激に増えているという。そしてその価値観を植え付けたのは、多くがその親だと指摘する。
 その指摘に再びハッとして、グッときた。子どもをできるだけ叱らず、ほめて育てたいという考えの裏には、「子どもに嫌われたくない」という親自身の自己愛も潜んでいるのではないか。
 「ほめて育てる」が広がったのは、昭和の終わりころだ。でもそれが、子どもの自己肯定感を下げ、親と子どもの自己愛を増長させているとしたら――。それは、不適切にもほどがある。
 令和の子育てはどうあるべきか。私自身も価値観の転換を迫られている。

 

「ほめて育てる」教育が言われるようになったのは1980年代のこと。「ほめる」ことと対をなして、「みんなの中では叱らない」ことも言われた。

私は、教師としても親としても、ほめることが苦手で下手だった。教師としての私は、ほめることはあまりしなかったけれど、評価し認めることはしてきたと思う。それも子ども個々よりも、学級集団が対象であることが多かった。学習集団であれ仲間集団であれ、集団の成長を評価し認めることはあっても、同時にさらに高次の次の目標を与えることが常だった。

「自己肯定感」という言葉は、1990年代に外国の人権教育プログラムが紹介されるなかで出会った。人権教育を推進する任務に就いていたこともあり、自己肯定感を育てることには積極的に取り組んだ。

 

Z世代は、「ほめほめことば」に始まり“ほめほめシャワー“を浴び続けて育った世代である。何が起こっているのだろう。

 

「人前でほめられたくない」……自己肯定感の低さが背後にはある

 

「ほめるだけでは、自己肯定感は育たない」

「自己肯定感は、厳しい状況を自分の力で乗り越えたときに高まるもの。 特に頑張っていないのにほめられても高まらないし、自己評価を他者に依存させてしまうことにつながるんです」

 

「ほめて育てる」  ほめすぎが自己愛を肥大させるという負の側面

子どもをできるだけ叱らず、ほめて育てたいという考えの裏には、「子どもに嫌われたくない」という親自身の自己愛も潜んでいるのではないか。

「ほめて育てる」が子どもの自己肯定感を下げ、親と子どもの自己愛を増長させているとしたら――。

 

確認しましょう。

ほめる ≠ 自己肯定感が育つ

つまり、

自己肯定感は、厳しい状況を自分の力で乗り越えたときに高まるもの。

特に頑張っていないのにほめられても高まらないし、自己評価を他者に依存させてしまうことにつながる。

 

まずは、親も教師も、自分の足でしっかりと立つことではないだろうか。