教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

学級通信、このよきもの③

1986年、教師になって9年目に同じ学年を担当する若い同僚に向けて出した通信に連載した「学級通信、このよきもの」の一部を紹介しています。その第3回。 

 



教師もまた労働者です。ですから、“教育のため”、“子どものため”という美名のもとに、無制限に働くなど絶対に間違っています。家庭生活を著しく犠牲にし、命を切り売りすることの上に成り立っている教育は、その中身がどんなに素晴らしくても、間違っていると言わなければなりません。


ぼくらに与えられている時間は、等しく1日24 時間です。あれも大事、これも大事と言っていけば、することなどいくらでもあります。1日が24時間ではとっても足りないほどに仕事はあるわけです。そこで、仕事の取捨選択が必要になってくるのです。


気まぐれ発行のすすめ


学級通信を1年間続けて出すというのは大変なことです。日刊でやる人もいますが、こういう人にはそれなりに敬意を表しますが、決してまねをしようとは思いません。


ぼくは、書きたいときに書く、その気にならないときには無理をしない、そういう気まぐれ発行を鉄則にしています。この気まぐれこそが、長続きの秘決だと思っています。例えば、10日間に12号も発行している時もあれば、およそ1か月間休刊が続くという時期もあります。


教育は熱だとぼくは思っています。技術が決して無意味だと言うのではありませんが、教育の多くは教師の熱によって伝わるものだと思っています。だから、どうしても伝えたいことが多くあるときには、一生懸命に書きます。熱く燃える思いに包まれているときには、必至でそれを伝えようとします。

 

教師の思いが熱い時には、その思いを学級通信にぶつければいいのです。しかし、お互い人間ですから体調のすぐれない時や、心配ごとや悩みごとのある時もありますよね。そういう時には、思いきって休みましょう。やすっぽい使命感で書いたところで、どうせろくな中身になっていないのですから。よって、気まぐれ発行なのであります。


レイアウト、カット、etc.


書きすぎないということが大事ですね。紙一面に文字を埋めると、読むのがしんどいのです。内容がすばらしかっても、読む気のおこらない通信では、意味がありません。余白を上手にいかすということを考えたいものです。余白が紙面を落ち着かせるのです。

 

文字の大きさもできるだけそろえた方が読みやすいと思います。達筆は紙面の落ち着きを失わせるような気がします。 (この部分は削除します。手書きの通信なんてまずないですよね。)

 

書きすぎないということとある面では通じることですが、1つの号に書く中身は1つにしぼるということです。お知らせ程度のことを囲み記事などで書くのは別として、同じくらいの重みを持つ記事を書くのはどうかと思います。いろんなことを書くと、結局は何も伝わらないのです。(注:私の通信では、各号に内容を伝える見出しが付いています。)


カットなどにはこらない方がいいと思います。時間の無駄ですし、それがために発行が遠のくことだってあるからです。もっとも絵の得意な人はその限りにあらずですが。ぼくなんかいつもカットなしです。 (この部分は削除します。手書きの時代は昔の話、今やパソコンで編集しますから、カットの苦労はコピペで解消です。)

 

子どもに配った学級通信は、必ず教師の声で読むようにしましょう。できれば、文章につながる話をしながら読む方がいいのですが、どんなに忙しいときでも、どんなことがあっても読んでほしいのです。教師の声とともに、それを書いた教師の思いが子どもに伝わっていくのです。

 

創刊号を出すときに、学年の終わり(あるいは学期の終わり)にとじるから大事に残しておくように予告しておきましょう。そして、実際に子どもの版画なんかを表紙に刷って、とじてあげましょう。単なる思い出のためではありません。自分たちが何を考え、どう生きてきたのかを残すためです。子どもは、1枚1枚増えていく通信を宝物のように残していくことでしょう。

 

学級通信には子ども集団を育て、学級を変えていく力があります。結果として、保護者をも変える力があります。少なくとも、私はそう信じて実践してきました。

 

2014年に若い仲間に紹介する際に、若干に補足を付けました。

 

補足として❶ 2013.3

私の学級通信の対象は、原則として子どもです。保護者も読まれることを想定はしていますが、完全に子ども向けに書いています。


実は対象が誰なのかというのは大事なことです。これが明確になっていない通信をしばしば見かけます。具体的に言うと、保護者に向けて報告する文章として書き出したのに、段落途中から子どもへの呼びかけに変わったりしています。せめて、段落内は統一すべきです。

 

私の場合、保護者に向けて書きたい時は、次の2つの方法をとっています。


① 子ども向け通信の中に保護者向けメッセージを入れる時
通信の中に「おうちの方へ」というコーナーを設けます。囲み記事にしてしまうこともあります。いずれにしても、一目で子ども向け部分と区別が付くようにしています。
「保護者」ではなく「おうちの方」という言葉を使っている理由に触れておきます。ある年に担任した家庭の場合、保護者は父親一人で、日常的子育てはおばあちゃんがされていました。そんな家庭に出会ってから、「おうちの方」という言葉を意識的に使うようになりました。

② 保護者向け通信として発行する時
保護者向けに発行する時は、「おうちの方へ特集号」として出します。
「おうちの方へ特集号」は、子育てや教育の情報を提供したり、総合や運動会の取り組みで注目してほしいところを伝えたりするときに出します。子育てや教育の情報を提供するときは、説得力を持たせる意味でも新聞記事を使うこともあります。

 

繰り返しになりますが、学級通信は単なる「お知らせ」ではなりません。子どもを繋ぎ、子どもを変えていく、学級経営にとって欠くことのできないツールなのです。

 

補足として❷ 2013.3

これまで紹介した通信の中でもそうであったように、私の通信では子どもの綴ったものが大きな位置を占めます。その多くは日記ですが、日記には生活のかなり深い部分まで記述されています。子どもには、「通信には載せないで」といった断りがない限り、原則として掲載される可能性があると伝えていましたので、重たい内容の通信もありました。子どもたちは、それを受け止めることで育ち合っていったという側面もありました。


「個人情報保護」が学校の果たすべき大きな責任になった今日、「法」制定以前のような通信は考えられません。私の通信でも、子どもの綴ったものは学校内のことが多くなり、家庭生活の場合でも内容が「軽く」なりました。さらに加えて、地域社会の崩壊が進行していますから、保護者もプライバシーに関することを通信に書かれることを良しとしません。したがって、私の通信でも1990年代はじめごろまでのものと、2002年以降のものでは明らかに趣が違っています。どちらがいいということではなく、時代の要請だと受け止めています。

 

今、私は、かつて通信が担っていた「生活交流」の場面を「スピーチ活動」に求めています。スピーチであれば活字と違って後に残ることはありません。もっとも、通信を受け止められる子どもと同様に、友だちの生活を共感的に受け止め、言いふらしたりしない集団でなきゃなりませんが。


ここで「スピーチ活動」のノウハウを述べることはしませんが、通信と補完関係を持って捉えているということだけ紹介しておきます。

 

学級通信、このよきもの②

1986年、教師になって9年目に同じ学年を担当する若い同僚に向けて出した通信に連載した「学級通信、このよきもの」の一部を紹介しています。その第2回。

 


学級通信が学級経営の生命線であるというのはどういうことかという問題について考えてみたいと思います。


「せんせい、あのね」から「あのなあ、みんな」へ


①広める


学級通信が果たす役割の1つに、子どもたちの中に価値を広めるということがあると思います。

 

5月31日

 きょうの1日は、Fさんにとりついたみたいな私だった。Fさんはとっとも心がやさしいんだなあと思った。Iさんが一人でいる時もFさんはとんでいってあげたり、弱い者のくやしさは本気になって考えてくれる。自分がいっしょにすねるのではなく、考えをきちんと持って相手の所へ立ち向かってくれる。相手が自分の悪さに気づけば、自分が悪かったと言って反省している。Fさんはとってもいい友だちです。この学級をみんなで語り合える仲間いっぱいにしたい。

 


上に紹介したのは、Nさんの5月31 日の日記です。具体的な場面が綴られていないために様子をつかみきれないのですが、仲間に目を向けて生きている姿は読み取ることができます。この時期の日記というのは、家へ帰ってから遊んだことや、習い事に行ったことを書いているのが多いものです。そんな子どもたちに、仲間のこと、それも内面に関わって物を見つめさせたいと思うのです。Nさんの日記は、不十分ではあるけれども、子どもたちに仲間と向き合って生きることを教え、励ましていくきっかけになるだろうと思いました。

学級通信では、「なかまの中に他の人が気付いていない「よさ」を見つけよう!」という見出しでこの日記を紹介しました。そして次のように書き添えました。

先生には、Fさんの行動と同じくらい立派に思えることがある。それはNさんの「目」と「心」だ。NさんはFさんの行動を見逃さず、じっと見つめている。とりつかれたみたいだとさえ言っている。友だちの立派な行動を見て立派だと思った「目」と「心」は立派だ。そしてそのことを1日中持ち続け、1日の終わりの日記に書きとめたことがまた立派だ。なかまを見つめ、なかまと向き合って生きている姿が立派だ。

なかまの「よさ」が見えるのは、自分の中にも同じ「よさ」があるからだ。同じ「よさ」を求める心があるからだ。たくさんの「よさ」が見える人は、たくさんの「よさ」を持った人だ。

 

 

②投げかる


Nさんの日記から1カ月ほど後、学級の中にある何人かのグループがバンドエイドを手首につけることによって仲間の“しるし”にするというできごとがありました。

「”「バンドエイド」のつながり”を考えよう」という見出しの通信で、仲間とは何かということを深く考えさせることをねらって、子どもたちに投げかけました。(内容省略)


子どもたちに価値を広めること、更に価値あるものに向けて投げかけること。それが、「せんせい、あのね」から「あのなあ、みんなJ に高めていく筋道になるのだと思います。


こんなことなら口で言うだけでもいいのではと思われるかも知れませんね。一度でも学級通信を出したことのある人なら、これに答えるのは簡単だと思います。子どもの食いつきようが違うのです。通信を配った時の静寂。食い入るように見つめる目。これがたまらなく好きで、ぼくはやめられないんじゃないのかなと思ったりします。


③考え合う


考え合うことを通して集団が高められていきます。「あのなあ、みんな」の関係は、こうした積み重ねの上に成り立つのだと思います。

 

ここで、しんどいこと、重たいことをなぜわざわざみんなの中に出していくのかということについて触れたいと思います。

明るい所からは明るいものしか見えないけれども、
暗い所からは何でもよく見えているのだ。

上の言葉は、ある人の講演の結びの一節です。



さて、話は10 月末のNさんのいる教室の記録。

木下(仮名)が立ち上がった。そして、静かに話し出した。
「僕のおとうさんは、土木の仕事をやっています。僕にとっては土木の仕事はいいと思います。でもこの仕事のことで差別もありました。でも僕はお父さんの仕事はいいと思う。みんなはこういう土木や建設の仕事は、よごれるからいやという。でも僕は、お父さんのあとをつごうと思う。」
張りつめていた空気が止まった。Tiは顔をふせてしまった。彼女は土木の仕事をする父のことを書いた原稿を用意していた。しかし読めなかった。彼女は授業後の感想にこう書いている。「木下君の話を聞いてお父さんのことを読みたかったです。でも私が読んだら、つまってなにもいえなくなり、なみだが出てきそうになる」から言えなかったと……。

廃品回収の父をもつKiも語れなかった。「国がちがうからといって差別をしないで」という原稿を準備したSuも語れなかった。

Kiは「みんなの前でいえなかった。そうとうゆうきがいることがわかった。ゆうきをだして、こんどのときにはいえるようにしようと思う」と感想の中に書いた。

それでいい。今はそれでいい。自分の中にある一番重くてしんどい思いを言える自分になりたい、聞いてくれるなかまをつくりたいという自らの課題をもって生きている今を評価してやりたい。
そのあと私は、亡父の姓「松山(仮名)」と母の姓「Mo」と母の主人の姓「Sa」の3つの姓の間で生きる松山のことや、6月から3か月間父が行方不明だったSuのことなどを話した。
子どもたちの顔がゆがんだ。

「わたし、びっくりした。ほんとにびっくりした。一人一人の家庭の中にこんなことがあるなんて考えもしなかった。みんな何くれぬ平気な顔でくるんだもの。きのうとかわらぬ顔でくるんだもの。」とFは書いた。

「先生の話をきいていてなきたくなった。いつもならちゃんときいていないのに。すごく、なんていったらいいかわからないぐらい、すごくかなしくなった。なきたくなったけどなけなかった。すごくこの時間はよかった。」とMは書いた。

「今、先生が話してくれたので私の心はすっきりしました。」Mはそう書いた。

松山は「ぼくはほっとしました。たぶんHaもほっとしたと思います。」と書いた。

彼ら、彼女らは、自分の一番の“秘密”を内緒にしておきたいと思うのと同じくらいに、みんなに知ってほしいと思っているのだ。言えるだけの条件がそろいさえすれば……。

それだけではない。松山のことを「Mo君」(この時の担任の名前)とからかって呼んで遊んでいたというのだ。父親が行方不明でしずんでいるSuに「ネグラ」という言葉をあびせていたというのだ。


子どもは想像以上に深いところで“しんどさ”を背負って生きている。まわりの子がその彼においうちのパンチをくらわせていることさえある。それは、「ひごろあそんだりしているぐらいでは、とてもわからな」(Oの作文)いことである。“なかま”とか“なかまづくり”という言葉を私たちは安易に使う。しかし、“なかま”とは何と語るに易しく育てるに難しい言葉であろうか。 

 


ぼくは、自分の過去の拙ない教育にしがみついて生きようとは思いません。しかし、教師としての経験が浅い時期であればあるほど、子どもに教えられたことも多く、初めての体験ゆえの感動も深かったわけです。そういう意味で、ぼくにとって忘れることのできないものです。


生活の重みをみんなの中に出した後で、「私の心はすっきりしました」「ぼくはほっとしました」と語る子どもの言葉は衝撃的でさえありました。だって、ぼくらは、そういうしんどいことには触れないでいることがその子のためだと信じていたのですものね。だけど、子どもたちは自分のしんどさをみんなに知ってほしいと思っていたのです。自分の一番秘密にしておきたい部分をさらけ出した上で、なかまとつながりたいと思っていたのです。しかし、そういうことは、「さあ、言え。」と言われて言えるものではありませんね。その子にとって、自分の思いを受け止めてくれると信じられる集団になってなきゃ言えませんね。ぼくらがめざす集団というのは、まさにそういう質を持ったものでなくてはならないのです。しんどさを心の奥深くにしまい込ませておく集団しか作り得ていなかった、そして、そのことになんの痛みも感じずにいた、そんな自分が恥ずしかったですね。


明るい所からは明るいものしか見えないけれども、暗い所からは何でもよく見えているのだ。今なら、何となくこの言葉の意味がわかるような気がします。家庭生活のしんどさを知ったところで、一人の教師や学級の子どもたちに解決できることなんて何もないでしょう。しかし、その位置からものを見ることはできます。Su君のお父さんを捜し出すことはできないけれども、彼が沈み込んでいる思いに心を寄せることはできるわけです。彼の表情の奥にあるものが見えるわけです。そうしたら、間違っても、その彼に「ネグラ」という言葉を浴びせることはなかったでしょう。


クラスのバックボーンというのがありますね。クラスの思想性、集団の軸ということです。
なぜ、わざわざしんどいことを言わせるのか。そう問われたら、そこからしか本当のものは見えないし、本当のものは始まらないからだと答えます。そのために、子どもたちの間に価値を広め、問題を投げかけ、考えあわせることを通して、クラスのバックボーンを作っていっているのだと思います。学級通信は、そのために欠くことのできない手段であり中身なのだと思います。


一言付け加えておきますが、子どもの重みを教師がしゃべってしまっているのはあまりよくないなと思っています。実は、子どもにしゃべらせるところまでやりきれていなかったのです。

 

学級通信、このよきもの①

学級通信は誰に向けて、何のために」(2020.3.5)の続編になります。

 

学級通信、このよきもの


1986年、教師になって9年目に同じ学年を担当する若い同僚に向けて通信を出していました。その中に、「学級通信、このよきもの」という連載があります。ここに紹介するのはその一部です。


本格的に学級通信や一枚文集に取り組みかけたのは3年目からということになります。…もう止めにしようかなと何度も思いながら、それでも続けてきたのは、確実に子どもが変わっていく姿に出会えたからでした。

通信は、完全に子ども向けに書いています。子どもに向かってぼくの思いを投げかける、子どもが変わっていく、その両者の営みを親が見守っているのです。ぼくにとって学級通信は学級経営の生命線でした。そして、実はぼく自身が子どもの変わり目に出会うことによって多くのことを学んできたのでした。まさに、学級通信、このよきものであるわけです。


ぼくにとっては「○○(3~4年目の通信名)」の子らとの歩みが、その後を方向づけていっているのですが、その子らの書き残したもののいくつかを紹介します。

 

■ 5の2になると“○○”という学級通信があり、私はそれをきっかけに仲間のことをよく考えるようになった。私は“○○”をくばってもらうのがすごくたのしみだった。(KR)


■ 私はこの学級でいろんなことを学んだ。いちばん大きく心に残っているところは、やはり仲間のこと。私が学んだことは、たいてい先生が出した○○から。○○って、とても重要な役割を果たしてたから、わかれるのはつらい。(FR)


■ K先生にはいろいろなことをおそわりました。その中でも、一番心に残っているのは差別のことと戦争のことです。先生は、すごく差別や戦争のことについては熱心でした。わたしは戦争のことについて先生に話をきくのが大好きでした。「○○」を先生がくばるのがまちどおしくて、すごく読むのが好きでした。わたしが結婚するとき、「○○」をもっておよめにいきたいです。(MK)

 


「□□(5~6年目の通信名)」のクラスに姉がいて、「△△(7~8年目の通信名)」のクラスに妹がいたHさんは、妹が中学校に入学して半月ほど経ったころ、次のような手紙をくださいました。

■ ……□□のクラス、△△のクラス、4年間続けて本当にお世話になりました。……卒業前の10 日間のプリントの1枚目を見たとき、何かホッとしたような、やっぱりK先生だと安心致しました。実は妹は日記も書かなかったし、「△△」も途中で切れたし、事情を知るまでの数か月間は、今度のクラスは先生も力が入らないのかなと思ったりして、物足りなさを感じていました。……そして、最後の10日間のプリント、卒業に関する文集、先生の残された文章1枚1枚に胸を打つものがあり、彼女たちの大事な思い出と、人間としての指針、先生の思いが本当に理解できるのは10 数年先、自分も親となり、子どもも同じような年頃になってからかも知れません。今は一度読んで読み返すこともなく本箱に置かれているだけですが、火事などの時には一番に持ち出してやりたい大事なものです。

 


生活を綴る

 

なぜ学級通信を書くのでしょうか。行事予定を知らせたり、学習の予定を知らせたり、あるいはまた生徒指導の道具にされているような通信は問題外です。ぼくにとっては学級経営の中心であったと思います。そうである前提として、子どもに生活を綴らせる営みがありました。今回はこの問題に触れたいと思います。



「何でも言える学級」などというスローガンを教室の前に掲げたりします。しかし、現実にはなかなかそうはならないものです。なぜでしょうか。いろんな原因があるでしょうが、ぼくは教師が子どもに生活をきちんと見させる努力をしていないことが、一番の原因になっていると思っています。

 

10 月7日(火)
 「ああ、つかれた。」という声がした。お母さんはようじで、家にはお父さんしかいなかった。お父さんは、毎日休みなく働いている、と思うと、しんどくないのかなあと思う。すぐ、お父さんはねころんだ。「うーん。」と手足をのばした。「よっぽどつかれているんだなあ。」と、わたしは思った。また、あすも行く。朝も早く行く。ねむくないのだろうか。


10 月8日(水)
 お父さんが帰ってくるのがおそかった。帰ってきた。服をぬいだすぐ、またきのうのようにねころんで、「う-ん。」と手足をのばした。「ポッ、ポッ」というかんじの音がした。それは、手、足からきこえてきた。たぶん、のばしたらなるんだろうと思った。(N)

 

 

もう、随分古い日記です。決して素晴らしい文章ではありません。しかし、これはNさんが父親について初めて書いた日記なのです。それまでは、「やさしい」ということ以外は書かない子でした。彼女のお父さんは、ごみ収集車に乗っている現業公務員でした。この職業に対する社会の偏見がある中で、彼女は口を閉じてきたのでした。

しかし、彼女の生活は間違いなくこの父親の収入によって支えられていたのです。現実を正面から見つめさせたいと思いました。

そこで、仕事から帰ってきた直後の5分間の父親を綴らせる取り組みをしました。何度かの赤ペンと、仲間の日記に励まされて綴ったのが、先の日記なのです。これをきっかけに彼女は父親の疲れの原因に迫っていくことになります。


朝6時30分に家を出て、職場に着くのが8時前。それからトラックに乗つてごみを集め、3、4回往復すると3時ごろになる。それから風呂に入り、4時に職場を出る。夏の暑さや、冬の寒さは格別にこたえるらしい。その1日の労働の結果が、あの日記の姿となって表れていることを彼女は確かめていきました。さらに、今の仕事につく前は、電気屋で働いていたことを聞き取ってきました。そして、「今の仕事は、電気屋で働くよりずっと『ふうっ』というぐらいつかれる仕事」であることを知るのです。彼女は、そのことから生活の重みを知っていったように思います。


ぼくは、日常的に生活を綴らせるという営みを欠いた学級経営などないと思っています。日記であれ、グループ日記であれ、作文の授業であれ、綴ることを通して確かなものを見る目を育てていくことです。父母の労働や仲間のこと、そしてそれに関わる自分自身の生活を大事に書かせたいですね。具体的な場面で生活を切り取らせるということをしなくてはならないと思います。何が大事なのかということを自分の頭で考えて選ぶことのできるカをつけてやらなくてはなりません。その上で、しっかりと思い出して綴れる力をつけてやることです。


「何でも言える学級」なんてまやかしに過ぎないと思っています。「何でも言える学級」の前提には、「何でも書ける学級」というのがなくてはならないだろうと思います。しかもそれは、「せんせい、あのね」という言葉に代表されるように、その子と教師との関係において書かれていくのだと思います。実は、そこまでいくのが大変なことで、子どもは本当に大事なことというのはなかなか語らないものです。教師がどれほど自らを語ってきたかというのが重要なポイントのような気がしますね。ある先生は、5行には5行の、2ページには2ページの返事を書いたと著書の中で述べられています。子どもが心をひらこうとするときに、それに向き合う教師の有り様が問われる思いがします。


「せんせい、あのね」から始まったものを、「あのなあ、みんな」に高めていくのが次の段階としてあるわけです。これは次号で触れます。

 

保護者とは子育て協働の関係でありたい⑦

シリーズの最終回です。

 

学級通信の「おうちの方へ特集号」では、教室の授業風景もしばしば届けました。教室の学びを知ってもらうことは、保護者が他所さまの子も含めて子どもを深く知る機会にもなりますし、どんな教育を目指しているのかといったことに触れる機会にもなります。そのことが、教師と保護者の目線が揃うことに有意だと私は確信しています。

ときには物語の読みの授業1単元分を丸ごと「授業通信」として出したこともあります。それは固有名詞の頻出で、とても公開できるものではありません。

今回は、「無難な」?2コマを紹介します。

 

 

おうちの方へ特集号 2008.6.12

 

学び合いのある教室へ


 今、国語で「生き物はつながりの中で」という学習をしています。説明文です。短い文章ですので、是非ご一読ください。子どもたちは、各学年で3つの説明文を学んできました。それらは、「自動車」「たんぽぽ」「あり」「大豆」「ハチ」といった目に見える具体的なものについて書かれていました。今回は「つながり」という抽象的な世界です。子どもたちが大人の精神世界に歩を進めていることを強く感じます。


 さて、授業の冒頭、「問題提起(問い)」の文はどこにあるかと聞きました。子どもたちは、1段落、3段落、8段落にある疑問文を見つけ出し、答えました。それらはすべて問いかけなのですが、私の問いに対する答えではありません。「問題提起文」とは「これから説明する内容の中心を予告する役割を果たす前置き文」であることを確認し、「問題提起文」には「疑問文」と「呼びかけの文」があることを説明しました。そして、やっとのことで、1段落の終わりの部分に解を求め、「ロボットの犬とホンモノの犬のちがいを考えながら、生き物の特徴をさぐってみましょう」とまとめることができました。この1時間で、「問い」に対する「答え」の文も見つける予定だったのですが、ちょっとした誤算です。


 回り道は時に予想外の成果をもたらしてくれるものです。


 誤算の結果、「答え」の文を見つける授業にたっぷり1時間を費やすことになりました。隣席の子とペアで朗読し、相談タイムに突入。13ペアの内10ペアは7段落の「生き物は、外の世界とつながり、一つの個体としてつながり、長い時間の中で過去の生き物たちとつながるというように、さまざまなつながりの中で生きていることが分かりました。」だと主張しました。その中の3ペアは、続きの文「このつながりこそが、生き物の生き物らしいところであり、ロボットとのちがいです。」を含む2文だと主張しました。残りの3ペアは、4段落の「外から取り入れたものが自分の一部になる、そのようなつながり方で外とつながっているのが、生き物の特徴です。」だと主張しました。意見が分かれると、授業は俄然おもしろくなります。


 なぜそう思うかと聞くと、4段落を選んだ1人が「生き物の特徴です」と書いてあるからと答えました。正解です。少数派の彼は思わずにっこりです。7段落組の反撃や如何に。


「それやったら、5段落にも『変化・成長しながら、一つの個体として時間をこえてつながっている、これも生き物の特徴です。』って書いたるで。」混乱に拍車をかけるヤツがどこの学級にもいるものです。「あっ、ほんまやな、それはどう思う?」と先ほどの彼に振ってみると、「一応見つけてたけど、先生が答えは一つと言ったから…。」と困ってしまいました。しばし沈黙。


「7段落にそれ書いたる。」と7段落組の1人。「どこ?」と聞くと、「外の世界とつながり」が4段落、「一つの個体としてつながり」が5段落のことだと言うのです。「と言うことは、7段落には4と5の中身が入ってるということやな。」(本当は6段落の中身もだけど、今はいい。)と言うと、7段落組は勝者の顔になりました。


 揺さぶりは続く。7段落組の2文選んだペアに、「2文のうちのどちらが主か?」と問うと、3ペアとも後の文と答えました。前の文は指示語「この」を言い換えるために使うのだと答えてくれました。脱帽です。学びの深さはもはや核心部に迫っています。まあ、ここまでくると、ポカンと口が開いたままの子もいますが…。


 これから段落ごとの読みが始まります。その後、文章の構成を整理して、要約文を書き、最後に筆者の主張に対する自分の考えをまとめます。今後の展開を考えると、1時間の回り道は元を取って十分にお釣りがくるものになりました。26人寄れば大文殊の知恵です。学び合いのある学級は、実に楽しいものです。この楽しさを独り占めしておくのは勿体なくて、お裾分けさせていただきました。


 来週の水曜日、この学習の終盤の授業を先生方に見ていただきます。

 

 

おうちの方へ特集号 2010.6.22


学びと学び合いのある教室


 先週の金曜日、県内のある先生が授業参観に来られました。5年生の教室では、4時間目の算数を参観されました。帰り際、その先生は「感銘を受けました。」と興奮気味に声をかけてくださいました。別に特別な授業をしたわけではありません。いつもの教室風景に「感銘」があるとすれば、それは何なのでしょう。今回は、木曜日と金曜日の「小数のわり算」の仕組みを学ぶ授業を再現して紹介したいと思います。

 

 木曜日。

 

 問題を4マス関係図に書いて、立式すると、「200÷2.5=」となりました。小数で割ったことがないので、計算できません。今までに習った方法を使って解けないかと問いました。子どもたちは、「小数のかけ算」の仕組みを学んだ時の経験を生かして、整数にすればできると答えました。そこから、試行錯誤が始まります。


 いち早く見つけたのは、Nくんでした。「200÷25」で計算して、答えの小数点を左に1つ戻せばいいというのです。かけ算の時の「教訓」が生きています。私はこれを「N流」と名付け、彼を「N流家元」に認定しました。
 みんなで筆算しました。「N流」で計算すると、答えは0.8になります。「先生の暗算では80になるはずなんだけどなあ。」と言うと、「家元」はそこで行き詰まってしまいました。


 代わって手を挙げたのがSくん。彼は、割る数と割られる数の両方を10倍して、「2000÷25」で計算すれば80になると言います。みんなで筆算すると、確かに80になります。そこで、彼を「S流家元」に認定しました。


 さて、「N流」です。答えの小数点を左ではなく右へ動かせば80になると、Fさんから助け船が出されました。確かにその通りです。かくして、「家元」は乗っ取られ、「N流」は「F流」と改称されました。私は、小数点を右に動かす(=10倍する)理由を、200÷2.5=200÷(25÷10)=200÷25×10=8×10と説明しました。


 その後、教科書で確認すると、「N改めF流」は「かずやさん」の考え方として、「S流」は「まみさん」の考え方として紹介されていました。期せずして、子どもたちから「すごい」と歓声が上がりました。ここで授業終了。

 

 金曜日。

 

 「F流」と「S流」のエキスを確認して、次なる問題に進みます。


 昨日同様に問題文を4マス関係図に書いて、立式すると、「7.8÷6.5=」となりました。昨日とどこが違うと聞くと、「両方とも小数になった。」とMくん。滑り出しは好調です。


 「○○流」を使って何とかしてみようと言うと、全員が「S流」。Fさんに家元を守るようお願いをして、両流派のやり方で筆算してもらいました。


【S流】7.8×10=78 6.5×10=65 78÷65=1.2


【F流】7.8÷65=0.12 小数点を右へ1つ移動するから 1.2


 どちらでもできるがどちらがやりやすそうかと聞くと、Fさんも含めて全員が「S流」だと言います。「F流」は計算の答えと本当の答えが違うので、書き間違いが起こりやすいというわけです。


 ここで、「S流」を使った筆算の仕方を教えました。みなさんご存知の、小数点を「\」で消して移動するヤツです。「×10」が「\」だと言うと、「早い」「便利」と感心しきり。その後、ここまでのまとめと練習問題をして、授業を終えました。

 

 「感銘」などと大仰な言葉をかけられて、改めて振り返ってみると、授業に向き合う子どもたちの姿が実に素晴らしいことに気付きます。塾などで得た予備知識で先走る子もなく、真摯に向き合い、真剣に考え、一生懸命発表しようとします。一人の学びに触発されて、周りの子の学びが進む場面もしばしばあります。それが学びの質を高めます。友だちの気づきに素直に拍手し、何のわだかまりもなく教え合いが始まります。一人ひとりの理解の速さと深さには自ずと差があります。しかし、この教室では、一人ひとりの学びと、みんなの学び合いが具体的に見えます。

--これは学校という場所の当たり前の姿かも知れません。

 でも、現実には、当たり前の姿が見られる教室というのはそれほど多くはありません。先の先生の「感銘」は、今般の状況の裏返しとも言えます。

 それにしても、教室の「原風景」とも言える学びの場にいる喜びを感じずにはいられません。ありがとう、子どもたち。そして、子どもたちを育ててくださったみなさんに、多謝。

保護者とは子育て協働の関係でありたい⑥

2010年から2014年までの5年間に保護者に届けたメッセージを各年1つずつ紹介します。

この5年間が私の最後の勤務校となりました。 

 

 

おうちの方へ特集号 2010.7.12


夏休みを自律と自立の機会に


■打たれ強い子どもに育てたい


 間もなく1学期が終わります。振り返ってみますと、実に充実した3ヶ月余であったと思います。子どもたちは、まじめで素直、よく学び、よく働きます。みんな仲良く、これといったトラブルもなく過ごしてきました。


 そんなクラスの弱点を敢えて挙げるならば、打たれ弱いことでしょうか。今の、穏やかでほのぼのとした環境が、いつまでも続くわけではありません。人波に揉まれ、逆境に身を置いた時、何とかして生き抜いていく力を育てたい。この数年、この学校に勤めるようになってから、考え続けている課題です。


 脳を鍛えることで、「幹」を育てたい。教科書の進度に直接関係のない宿題は、およそそうした意図で出しています。最近クラスのブームになっている算数パズルもその1つです。ある子は紙が透けて見えるほど試行錯誤を繰り返し、ある子は数時間悩み続け、それでも挑戦をやめようとはしません。行き詰まりのイライラを自己消化する姿は、頼もしい成長の証です。解けるまでの時間こそが勉強なんだと、つくづく感じます。先日、ある子がパズルをしていた時、「見直しをすればいいんだ」と、大発見をしました。これまでも耳にタコができるほど言われ続けてきたでしょうに、その時初めて腑に落ちたようです。


 打たれ強さの中身はいくつもあります。簡単には諦めない、いくつもの方策を試してみる、問いを自分の中で持ち続ける、などなど。夏休みも、そんな力を育てる機会になればいいですね。


■お駄賃はあとで


 夏休みの宿題は、決して難しくはないのですが、量的には多いと思います。計算ができるとか、漢字が書けるとか、それも目的の1つです。1番の目的は、セルフコントロール力を育てることです。7月14日から49日という長期間です。出かける日も、体調の悪い日も、やる気にならない日もあるでしょう。自分自身を管理し、調整し、修正する力が必要です。それをやり切らせたいのです。


 1つお願いしたいポイントがあります。子どもに力を付けるためには、後方から見守っていただきたいのですが、「お駄賃はあとで」の原則を守らせてください。たとえば、旅行の予定があれば、その日の分は旅行前に済ませるのです。これは、毎日の生活の中で宿題とゲームの順番を決める時なんかも同じです。


■子どもに存在の場を


 夏休みは、大いに子どもの力をあてにしましょう。まず、子どもに任せられそうな家事をいくつか提案してください。そして、子どもに選択させてください。「お手伝い」ではなく、家族の一員としての「仕事」をさせたいのです。それは、子どもが家族の役に立って生きていると実感できる、存在の場を与えることなのです。


 ここでも1つポイントがあります。子どもに仕事をさせて「ごめんね」とは言わないようにしましょう。「ありがとう」「あなたのおかげで助かるよ」という言葉が、子どもに生きる場を与え、「幹」が育つ土壌を作るのです。


■夏休みを自律と自立の機会に


 家庭と学校は、「ホーム」と「ジム」の関係です。ホームは自分を解放し緩める所であり、ジムは自分を緊張させ鍛える所です。フワフワとしたホームの大きさが、ジムでの頑張りを支える力になります。


 長い休みの先に、2学期の学校生活が待っています。それは、6年生や中学校へとつながる、飛躍の学期です。エネルギーの充電を十分にさせてやってください。そして、セルフコントロール(自律)と自立(自分の足で立っていると感じられる生活)によって、「幹」を1周り太くした子どもと9月の教室で会えることを楽しみにしています。

 

 

 

おうちの方へ特集号 2011.6.9


今、教科書が変わり教育が変わる


 この春、子どもたちの使っている教科書が新しくなりました。と同時に、教科書の厚みが増しました。この30年間、教育内容は少しずつ削減されてきたのですが、「学力低下」論を受けて180度の方向転換です。


 教科書が厚くなった分、ほぼ30年前の水準まで中身も増えました。でも、今回の学習指導要領は、教科書の「量的変化」と同時に「質的変化」を求めてきました。単に昔に戻ったのではありません。


 教育改革というのは、その時その時の社会情勢を反映して行われているのですが、今その底流にあるのは「PISA型学力」です。詳しいことは右ページの新聞記事を読んでください。大事なのは「正解」ではなく、「問題解決能力」(課題にどのようにアプローチして解に至ったのかという過程が問われるのです)だと言うのです。


 子どもの教科書を覗き見てください。教科書の書きっぷりが変わっています。国語では、「作者が言いたかったこと(主題)は何でしょう」と問うていたのが、「作品があなたに最も強く語りかけてきたことはどんなことでしょう」と変わりました。正解は一つではなく、自分の考えを根拠を示しながら交流することがねらいです。算数では、既習事項を使って自力解決の一人学習を交流させたり、単元のまとめを言葉で書いたりする活動が多くあります。他の教科も然りで、自分でなんとかする力、考えを的確にまとめ分かりやすく伝える力といっことがカギになりそうです。やがてその先には様変わりした入学試験が待っているはずです。頭の片隅に留めおかれては…。

 

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おうちの方へ特集号 2012.9.26


学力の基礎は習慣づけにある!


 読書の秋にちなんで、清水宏吉さん(大阪大学)の『学力を育てる』の一節を紹介します。生活習慣・学習習慣の確立を目指して取り組んでいます「がんばりカード」と深く関わる著述です。ご一読ください。なお、興味がある方は、岩波新書で刊行されていますのでお探しください。

第3章 学力の基礎はどう形づくられるか

 

  4 意欲か、習慣か


 習慣づけこそが鍵


 学習意欲の問題について、一言ふれておさたい。近年の論調では、「子どもたちの学習意欲の低下こそが最大の問題である」と語られることが多い。「子どもたちの意欲を高める働きかけこそが、教師が考えなければならないポイントである」と主張されることも多い。しかしながら私は、こうした意見には反対である。学力問題の核心は、「子どもたちの意欲をどう高めるか」という「意識」の問題では決してなく、「子どもたちの習慣づけをどう図るか」という「行動」レベルの問題であると考えるからである。もともと勉強がきらいだという子がいないのと同様に、生まれつき学習意欲が低いという子どももおそらく存在しない。逆に、世の中のすべての事柄に対して意欲をもっている人間というのも考えにくい。「意欲」というものは個人に内在するものなのではなくて、環境との関わりで生じるものである。


 また、食べ物の例を出そう。たとえば、目の前に「いなごの佃煮」が出てきたときに、それを食べ慣れた人であれば、「あっ、おいしそうないなごだ。早く食べたい!」と思うだろうが、いなごを食べるものではないと思っている人は、「えっ、気持ち悪い」とそっぽを向き、決して箸をつけようとはしないだろう。「食習慣」が「食欲」を生むのであり、その習慣をもたない人にとっては、「おいしいいなご」はただの「気持ち悪い虫の死骸」にすぎない。あるいは、むずかしい数学の問題も、それと格闘し、答えにたどりついたときの喜びを知っている中・高校生にとっては意欲の対象となるが、数学が大嫌いになってしまっている中・高校生にとっては、忌避の対象であるにすぎない。


 そう考えるなら、重要なのは、「意欲」に直接働きかけることではなく、「習慣」づけを通して新たな「意欲」をかきたてるということになるだろう。食わず嫌いはもったいない。「いなごの佃煮」は重要なタンパク源となる珍味だし、「むずかしい数学の問題」は頭を鍛えるにはちょうどよい課題である。もう一点付け加えれば、「意欲」なるものは、個人のなかからわきあがってくる場合もあるだろうが、多くの場合他者との関わりのなかで育ってくるということである。食べ慣れない食べ物に手をつけるのは、親や仲間がそれをおいしそうに食べるからである。むずかしい問題にチャレンジしようとするのは、先生がほめてくれたり、競い合うライバルが存在したりするからである。


 結論的に言うなら、適切な家庭環境のもとで、子どもたちのたしかな学習習慣が形成され、豊富な学習意欲が引きだされ、そして、着実な学力の基礎が築かれる。学校の役割は、その基盤の上に成立するものである。  

 

 

■ おうちの方へ特集号■2013.7.11


ノーテレビデーで子育て親育ち!


 3年生の夏に「夏休み!ノーテレビ・ノーゲームデーチャレンジ大作戦 」の取り組みをする意味を、私なりに整理してみました。


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 子どもの発達や教育の場面で、「9歳のカベ」という言葉が使われます。京都大学大学院教授の子安さんのお話を引きましょう。


「9歳になると子ども自身の世界、秘密の世界や、それから悪意というか、意地悪な気持ちというものも非常に強く生まれてくる。そういった心の理解の発達過程を私たちが知っていく必要がある。」


「9歳ごろになると分数や小数といった抽象的な考え方が入ってくるし、それから子どもの作文の質が変わってくる。つまり、きのうどこどこへ行って何々をしましたという、いわゆる身辺雑記、身の回りのことを何となくつづっていくという書き方だけではなくて、例えば友達って何かとか、平和って何かとか、そういう抽象的なテーマでもって作文を書くことができるというふうに、大きく変わっていく。」


 9歳・10歳頃は人の成長・発達の中でも特に大きい発達の変化期に当たります。それが「カベ」です。今、子どもたちはそういう時期を迎えているということを、まず押さえておきましょう。


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 算数では、3年生の2学期以降、小数や分数といった抽象的な数の世界の学習が出てきます。国語では、国語辞典を引かないと意味の分からない抽象的な言葉が多くなってきています。学習内容が具体から抽象へと向かうのが3年生なのです。


 「3年になって勉強がわからなくなった」「テストの点数が低くなった」というのは、抽象の世界にうまく入れていないことが大きな原因と考えられます。家庭学習に費やす時間も、2年生の頃よりも当然増えないと対応できません。


 「ノーテレビ・ノーゲームデー」は、落ち着いて学習に向き合う時間を作ってくれます。この時期にそうした時間を設定することは、高学年に向けてのいい学習環境作りになります。


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 学習面以上に私が注目したいのは、子どもの発達という側面です。


 子どもたちは幼児期を経て、やがて思春期の入り口に立ちます。自我が芽生えてくる時期です。「自我の萌芽」には、自分で考えて自分で解決できるようになる「自立」という面と、親の言うことを聞かなくなる「反抗」的な面を併せ持っています。


 私は高学年を担任することが多かったのですが、しばしば「主」と「従」の関係が逆転した家庭を目にしてきました。中学年の子どもでも、わがまま粘り勝ちといった話はよくあります。子どもの顔色を見ながら、子どもに従属してしまう親子関係は、6年生ぐらいになると修復が難しいようです。


 「ノーテレビ・ノーゲームデー」の取り組み方について、親子でていねいに時間をかけて話し合ってください。主張が食い違う時は、子どもの言い分に耳を傾けながらも親として大人の分別を通してください。そして、話し合って決めたことは守らせてください。--親がリードしながら話し合って決める。決めたことはやり通させる。今回のことで、課題に向き合う親子のルールの礎ができることを願っています。子どもにとっては「ノーテレビ・ノーゲームデー」の取り組みそのものが目的ですが、親にとっては取り組みを通して培う親子関係こそが主眼です。

 

 

 

おうちの方へ特集号 2014.11.4


「中1ギャップ」を考える

 

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 先日の新聞に、義務教育の「6・3制」が変更されるという、いささかセンセーショナルな記事が載りました。小さいお子さんのおられる家庭にとっては、大ニュースです。では、6年生にとっては余所事かというと、それがそうではないのです。


 「6・3制」そのものについては、何の影響もなく中学卒業までいきそうです。ですが、そもそもなぜこうした制度変更に至ったかというと、「中1ギャップ」問題が主因の1つになっています。


 「中1ギャップ」とは、小学校から中学校に進学したときに、学習内容や生活リズムの変化になじむことができず、いじめが増加したり不登校になったりする現象です。小学校までに築いた人間関係が失われる、リーダーの立場にあった子どもが先輩・後輩の上下関係の中で自分の居場所をなくす、学習内容のレベルが上がるなどの要因が考えられます。


 今回の制度変更は、小学校を卒業した子どもが中学校生活にスムーズに移行できることをねらいにしています。これは、市が来年度から導入する小中一貫教育と同じ趣旨のものです。


 さて、学級通信にこの問題を取り上げたのは、「中1ギャップ」を乗り越えるために今できることを考えたいからです。


 6年生も折り返し点を過ぎ、残りの日々の方が少なくなりました。2学期になって、リーダーとしての育ちには目を見張るものがあります。学習に向かう姿勢も少しずつ良くなっています。先ごろ、7日間連続で9時間の国語授業を先生たちに見てもらいました。教師にとっても子どもにとっても負担ではありますが、確かな手応えを感じる充実した授業になりました。実りの秋です。


 それでも敢えて申しますと、子どもたちの家庭学習の時間と質(集中度)が不足しています。漢字を写すだけなのに、繰り返し同じ間違いをするし、間違い直しもしない。復習プリントなのに、空欄のままで提出する。どうも足が地に着いていないように感じます。授業後の単元テストはいい点をとるのに、長期間のテストになるとガクンと落ちるというのは、中学校では通用しません。中学校で学習内容のレベルが上がるのは避けられない事実です。だからこそ、小学校の確かな基礎が大事なのです。どうか、厳しい目配りをお願いします。

保護者とは子育て協働の関係でありたい⑤

今回は、2009年の記録です。

このクラスは前年度のほぼ1年間にわたり学級崩壊が続きました。詳細は、「尾木ママに学んだ学級崩壊」②及び③に掲載しています。

学級崩壊からの規律回復と学力回復をめざして、保護者に届けたメッセージです。

 

 

おうちの方へ特集号 2009.4.20


キーワードは「7時、朝ご飯、2時間」


 山口県のある市で、全ての小中学校が参加して「生活改善・学力向上プロジェクト」の取り組みが展開されました。昨年9月末、その成果が『学力は1年で伸びる!』という著書で公表されました。結論から言えば、全学校の全クラスの学力が1年で伸びています。全学校の全クラスという点に大きな意義があります。


 学校での取り組みの特徴は、脳と心を鍛えるモジュール授業にあります。週3回、1時間目の授業を3つのモジュールに分けます。朝1番の「音読」で脳を活性化させます。続く「百マス計算」では集中力とスピードで脳を活性化させます。3つ目の枠は各クラス多様に展開されています。こうして脳のウォーミングアップをしておいて、2時間目以降の授業の効果を高めようというのです。脳を活性化させること(=脳の前頭前野を鍛えること)の有効性は最近の脳科学が実証していますが、その要素が寺子屋の「読み・書き・計算」にあったとは…。昨年の6年生のクラスでも2学期後半から採り入れてみましたが、生き生きと次の授業を迎えることができたと思います。今年の取り組みについては、通信の№3をご覧ください。


 先のプロジェクトは、生活習慣が学力とどう関係しているかを明らかにし、具体的な生活改善を提案しています。起床時間を例にとれば、何時に起きている子の国語と算数の学力は何点というようにクロス集計を行い、そこから7時以降に起きる子の学力が明らかに低いという関係性を見つけていきます。


【提言1】7時までに起きよう
 起床時間が1日の生活のリズムを決めます。できれば6時半までに起きることが望ましいです。


【提言2】毎日必ず朝ご飯を食べよう
 朝ご飯を食べない子どもの知能・学力は極端に低くなっています。授業に集中できず、落ち着きがなくなることが原因です。


【提言3】低学年は9時までに、高学年は10時までに寝よう
 10時以降、就寝時間が遅いほど学力が下がっていきます。「寝る子は育つ」と昔から言いますね。


【提言4】テレビ・ゲーム・ネットは、高学年では2時間が目安
 短ければ短いほど学力は高くなっています。


【提言5】毎日勉強しよう 勉強時間は20分×学年が目安
 毎日、2~3時間勉強している子の学力が最も高くなっています。4時間以上は逆に低くなっています。短時間集中がいいようです。


【提言6】いろいろな本をどんどん読もう
 読書量が多くなるほど知能・学力が高くなっています。

 

 6つの提言は、互いにつながりあって1日の生活リズムを作っています。まずお願いしたいことは、「7時までに起床」「朝ご飯」「テレビとゲームは2時間まで」の徹底です。テレビを消すことで、勉強時間と読書時間が生まれます。勉強=宿題ではありません。予習や復習、宿題プリントの間違い直しなど、自分で課題を見つけて取り組む習慣を付けたいものです。勉強時間の終わりに翌日の準備をすれば、忘れ物もなくなるはずです。子どもの生活を一緒に作ってください。


 崩れてしまった生活と学力を立て直すには、家庭と学校の二人三脚が不可欠です。子どもが持っている水色のファイルには、数種類の点検表が綴じられています。遊びと習い事を軸にしたこれまでの生活を、学校での学びを軸にした本来の生活に戻すためのカードです。自分を見つめさせ、気付かせ、めあてを持たせるためのカードです。どうか、時々でいいですから目を通し、子どものやる気を励ましてやってください。学級での取り組みへのご理解と、ご家庭でのご協力を心よりお願いします。

 

 

おうちの方へ 2009.6.8

 テレビを消しましょう


 先日、全学年で生活調べのアンケートをしました。結果は後日お知らせすることになると思いますが、5年生の調査用紙を見ていて気がかりなことがありました。


 平日(月~金曜日)、テレビやゲームに費やしている時間が4時間以上の子どもが、10人を超えています。この数の多さには目を疑うばかりです。就寝時刻は10時前後に集中していますので、夕方以降、テレビ漬け状態になっていることになります。これで果たして高学年の家庭学習が可能でしょうか。学習の用意も含めて、明日も頑張ろうという心の準備はできるのでしょうか。


 通信の№5で、「7時までに起床」「朝ご飯」「テレビとゲームは2時間まで」の徹底をお願いしました。繰り返しになりますが、子どもの学力アップはテレビを消すことから始まります。子どもの頑張りを後押しするためにも、是非ともご協力ください。


 かけ算・わり算のチェックテストの結果と子どもの生活に、通信№5で紹介したのと同様の相関関係が浮かんできました。


 まず、起床時刻が7時以降の子がいました。7時以降に起きる子の学力が明らかに低いという関係性が、歴然とあらわれました。また、望ましいとされる「6時半までに」起床の子は、合格ラインに達しない子にはほとんどいませんでした。さらに、朝食を食べない子の点数が極端に低くなるという傾向が、今回の結果に顕著にあらわれていました。つまり、朝の生活リズムをしっかり確立させることが、子どもの学力には絶対に必要なのです。


 これも先の繰り返しになりますが、崩れてしまった生活と学力を立て直すには、家庭と学校の二人三脚が不可欠です。学校での子どもたちは、まだまだ十分なレベルではありませんが、少しずつ生活の落ち着きと学力を取り戻しつつあります。集合体としてのクラスの機能も回復しつつあります。タイミングを逃せば、停滞が始まります。今こそ、子どもの生活を立て直してください。ご協力を心よりお願いします。

 

 

 

おうちの方へ特集号 2009.6.22

 子どもたちの今


 最初の2ヶ月が勝負と決めていた2ヶ月が過ぎました。子どもたちの「今」を報告したいと思います。


空気が変わった


 金曜日の参観日に来ていただいて、教室の空気が変わったと感じられませんでしたか。子どもたちの顔が明るく、優しい表情になってきたと感じられませんでしたか。今がクラスにとって潮目の時期だと、私はとらえています。


 参観でブロック遊びを見ていただいたのには、わけがあります。競争だけれど勝敗にこだわらない姿や、友だちと協力して(もちろん、男女を問わず)一つの物を作り上げる姿を見ていただきたかったのです。そして、それを「楽しい」と感じている子どもの表情を見ていただきたかったのです。さらには、クラスのみんなが一つの課題に向き合っている、学びの姿勢を見ていただきたかったのです。


 課題は山ほどあります。しかし、最初の2ヶ月でと考えていた目標は、おおむね達成したと考えています。次は、「ステップ」段階です。


学びをつくる


 教室の空気の問題は、「あたたかいハートで生きよう」という目標と深く関わっています。


 算数で班学習を行うようになって、子どもたちに変化が現れました。学習に主体的に取り組むようになったのです。宿題はキライなのに、班で決めた課題は一生懸命やってくるのです。教え合うことで、教える子と教えられる子双方の学力アップも見られました。ただ、なかなか歯車が噛み合わない班もありました。


 「人間コピー」というゲームを3回行いました。子どもには大好評で、毎回、ものすごい盛り上がりようでした。3回目は、算数の学習班でしました。教室の後ろに貼ってあったのをご覧になった方もおられるでしょうか。その感想でKくんは、「みんなで協力してやっていると、班の団結が強くなると思った」と書いていました。私がゲームを通して子どもたちに付けたいと思っていたことと、子どもの受け止めが重なり合ってきました。


 18日の木曜日、先生方に国語の授業を見ていただきました。その様子は、№13の子どもの日記である程度分かっていただけるかと思います。Sさんは、「この5分はなんだか速く過ぎていったなと今も思う。この時、国語が楽しいなとひさしぶりに思った。」と書いています。ちょっと難しい課題に真剣に取り組んで、時間が早く過ぎたと感じた。そのことで、国語が楽しいと思ったというのです。Siさんは、指名されたとき答えられなくて残念だったんだけど、友だちの発言に「なるほど」と思い、そんな授業がとても楽しかったというのです。Kくんは、「みんなでやったので、けっこうできてよかった」と書いています。Tくんは、答えがあっていたことがうれしく、楽しかったといいます。ここに出てくる「楽しさ」は、子どもたちが大好きなボール遊びの「楽しさ」とは少し違います。それはまだほんの1コマかもしれませんが、学びに向き合う楽しさです。それも、仲間たちの中で学び取る楽しさです。


 全授業時間、私が教室にいる状況は続いています。これからもまだまだ紆余曲折があるでしょう。今回は紹介できませんでしたが、多くの子どもたちが、ものすごい緊張感の中で18日の授業を迎えたようです。敢えてこの時期に研究授業というのは、私も相応の覚悟を決めて臨んだのですが、子どもたちも同じ思いを持っていたのでしょう。振り返った時、「きっとあそこがターニングポイントだったんだね。」と言える日になると思います。学級集団、学習集団への歩みが、今始まります。

 

 

 

おうちの方へ 2009.9.1


 「朝ごはん」「宿題だいじょうぶ?」


 三たびのお願いです。2学期は、特に次の2点についてご協力ください。例外なく100%の達成をお願いします。

 

■朝ごはんを必ず食べさせてください。そのためには、食べて登校 できる時刻に起こしてください。

 

■「宿題、大丈夫?」と声を掛けてください。その一言でいいです ので、必ず声を掛けてください。(宿題は毎日出しています。)

 

 

 

おうちの方へ特集号 2009.10.13


「大丈夫?」は魔法の言葉


 ここに紹介しているのは、Hさんの漢字ノート(省略)です。10月7日の日付があります。これは、8日の朝モジュールの時間に行う漢字テストに向けて、自主的に練習したページです。Hさんはこうした学習を毎日続け、好成績を残しています。


 クラスには、Hさんと同様の家庭学習を続けている子が、何人かいます。そして、その子たちはすべて、テストにおいて結果を出しています。


 その一方で、正答が半分にも満たない状態が延々と続いている子もいます。改善のための努力も、しているようには見られません。


 自分らしさや自尊感情が強調される時代です。自分を大切にする、自分に誇りを持つというのは、自分に恥じない自己を確立していくことだとぼくは思います。たかが漢字小テスト、しかしそこには生き方が凝縮されていると感じています。


 9月1日の通信で、次の2つのお願いをしました。


■朝ごはんを必ず食べさせてください。そのためには、食べて登校できる時刻に起こしてください。


■「宿題、大丈夫?」と声を掛けてください。その一言でいいですので、必ず声を掛けてください。(宿題は毎日出しています。)


 朝ご飯については、ほぼ100%食べてくるようになりました。その結果、午前中の活動に集中して取り組めるようになったように思います。ただ、7時までに起きていない子が若干名います。これから寒くなっていきますが、1時間目が始まる2時間前には起きていることを目標にしてください。


 「宿題、大丈夫?」の声かけは続けていただいているでしょうか。今回は、「大丈夫?」という曖昧な声かけの意図についてお話します。


 「宿題したか?」と聞けば、「した」「ない」と誤魔化す。「早くしなさい」と言えば、うるさがられる。--そんな経験、ありません? でも、宿題をしてこない子はかなりいますし、忘れ物だって一杯あります。客観的に見れば、親の声の方が正しいようです。それはさておき、ここで問題なのは、親を誤魔化してサボったにしろ、親が怖くて渋々やったにしろ、いずれにしても主体的な自己がないことです。


 「大丈夫?」は、宿題をしたかどうかを質しているわけではありません。極端に言えば、サボっている自分を許容できるなら、それは「大丈夫」な状態なのです。でも、「大丈夫?」には、一点の曇りもなくきみを信用しているよというメッセージが込められています。詰問に対する誤魔化しは親を誤魔化したことになりますが、ここで誤魔化せば、それは自分を誤魔化したことになります。めざすは、自分に恥じない自己の確立です。


 「大丈夫?」と問うて「大丈夫!」と返ってくれば、それでよし。たとえ騙されても信じるのが大人の役目。「うーん」と自信なげな声だったら、「相談に乗るよ」と一言添えてやってください。いつの日か、Hさんの漢字ノートが、ありふれた当たり前のノートになればいいなあと思います。勉強に便利な魔法などありませんが、「大丈夫?」は子どもを変える魔法の言葉になるかもしれません。 

 

 

 

保護者とは子育て協働の関係でありたい④

保護者へのメッセージ、2007・2008年の記録です。

 

 

おうちの方へ特集号 2007.5.14

 

「見守る教育」とは

 

5月9日 チェック&アタック
                              YS
 私は、家でチェック&アタックをやっている。毎週火曜日に、○○先生という先生から電話がかかってくる。学校で何をしているかとか、分からないことを電話で言ったりする。チェック&アタックは、プリントをする。分からない問題があったら、チェック&アタックの本を見たりして、問題を解いている。6年生の間は、がんばりたいと思う。

 

 学力の問題が大きな社会問題になっています。今回は、5月10日付「朝日新聞」に掲載された宮本哲也さんの文章を紹介します。


 私は、昨年12月に放送された「情熱大陸」という番組で宮本さんという方を知り、氏の教育観に大いに刺激を受けました。


 先ごろ始めた学習プリントは、目先の点数ということよりも子どもの「幹」を育ることを目指しています。“強い子に育てる”ために「見守る教育」を、一緒に考えてみませんか。

「見守る教育」試してみよう


                      算数教室主宰 宮本哲也

 私は首都圏某所で小さな算数教室を細々と営んでおります。


今日は、私が実践している、「ゆとり教育」でも「つめこみ教育」でもない第3の教育についてお話しさせて下さい。


 ゆとり教育もつめこみ教育も「子どもをいかに伸ばすか」という発想は同じですが、これがそもそもの間違いで、「人が人を伸ばすことなどできない」というのが今のところの私の結論です。完成された人間である大人の自分が、未完成の人間である子どもを自分のレベルまで引き上げようという考えは間違いであり、傲慢以外の何物でもありません。確かに大人は知識と経験においては子どもよりも一日の長がありますが、人間としての未熟さという点では大差ありません。


 学べば学ぶほど世界の広さ、そして自分の未熟さを思い知らされますよね。私たち大人にできることは子どもが伸びる適切な環境と材料を提供してただ見守ることだけです。


 学力とは、いい学校にはいるために必要なのではなく、よりよく生きていくために必要なのです。生命力と言い換えてもいいでしょう。


 私が子どもたちに望むことは、1つの問題に対して10分間、集中して頭を使い続ける姿勢を身につけるということだけです。わからなくても、解けなくてもひたすら考える、これこそが学問の王道です。


 結果を求めることをあせるとすべてが壊れます。解けた問題の数だけ学力が上がるわけではありません。頭を使った分だけ賢くなるのです。努力の見返りは結果ではなく、成長だと考えればどんな難問に出会っても怯むことがなくなるでしょう。


 こういう話をすると「では、伸びない子はどうすればいいのか」という質問が必ず出ますが、そういうことは、できない子が自分の頭で真剣に悩まないと何も進展しません。


 私自身、子どもの頃、勉強ができませんでした。「こんなに何もできなくてどうやって生きていくのかなあ」とぼんやり悩んでいましたが、中学2年のとき、「得意なものは何もないけれど、それでも1番可能性があるのは勉強だろうな」という結論に達しました。できない子に手を差し伸べるのは大人の自己満足だけで、その子の自立、自覚を遅らせるだけです。


 また、学力を身につけることを生活の最優先にしてはいけません。生活の基盤は睡眠、食事、運動に置くべきで、学習は4番目と考えましょう。


 子どもと接する大人の中には「子どもは放っておくと怠けるから無理にでも勉強をさせないといけない」と考えている人が多いと思いますが、強要されることを嫌うのは大人も子どもも変わりません。環境と材料だけを提供してじっと見守りましょう。「ゆとり教育」でも「つめこみ教育」でもない第3の教育、「見守る教育」を試してみませんか。


 ただ、ひとつだけご注意いただきたい点があります。「見守る教育」を「見張る教育」にしてしまうと、子どもは絶対について来ません。冷たい目で見張るのではなく、温かい目で見守りましょう。きっと今よりはうまくいくはずです。


 「見守る教育」は「強い子に育てる教育」でもあります。大人の「信じて待つ」という姿勢も問われます。


               ◇


プロフィール 1959年生まれ。いくつかの大手進学教室を経て、93年宮本算数教室を設立。教室の方針は「教えないこと」。「強育論」「賢くなるパズルシリーズ」など著書多数。

 

 

 おうちの方へ特集号 2008.5.15

 

箸遣い・筆遣い・言葉遣い


 先日発売された子育て雑誌に、子どもの鉛筆の持ち方の特集がありました。鉛筆の持ち方が悪いと低緊張状態になり、集中力がなくなる。ひいては学力低下につながる心配もあるといったことが書かれていました。


 実のところ、我がクラスの6年生も、7割近い子が正しく持てません。矯正用のキャップでも勧めようかと考えていた矢先、職員室の回覧小冊子に「箸遣い・筆遣い・言葉遣い」と題する文章を見つけました。この機会に一緒に考えてみませんか。

 

箸遣い・筆遣い・言葉遣い


聖徳大学児童学部教授 西村佐二

 

 おいしさも半減


 タレントや有名人などが各地の温泉や観光地を巡り、その地のよさを紹介する旅番組で、その地方の食材を使い、その旅館の料理長が腕によりをかけて作った新鮮な料理を出演者が食べるといったシーンをよく見かける。見事な料理が器に盛られて出されてくると、見ているこちらも、思わず「おいしそう!」と叫んでしまいたくなるが、出演者の、その料理に箸を付け、食べる様子が映し出されるのを見てがっかりしてしまったことが何度もある。


 「うわーっ、すごい!」「ううーん、おいしい」の言葉を繰り返すばかりの語彙の貧弱さにもうんざりするが、それ以上に、親指と人差し指だけで箸を持ったり、小指以外の4本の指で箸を握ったりという下品とも思える箸の持ち方で食ベている様子をみると、おいしい料理もまずく思え、見ている私たちを不愉快にさせる。


 食べ物を口に運ぶ、「たかが箸」ではないか、何をそう目くじら立ててと言われそうであるが、そうではあるまい。手前の1本(静箸)を親指の付け根と曲げた薬指と親指第2関節の腹で固定し、もう1本(動箸)を親指と人差し指と中指でつまむようにして持つ、この箸の正しい持ち方は、可動範囲が広く、無駄な力を使わず、見た目もきれいで、疲れない箸の持ち方であって、これは、長い和食の歴史の中で、磨かれ、つくりあげられてきたものである。その意味で、正しい箸の持ち方に日本の食文化が息づいていると言えるのではなかろうか。


 なぜ正しく、美しい文字が書けないか


 4月、大学での最初の授業では、「本授業科目に期待すること」の題で600字程度の文章を書かせることにしているが、読んでがっかりすることが多い。それは、書かれた内容ではなく、書かれた文字が汚く、読みづらいからである。 薄くて小さ過ぎる文字、漢字に比べ仮名が大きく、しかも、いわゆる「丸文字」、明らかに筆順が違って不格好な文字、こうした文字の行列を見ていると、ひょっとして、この学生たちの書字力は、小学校時代から一向に伸展していない、いや、それ以下に落ち込んでしまったのではないかと疑いたくなってしまう。


 なぜ、こんな文字を書くのだろうか。その要因は、折れやすいシャープペンシルの多用もあるだろうが、多くは、鉛筆の正しい持ち方が大学生になってもなお身に付いていないからではないかと思われる。


 親指と人差し指で筆記具を抱えて書く者、中指を筆記具の上に出して薬指を支えにして書く者、筆記具の芯、根本に近いすれすれの部分を堅く握って書く者など、正しく筆記具を持たず書いている者が、半数近くいるのである。箸が食べ物を口に運ぶ道具だということと同じく筆記具もまた文字を書く道具であれば、どのような持ち方であれ、文字として書ければよいではないかという考え方なのであろうか。


 しかし、筆記具もまた、正しく、美しく文字を書くためにどのように持つのがよいか、長い歴史の試行錯誤を通して固まってきたのであってみれば、正しく筆記具を持ち、正しく美しい文字を書くということもまた、日本文化の正しい継承なのである。

 

 豊かな言葉の遣い手に


 箸は口に食べ物を運ぶ道具、筆記具は文字を書く道具に過ぎないという考え方は、よりよく食べ物を口に運び、より美しく文字を書くべく努力してきた先人たちの苦心や努力、我が国の文化、伝統を無にするに等しく、歴史的、社会的存在としての我々をも否定することにつながりかねない。
 言葉についても同じである。言葉を意思伝達の道具であるとする考え方もないではないが、それだけでは、言葉を愛し、言葉を大切にしようとする心は生まれてこない。


 ところで、豊かな言葉を思うとき、いつも心に浮かぶ詩がある。詩人川崎洋さんの「ことば」と題した詩である。


 山という字を描いてみせ/川という字を描いてみせ/山という字は山そのものから/川という字は川そのものから/生まれたのですよ/と説明すると/横文字の国の人々は感動する
 このあいだ 岡山で/(ひぐらし)を/(ひぐれおしみ)と呼ぶ人々がいる/と知って胸が鳴った/人を打つことばが日本のことばの中にある/そのことに/日本語の国に住む私は感動する


 豊かな日本語への讃歌である。


 「ひぐらし」を「ひぐれおしみ」と呼ぶことの中に、夕暮れに鳴く蝉「ヒグラシ」への哀惜と日暮れを惜しむ人々の思い、そして、夕日が山際に沈みつつある山里の夕焼けの美しさ、豊かな自然への感謝といった、人々の豊かで優しい心が含まれているのである。


 豊かな言葉とは、豊かな心と同義である。これからの子どもたちに、こうした豊かな言葉の遣い手になってほしいと思う。


 そのためには、言葉もまた箸や筆記具が単なる道具、手段ではないのと同じように、言葉そのものに思いを寄せ、言葉を慈しみ、言葉を大切にすることでなければならない。なぜなら、言葉は、箸や筆記具以上に、気の遠くなるような時間のなかを、何世代もの人々が言葉に思いを込め、言葉を磨き、言葉を紡いで、今日の我々に遺してくれた貴重な文化そのものであるからである。


 箸を正しく持つことによって、料理がおいしく食べられるように、筆記具を正しく持つことによって、正しく、美しい文字が書けるように、言葉を愛し、言葉を大切にすることによって、豊かな言葉の遣い手が育っていくのだと考えている。

 

                    (『日本教育』№367所収)

 

 

おうちの方へ特集号 2008.8.27


手持ちの力を使っていまを生きる


 この休みに、「子どものリアリティー 学校のバーチャリティー」という浜田寿美男さん(奈良女子大学)の講演がありました。浜田さんは発達心理学が専門で、25年ほど前に出会って以来、私の教育観や子ども観を支えている学者の一人です。


子どもは大人に守られているだけか


 講演の冒頭、浜田さんは「子どもは大人に守られているだけなのか。」と問いかけられました。そして、「人類の歴史を10万年と少なめに見積もっても、子どもが専ら守られる存在になったのはここ40から50年のことだ。それ以前の99950年間は、大きくは大人に守られながら、子どもも何かを守り、何かを担って生きてきた。」「子どもが変わったという人がいるが、変わったのは子どもが生きている環境だ。」と続けられました。生活の中に子どもの居場所がなくなったことが、子どもをめぐる問題の根底にあるというのです。


なぜ力を身につけるのか なぜ学ぶのか


「力を身につけるのは、それを生活に使うためである。」歩く力が身につけば、それを使って歩行の世界が広がります。言葉をしゃべる力が身につけば、それを使ってコミュニケーションの世界が広がります。学ぶことの原点がここにあり、浜田さんはこれを学ぶことの「実質的意味」と言います。


 その上で、「将来のために力を貯めることは可能か」と、浜田さんは問います。使わない力は衰える(これを「廃用の原則」と言うそうです)ので、将来のために力を貯めることなどできないと言うのです。「力は身につけた時に使って根を下ろす」と話された言葉が印象的でした。


 ところが、学校で身につけることは学年が上がるにつれて「実質的意味」を失っていきます。そして、学校で貯めた力は学校で試されます。ここでの学びは、学校制度のはしごをわたる「制度的意味」でしかないと浜田さんは指摘します。


学校制度のはしごをわたる


 さて、個別懇談でお話しすることというのは、おおよそ「制度的意味」における学びについてということになります。それは本来の学びではないとしても、今後数年間子どもたちは「学校制度のはしご」をわたる生活に身を置くことになります。


 学びが世界を広げてくれることがあります。例えば難しい算数の問題が解けた時、算数のおもしろさに目覚めることがあります。順序立てて問題を解決していくことのおもしろさに気づくこともあります。これもまた、「実質的意味」をもつ学びの世界なのです。私の「K塾」もそこを目指しているのですが…。ご家庭でも、子どものそうした学びを励ますことはできないでしょうか。


 学んだことが成績につながればいいのですが、結果が出ないこともあります。子どもは自分の居場所を持てなくなりがちです。他方、成績がいいのに学ぶことの意味を見い出せず、生きることをトータルに支える場を見失ってしまった子どももいます。田原本の事件や岡山の電車突き落とし事件などは、後者の事例です。--もしも子どもが「学校制度のはしご」をうまく渡れなくなったら、叱責するよりも学校制度に傷ついた心を包み込んでやってほしいと思います。


 発達は目標ではなくて結果だというのが、浜田さんの発達観です。「人は自分の身体でもって〈ここのいま〉を生きている。身体でもって〈ここのいま〉を生きるには、この身体に備わった手持ちの力を使って生きる以外にない。明日新しい力が身についているかも知れないが、明日身につくかも知れない力で今日を生きることはできない。手持ちの力を使っていまを生き、できないことは適当にやりくりする。そうして手持ちの力を最大限に使っているうちに次の新しい力が身についてくる。発達とはそういうものだ。」「手持ちの力を使って何かをやり、それでもって周囲が喜ぶ。またそうして周囲が喜んでくれることが自分も嬉しい。そういう感覚が生まれた時、子どもは居場所を得て自らの存在価値を自ら認めることができる。」というのです。


 私たち大人の子どもに向ける目線が変わり、手持ちの力を使える場所を提供できたら、子どもの生きにくさもいくらか和らぐに違いありません。


 今はまだ差し迫った問題ではないでしょう。だからこそ冷静に見つめ、考えてみたいと思います。