教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「生類憐れみの令」を授業する①

いささか唐突ですが、「生類憐れみの令」の授業化を提案します。

 

「生類憐れみの令」は、徳川幕府の第5代将軍・徳川綱吉によって制定されました。

小学校ではその名称を教えることはあっても、内容を教えることはありません。

 

私自身、高校までの授業を通して綱吉については儒学を大事にして「湯島聖堂」を作ったことと、犬を愛護し「生類憐れみの令」を制定したことを項目的に習った記憶しかありません。

そして、「ちょっと変わった」いやもっと言えば「甚だ迷惑な」将軍だと認識していました。

 

そうした認識を改める出会いがありました。

1980年代のことです。

 

1983年に『たのしい授業』という月刊誌が創刊されました。

その前に、1973年に『ひと』という教育雑誌が創刊されました。私は1978年に教職に就いたのですが、ほどなくしてこの雑誌の読者になりました。

『ひと』の中心には遠山啓さんや板倉聖宣さんがいました。

その板倉さんが中心となって創刊されたのが、『たのしい授業』です。

 

『たのしい授業』は、板倉さんが提唱した仮設実験授業の会誌です。

その初期の号のなかに、「生類憐れみの令」の「授業書」がありました。

私が出会ったのは、まさにその「授業書」です。(その後、『生類憐れみの令 道徳と政治』〔板倉聖宣著、仮説社、1992年〕という単行本も出ています。紙の本は1760円、電子版は1408円。)

 

流通している単行本に「授業書」も付録して収録されていますので、ここでは詳しい内容は差し控えます。概要を追いながら、この授業のもつ魅力をお伝えできればと考えています。

 

「授業書」は、「質問」に対する答えを選択肢から「予想」し、「なぜそう思うか」を出し合います。「生類憐れみの令」の授業書は3部からなっていて、24の質問と「つけたし質問」が2つあります。

 

 

「生類憐れみの令」第1部①

 

17世紀の終わり頃、5代将軍徳川綱吉は「生類憐れみの令」(生き物をかわいがるという法律)を出しました。

 

第1部では、「憐れみ」の対象となる「生類」について問うていきます。

 

江戸時代の代表的な家畜である牛や馬は憐れむべき対象だったのでしょうか。

 

えっ、ちょっと待ってよ。「生類憐れみの令」って犬の話じゃなかったの?

これでも日本史専攻の社会科教師である私は、初見の時まずそんなことを問題にしていること自体にびっくりです。

 

「憐れむ」を「だいじにする、かわいがる」ことだとすると、家畜だから当然だいじにしていたと思います。母屋の玄関近くに馬小屋(牛小屋)があったくらいですから。

しかし、鞭打って働かせることを虐げているとみるなら、これは憐れんでいないことになります。

 

歴史の実際は…

牛や馬は憐れむべき対象でした。

 

徳川実紀』「常憲院殿御実紀」

(貞享四年四月九日条 )

こたび前令にそむき、病馬を荒地に棄たるもの十人を追捕して、遠流せしめらる

( 貞享四年四月十一日条 )

生類愛憐のこと、先々も令せられしに、こたび武州寺尾田、代場両村のもの、病馬をすてし事ひ(僻)が事なれば、死刑にも処せらるべけれど、こたびはまづ遠流せしめらる、今より後、違犯せば重く罪せらるべしとなり

 

貞享4(1687)年4月のことです。

武蔵国寺尾田村と代場村の10人が病気になった馬を荒れ地に捨てました。この馬は農耕馬として飼われていたものと思われます。その馬が病気になったので遺棄したわけです。

病気になった馬を捨てるという行為は「生類憐れみの令」に背くことであり、死刑に相当するというのです。しかしまあこのたびは、遠流(おんる。伊豆諸島への島流しであったと思われます)で済ませてやろうというわけです。

 

今後、「僻事(ひがごと)」(心得ちがいのこと)が発覚したら重罪になるぞと脅されて、村人たちはどうしたのでしょう。

「貧しいものは養いかねることもあるだろうが、そういう時は町奉行所や代官などに訴え出でよ」ということだったようですが、最期まで看取って埋葬したのでしょうか。

この時代、行き倒れの牛馬、死牛馬の処理は被差別民衆の生業であったはずですが。

 

 

牛や馬以外はどうだったのでしょう。

                 

 

 

 

 

 

 

「面従腹背」という生き方

面従腹背」(めんじゅうふくはい)

 

うわべだけ上の者に従うふりをしているが、内心では従わないこと。

▽「面従」は人の面前でだけ従うこと。「腹」は心の中のこと。「背」は背くこと。
                  (三省堂 新明解四字熟語辞典) 

 

四字熟語は中国由来のものが多いですが、これは明治期の日本生まれのようです。もとは「面従腹誹」(めんじゅうふくひ)という四字熟語で、いつしか語尾の二語を読み違え「面従腹背」になったとも言われています。
 
面従腹背」の類義語には、「腹黒い」「二心あり」などが挙げられています。
対義語は「如実知見」(にょじつちけん) 「眼横鼻直」(がんのうびちょく)などで、ありのままといった意味合いの言葉です。
 
つまり、「面従腹背」という言葉は、あまりいい語感をもっていないことが分かります。
 
 
 
そうした陰のある「面従腹背」を表舞台に出したのは、おそらく前川喜平氏が最初だろうと思います。
 
前川喜平氏は、2016年6月から17年1月20日まで文部科学事務次官でした。文部官僚のトップです。
そのときに遭遇したのが加計学園問題です。「総理のご意向」文書の有無が取り沙汰されたときです。
 
次官辞任後の2017年6月1日、テレビ朝日報道ステーション』のインタビューで次のように語っています。

私ね、座右の銘が「面従腹背なんですよ。あの、これは普通は悪い意味で使われるんだけど、役人の心得としてある程度の面従腹背はどうしても必要だし、この面従腹背の技術というか資質はやっぱり持つ必要があるので、ですから表向き、政権中枢に言われた通り、「見つかりませんでした」という結論に持っていくけれども、しかし、巷では次々にみつかっているという状態ということを考えたかもしれない。

そういう面従腹背しきれなかったかというと、しきれたかもしれません。いま私、面従する必要がなくなったんでね。だからいま、「面背腹背」なんですよね。けしからんと思われる方もたくさんいると思うんです、「今になって」と。38年宮仕えして、初めて自由を獲得したんですよ。「表現の自由」をですね、本当に100パーセント享受できる喜びというのはね、これは大変なものですよ。多くの公務員はものすごく息苦しい中で、暮らしているわけですよね。もともと政治活動についてものすごく制限されていますし、物言えば脣寒しなんてどころじゃない。「辞めた人だから気楽でいいね」と言われるんですが、その通りなんです。

 

この発言に対して、元通産官僚だった岸博幸氏(慶応大学大学院教授)がかみつきました。

 

 安倍内閣が人事権を握っているから逆らえないともいわれるが、本当に日本のために必要だと思うなら、クビを恐れずにやればいい。自慢する気はないが、竹中氏の秘書官として不良債権処理をやっていたときは、竹中氏が失敗したら私も辞めるつもりでいた。人事権を握られたぐらいで何もできないなんて、その程度の志しかない人間が偉そうにモノを言うなと思う。

 前川氏の座右の銘は「面従腹背」だそうだが、論外だ。そんなことを正々堂々という官僚なんて官僚のクズだと思う。一時期とはいえトップを務めた人間がそんなことを言えば、文科省がそういう組織に見える。文科省の後輩たちに迷惑をかけると思わないのか。

                     「産経新聞」2017.6.13 

 

前川喜平氏には、『面従腹背』(毎日新聞出版、2018年6月27日)という著書があります。 とても面白い本です。
前川氏のその後のメディアでの発言や、夜間中学への関わりをはじめとする活動なども合わせ考えると、私には岸氏が言うような「官僚のクズ」だったとは思えません。
いやむしろ、「面従腹背」という生き方に共感を覚えますし、振り返ってみれば自分もそうして生きてきたんだと思います。
 
岸氏の言う「日本のため」を、「学校のため」「会社のため」と置き換えてみましょう。
本当に学校のために必要だと思うなら、クビを恐れずにやればいい人事権を握られたぐらいで何もできないなんて、その程度の志しかない人間が偉そうにモノを言うな
座右の銘は「面従腹背」だ」なんて「論外だ。そんなことを正々堂々という教師なんて教師のクズだ
 
どう思います?
 
岸氏は、竹中平蔵氏が議員を辞めたときに官僚を辞めて、慶応大学助教授になりました。
しかし、官僚の末端はそううまくはいかないでしょう。ましてや一教員や一会社員に至っては…。
 
「面従腹」を違和感なく続けられるなら、それはそれでいいでしょう。
以前、政権交代がありました。そのとき、ダム建設推進からダム建設中止に政策が180度転換しました。きのうまで推進に「身も心も」捧げてきた官僚が、きょうからは阻止に「身も心も」捧げるなんてあるのでしょうか。仕事を続けようとしたら、少なくともどちらか一方は「面従腹背」でないと自己矛盾に苛まれます。
 
「面腹背」となると、組織の構成員ではいられなくなるでしょう。
意に沿わぬ仕事はどこにだってあります。反発もします。私もそうでした。そのときは「面」の様相を呈することもありますが、やがては「面従」に収まるしか仕方ありません。社会人として生きていくというのはそういうことだと思います。
 
面従腹背」という生き方には、組織人としての責任と、一個人としての精神の自由が併存していると思います。
 
最近、日本学術会議の任命拒否問題で前川喜平さんのコメントを目にすることが多々あり、ふと思い出した次第です。
 
 
 

GIGAスクール構想は学校を変える?

国の政策がこんなに速く現場に下りてくることもあるんだと、妙な感心をしたことがあります。

コロナ禍対策のなかで、文部科学省GIGAスクール構想が前倒しで実現されることになりました。そして、10月下旬の教室では届いたばかりの端末を使った授業が始まっていました。

 

そもそも、「GIGAスクール構想」ってなんでしょう。

 

GIGAスクール構想」の「GIGA」は、「Global and Innovation Gateway for All」 の頭文字を取ったものです。 これは「全ての人にグローバルで革新的な入り口を」という意味です。

 

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文科省が作成した資料によると、「GIGAスクール構想」とは「1人1台の端末と高速通信環境を整備すること」によって、子どもたちの「資質・能力を一層確実に育成」する「令和の学びの『スタンダード』」ということになります。

 

GIGAスクール構想」の当初計画では2022年度末までに環境整備を終え、2023年度より運用開始となっていました。

それが今春のコロナ禍休校を機に、コロナ対策のための補正予算で「今年度末まで」に前倒しされることになったわけです。

 

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私が教室で見た端末は、補正予算の「『1人1台端末』の早期実現 1,951億円」の一部ということになります。

子どもが使っている端末には、「NEC Chromebook」とありました。Chromebook(クロームブック)は、GoogleChrome OS を搭載したコンピューターです。5万円台で市販されている機種ですが、補助上限4.5万円と出ていますのでそれに近い金額で落札しているのでしょう。

 

またしても、そもそもの話になります。

そもそも、なぜ「GIGAスクール構想」なのでしょう。

 

「Society5.0」というAIとIoTを基礎として産業革命に匹敵する変革を実現しようとする政府の提言があります。

これは、2016年1月に閣議決定され、政府が策定した「第5期科学技術基本計画」のなかで提唱されている新しい社会のあり方です。

「5.0」は、「狩猟社会=Society 1.0」「農耕社会=Society 2.0」「工業社会=Society 3.0」「情報社会=インターネット社会(現在)=Society 4.0」として、これに続く5番目の社会システムを示しています。「テクノロジーによってオンライン空間と現実世界をつないで、さまざまな社会の問題を解決する、人々が暮らしやすい社会」です。

こうした社会を担う子どもたちに求められる能力が、「GIGAスクール構想」の背景になっています。

 

もう1つの背景としては、日本の学校のICT活用が諸外国に比べて遅れていると指摘される中、2018年度のPISA調査で「読解力」の正答率が下がったことがあります。

この低下には、デジタル機器で長文を読み、デジタル機器で回答するといった経験がほとんどないことが影響していると言われています。

 

まあ時代の流れですから、「1人1台の端末」も「高速通信網」も実現されるに越したことはありません。

 

しかし、それだけでは「仏作って魂入れず」です。

 

問題はここからです。

先だって活用現場を見て、改めてそう感じました。

 

先生たちのスキルアップも必要です。

効果的な活用の研究も必要です。

これらは少し長い目で見守るしかありません。

 

それよりも気になるのは、「中途半端」な整備のありようです。

 

現段階の整備の完成形は、「1人1台の端末」と「高速通信網」までです。

その結果、教室はおよそ次のようになります。

まず、教室の前面には黒板があります。その脇に大型モニターが鎮座します。

教師は、黒板とチョークを使った指導をしつつ、必要に応じて小型端末を操作し大型モニターに映し出します。

子どもの机には、教科書とノートと筆箱と、さらにはドリルや資料集が乗っています。それに加えて、取扱注意、落下注意の端末が乗ります。

 

授業場面において、子どもは黒板に注目し、ときに大型モニターに注目することになります。視線の移動が大きいです。

この状況下で集中力を切らせる子どもがいます。

 

ノート、プリント、端末といった対象物の多さに対応しきれない子、整理できない子がいます。

 

「誰一人取り残すことのない、個別最適化された学びの実現」を標榜しながら、憂いを増大させる結果になりかねません。

 

GIGAスクール構想」を本気ですすめるつもりがあるのなら、検討して欲しいことがあります。

 

紙の教科書の廃止です。「デジタル教科書も認める」ではなく、「デジタル教科書しか認めない」のです。物の煩雑さが解消されます。

 

教科書のデジタル化にあわせて、教室の黒板を撤去します。

前面の真ん中に大型モニターを据え、その左右は電子黒板になっています。少なくとも、モニターとシームレスな平面のホワイトボードであるべきです。教師にとっては、小型端末をのぞき込んだりすることなく授業が進行できる環境が提供されるべきです。こうした環境が整うことで、子どもの視線が落ち着きます。

 

子どもの机の上からアナログツールを原則として取り除きます。

デジタル端末がノートであり、プリントです。手書きペンの文字をファイリングしておけば、従来のノートと同様の使い方ができます。もちろん例外的にアナログツールを使うこともあるでしょうが。

 

現実の「GIGAスクール構想」はどこをめざすのでしょう、どこまで行くのでしょう。

いま、その幕が開きました。

 

 

 

 

マスク越しの授業に思う

私は現在、地元の小学校と中学校でコミュニティ・スクール(学校運営協議会制度)の委員をしています。

今年度はコロナ禍の影響で、どちらの学校運営協議会も開店休業状態が続いていました。

先月、小学校の協議会の初会合があり、全クラスの授業を見せていただきました。

 

コロナ対策の一環で、先生たちはマスクを着けて飛沫の拡散を防ぎながら授業をされていました。これは、全国どこの学校でもそうなんだろうと思います。

 

しかし、これってどうなんでしょう。

実際の現場を見て、とても気になりました。

 

 

まず、先生の言葉が聞き取りにくいのです。それぞれの先生の声の大きさや声の質によって違いはありますが、一部の先生については語尾がほとんど聞こえてこない状況でした。これは何とかしなければなりません。

 

ごく一部の先生は、マスクではなくマウスシールド(マウスガード)を使っておられました。

マウスシールドを着けて授業をしている先生の声は、マスクの先生の声と比べて明らかにクリアです。

 

フェイスシールドやマウスシールドは飛沫拡散防止の観点からは、「マスクに比べて効果が少ない、弱いということは言える」(新型コロナウイルス対策分科会・尾身茂会長)ようです。

しかし、感染防止対策は飛沫対策だけではありません。他の予防や対策と併せて用いれば、リスクを上回る効果が期待できます。

 

 

もう1つ気になったのは、先生の表情が見えないのです。

 

乳児保育の場において、保育士の表情が見えないことが乳児に与えるマイナスの影響については、コロナ禍の早い時期に報道されていました。

しかしそれは乳児に限ったことではないようです。

 

教師の授業は、話し言葉そのものと声の表情と顔の表情を総合した「ことば」で伝えられるものです。

 

マスク越しの授業では、「話し言葉そのもの」が伝わりにくいと先ほど書きました。

それに加えて、マスク越しの授業では、「声の表情」が無機質に感じます。

さらに、「顔の表情」に至っては、ほぼ完全に見えません。

 

これは、低学年の授業では致命的な問題だと私は思います。

 

問題は低学年にとどまりません。

別の学校の高学年の話では、座席が後ろの児童のテストの点数が低くなる傾向が続いているというのです。

物理的に声が届きにくいということも考えられますが、マスクを着けた先生の口元に集中しなくなった結果、後ろに行くほど授業への集中度が落ちているのではないかと推察していました。

 

推察を科学的に証明する労よりも、懸念があるならよりベターな方策を採るべきです。

 

 

新型コロナとの付き合いはまだまだ続きそうです。

マスク越しの授業の影響についても、真剣に向き合ってほしいです。

文章の要旨をとらえる(5年 国語)⑤

字数指定の課題の先にあるもの

 

「要旨を150字以内にまとめよ」という字数指定付きの課題を見て、「来たか」と思いました。

 

小学校の国語にこうした課し方があったのかどうか定かでなく、少なくとも指導したという記憶はありません。

 

昨年度、知人に頼まれて中学3年の子の家庭教師をしていました。

中2の夏から1年間は数学を中心に、ときどき英語の勉強を見ていました。

中3の夏になって、進学先を考える時期になりました。現実問題として、手の届きそうな選択肢から具体的な高校を絞り込んでいくことになります。

彼が選んだ高校の入学試験は2回あって、1回目は国語と小論文のみ、2回目は5教科というものでした。

中学校の進路指導では5教科の試験をすすめられました。しかし、私には5教科もの受験準備は容量オーバーを起こすと思われました。

実は5教科で最も苦手なのが国語で、定期テストで20点を超えたことはありません。その国語1本に絞って準備をしようと提案しました。

 

私の分析では、試験で45点取って小論文を無難にこなせば合格すると踏みました。

過去問を徹底的に分析して出題傾向をつかみ、45点を取る方策を考えました。与えられた時間は半年です。

 

漢字の読み書き問題は稼ぎどころですが、ほぼできません。覚える量の多さと配点の低さというコスパを考えると、これに膨大な時間を費やすのはもったいないです。「当たればラッキー」で済ませることにしました。

 

文法(敬語、助詞・助動詞、活用、接続語)の問いは、大体の出題傾向が分かります。これはくり返し練習して、覚えてもらいました。

 

古典は入り口だけ押さえました。古文は現代語への書き換え、漢文は返り点の読み下しのみで、意味内容は不問にしました。

 

さて、ここまでの対策では20点にも届きません。点数を稼ぐには文章題の読みを何とかしなければなりません。

 

文章問題は2問あって、1つは文学作品で1つは説明文です。

長文を読むだけで相当な時間を要しましたので、文学は捨て説明文に絞って対策しました。

 

読めない漢字、意味の分からない言葉が多くありましたが、一切無視してざっと目を通す程度の読みでいいと言いました。

 

どんな長文でも、まとめ(主張)は最初の段落か最後の段落にあって、その中でも大事なことは段落の終わりの文に書いてあることが多い。そこだけしっかり読めばいいと教えました。

 

「筆者の主張を書け」という問いは、それで何とかなります。

 

今なぜこんなことを書いているかというと、高校入試を含めて中学校での問いには「○字以上○字以内で答えよ」という字数指定がほぼ例外なく付いています。

小学校では稀であっても、中学校ではスタンダードです。高校入試は目的でもなければゴールでもありません。しかし、ほとんどの子が通過し、その後の人生への影響も大きいことを考えると、「要旨を150字以内にまとめよ」は大事な出発点かもしれません。

 

事実、私が彼に教えたことは、要旨をまとめる授業のノウハウそのものだったのです。

 

もう一つ、図やグラフなどの資料を示して、そこから分かることとそれについての自分の意見を自身の体験を交えて書けという問題もよくありました。もちろん字数指定付きです。

これもまた、光村5年の「資料を用いた文章の効果を考え、それをいかして書こう」単元の延長にある問いです。

 

入試の本番で、彼は50点程度(自己採点)を確保したようです。

 

小論文は、受験動機や学校生活、将来に関する課題について○字以内で書けというものです。

作文は特に苦手で、原稿用紙を前にすると思考停止に陥るようです。

課題を3つ設定して、話し合いながら内容を膨らませ、文章化していきました。「両括型」の文章構成も指導しました。

完成した文章を毎日読ませ、何度か試写させ、試験前には暗写できるようにさせました。本番で問いが少し違っても書き切るように言い含めました。字数をクリアしていて、文脈が整っていれば半分以上配点されます。

実際は、ほぼ完璧だったそうです。

 

彼は見事合格。中学校の先生を驚かせたようです。

 

そんな経験をしてわずか半年ほどのタイミングで「要旨を150字以内にまとめよ」という字数指定付きの課題を見たものですから、「来たか」と思ったわけです。

この課題、子どもたちにとっては長い付き合いの始まりになりそうですよ。指導する者も、その気構えをもって当たらねばなりません。

 

 

文章の要旨をとらえる(5年 国語)④

「言葉の意味が分かること」の要旨をとらえる(その2)

 

いよいよ要旨をまとめるのですが、なかなかの難題です。

 

難題1 段落の要点を取り出すのが難しい

難題2 要旨をまとめる際に「150字以内」という字数制限が設けられている

 

 

まず、「はじめ」と「おわり」の段落の要点をまとめます。

 

「はじめ」①段落

4文省略

「言葉の意味が分かる」ことは、あなたが思う以上におく深いことです。なぜなら、言葉の意味には広がりがあるからです。このことを知っておくことは、言葉を学ぶときに役立ち、ふだん使っている言葉やものの見方を見直すことにもつながります。

《要点》

中心文は「「言葉の意味が分かる」ことは、あなたが思う以上におく深いことです。」でしょうが、これをもって段落の要点とするには役不足です。あとの2文も加えます。

「言葉の意味が分かる」ことは、おく深いことだ。なぜなら、言葉の意味には広がりがあるからだ。このことを知っておくことは、言葉を学ぶときに役立ち、ふだん使っている言葉やものの見方を見直すことにもつながる。

 

「おわり」⑪・⑫段落

⑪段落

2文省略

しかし、言葉の意味には広がりがあり、言葉を適切に使うためには、そのはんいを理解する必要がありますつまり母語でも外国語でも、言葉を学んでいくときには、言葉の意味を「面」として理解することが大切なのです

《要点》

言葉の意味には広がりがあり、言葉を適切に使うためには、そのはんいを理解する必要がある。つまり、言葉を学んでいくときには、言葉の意味を「面」として理解することが大切だ。

⑫段落

さらに言葉の意味を「面」として考えることは、ふだん使っている言葉や、ものの見方を見直すことにもつながります

2文省略

これらの例は、知らず知らずのうちに使い分けている言葉を見直すきっかけとなります。そしてわたしたちが自然だと思っているものの見方が、決して当たり前ではないことにも気づかせてくれます

3文省略

《要点》

さらに、言葉の意味を「面」として考えることは、ふだん使っている言葉や、ものの見方を見直すことにもつながる。そして、わたしたちが自然だと思っているものの見方が、決して当たり前ではないことにも気づかせてくれる。

 

要旨をまとめます。

「言葉の意味」が話題で、「分かる」「広がり」「面」という言葉も外せません。

「はじめ」と「おわり」の段落の要点を使います。

「文章の要旨を百五十字以内でまとめよう。」という字数制限があります。

 

「言葉の意味が分かる」ことは、おく深いことだ。なぜなら、言葉の意味には広がりがあるからだ。言葉を学んでいくときには、言葉の意味を「面」として理解することが大切だ。さらに、言葉の意味を「面」として考えることは、ふだん使っている言葉や、ものの見方を見直すことにもつながる。

これで134字です。

①の「このことを知っておくことは、言葉を学ぶときに役立ち、ふだん使っている言葉やものの見方を見直すことにもつながる。」は⑪⑫に出てくるので省略です。⑫の「そして、わたしたちが自然だと思っているものの見方が、決して当たり前ではないことにも気づかせてくれる。」も省いています。

これだと150字以内に整えるのは容易です。

 

⑫の「そして、わたしたちが自然だと思っているものの見方が、決して当たり前ではないことにも気づかせてくれる。」を加えてみます。

「言葉の意味が分かる」ことは、おく深いことだ。なぜなら、言葉の意味には広がりがあるからだ。言葉を学んでいくときには、言葉の意味を「面」として理解することが大切だ。さらに、言葉の意味を「面」として考えることは、ふだん使っている言葉や、ものの見方を見直すことにもつながる。そして、わたしたちが自然だと思っているものの見方が、決して当たり前ではないことにも気づかせてくれる。

これだと184字です。

34字以上の削減が必要です。挑戦してみます。

「言葉の意味が分かる」ことは、言葉の意味には広がりがあるのでおく深いことだ。言葉を学ぶときには、言葉の意味を「面」として理解することが大切になる。そのことは、ふだん使っている言葉や、ものの見方を見直すことにもつながり、自然だと思っているものの見方が、決して当たり前ではないことにも気づかせてくれる。

149字になりました。

 

唯一絶対の正解なんてあるようなないような。「主体的で深い学び」のためには許容の幅が必要です。外してはならないポイント(話題、キーワード、キーセンテンス)さえ押さえられていれば、それでいいと私は思います。

 

文章の要旨をとらえる(5年 国語)③

「言葉の意味が分かること」の要旨をとらえる(その1)

 

「文章の要旨をとらえ,自分の考えを発表しよう」はこの単元の単元名であると同時に、単元目標でもあります。

単元目標は大きく2つに分かれ、その1つが「文章の要旨をとらえることができる」です。

つまり、「見立てる」と「言葉の意味が分かること」という2つの教材の学びを通して、子どもに「要旨のとらえ方」のスキルが育たなくてはなりません。

 

「尾括型」文章の「要旨のとらえ方」は、「おわり」の段落の要点が要旨です。要約と混同するような指導さえしなければ、とくに問題はありません。

 

「両括型」文章の「要旨のとらえ方」は、「はじめ」と「おわり」の段落の要点をベースにまとめます。その際、題名やキーワードも大きなカギになることを練習文「見立てる」で学びました。

 

いよいよ、本文「言葉の意味が分かること」に挑戦です。

 

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文章構成図は、見える場所に掲示します。

これは「尾括型」の図ですが、これが基本です。今回は、「はじめ」の部分に青色の囲みを重ね張りして「両括型」を意識させます。

重ね張りのタイミングですが、

クラスに力がある場合は、段落分けで「はじめ」に「問い」がなく、「主張」が書かれていると子どもが見つけた時点で、

クラスに力がない場合は、段落分けの前に「通告」します。

 

まず、全文の形式段落に番号を付けます。

 

次は、段落分けです。

「はじめ」の段落を見つけます。

「問い」の文は、疑問文です。「主張」の文は、文末が断定表現です。

つづいて「おわり」の段落を見つけます。

残りが「なか」になります。この文は「なか」が2つに分かれますので、それもやっておきます。

 

「言葉の意味が分かること」には12の形式段落があり、「はじめ」が①段落で「おわり」が⑪・⑫段落です。「なか」は、②~④(「なか 1」)と⑤~⑩(「なか 2」)にわかれます。さらに「なか 2」は、⑤~⑦と⑧~⑩に細分化することもできます。

 

本文のあとの「学習」ページに、学びの進め方が提示されています。

そこに、「要旨のまとめ方」が示されています。

要旨をまとめるときには、次のことに気をつけよう。

・文章の話題と、全体の構成を確かめる。

・筆者の考えをまとめる。 

 

 構成についてはすでにくり返し触れてきました。筆者の主張が「はじめ」と「おわり」の段落に出てきます。

 

「話題」については、

話題のとらえ方の《ワザ》

 

文のつながりぐあいから「話題」をとらえる。

 

〈ヒント〉

(1)はじめの文の主語はどうか

(2)終わりの文の主語はどうか

(3)何回も出てくることばはないか

 というスキルを紹介しているページ(国語力を磨こう ④ 話題/中心語句/中心文/中心段落)をご覧ください。

 

(1)はじめの文の主語はどうか

はじめの文の主語は「あなたは」ですが、はじめの段落の中心文の主語は「『言葉の意味が分かる』ことは」です。

(2)終わりの文の主語はどうか

終わりの文の主語は省略されています(「みなさんは」が主語です)。おわりの段落の中心文の主語は、「言葉の意味を『面』として考えることは」です。

(3)何回も出てくることばはないか

「言葉の意味」(題名を含めて11回出てきます)

さらに、「言葉の意味」に付随して「分かる」「広がり」「面」という言葉が多く出てきます。

以上のことから、話題は「言葉の意味が分かる」「言葉の意味の広がり」といった「言葉の意味」に関することだと分かります。

 

さあ、「外枠」の準備は整いました。