教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

黄葉と紅葉を科学する

木々の葉が色づく季節です。

イチョウの黄葉、カエデの紅葉……今年も幾枚もの写真を撮り収めました。

 

私は文系の人間ですから、彩りの移ろいを愛でることはあっても、なぜ移ろうのかなどと深く考えたことはありませんでした。

 

目からウコロを落としてくれたのは、多田多恵子さんの『したたかな植物たち』(筑摩文庫、2019年。「春夏篇」1012円・「秋冬篇」1045円)です。

とても面白い本で、もっと早くに出会っていれば(単行本は2002年刊)、下手な理科教育も自然観察も違っていただろうなあと悔やまれます。

 

以下、多田さんの受け売りです。

 

紅葉は樹木のリサイクル事業

秋が深まって気温が低下すると、根の給水能力が低下します。一方で空気は乾燥し、葉の水分は失われやすくなります。

この難局にあって、落葉樹は葉を落とすことで低温と乾燥の期間を乗り切るのだそうです。

 

まず、葉の柄の部分に離層組織を作って水の流れを遮断します。

これによって葉への水と養分の流れが止まります。しかし、葉の光合成はしばらく続きます。葉で作られた糖分は、葉にたまります。

この余剰の糖分から、赤い色素であるアントシアニンが合成されます。

 

紅葉に黄葉の条件

数日のうちに、葉緑体は解体され、緑色の色素であるクロロフィルは消滅していきます。

こうして緑が消えると、アントシアニンの赤が鮮やかに現れるのです。

 

赤くなる前に黄色の時期があるのは、これは葉緑体に含まれるカロチノイドの色です。葉緑体が解体される時、カロチノイドよりもクロロフィルの分解の方が早く進むので、一時的にカロチノイドの黄色が現れるというわけです。

 

イチョウは葉にアントシアニンが作られない樹木です。カロチノイドの黄色だけが鮮やかに現れるので、黄葉となります。

 

また、ヨウシュヤマゴボウのように真紅に色づくのはベタレインという色素の色です。クロロフィルの分解過程でタンニンが合成されると、葉は茶色に変わります。

 

朝の会のひとときをこんな雑学で彩りたいものです。

 

 

すべてのものには意味があるわけです。

こうして仕組みが分かると、見え方まで違ってきます。

「生類憐れみの令」を授業する⑦

「生類憐みの令」や綱吉について、あなたの意見をまとめましょう。

 

わくわくするような設問です。

切り口がいくつもあります。

 

どの子が、どんな切り口で挑んでくるでしょうか。

 

 

ここからは、私の雑感です。

 

まず、綱吉について。

 

「犬公方」「犬将軍」などの代名詞によって、徳川綱吉はまともな人ではないような擦り込みが行われています。レッテル剥がしが必要です。

 

綱吉は、儒教にとても明るく徳を重んじる文治政治を推し進める為政者です。その政治は「天和の治」として評価されています。

 

少なくとも、綱吉の人格を否定するような扱いはあってはならないと思います。

 

綱吉は3代将軍家光の4男です。4代目家綱が家光の長男ですが、その養嗣子になります。家綱の死去に伴い綱吉が将軍職に就いたのは1680年で、将軍職就任に功労のあった堀田正俊大老にします。

堀田正俊は1684年に刺殺されるのですが、それまでの為政が「天和の治」と言われるものです。

「生類憐れみの令」は1685年に始まったいます。ここからが「悪政」と言われる部分です。

綱吉の内面で何が起こっていたのかは分かりません。1684~5年を境に、政治のありようが大きく変わっていきました。

 

つぎに、「生類憐れみの令」について

 

「生類憐れみの令」と言えば「犬」と相場が決まっていますが、これもまた一旦レッテル剥がしが必要です。

 

「生類憐れみの令」は、「生きとし生けるものの命を大切に」という綱吉の「善意」から発したものとみるのが妥当と思います。

 

 

「生類憐れみの令」を斬る!

 

■善意が人を殺す

「生きとし生けるものの命」を大切にすることは、正しいことです。そのこと自体は褒められこそすれ、咎められることではありません。

正しいことをした結果、犬が人を襲う事態に至りました。

正しいことをした結果、魚屋が生きた魚貝を売れなくなりました。

善意から発した正義が、人を殺す結果を生んだのです。

 

そのことをどう考えればいいのでしょう。

「ほどほどが大事」という教訓でしょうか。

 

■個人の善、為政者の善

蚊を殺した科で罰を受けたという記録もあります。

「蚊にも命があり、人の血を吸うのも生きるためなのだから、むやみに殺生をするな」ということでしょう。

 

一個人としての綱吉がそう考えたとしても、まったく問題ありません。

生きた魚貝を食べることは殺生をすることだと考えても、何ら問題ありません。

金魚鉢に金魚を閉じ込めるのはかわいそうだと考えたとしても、一向に構いません。

「わたくし」を縛る範囲内の規範であれば、それは「その人の勝手」なのです。

 

しかし、為政者の善は違います。

社会には、蚊を殺すのは殺生だと思う人もいれば、当然の行為だと思う人もいます。

生きた魚貝を食べるのは殺生だと思う人もいれば、常識と思う人もいます。

金魚鉢で金魚を飼うことを虐待と考える人もいれば、そうは考えない人もいます。

為政者の善は、考え方の違う双方を納得させるものでなければなりません。

少なくとも、圧倒的に少数の片方に立つには、ていねいな説明と説得が必要です。

 

「生類憐れみの令」の過ちは、綱吉「個人の善」をそのまま「為政者(将軍)の善」にしてしまったことにあるのだと考えます。

 

 

■「捨て子禁止」「捨て老人禁止」を言う前に

「生類憐れみの令」には、「捨て子禁止令」「捨て老人禁止令」という「人間の命」を大切にする法令も含まれています。

これらはだれが見ても正しいことですから、綱吉の死後も廃止になることはありませんでした。

 

しかし、考えてみてください。

わが子を捨てたくて捨てる親がいるでしょうか。

わが老親を捨てたくて捨てる子がいるでしょうか。

そこには、飢饉、貧困など「止むに止まれぬ」事情があるはずです。

 

為政者の為すべきは「禁止令」を出すことでしょうか。

私は、「止むに止まれぬ」事情を取り除くことが政治だと思います。

 

 

人間科「生類憐れみの令」の授業、どんな展開が待っていますやら。

 

「生類憐れみの令」を授業する⑥

「生類憐れみの令」第3部

 

第3部では、「生類憐れみの令」の起源や廃止について触れます。

 

 

将軍綱吉は、なぜ「生類憐みの令」を出したのでしょうか。

これには諸説あります。

 

綱吉は迷信ぶかくて、「将軍に世嗣が生まれないのは前世で殺生したからだ」というような話を受け入れて、人々に強制した。

一般に広く流布している通説です。

 

綱吉は学問好きで潔癖だったため、生類を憐れむことの大切なことをなんとか人々の間に広めたいと考えた。
孔子廟の「湯島聖堂」を作った綱吉は学問好きで、儒学については自ら講義するほどの秀才であったと言われています。この稿では触れていませんが、「生類憐れみの令」は「捨て子の禁止」も打ち出しています。戦乱の世が終わり、徳を重んじる文治政治を推し進めていく中で出てきた政策と考えるのが妥当でしょう。

 

 
さて、世に「生類憐みの令」という法令は1つの法令ではなく、たくさんの法令が相次いで出されたものを総称したものです。

 

「生類憐みの令」の始まりは、長らく貞享4(1687)年の「病気の牛馬を捨てることを禁じた法令」からとされてきました。最近では、貞享2(1685)年7月14日の「将軍の御成の際に、犬や猫をつなぐ必要はないという法令」からと考えられています。

それから20年以上にわたって、70とも100とも言われる法令が出されています。「生類憐れみの令」は、それらの法令群を総称して呼んでいるものです。

 


それでは、生類憐みの令が廃止になったのはどのような事情によるものだったのでしょう。


宝永6(1709)年正月、将軍綱吉は病の床にありました。成人麻疹であったと言われています。

死に臨んで養嗣子の家宣に、自分の死後も生類憐みの政策を継続するよう遺言します。

そして、1月10日に64歳で死去しました。

 

綱吉の死後、事態は一気に動きます。


死去からわずか10日後の1月20日、生類憐みの令は廃止されました。

綱吉の葬式が行われたのは、その3日後のことでした。


生類憐みの令が廃止され、犬小屋に集められていた野犬は分散させられました。また、この令に違反して獄舎につながれていた何千人という人々が解放されたそうです。

その他の法令も順次廃止されていきました。

 

廃止の一方で、継続された法令もあります。

「牛馬の遺棄禁止」「捨て子禁止」などは、そのまま継続されました。

「生類憐みの令」の始まりとされる「将軍の御成の際に、犬や猫をつなぐ必要はないという法令」 は、8代将軍吉宗が廃止するまで続きました。鷹狩りも吉宗の代まで行われていません。

 

 

「授業書」の最後はこうなっています。

生類憐みの令の歴史を調べてまとめましょう。

「生類憐れみの令」や綱吉について、あなたの意見をまとめましょう。

 

若干補足したいと思います。

「授業書」が発表された1982年当時と今とでは、「生類憐れみの令」に対する評価が違ってきています。

 

綱吉は「犬公方」と揶揄され、「生類憐れみの令」は「天下の悪法」とされてきました。

これには、綱吉の後に政権の要職に就いた新井白石が『折たく柴の記』で批判したことも大きく影響しているようです。白黒をはっきり付けたがる民衆心理からすれば、白石の評価は真っ当な為政者で「白」です。したがって「白」が批判する綱吉は「黒」です。綱吉や「生類憐れみの令」は、実際以上に黒く伝わっている可能性があります。

明治新政府による江戸時代のマイナスイメージなどもそうですが、誰かが意図的に色づけした歴史が「真実」として語られるのは世の常です。

 

1990年代に入って、網野善彦さんの『日本の歴史をよみなおす』『日本社会の歴史』、大石慎三郎さんの『新書・江戸時代』など、歴史の見直しを迫る一般読者向けの著書が相次いで刊行されています。

こうした流れのなかで、「生類憐れみの令」についても「正当な」再評価が行われるようになりました。

 

「授業書」は、この「再評価」の視点がまだ及んでいないと感じます。授業化においてはそのあたりを勘案し、「生類憐れみの令」や綱吉その人への意見形成がなされるようにお願いしたいです。

 

「生類憐れみの令」を授業する⑤

「生類憐れみの令」第2部②

 

 

人々が野犬に対する警戒を強めると、今度は飢えた犬同士が食い合うようにもなります。じっさい、やがて江戸市中ではそういう事件が相次いで起こるようになりました。犬同士が食いつきあった結果一方の犬が死んだりしたら、誰が罰せられることになったでしょう。

 


噛み殺した犬は死刑?

 

いえいえ、犬を憐れむための施策ですから、犬を罰することはしません。

罰を受けたのは、見ていた人です。


幕府は、「けんかをしている犬を見つけたら水をかけて引き分けるようにせよ」と指示を出しました。

 

その後、次々にいろいろな問題が出てきたので、幕府は直営の犬小屋を建てます。


今の東京の大久保、四谷、中野に幕府直営の犬小屋を建てて、江戸中の野犬をそこに集めて育てることにしました。元禄8(1695)年のことです。

この犬小屋は「御用屋敷」「御囲(おかこい)」「御犬囲」とも呼ばれ、特に中野の犬小屋は「中野御用御屋敷」と呼ばれました。

 

犬小屋の敷地は、大久保がおよそ2万5000坪(82500㎡)、四谷がおよそ1万9000坪(62700㎡)、中野は16万坪(528000㎡)でした。中野は最終的には30万坪(東京ドーム20個分)になりました。

そこに暮らしていた人たちは立ち退きを強制されました。

 

犬小屋は1棟あたり25坪(ほぼ1辺が9mの正方形の広さですから、小学校の教室よりも少し広めです)で、中野の場合こうした小屋が290棟ありました。

 

さて、この小屋に収容された犬の数ですが、驚くなかれ、多い時には10万匹が収容されていたようです。
当時の江戸の町人は50万人ですから野犬だけで10万匹というのはすごい数です。


野犬を10万匹とすると、1棟に300匹~400匹の犬が収容されていたことになります。25坪は畳50枚の広さですから、畳1枚の広さに6匹~8匹の犬がいたということです。

 

犬小屋の規模もさることながら、運営費も莫大です。

 

加賀藩史料』に収められた『政隣記』の元禄8年12月6日条には、中野の犬小屋には当時82000匹余の犬が収容され、犬1匹の餌代は1日あたり米2合と銀2分で、その合計は1日銀16貫目余となり、1年間の餌代は金98000両余(今でいうと40億円近く)にのぼったと記されています。

この維持費用は、すべて江戸町人から「御犬上ヶ金」として徴収されたということです。

 

「授業書」は、「あなたの感想を書いてください」で第2部を締めています。

 

 

 

「生類憐れみの令」を授業する④

「生類憐れみの令」第2部①

 

第2部では、「生類憐れみの令」の対象を犬に限定して追求します。

 

江戸幕府は犬を保護するために、江戸の町人たちにまず「犬毛付書上帳」(いぬけつけかきあげちょう)という犬の戸籍簿のようなものを作らせました。

下谷坂本町 犬毛付書上帳
一.2匹(一匹は黒虎男犬、一匹は赤ぶち男犬)主 孫左衛門〔印〕
一.1匹(白男犬) 主 新右衛門〔印〕
……(中略)……
総犬数、合わせて99匹

 どの家には犬が何匹いて、その犬の色などの特長を届け出させたのです。

こうすれば飼い犬が死んだり傷ついたりしても責任の所在がはっきりするというわけです。


一見、名案のように思われます。

 

しかし、これがもとで問題が起こります。

飼い犬が行方不明になった時、さがし回らなければなりません。探して見つかればいいのですが、もし見つからなかったら…。

飼い犬が行方不明になれば飼い主が罰せられますから、他人の似ている犬を連れてきてしまうというような「事件」が起こりました。

 

そこで、人々は「何とかしてほしい」と訴えます。

それに対して幕府は、「犬がどこかへ行って見つからなかったら、できるだけさがして、それでも見つからなかったら、無理にさがさなくてもよい」としました。

 

しかし、犬の数だけ合わせるという現象に対して綱吉は「心得違いをしている人がいる。できるだけさがして、なおざりにするものがいたら訴え出、他人の犬が来たら育てなさい。飼い主が分かれば返してあげなさい。」ということを申し渡しました。

 

徳川実紀』「常憲院殿御実紀」

(貞享四年二月二十一日条)

飼犬の毛色簿書にしるし、もし犬見えざる時は、何方よりか他の犬をつれ来り、其員数を合するよしの聞えあり、畢竟人々をして生類愛養せしめらるべきの盛(誠)意にて、しばしば令し下さるゝ所に、実意あらざる挙動なれば、今より後、飼犬見えざる時は、成べきほど尋ね出べし、もしなおざり(等閑)にするものあらば、所属へうたふ(訴)べし、他の犬まからば、これもよく畜養し、その主しれば還しやるべしとなり

 

 


さて、「生類憐みの令」が出てから人々は犬を大切にして、棒でぶったり傷つけたりしなくなったのでしょうか。


人々は犬をいじめることが少なくなり、犬を恐れてさけて歩くようになりました。

野良犬が来た場合でも、以前より野良犬などにエサをやるのをきらうようになりました。

 

その結果、野犬がだんだん狂暴化して人間や馬にかみつくようになりました。


しかし、人間が棒でたたいたり傷つけたり殺したりすると罪に問われます。

そこで人々は犬をさけて通るようになりました。

 

面倒なことには関わらないことが一番……いつの時代も処世の術は変わらないのですね。

 

なかには、隠れてこっそり犬を殺してしまう者もいたようです。

そういうことに対して幕府は犯人をきびしく追及しました。

元禄9(1696)年には、犬殺しの犯人を訴え出た者には金30枚(今でいうと120万円程度)与えるという高札を立てたくらいでした。


ある12~13歳の少女は「あの犬を突き殺したのはあのおじさんです」と訴え出て、30両の大金を与えられました。その犯人は数ヶ月後に捕まって死刑の上、さらし首になりました。

 


「授業書」は、この少女のとった行動を紹介した後にこう聞きます。

少女が「犬を殺した悪いおじさん」を訴えたことについてあなたはどう思いますか。

 

これもまた深い問いです。

「生類憐れみの令」を授業する③

「生類憐れみの令」第1部③

 

生類憐みの令の時代には、金魚を金魚鉢に飼うことについてはどうだったのでしょう。

 

生類憐れみの令の時代と言わずとも、これは評価が割れる問題ですね。

金魚鉢に金魚を入れて世話をすることは、間違いなく金魚を可愛がる行為です。金魚を憐れんでいるのですから、大いに奨励されるべきです。

いやいや、金魚鉢に閉じ込めることは金魚の自由を奪うことになり、これは金魚に対する虐待行為です。

うーん、どちらも言えるよなあ。

……

 

前回紹介した資料の省略部分に次のように書かれています。

徳川実紀』「常憲院殿御実紀」

(貞享四年二月二十七日条)

食料とて、魚、鳥を蓄養してうりひさぐ(売販)こと、今より後かたく停禁すべし、鶏、亀もこれに同じ、但し翫弄のために魚、烏飼ふことはゆるすべし、鶏、亀、貝類に至る迄、食料とては一切飼置べからずとなり

 

翫弄のために魚、烏飼ふことはゆるすべし」…「翫弄(がんろう)」は「おもちゃ」の意味合いですので、観賞用として「魚、烏飼ふことはゆるすべし」だったんですね。貞享4(1687)年2月の時点では。

 

ところが、……。

 

元禄7(1694)年りお触れには、次のようにあります。

「江戸市中の金魚(赤色)銀魚(白色)を所持いたすものは、その数など正直に報告し差し出すべし」

金魚鉢などに閉じ込め、金魚の自由を奪うのけしからんということになったのでしょう。

このお触れの結果、差し出された江戸市中の金魚・銀魚が集められ、遊行寺の池に放生されました。

 

 

「生類憐れみの令」と金魚すくいのおはなし

 

このパートは私のオリジナルです。

 

金魚と言えば、奈良県大和郡山や愛知県の弥富などが有名です。

弥富の金魚は大和郡山から伝わったと言われています。

 

さて、大和郡山の金魚。

金魚すくい用の金魚養殖が盛んで、金魚すくいの全国大会が毎年催されています。

 

大和郡山の金魚の歴史は江戸時代に遡ります。

 

享保9(1724)年、甲斐国甲府藩藩主柳澤吉里が大和国郡山藩に転封します。

この転封の際、柳澤氏は甲斐国から金魚を持ち込みました。

これが「金魚の町・大和郡山」の始まりです。

 

注目したいのは、その年代です。

 

「江戸市中の金魚(赤色)銀魚(白色)を所持いたすものは、その数など正直に報告し差し出すべし」という「生類憐れみの令」が発令されたのが、1694年です。

そして、詳しいことは後々触れますが、1709年1月に「生類憐れみの令」関連法がすべて廃止されます。

 

柳澤吉里が郡山藩に入ったのは、1724年のことです。

 

歴史に「もしも」はないと言いますが、もしもあと15年「生類憐れみの令」が続いていたらどうでしょう。

柳澤氏が大和郡山に金魚を持ってくることはなかったでしょう。

したがって、大和郡山市金魚すくいの全国大会を毎年開催するような「金魚の町」になることは、おそらくなかったでしょう。

大和郡山の金魚がなければ、それが弥富にもたらされることもなかったでしょう。

 

もしもあと15年「生類憐れみの令」が続いていたら、こんにちの金魚事情はまったく違ったものになっていた可能性が高いのです。

歴史の偶然はおもしろく、だからこそ興味が尽きません。

 

ところで、水谷豊さん主演のドラマ「 無用庵隠居修行」で、直参旗本・日向半兵衛(水谷豊)が丸い桶を縦にしたようなガラス張りの器に入った金魚を愛でるシーンがあります。

ドラマの時代設定は松平定信寛政の改革のころ、1790年前後です。

「生類憐れみの令」が続いたいたら、このシーンも時代考証でカットされていたでしょう。

 

 

さて、「授業書」では将軍綱吉が自らの鷹狩りを自粛したことにも触れ、「綱吉のことを好きですか、嫌いですか」と尋ねます。

もちろん「正解」などありませんし、多数決で決めるような問題でもありません。

何を根拠に好きなのか、嫌いなのかを討論するなかで、その子のことが今まで以上に見えてくるはずです。

これは社会科ではなく、「人間科」の授業なのです。

 

「生類憐れみの令」を授業する②

「生類憐れみの令」第1部②

 

イノシシ、シカ、オオカミなどの野獣は憐れむべき対象だったのでしょうか。

 

イノシシやシカは田畑を荒らしたり人や家畜を襲う困り者です。

オオカミは今ではいませんが、クマが出没しています。

奈良公園や宮島のシカは別として、「害獣」を憐れむというのはないでしょう。

 

と思いきや、これがまた憐れむべき対象だったのです。

 

盛岡藩雑書』第五巻
 
 
       覚
一兼て被 仰出候通、生類あハれミ(憐)の志弥専要に可仕候、今度
 被仰出候意趣ハ猪・鹿あれ、田畑を損さし狼ハ人馬犬等をも損さし
 候故、あれ候時計鉄炮にてうたせ候様に被仰出候、然所に万一取た
 かひ(違)生類あはれミ(憐)の志をわすれ、むさと打候もの有之
 候ハゝ、急度曲事に可申付候事
一御領・私領にて猪・鹿あれ、田畑を損さし、或狼あれ人馬犬等損さ
 し候節は、前々之通随分追ちらし、それにても止不申候ハゝ、御領
 ニては御代宮・手代・役人、私領にてハ地頭より役人等申付、小給
 所にてハ其頭々へ相断、役人を申付、右之もの共に急度誓詞為致、
 猪・鹿あれ候時計、日切を定、鉄炮ニて為討、其わけ帳面ニ注置之
 其支配々々へ急度可申達候、猪・鹿・狼あれ不申候節、まきらハし
 く殺生不仕様ニ堅可申付候、若相背もの有之ハ早速申出候様ニ、其
 所之百姓等ニ申付、みたり(猥)かましき儀候ハゝ、訴人に罷出候
 様ニ兼々可申付置候、自然隠置脇より相知候ハゝ、当人ハ不及申、
 其所之御代官・地頭可致(為)越度事、
右之通堅相守可申者也、
      巳六月日

 

元禄2(1689)年6月の記録によると、猪・鹿・狼も憐れむべきものであるが、作物等にあたり、荒れた時のみ鉄砲を使用することが許可されたことが分かります。

 

 

私は「授業書」に出会うまで知らなかったのですが、「生類憐れみの令」という法律はありません。「生類憐れみ」関連法が次から次へと発令されていて、それらの総称を「生類憐れみの令」と呼んでいるのです。

 

 

カラスやトンビなどのトリはどうだったのでしょう。

 

野獣で「ええーっ」という反応を見せていた子どもたちは、カラスと聞いてまさかそれはないだろうと考えました。ほとんどの子は…。中に意固地なヤツがいて、ここまでくれば憐れむで通すというのもいました。

 

で実際はと言うと、これもまた保護の対象だったようです。

 

貞享4(1687)年4月、持筒頭下役人が鳩に投石したために遠流処分を受けました。

元禄元(1688)年10月には、鳥が巣を作った木を切ったという科で、武蔵国羽村の村民が処罰されています。

また、元禄8(1695)年10月には、鉄砲で鳥を殺し、その鳥で商売をしたとして大坂与力はじめ10人が切腹させられ、1人が死罪になっています。

 

 

では、サカナは生類憐みの令の対象とされたでしょうか。

 

子どもたちも意固地が功を奏することを学習します。

当然、保護されました。

 

 

ならば、ウナギやドジョウも生きたまま売るのは禁止されたのでしょうか。

 

これは生きているのを売るのが商売なんだから、例外措置でしょ。

と、フツーの人は思いますよね。

 

ところがどうだ。

禁止。

 

徳川実紀』「常憲院殿御実紀」

(貞享四年二月二十七日条)

食料とて、魚、鳥を蓄養してうりひさぐ(売販)こと、今より後かたく停禁すべし、鶏、亀もこれに同じ、……、鶏、亀、貝類に至る迄、食料とては一切飼置べからずとなり

 

商売はどうなったのでしょう。

 

 

次回はペットとしてのサカナです。