教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

デジタル教科書時代・2035年の物語②

デジタル教科書時代の漢字練習

 

2035年、デジタル教科書が定着した教育現場。

 

それは「空想」であることに相違ありません。

手塚治虫はアトムの時代を、藤子F不二雄はドラえもんの時代をその目で見ることはありませんでした。

私は、80歳でその未来を目にすることになります。

手に取れるほどに近い未来です。

 

 

さて、2035年のある日。

 

私は学校帰りの子どもと親しくなり、宿題を見せてもらうことになりました。

驚くようなことがいっぱいあったのですが、とりわけ面白かったのが「漢字練習」です。

 

漢字練習と言えば、ひたすら繰り返し書いて覚えるというのがかつての常識でした。

「漢字ドリル」をノート1ページに何回も視写するなんて序の口で、漢字1字をノート1ページに(150字ノートなら150回)書かせる強者もいました。私はこういうのがあまり好きじゃなかったので、正しく1回写すというのが流儀でした。

 

その子の「漢字練習」は、そうした常識とはかけ離れたものでした。

教科書の指定されたページ(もちろんデジタル教科書です)を、そっくりそのままキーボードに入力していきます。

それは「視写」というものだろうと思いましたが、彼はこれが「漢字練習」だと言います。

 

私は彼の通っている学校へ出向き、担任の先生に話を伺いました。

先生は、こう話されました。

 

デジタル教科書になって、子どもたちの学びは劇的に変わりました。それを言葉で理解してもらうのは難しいですから、改めて授業を見に来てください。

結論から言いますと、子どもたちが鉛筆で字を書くということはほとんどありません。教科書がデジタルなら、学びもデジタルなのです。キーボードが「鉛筆」です。

漢字は、「読み」を正しく入力すれば、「書き」は変換キーがやってくれます。

子どもたちに求める力は、漢字を正しく読めることと正しく使えることです。そうした力を付けるには、テキストを正しく入力する練習が効果的なのです。

 

先生の話を聞きながら、私は長年続けている「天声人語」の視写のことを思いました。

天声人語」は、「朝日新聞」の1面下段にあるコラムです。「天声人語」視写用ノートも売られています。私の場合は、パソコンのワープロソフトで同様のフォーマットを作成し、そこに入力していきます。厳密には「視写」ではなく「視打」です。

この「視打」が「漢字練習(漢字を正しく読め、正しく使える練習)」になるというのは、体験上その通りだと思います。

テキストを正しく入力するには、テキストに出てくる漢字を正しく読める必要があります。

入力して変換キーを押すと、漢字に変換してくれますが1つ目がお目当ての漢字でなければいくつもの「同音異義語」が出てきます。いくつもの候補から選ぶ作業は、文章のなかで漢字(熟語)を正しく使う力を養っていることになります。

ときにはテキストの漢字の読みが分からないこともあります。その場合は、別の読みを入力して漢字に変換します。これもまた「漢字力」です。

何年もこうした「視打」を続けていると、いつしか語彙も豊かになったように思います。

 

先生の話は続きます。

 

結果的に漢字そのものを覚えられれば、それに越したことはありません。社会に出ると、書けたほうが便利なことがまだまだあるからです。ですが、書けることを第一にはしません。そのことで救われる子がたくさんいるのです。

 

話は、「音読」にも及びました。

 

昔、音読練習と言えば、家の人に聞いてもらってサインや評価をしてもらうのが普通でした。家事で忙しい時間に結構負担だったと聞きます。

いまは、端末のテキストを見ながら、端末に向かって「音読」します。AIがそれを聞いていて、誤読や読み詰まりがあるとその部分をマーキングします。子どもは、マーキング箇所を繰り返し読むことで力をつけていきます。

 

私が教師を辞めて20年。

わずか20年です。

隔世の感があります。

 

 

 

 

 

 

デジタル教科書時代・2035年の物語①

デジタル教科書時代「元年」・2021年

 

2021年4月、日本は「デジタル教科書」元年を迎えます。

 

デジタル教科書はすでに存在するのですが、学校現場ではほとんど使われていません。

理由は2つ。紙の教科書が主であり、それが無償で全員に配布されています。デジタル教科書は有償で、財政措置が講じられていません。(デジタル教科書が使える環境については、GIGAスクール構想の前倒しで一応解決したとみなします)

 

 

デジタル教科書は、2018 年の学校教育法等の一部改正等により、2019年度から一定の基準の下で、必要に応じ、紙の教科書に代えて使用することができることとなりました。

一般社団法人教科書協会が2020年7月7日に作成した「学習者用デジタル教科書の概要」で、現状を確認します。

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学習者用デジタル教科書の発行率は95%ですが、普及率は10%にも満ちていません。

 

 

文部科学省は「デジタル教科書の今後の在り方等に関する検討会議」を設置し、2020年7月14日に第1回検討会議を行いました。

その席で配布された資料に、今後のスケジュールが示されています。

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これによると、2024年度の教科書改訂に合わせてデジタル教科書を本格導入することになります。

 

政府は2020年12月18日、経済財政諮問会議(議長・菅義偉首相)を開き、経済・財政政策の改革スケジュールを示した工程表の案をまとめました。
「デジタル教科書の普及促進」に関しては、2024年度の小学校の教科書改訂に合わせてデジタル教科書を本格導入することを目指すとしています。有識者会議(「デジタル教科書の今後の在り方等に関する検討会議」のことです)で制度の見直しも含めた今後の在り方などを検討しており、2021年夏ごろに報告書を取りまとめる予定です。

児童・生徒が利用する学習者用デジタル教科書を導入した小中学校は、2020年3月時点で8.2%にすぎません。これをデジタル教科書の本格導入後の2025年度末までに小中学校で100%の普及率にすることを目指すということです。

 

 

議論は単線ではありません。 

2021年1月27日に行われた第8回示された「デジタル教科書の今後の在り方等に関する検討会議中間まとめ骨子案」の中に、今後のスケジュールに関する記述があります。

デジタル教科書の今後の在り方等に関する検討会議中間まとめ骨子案

(2)今後の教科書制度の在り方についての検討

【デジタル教科書にふさわしい検定制度の検討】
○ デジタル教科書の本格的な導入に向けて、新たな教科書検定の在り方の検討が求められる。将来的には、教科書の範囲にデジタルの特性を生かして動画や音声等を取り入れることも考えられるところであり、実証研究の成果も踏まえつつ、今後、そのより具体的・専門的な検討を行うことが必要である。
○ なお、令和6年度の小学校用教科書の改訂については、教科書の編集・検定・採択をそれぞれ令和3年度、4年度、5年度に行う必要があり、実際には教科書発行者において既に準備が進められている状況にあることから、本格的な見直しについては次々回の検定サイクルを念頭に検討することが適当と考えられる。

これによると、2024年度から デジタル教科書を本格的に導入するのは無理で、その次の検定が行われる2028年前後ということになります。

ただ、デジタル庁を設置する政権の意向で、2024年度で突き進むことも十分考えられます。まずは、2月下旬に予定されている「中間まとめ」で様子見です。

いずれにしても、2020年代の終わりには、子どもたちが使う教科書はデジタル教科書になっています。 

 

 

学習者用デジタル教科書の使用について、文部科学省萩生田光一大臣は2020年10月23日、授業時数の2分の1未満とする現行基準を見直す考えを表明しました。

それを受ける形で、12月22日の第7回検討会議で文科省は授業時数の2分の1未満としてきた使用基準を撤廃する「基準の見直しに関する案」を示し、了承されました。

 

つまり、2021年度よりデジタル教科書が実質解禁になります。

そして、早ければ2024年度にはデジタル教科書がメインになり、無償化されるでしょう。(紙の教科書も残すでしょうが、配布については不明です。紙とデジタルの両方を無償で提供することは財政上ないと思われます。)

賛否の議論などお構いなしに、「世界基準」としてデジタル教科書時代が始まります。

 

 

デジタル教科書「元年」を前に、次回から、デジタル教科書が定着した2035年を教育をのぞき見したいと思います。

 

 

 

出口式「タテ・ヨコ・算数」思考法 ~情報過多社会の航海術~

いま読みかけの本が4冊あって、その1つが『自分の頭で考える日本の論点』です。

 

『自分の頭で考える日本の論点

  (出口治明著、幻冬舎新書、2020.11.25、1210円)

内容(「BOOK」データベースより)
玉石混淆の情報があふれ、専門家の間でも意見が分かれる問題ばかりの現代社会。これらを自分で判断し、悔いのない選択ができるようになるには、どうしたらいいのか。「経済成長は必要か」「民主主義は優れた制度か」「安楽死を認めるべきか」等々。ベンチャー企業の創業者であり大学学長、そして無類の読書家である著者が、私たちが直面する重要な論点を紹介しながら、自分はどう判断するかの思考プロセスを解説。先の見えない時代を生きるのに役立つ知識が身につき、本物の思考力を鍛えられる、一石二鳥の書。
著者について
1948年三重県生まれ。立命館アジア太平洋大学(APU)学長。ライフネット生命創業者。京都大学法学部卒。1972年、日本生命に入社。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年に退社。同年、ネットライフ企画を設立、代表取締役社長に就任。2008年に免許を得てライフネット生命と社名を変更、2012年上場。社長・会長を10年務めたのち、2018年より現職。『人生を面白くする 本物の教養』(幻冬舎新書)、『全世界史(上・下)』(新潮文庫)、『人類5000年史(I~III)』(ちくま新書)、『座右の書 『貞観政要』』(角川新書)、『哲学と宗教全史』(ダイヤモンド社)、『還暦からの底力』(講談社現代新書)など著書多数。

 

出口さんは、『自分の頭で考える日本の論点』の「はじめに」で、いきなり同書の「キモ」を紹介しています。

 物事を考えるとき、僕がいつも大切にしているのは、「タテ・ヨコ・算数」の3つです。

 タテ、すなわち昔の歴史を知り、ヨコ、すなわち世界がどうなっているかを知り、それを算数すなわち数字・ファクト(事実)・ロジック(論理)で裏づけていく。…日頃からそのような訓練を積み重ねることが、想定外のことが起きたときに生き残る力につながります。

 

400ページを超える著述は、この「キモ」を22の具体例で学んでいく「ドリル」の役割を持っています。

 

具体例「論点1」のテーマは、「日本の新型コロナウイルス対応は適切だったか」です。(同書の24ページから47ベジまで)

ページの前半は「基礎知識」です。

「感染拡大の経緯」「新型コロナウイルス感染症とはどんな病気か」「感染者・死者ともに少ない日本」「強制力を伴わない緊急事態宣言」「浮き彫りになった多くの問題」「経済はいつ回復するのか」という項目について、タテとヨコ、すなわち2019年12月から2020年10月までの経緯と、日本と世界の動きがまとめられています。

後半は「自分の頭で考える」です。

ここでは、「基礎知識」を踏まえた上で、グラフや事実を引きながら筆者の考えが展開されていきます。

 

「論点2」以下は次の通りです。

2 新型コロナ禍でグローバリズムは衰退するのか

3 日本人は働き方を変えるべきか

4 気候危機(地球温暖化)は本当に進んでいるのか

5 憲法9条は改正すべきか

6 安楽死を認めるべきか

7 日本社会のLGBTQへの対応は十分か

8 ネット言論は規制すべきか

9 少子化は問題か

10 日本は移民・難民をもっと受け入れるべきか

11 日本はこのままアメリカの「核の傘」の下にいていいのか

12 人間の仕事はAIに奪われるのか

13 生活保護ベーシックインカム、貧困対策はどちらがいいのか

14 がんは早期発見・治療すべきか、放置がいいのか

15 経済成長は必要なのか

16 自由貿易はよくないのか

17 投資はしたほうがいいか、貯蓄でいいか

18 日本の大学教育は世界で通用しないのか

19 公的年金保険は破綻するのか

20 財政赤字は解消すべきか

21 民主主義は優れた制度か

22 海外留学はしたほうがいいのか

 

いずれもオトナとして関心のあるテーマであり、お薦めです。

 

しかし、私がここで取り上げているのは、単なる「読書案内」ではありません。

同書に触れることが、これからの教育活動の大きな「武器」になると確信するからです。

 

私たちはいま、情報過多の荒海に生きています。そして、その荒海の情報は真贋ない交ぜの状態です。

子どもたちは、そうした社会に生まれ、これからを生きていきます。

情報の真贋を見極めるには、出口さんの「タテ」と「ヨコ」の力が必要です。そうして得た情報をもとに、論理的に整理していく「算数」が必要です。

「主体的・対話的で深い学び」が成立するためには、「タテ・ヨコ・算数」思考法が不可欠なのです。そして、その力は、日々の教育活動のなかで「石筍」のごとく育つものです。

 

あなた自身と、そして子どもたちのために、ご一読を。

 

 

 

 

音楽で人権教育を考える④

3003年に行った講演では、「部落問題」「在日朝鮮人問題」とともに「平和問題」を取り上げました。

具体的には「沖縄」の問題に焦点を当て、「島唄」を紹介しました。(「さとうきび畑」も用意していましたが、時間の都合で聴いていただくことはできませんでした)

 

 

島唄

  作詞・作曲:宮沢和史 歌:THE BOOM

  1992年:アルバム「思春期」に収録

  1993年:シングル「島唄(オリジナル・ヴァージョン)」

 

THE BOOM宮沢和史さんは、「朝日新聞」の「宮沢和史の旅する音楽」(2005年8月22日)で「島唄」の創作秘話を語っています。

 

島唄(しまうた)」は、本当はたった一人のおばあさんに聴いてもらいたくて作った歌だ。
91年冬、沖縄音楽にのめり込んでいたぼくは、沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」を初めて訪れた。
そこで「ひめゆり学徒隊」の生き残りのおばあさんに出会い、
本土決戦を引き延ばすための「捨て石」とされた激しい沖縄地上戦で
大勢の住民が犠牲になったことを知った。
捕虜になることを恐れた肉親同士が互いに殺し合う。
極限状況の話を聞くうちにぼくは、そんな事実も知らずに生きてきた無知な自分に怒りさえ覚えた。
資料館は自分があたかもガマ(自然洞窟<どうくつ>)の中にいるような造りになっている。
このような場所で集団自決した人々のことを思うと涙が止まらなかった。
だが、その資料館から一歩外に出ると、ウージ(さとうきび)が静かに風に揺れている。
この対比を曲にしておばあさんに聴いてもらいたいと思った。
歌詞の中に、ガマの中で自決した2人を歌った部分がある。
「ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら」という下りだ。
島唄」はレとラがない沖縄音階で作ったが、この部分は本土で使われている音階に戻した。
2人は本土の犠牲になったのだから。 

 

THE BOOMの「島唄(オリジナル・ヴァージョン)」は150万枚以上を売り上げる全国的な大ヒット曲になりました。そのころ、沖縄県では「沖縄の人間でない人間が沖縄民謡の真似事をするなんてとんでもない」「本土の人間に『島唄』の名を安易に使ってもらいたくない」といった批判的な声が多くありました。

批判はまさに「本土」の人間の問題です。「沖縄」問題の本質は、ここにあります。

 

 

 

さとうきび畑

  作詞・作曲:寺島尚彦
  歌:森山良子 ほか

  初演は1967年、森山良子のシングルCDは2001年

 

寺島尚彦さんは2004年3月23日に亡くなられ、4月13日の「朝日新聞」に「惜別」記事が載りました。

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2003年9月28日、TBSテレビで明石家さんまさん主演のドラマ「さとうきび畑の唄」が放送されました。寺島尚彦さんの「さとうきび畑」をモチーフに作られたものです。これも秀作でした。(DVDになっているようです)

 

 

島唄」から間もなく30年。

 

沖縄出身のBEGIN に、「島人ぬ宝(シマンチュヌタカラ)」という曲があります。

この曲は、比嘉栄昇さんが、石垣市立石垣中学校の担任(作詞当時)であったかつての同級生に依頼して生徒たちに島への思いを書いてもらい、それを参考にして作詞したものです。

私のなかでは、「島唄」と「島人ぬ宝」は対のものとして在ります。

30年の間にウチナンチュはどれほど変わったでしょうか。

 

音楽で人権教育を考える③

今回は、在日朝鮮人問題がテーマです。

 

最初にテーマの「表記」について触れておきます。

ここでは「在日朝鮮人」という表現を、日本に在留する朝鮮半島にルーツを持つ人々の総称として用いています。

「在日韓国・朝鮮人」として場合は、韓国(大韓民国)籍・朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)籍を持つ在留外国人といった意味合いになります。

 

放送禁止歌の特集をしているわけではありませんが、今回紹介する「イムジン河」は発売禁止になった曲です。 

 

イムジン河(1968年)

  作詞:朴世永原詩・松山猛訳詞

  作曲:高宗漢

  歌:ザ・フォーク・クルセダーズ 

 

イムジン河」は、1968年にザ・フォーク・クルセダーズ加藤和彦北山修、端田宣彦)によって発表された歌ですが、発売日と同時に発売中止になっています。

よく知られている「悲しくてやりきれない」は、「イムジン河」の発禁が理不尽で「悲しくてやりきれない」と歌った曲です。

なお、「イムジン河」は2002年3月に当時の音源のままリマスタリングして復刻されていますが、CDには「悲しくてやりきれない」も収録されています。

 

2003年1月10日、『週刊金曜日』の伊田浩之さんがブログで「イムジン河」のことを書いています。

 

イムジン河

          【『週刊金曜日』風に吹かれて(23)伊田浩之】


 1月10日号で、きたやまおさむさんと筑紫哲也・本誌編集委員の対談を掲載しました。「ザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)」が昨年、34年ぶりに“新結成”されたことが対談実現のきっかけです。対談の詳細は、本誌を読んでいただくこととして、このコラムでは、あるフォークルの曲について書きます。
 新結成されたフォークルの1回限りのコンサートは昨年11月17日に開かれました。そしてコンサートでは、幻の名曲と言われてきた「イムジン河」も演奏されました。朝鮮半島の38度線を越え、北から南へと流れるイムジン河臨津江)の流れに、南北分断の悲しみを歌った朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の歌です。
 なぜ幻と言われてきたのか。それは、1968年にレコードが発売される寸前までいったものの、作者名の明示がなく、日本語詞が原作に忠実でないなどの点について抗議を受け、発売が中止されたからです。民放も放送を自主規制していましたが、多くの人に歌い継がれてきました。2000年に平壌で行なわれた南北首脳会談を機に、「統一を願う歌」として再び脚光を浴び、昨年3月、34年の歳月を経て、フォークルのオリジナル盤が発売されたのです。
 コンサートで、きたやまおさむさんは次のように話しました。
「原詞にとらわれないオリジナルな歌詞を、今回ぜひ、コーリアの方にも理解していただこうと思い、(朝鮮語に)翻訳していただきました。翻訳はもちろん、在日コーリアンの方々にお願いしました。
 この歌は、今も現実を歌い上げています。そしてイムジン河とは朝鮮半島に流れる河ですが、日本と半島の間にも、また世界のどこにでも、そして、こんにち私たちの間にでも流れている河だと言えそうです。
 そういう状況をふまえて、新たな歌詞を作ってもいいかと思い、考えて、とても夢のある新しい歌詞をつけました。朝鮮語の歌詞を1番とし、松山猛作詞の2番を2番として、最後の3番を新しく作りました。新たな歌詞で歌わせていただきます。おそらくこれが、最後のフォーク・クルセダーズの最後のイムジン河になると思います」
 そして歌われた3番は、南北首脳会談など雪解けムードを反映し、未来への希望を込めた内容でした。日本と北朝鮮の国交正常化交渉が膠着状態にあるなか、さまざまなことを考えさせられる歌でした。

 

 

認定NPO法人ニューメディア人権機構のホームページ「ふらっと 人権情報ネットワーク」に、「イムジン河」を訳詞・作詞した松山猛さんの文章が紹介されています。

2002/11/29
僕らの周りには渡れない「イムジン河」がたくさんある

                      作家 松山猛さん


朝鮮半島の南北軍事境界線近くを流れる川に祖国統一を願い、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)で作られた「イムジン河」。その美しい調べを日本で偶然耳にしたのは、「けんかよりサッカーで勝負しようよ」と朝鮮中級学校に乗り込んだ、中学生の松山さんだった。北朝鮮の愛国的な歌曲を、平和を願う日本のフォークソングに生まれ変わらせた張本人である。


僕が子どものころ住んでいた京都・東福寺界隈には、いろんな人たちが暮らしていました。近くには朝鮮から来た人たちの集落があったし、朝鮮動乱で傷ついた連合国軍の兵士のための病院もあって、古い京都の町並みにチマ・チョゴリ姿のおばさんや、アメリカの黒人兵やオーストラリア兵たち、また托鉢の坊さんも行き交うという不思議な風景が広がっていた。でも、それは僕にとっては「当たり前の世界」だったのです。
小学生の頃は朝鮮系の子とも仲良くなって家に誘われ、テレビを観せてもらいに行ってました。「ニンニクくさいから」と仲間に入らない同級生もいたけど、うちの両親は何も言わなかった。ただ、いつもおやつに出されるキムチが辛すぎて、母に頼んで持たせてもらったのが、おせんべいやカリン糖。子ども心に「なぜ日本に朝鮮の人たちがいるの」と両親に聞いたりする子でした。
中学生になった僕には朝鮮系を含む新しい友だちもでき、彼らが民族差別の悲しさを弁論大会でせつせつと訴えかけているのを聞いて、差別ということを意識しだした頃でもあった。彼らとは、よく将来の夢を語り合ったりしてたけど、学校の外では市立中学生と朝鮮中級学校の生徒とのいがみ合いが絶えず、駅で会えばケンカ、祭りで会えばケンカという時代でした。

 

どここらか聞こえてきた「あの美しい歌」
日本全体がアメリカと安全保障条約を結ぶかどうかで大騒ぎになっていて、政治家暗殺が起きるなど、主義・主張の違う人は排除しようという動きが強かった時代でね。せめて中学生同士の争いごとをなくしたかった僕は、ケンカよりサッカーの対抗試合をして理解を深め合おうという計画を立てた。担任から「大人が介入するより子ども同士でやったほうがいいよ」と勧められ、僕は、銀閣寺の近くにあった朝鮮中級学校に試合の申し込みに行ったんです。その時、聞こえてきたのが、コーラス部で練習していた「あの美しい歌」でした。
「きれいな歌やな」 と思ったと同時に、どこか物悲しいメロディーに僕は魂を射ぬかれた感じがして、帰りにはその曲を口ずさんでいました。
その頃の僕は、中学のブラスバンド部でトランペットを吹いてましてね。周りに気兼ねなく音が出せる九条大橋で練習をしていて、同じようにサキソフォンの練習に来ていた朝鮮中学のM君と仲良くなり、気になっていた「イムジン河」を教えてもらえることになったんです。数日後、Mくんは譜面と朝鮮語の歌詞と、1番の日本語訳をメモしてきてくれた。意味が分かるようにと新しい「朝日語小辞典」も添えて。ちょうど親しくしていた在日の多くの友だちが、帰国船で北朝鮮に帰っていった時期で、歌詞の意味を聞いて複雑な心境でした。
「南北に引き裂かれた朝鮮半島。水鳥は自由に行き交えるのに、人間は自分たちが作った境界線にとらわれて生きていかなきゃいけない。僕ら人間も自由でありたい」と。


「南北分断で人々がかかえる哀しみを、伝えたかっただけ」
その後も跡を絶たない人と人の争い。ベトナム戦争も、アメリカの黒人差別も、ごく身近で起きていた国籍が違うだけで結婚できない人たちの問題も・・、僕らの周りには目に見えない境界線、渡ることができない「イムジン河」がたくさんあることを知らされました。だからこそ「イムジン河」を初めて聞いた感動を、大人になるまで持ち続けていたんだと思うんです。
10代の終わりに、コミカルな歌で人気のあったフォークグループ「フォークル」と仲間になり、相変わらず続く世間の差別意識を変えるためにも、まず身の周りから人間の自由や平等を音楽で訴えようと、加藤和彦くんに「大切にしている歌がある。歌ってくれないか」ともちかけた。聞き覚えた旋律を加藤くんが採譜し、2番3番の歌詞は、「南北がいつかひとつになれば」という気持ちをこめて、僕が書き加えることになった。そこで誕生したのが僕たちの「イムジン河」でした。
初めてコンサートで歌った時、会場は今まで体験したことのない静けさにつつまれ、演奏が終わっても静まりかえったまま。しばらくして嵐のような共感の拍手が起こり、それは感動的でした。でも、それも商業音楽などやる気はないアマチュア時代のこと。それぞれが学業に戻る時、解散記念にと「帰ってきたヨッパライ」や「イムジン河」を入れた300枚のアルバムを作ったんです。

その中の1曲「帰ってきたヨッパライ」がミリオンセラーとなり、「イムジン河」が第2弾として東芝音工(現在の東芝EMI)から発売されることになった。関係者はだれも曲の由来を知らず、朝鮮民謡だろうと作者不明のままシングル盤13万枚のプレスが済んでいた。ところが発売直前に朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)に作者がいて、原詞と違う、日本語歌詞も認めないという抗議があった。作詞は北朝鮮の国歌にあたる「愛国歌」を書いた朴世永(パク・セヨン)、作曲は高宗漢(コ・ジョンハン)。1968年2月、政治的配慮から発売自粛となった。
当時、京都の小さな広告代理店のグラフィックデザイナーだった無名の僕には、きちんとした説明はほとんど何もなかった。「我慢してくれ」のひと言。人間関係がおかしくなり、新聞には「盗作か?」と書くところもあり、説明しようにも誰も聞きに来てくれる人もなく、自分の胸にしまい込むしかなかった。「めちゃくちゃにこんがらがって、放ったらかしになった毛糸玉みたいな状態」でした。あの理不尽な思いは、分断された朝鮮半島の人々の思いと共通するのかもしれない。結局は自分が強くないと負けてしまう。このことがあったからこそ、僕は何にも縛られず自由に生きる道を選んだんです。

 

人と人の心を隔てる問題を、見つめ直すきっかけに
その後、デザインの勉強に上京し、いつの間にか物書きもやるようになり、結婚して子どもも生まれ、そのときどきを懸命に生きてたけれど、過去を振り返ると、ふと思い出していた「イムジン河」。でも、それ以上に覚えてくれていた人がいっぱいいた。この曲を世に出したいと思ってくれてた人は、想像以上にいたんです。その一人が同じマンションに住んでいた在日コリアンの友人。彼から「あの歌を日本語にした松山さんがイムジン河をまだ見てないなんて」と言われ、共に38度線への旅に出たのが7年前の冬。
軍事境界線という現場を自分の眼で見たことで、改めて半島の分断について考えさせれました。その時は凍てついていたイムジン河にも、夏には機雷が浮いていたりするそうで、統一展望台の向こうには大きな北朝鮮の旗がはためいていた。そして、境界線の地下には北朝鮮が掘ったとされる急勾配のトンネルがあり、その先には見えない1本の境界線に向かって見張りの兵士が立っている。青春の時期に心を痛め、気になっていたことが、レコードの発売中止という事実も含め、30年近く経った今も、状況が何も変わってなかったことにすごいショックを受けた。「イムジン河」は、まだ終わっていない物語だったんです。

もう一度、僕にできることがあるとすれば、さまざまな現実を次の世代に気づいてもらうためにも「イムジン河」を世に送り直すこと。朝鮮半島の問題だけではなく、だれの身の周りにもある親子や人間関係の断絶など、人と人の心を隔てる問題を語り合い、見つめ直すきっかけになればいいと、また、音楽を通じてなら理解の糸口になるのではと考えたんです。新しいレコーディングのためミュージシャンの息子・輝(ひかる)とその仲間に編曲を委ね、新人の在日コリアン歌手・金昌寿(キムチャンス)の歌で、僕がプロデュース。そのニューバージョン盤がきっかけになって、封印されていた復刻版が世に出ることになった。みんなが本当に聞きたかったのは、34年前に出すことができなかった「イムジン河」だったんです。

 

地球上のどこに住もうと同じ人間
実際に34年ぶりに聞いたイムジン河は、それは感慨深いものがありました。でも、まだまだやりたいことはいっぱいある。「『イムジン河』は、アジアの『イマジン』だ」といってくれる音楽プロデューサーもいる。非常に象徴的な歌でもあるし、今も戦いが続くパレスチナ語やイスラエル語、ヒンズー語など、いろんな言葉で歌われればと願っています。
取材旅行が多い僕は、これまで宇宙人以外、地球上のいろんな人と出会ってきましたが、人間ってそんなに違うものじゃない。腹が減ると飯を食い、お腹がいっぱいになれば消化して出すものは出す。民族や宗教の違いといったって、ほとんど変わりはない。みんなで裸になって風呂に入れば、いっしょの人間ですよ。
それが、権力を持ちたい人間が一人いれば、差別が生まれる。社会をシステムアップする時に生まれるのが差別です。明治という近代化の時代に、それはより固定化されたのじゃないでしょうか。差別問題がクローズアップされたのは戦後ですが、僕は案外、差別って作られたものじゃないかと思う。『差別』という「固定化された言葉」を使い出した時点で、もうそこから進歩できないような気がしてならないんです。
「在日」というと言葉にしても、大抵の人は外国人というとらえ方をしてしまう。でもよく考えると、日本人を含め、日本に住むこと自体が在日。長い目で見れば、日本に来た順番が違うだけなんですよ。何千年前であれ、何十年前であれ、日本に来て、日本に定着した人だけのこと。陣取り合戦みたいなものでしょう。「自分の先祖は侍だった」とえばる人もいますが、それは先祖の話で、その本人が努力したわけじゃない。
国境だって、民族や考え方の違いから人間が地図上に引いたもの。国が固定されることで、○○人と決められ、○○人だからと戦争に送られ、拒否すると卑怯ものよばわりされる。このほうが問題だと思いませんか。僕たち人間はどうあがこうと、どの国に住もうと同じ人間。この地球からは身動きできないんですから。

 

 

イムジン河」の2番に、「誰が祖国を 二つに分けてしまったの 誰が祖国を 分けてしまったの」という歌詞があります。

 

「祖国を分ける」軍事境界線のある「38度線」は、第二次世界大戦末期に朝鮮半島を横切る北緯38度線に引かれたアメリカ軍とソ連軍の分割占領ラインです。

そもそも、なぜ北緯38度線なのでしょう。

朝鮮半島が日本の植民地であった時代、北緯38度線より北を関東軍が、南を大本営が管轄しました。それがそのまま分割占領ラインになったわけではないようですが、「38度線」を設けたのは旧日本軍です。

 

朝鮮半島が日本の植民地であった時代、多くの人が日本に渡ってきました(いわゆる「強制連行」を含む)。その人たちや子孫が「在日一世」「在日二世」「在日三世」といわれる人たちで、「在日朝鮮人問題」と呼んでいるのはこの人たちに対する差別問題です。

過去の歴史を含め、「在日」を生きる人たちの人権課題は解決したでしょうか?

「新渡日(ニューカマー)」といわれる在日外国人の人権問題もあります。しかし、「在日朝鮮人問題」は他とは一線を画した教育課題があると思います。

 

音楽で人権教育を考える②

部落(同和)問題は「重大な社会問題」であり、その解決は「国の責務」であるとともに「国民的課題」であるとした「同和対策審議会答申(同対審答申)」が出されたのは、1965年のことです。

 

この答申を受けて、1969年に「同和対策特事業別措置法(特措法)」が成立します。

「特措法」は10年の時限法で、1979年に3年間延長され、1981年度末まで続きます。

その後、1982年からは5年時限法の「地域改善対策特別措置法(地対法)」に引き継がれます。

さらに1987年からは、5年時限法「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律(地対財特法)」、1992年からは同法の5年延長、1997年からは一部再延長により、法に基づく同和対策事業は2001年度末(2002年3月)まで続きます。

 

 

1969年は、法に基づく同和対策事業が始まった年です。

 

まさにこの年に、部落問題をテーマにした楽曲が発表されます。

そこには「偶然」の側面と「必然」の側面があったと、私は感じています。

部落問題を解決するための審議会を設置し、その答申を受けて法制化していく過程において、国が「能動」的であったとは思えません。人権や民主主義が前に進むとき、たとえば大正デモクラシーの時期に労働運動や農民運動が広がるなかで全国水平社が創立されたように、政治運動や労働運動のうねりがあります。そうしたうねりの一つとして、部落問題の前進もあったと考えています。

ことのほか精度の高いアンテナを持つ音楽家が、時代の空気を吸いつつ楽曲を生み出したのだとしたら…。それは、「必然」の一致だったと言えるでしょう。

 

 

今回紹介する曲は、3曲あります。

 

「チューリップのアップリケ」

 (作詞:岡林信康・大谷あや子 作曲:岡林信康 歌:岡林信康 1969年3月)

「手紙」

 (作詞:岡林信康・中島一子 作曲:岡林信康 歌:岡林信康 1969年8月)

「竹田の子守歌」(歌:赤い鳥 1969年)

 

 

 

岡林信康さんは、1969年3月に「チューリップのアップリケ 」、8月に「手紙」と立て続けに部落差別をテーマにした曲を発表しています。

 

「チューリップのアップリケ」の作詞欄に大谷あや子という名前があります。大谷あや子さんは、この曲の詞の元になる作文を書いた被差別部落の小学生です。

岡林さんの著書『バンザイなこっちゃ』にこう書かれています。

あの歌当時(引用者注:2年間通った同志社大学を退学し、琵琶湖干拓宅建設現場で働いていた1968年)ボランティア活動をしていた養護学校の生徒の詞が原型となっているんです。ある日、そこの先生から見せていただいた生徒の作文に、いくつかの印象的なフレーズがありました。

作文のフレーズの断片を繋ぎながら、部落差別と貧困の問題を告発する内容の詞になっています。(歌詞の掲載は控えます。ネットで検索を。)

 

「手紙」は、結婚差別の問題を告発する内容です。

この詩は中島一子さんの遺書から岡林さんが作詞したものです。 

『わたしゃそれでも生きてきた』(部落問題研究所、1965年)に収められた、中島一子さんの「死の前のてがみ」(両親に宛てた遺書です)から作詞し、曲をつけたということです。

「死の前のてがみ」(『わたしゃそれでも生きてきた』所収)

 

 前略、秋らしくなり朝夕は寒さを思わす今日このごろ、家族の者にはかわりありませんか。このようなことを、お母さん、お父さんにいえばわらわれ、また、しかられるかもしれません。いたしかたありません。満さんのことを思えば、交際をしかけたのが、昨年の3月、1年6か月、今2人の間には結婚という大問題が目前にせまっています。
 ことしのすえか来年の始めには、おじいさんから満さんに店がわたされます。そこで問題は、私が同和地区民ということで結婚できません。私と結婚したばあい、満さんは店をいただけません。満さんにとっては一生にいちどのチャンスです。2人で店ができれば両親にもすこしくらいのことは……。
 彼も現在私を離したくないし、また店はほしいとまよっています。このさい、私は彼の幸福のために身をひく決心はしていますが、こんなに同和地区民であるということを痛切に感じたことは今はじめて……。
 ○○ちゃんの失敗、私の失敗、こんな星の下に生まれたことがそんなにまで悪く、またどこが違うのか……。この世をうらむよりしかたがありません。同和地区の者同志が結婚すれば、またその子供は、私と同じような思いをするでしよう。私はもう結婚せず一生を過ごそうと思っています。いやになれば自分でこの世を去ります。根拠のないことで悩むなんて、バカな……思えばなみだの連続です。こんな事をしょうちでまたこんな私を……2人が結婚できないのなら死のうとまで愛してくれた満さんが、私にとって最高の人だったかも知れません。
 この世の中に結婚や就職に敗れた者がどれだけいるかわかりません。この世を去った者も。
 いろいろなことを考えているうちに、なみだとともに一生結婚しないことにきめました。
 親は子供の幸福をねがい、きょうまで大きくしたといいたいでしょう。よくわかります。親の意にそむくかもしれませんが、私の人生の生きかたです。
 こんなに、らくたんしたのは、生まれてはじめてです。いまいちど彼と話し合うつもりです。彼も泣いていました。ともに泣いて別れるのが私たちの運命でしょう。
 妺や、弟は上の学校へやってください。へんな、くらい手紙になりましたが、かかずにはおれなかったのです。

 

 中島一子さんは、丸顔のポチャポチャとした少女でした。よくしゃべり、よく笑いました。どこに苦労があるのだろうか、と思われるほどほがらかな一子さんが、この手紙を両親にあててまもなく自殺してしまったのです。いま考えれば、一子さんの天真らんまんとみえるほからかさは、悲しさを、せいいっぱいかくした彼女の演技だったのでしようか。
 中学校で部落の歴史はならったが、それだけだったのです。同和地区の子にとって、歴史がわかっただけではなんにもならないことなのです。なんといっても、教育のなかで差別からの解放の力をつけておくことがたいせつなわけです。

岡林さんは、曲のなかで「部落に生まれた そのことの どこが悪い なにがちがう」 と部落差別の不条理を訴えます。(歌詞はネットで検索を。中島一子さんの原文が詞の世界を肉づけてくれると思います。)

 

同世代の被差別部落出身の友人たちに聞くと、自分たちの心情に近くよく口ずさんだと言います。

しかし、社会が差別問題にナーバスな時代であったこともあり、2曲とも発売直後に「放送禁止歌」になりました。私は、教職に就くまでこれらの曲を知りませんでした。

 

 

 

2001年1月に行なわれた藤田正さん(音楽評論家)の講演を私が再構成したものの一部を紹介します。

 美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」から少しあとに、岡林信康さんの作品である「手紙」(1969年録音)も放送禁止になりました。 
 「手紙」や、同じく岡林さんの「チューリップのアップリケ」も、ある程度の年代の方であったらご存知ではないかと思いますけが、部落差別をテーマとした歌です。
 「手紙」は、深い仲となった「みつるさん」と「私」が結婚の約束をし、「みつるさん」はおじいさんから店を譲られることになります。でも、妻となる「私」が部落の娘であったことが分かり、「みつるさん」は店を継ぐことができなくなった。
 だから「私」は、身を引きます。
 岡林というミュージシャンは、デビュー当時から、分かりやすいメロディと歌詞で歌を作るのが実に上手な人でした。団結歌「友よ」などは、その代表例です。
 しんみりとうたわれる「手紙」にも、彼の個性がよく出ていると思います。
 私の意見を言わせてもらえば、こういう歌こそテレビでもラジオでもどんどん紹介するべきだと思うんです。
 「手紙」の歌詞は、部落の女性が差別と直面し身を引いてしまう歌です。確かにこの点については、解放運動を進める側から批判された歌でもありました。私には、歌は歌詞の内容を追うだけでは理解できないという持論がありますが、それよりも先に、歴史的に意義ある歌にちゃんとスポットライトが当たるようにしてから、批判なり評価なりをすべきだと思います。部落の結婚問題にしても未だに解決しておらず、ということは「手紙」の「文面」は今も「生きている」からです。
 これに関連して、私は複数の大手レコード会社の幹部に、どうしてメディアはこういった問題を嫌うのか、尋ねたことがあります。もっと積極的に、例えば過去のメッセージ・ソングをまとめたようなCDを出したらどうですか、とも聞きました。
 あるレコード会社の幹部は、放送禁止とか何とかというのは、まったくナンセンスだとはっきり言っています。
 しかし別の会社の幹部は、「話はよく分かる」がといった言葉が何度か続いて、そのあとがない。日本の文化の一翼をになう音楽ソフト会社の人として、とても残念な姿勢だと私は思いました。

 

 

「竹田の子守歌」は、被差別部落に伝わる「守り子唄」がもとになっています。

赤い鳥の歌で知られているのは、次のような歌詞です。

守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし

盆がきたとて なにうれしかろ
帷子(かたびら)はなし 帯はなし

この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら

はよもいきたや この在所(ざいしょ)越えて
むこうに見えるは 親のうち

これは、1965年ごろ、尾上和彦さん(作曲家)が京都市伏見区竹田地区で採集した民謡を編曲したものです。曲名は「竹田の子守唄」となっていますが、歌詞も旋律も元歌とは違っています。森達也さんの『放送禁止歌』に元の詞が紹介されています。 

この子よう泣く守りをばいじる

守りも一日やせるやら
どしたいこりゃ きこえたか

ねんねしてくれ 背中の上で
守りも楽なし子も楽な
どうしたいこりゃ きこえたか

ねんねしてくれ おやすみなされ
親の御飯がすむまでは
どうしたいこりゃ きこえたか

ないてくれよな 背中の上で
守りがどんなと思われる
どうしたいこりゃ きこえたか

この子ようなく守りしょというたか
泣かぬ子でさえ 守りやいやや
どうしたいこりゃ きこえたか

寺の坊さん 根性が悪い
守り子いなして 門しめる
どうしたいこりゃ きこえたか

守りが憎いとて 破れ傘きせて
かわいがる子に 雨やかかる
どうしたいこりゃ きこえたか

来いよ来いよと こま物売りに
来たら見もする 買いもする
どうしたいこりゃ きこえたか

久世の大根めし 吉祥(きっちょ)の菜めし
またも竹田のもんば飯
どうしたいこりゃ きこえたか

足が冷たい 足袋買うておくれ
お父さん帰ったら買うてはかす
どうしたいこりゃ きこえたか

カラス鳴く声 わしゃ 気にかかる
お父さん病気で寝てござる
どうしたいこりゃ きこえたか

盆が来かて 正月が来たて
難儀な親もちゃうれしない
どうしたいこりゃ きこえたか

見ても見飽きぬ お月とお日と
立てた鏡とわが親と
どうしたいこりゃ きこえたか

早よもいにたい あの在所こえて
向こうに見えるは 親のうち
どしたいこりゃ きこえたか

 

この曲も放送禁止歌でした。

 

私が最初に勤務した小学校の校区にも、「守り子」を唄った曲がありました。歌詞の世界は「竹田」と共通しています。

 

 

さて、法に基づく同和対策事業が終わって間もなく20年。施策は一般事業のなかで引き継がれているのですが…。

「特措法」から50年。「チューリップのアップリケ」「手紙」から50年。

部落問題の今日的課題をどう考えますか?

「自己肯定感」(人権一般の教育)だけで解決できますか?

 

私は今なお「部落問題」固有の教育課題があり、それに資する教育活動が必要だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

音楽で人権教育を考える①

SMAPの「世界に一つだけの花」が流行ったのは2002年のことでした。

翌2003年8月、某所にて人権教育の講演を行ったのですが、その折に「世界に一つだけの花」を聴いてもらいました。

 

音楽を通して「人権教育とは何か」を考える企画です。

 

つぎに示しているのは、講演レジュメの一部です。 

 1.「同和教育」から「人権教育」へ
 (1)「同和教育」ってどんな教育
  ○部落問題の解決をめざす「専門店」として出発。(当然、集団作りを含む)
  ○複数の人権問題を扱う「専門店街」として発展。
 (2)「人権教育」って何
  ○気分は人権教育だが…
  ○体系としての人権教育をめざして(イメージとしては「デパート」)
   ■人権の基礎 □セルフエスティーム   □風船型
                     □いがぐり型
         ※すべての土台として位置づける
          □コミュニケーション能力
                         人間関係づくり
          □アサーティブネスの力
         ※スキルとして身につけさせる
   ■人権学習■普遍的な視点から□基本的人権□権利と責任□偏見etc.
        ■個別的な視点から□部落問題□女性□子ども□高齢者
                 □「障害者」□外国人□HIV感染者等
                 □アイヌの人々□平和□環境

 

 「世界に一つだけの花」は2002年、講演は2003年ですから、まもなく20年になろうとしています。しかしながら、人権教育はそのときと同じ流れにあります。

 

人権教育にとって2002年は大きな節目の年でした。

同和対策特別措置法(1969年)以来の法に基づく特別措置が2001年度末をもって終了しました。その数年前から、「同和教育」を「人権教育」として再編・移行していく準備が進められていました。

2002年は、法効後の人権教育スタートの年だったのです。

 

楽家槇原敬之さんがそんなことを意識していたとは思えませんが、あまりにもいいタイミングで「世界に一つだけの花」の詞を書かれたものです。

SMAPの歌のヒットも「法」とは何の関係もないでしょう。しかし、絶妙のタイミングで流行ったと、私には思えました。

 

世界に一つだけの花(作詞・作曲:槇原敬之 歌:SMAP 2002年)

 

 

そうさ 僕らは
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

 

 

小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
NO.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one

 

なんとも素敵なフレーズです。

この時代を生きていた槇原さんの肌感覚だと思います。

そして、それは同時に、その頃さかんに協調された人権教育の世界観でもありました。

そこではセルフエスティーム(自己肯定感、自尊感情)を育てることの重要性が説かれ、「いいところさがし」などのアクティビティーが盛んにおこなわれていました。

 

人権教育が社会の空気を反映したととらえればそれまでのことです。

 

しかし、「同和教育」が「人権教育」に再編・移行していく過程を立ち会った私は複雑な思いを持っていました。

上のレジュメで、「同和教育」は部落問題の解決をめざす「専門店」として出発し、「部落問題」「在日朝鮮人問題」「障害者問題」「平和」など複数の人権問題を扱う「専門店街」として発展してきたと書きました。そして、「人権教育」に再構築していくイメージを「デパート」になぞらえました。

「デパート」には、「人権の基礎」を扱うフロアと、「普遍的な視点からの人権学習」を扱うフロア、「個別的な視点からの人権学習」を扱うフロアがあります。たとえば「個別的な視点からの人権学習」フロアには、「部落問題」「外国人問題」「障害者問題」「平和」などの「専門店」が入ります。

 

ところが、目の前に現れた「デパート」は、「人権の基礎」フロアが過半を占めていました。セルフエスティームなどはここに位置します。

「人権の基礎」フロアの上には「普遍的」フロアがあり、「個別的」フロアがありました。「個別的」フロアの専有面積は極めて小さく、なかでも「老舗」の「部落問題」についてはかろうじて店舗を構えているといった体でした。少なくとも私の目にはそう映りました。

 ここでは詳細は省きます。「人権教育のカリキュラムを創る①」および同②~⑦までのシリーズをご覧ください。

 

 

世界に一つだけの花」には何の落ち度もありません。

世界に一つだけの花」が拓く人権教育の地平は、「人権の基礎」や「普遍的な視点からの人権学習」を扱うフロアに展開されるものです。

それはとても大事なものなのですが、個別の人権問題はそれだけでは解決しないのです。こんにちの人権教育は、その部分があまりにも手薄に思えてなりません。