教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

難解、文科語。たとえば「生きる力」⑤

「生きる力」の変節の背景

 

1998「生きる力」2008「生きる力」の間に、なにがあったのでしょう。

 

時系列で見ていきます。

 

1999年6月1日、『分数ができない大学生―21世紀の日本が危ない』という本が出版されます。話題になった本です。「生きる力」「ゆとり」教育は、船出前から批判にさらされていました。

 

「確かな学力の向上のための2002アピール-学びのすすめ 」(2002「学びのすすめ」)

2002年1月17日、遠山敦子文部科学大臣が、「確かな学力の向上のための2002アピール-学びのすすめ 」を発表します。

その中で、(1)少人数授業、習熟度別指導等による基礎基本や自ら学び考える力の育成、(2)個性等に応じた発展的学習の推進、(3)総合的学習等による学習意欲の向上、(4)朝読書や補習・家庭学習の充実による学ぶ習慣の育成、(5)学力向上フロンティア事業等による特色ある学校づくりの推進、を柱とする学力向上のための諸施策を示し、教育委員会と学校にそのための諸方策の実施を求めました。

遠山大臣(2001年4月26日、小泉内閣発足時に民間から登用)は元文部官僚ですが、こんな文章を一人で書くはずがありません。間違いなく文科官僚の作文です。

そして2002「学びのすすめ」を主導した文科官僚は、1996中教審答申や1998学習指導要領を主導した文部官僚とは明らかに別「グループ」の人たちです。仮に1998を「ゆとり」グループ、2002を「学力」グループとします。

2002「学びのすすめ」は、学力低下論争、2002年4月からの完全学校五日制と新学習指導要領の実施に対する批判に対応したものです。内容的には「ゆとり教育」との決別です。

「生きる力」「ゆとり」教育(98学習指導要領)は、4月からのスタートを前に、担当大臣からハシゴを外されました。

人間性」を疑いたくなると言いたいところですが、文科省にはもともと「人格」などありません。「匿名」で仕事をし、「省名」で公表します。私は、官僚の主導権争いになど興味のかけらもありませんが、現場はいい迷惑です。現場は、「実名」で子どもと向き合い、個々の子どもの学びに責任を負っているのです。

 

PISAOECD生徒の学習到達度調査)2003年調査」(PISA2003)

2004年12月7日、「PISAOECD生徒の学習到達度調査)2003年調査」(PISA2003)の結果が公表されます。

2000年の調査では、日本は数学1位、科学2位、読解力8位でしたが、2003年には数学が10位、科学が6位、読解力が15位と急落しました。これが「PISAショック」と呼ばれるものです。

これを受けて、文科行政の主導権は完全に「学力」グループが握ります。

 

教育基本法改正

2006年12月15日、 教育基本法が改正されます。(2006年9月26日に第1次安倍内閣が発足)

 

学校教育法改正「学力の3要素」

2007年6月27日、学校教育法が改正されます。

「学力」が法的に定義されました。

「第三十条 ② 前項の場合においては、生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。」

一般に「学力の3要素」(①知識及び技能、②思考力、判断力、表現力等、③主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度)と呼ばれています。

 

2008中教審答申

2008年1月17日、中教審から「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について」答申が出されます。

2008年3月28日、2008学習指導要領が公示されます。

つまり、学習指導要領は中教審答申を受けて編まれたのではなく、答申時にはほぼ完成していたということになりそうです。しかしそこに書かれていることは間違いなく学習指導要領の背景ですので、長くなりますが該当箇所を引用します。

幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について(答申)

 

2.現行学習指導要領の理念


(現行学習指導要領の理念の重要性)


現行学習指導要領は、平成8年7月の中央教育審議会答申(「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」)を踏まえ、変化の激しい社会を担う子どもたちに必要な力は、基礎・基本を確実に身に付け、いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性たくましく生きるための健康や体力などの「生きる力」であるとの理念に立脚している。この「生きる力」は、自己の人格を磨き、豊かな人生を送る上でも不可欠である。

引用を中断します。

平成8年7月の中央教育審議会答申(「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」)の原文はこうです。

「我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。」

基礎・基本を確実に身に付け」の文言は答申にはありません。

1998学習指導要領には、「生きる力をはぐくむことを目指し、…、自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに、基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り個性を生かす教育の充実に努めなければならない。」とあります。

2つをミックスして、恣意的に取り上げる順番を変えています。

 

○ この点について今回改めて検討を行ったが、平成8年の答申以降、1990年代半ばから現在にかけて顕著になった、「知識基盤社会」の時代などと言われる社会の構造的な変化の中で、「生きる力」をはぐくむという理念はますます重要になっていると考えられる。


(「知識基盤社会」の時代と「生きる力」)


○ すなわち、平成17年の中央教育審議会答申(「我が国の高等教育の将来像」)が指摘するとおり、21世紀は、新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増す、いわゆる「知識基盤社会」(knowledge-based society)の時代であると言われている。
「知識基盤社会」の特質としては、例えば、①知識には国境がなく、グローバル化
一層進む、②知識は日進月歩であり、競争と技術革新が絶え間なく生まれる、③知識の進展は旧来のパラダイムの転換を伴うことが多く、幅広い知識と柔軟な思考力に基づく判断が一層重要になる、④性別や年齢を問わず参画することが促進される、などを挙げることができる。


○ このような知識基盤社会化やグローバル化は、アイディアなどの知識そのものや人材をめぐる国際競争を加速させるとともに、異なる文化・文明との共存や国際協力の必要性を増大させている。
「競争」の観点からは、事前規制社会から事後チェック社会への転換が行われており、金融の自由化、労働法制の弾力化など社会経済の各分野での規制緩和や司法制度改革などの制度改革が進んでいる。このような社会において、自己責任を果たし、他者と切磋琢磨しつつ一定の役割を果たすためには、基礎的・基本的な知識・技能の習得やそれらを活用して課題を見いだし、解決するための思考力・判断力・表現力等が必要である。
しかも、知識・技能は、陳腐化しないよう常に更新する必要がある。生涯にわたって学ぶことが求められており、学校教育はそのための重要な基盤である。
他方、同時に、「共存・協力」も必要である。国や社会の間を情報や人材が行き交い、相互に密接・複雑に関連する中で、世界や我が国社会が持続可能な発展を遂げるためには、環境問題や少子・高齢化といった課題に協力しながら積極的に対応することが求められる。このような社会では、自己との対話を重ねつつ、他者や社会、自然や環境と共に生きる、積極的な「開かれた個」であることが求められる。
また、グローバル化の中で、自分とは異なる文化や歴史に立脚する人々と共存してい
くためには、自らの国や地域の伝統や文化についての理解を深め、尊重する態度を身に付けることが重要になっている。


○ もちろん、知識基盤社会化やグローバル化の時代だからこそ、身近な地域社会の課題の解決にその一員として主体的に参画し、地域社会の発展に貢献しようとする意識や態度をはぐくむこともますます必要となっている。


○ このように個人は他者や社会などとのかかわりの中で生きるものであるが、一人一人の個人には興味や関心、持ち味に違いがある。さらに、変化の激しい社会の中では、困難に直面することも少なくないことや高齢化社会での長い生涯を見通した時、他者や社会の中で切磋琢磨しつつも、他方で、読書などを通して自己と対話しながら、自分自身を深めることも大切である。


○ これまで述べてきたとおり、社会の構造的な変化の中で大人自身が変化に対応する能力を求められている。そのことを前提に、次代を担う子どもたちに必要な力を一言で示すとすれば、まさに平成8年(1996年)の中央教育審議会答申で提唱された「生きる力」にほかならない。


○ このような認識は、国際的にも共有されている。経済協力開発機構OECD)は、1997年から2003年にかけて、多くの国々の認知科学や評価の専門家、教育関係者などの協力を得て、「知識基盤社会」の時代を担う子どもたちに必要な能力を、「主要能力(キーコンピテンシー)」として定義付け、国際的に比較する調査を開始している。このような動きを受け、各国においては、学校の教育課程の国際的な通用性がこれまで以上に強く意識されるようになっているが、「生きる力」は、その内容のみならず、社会において子どもたちに必要となる力をまず明確にし、そこから教育の在り方を改善するという考え方において、この主要能力(キーコンピテンシー)という考え方を先取りしていたと言ってもよい。
また、内閣府人間力戦略研究会の「人間力戦略研究会報告書」(平成15年4月)を
もとにした「人間力」という考え方なども同様である。


(改正教育基本法等と「生きる力」)


○ 平成18年12月に約60年ぶりに改正された教育基本法において新たに教育の目標等が規定された。同法第2条は、知・徳・体の調和のとれた発達(第1号)を基本としつつ、個人の自立(第2号)、他者や社会との関係(第3号)、自然や環境との関係(第4号)、日本の伝統や文化を基盤として国際社会を生きる日本人(第5号)、という観点から具体的な教育の目標を定めた。


○ また、平成19年6月に公布された学校教育法の一部改正により、教育基本法の改正を踏まえて、義務教育の目標が具体的に示されるとともに、小・中・高等学校等においては、「生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない」と定められた(第30条第2項、第49条、第62条等)。


○ これらの規定は、その定義が常に議論されてきた学力の重要な要素は、
① 基礎的・基本的な知識・技能の習得
② 知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等
③ 学習意欲
であることを明確に示すものである。


○ このように、改正教育基本法及び学校教育法の一部改正によって明確に示された教育の基本理念は、現行学習指導要領が重視している「生きる力」の育成にほかならない。

再び引用を中断します。

1998学習指導要領(上記引用中の現行学習指導要領)には、「生きる力をはぐくむことを目指し、…、自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに、基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り個性を生かす教育の充実に努めなければならない。」とあります。

これと「学力の3要素」が同じだというのですが、明らかな言い換えです。

知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等」と「自ら学び自ら考える力」は、課題設定の立ち位置も意味内容も違います。

 

5.学習指導要領改訂の基本的な考え方


(1) 改正教育基本法等を踏まえた学習指導要領改訂


○ 次に、改正教育基本法や学校教育法の一部改正は、「生きる力」を支える「確かな学力」、「豊かな心」、「健やかな体」の調和を重視するとともに、学力の重要な要素は、①基礎的・基本的な知識・技能の習得、②知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等、③学習意欲、であることを示した。そこで示された教育の基本理念は、現行学習指導要領が重視している「生きる力」の育成にほかならない。

またしても引用を中断します。

「生きる力」=「確かな学力」、「豊かな心」、「健やかな体」ですか。

1998中教審答申は、「生きる力」=「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」、「豊かな人間性」、「健康や体力」です。

1998学習指導要領は、「生きる力」=「自ら学び自ら考える力」、「基礎的・基本的な内容の確実な定着」、「個性を生かす教育の充実」です。

改正教育基本法や学校教育法の一部改正で示された教育の基本理念は、現行学習指導要領が重視している「生きる力」の育成にほかならない。」などと、どんな日本語の読解力があれば言えるのでしょう。1998「生きる力」のキモ部分(「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」=「自ら学び自ら考える力)を削除して引用し、同じだと断言する。恐るべき言語能力です。

 

○ このため、今回の学習指導要領改訂では、改正教育基本法等で示された教育の基本理念を踏まえるとともに、現在の子どもたちの課題への対応の視点から、
① 「生きる力」という理念の共有
② 基礎的・基本的な知識・技能の習得
③ 思考力・判断力・表現力等の育成
④ 確かな学力を確立するために必要な授業時数の確保
⑤ 学習意欲の向上や学習習慣の確立
⑥ 豊かな心や健やかな体の育成のための指導の充実
がポイントであり、その中でも、特に、②を基盤とした③、⑤及び⑥が重要と考えた。


(2) 「生きる力」という理念の共有


○ どんな組織でも構成するメンバーで理念や目標が共有されていなければ、それを実
現・達成することはできない。4.(2)の第一にあるとおり、何よりも教師や保護者を含む大人自身が「知識基盤社会」の時代の中にあって変化への対応を日々求められていることを前提に、子どもたちの「生きる力」をはぐくむことの必要性や「生きる力」の内容を教育関係者や保護者、社会が自ら考え、理解の上共有することは、今回の学習指導要領改訂に際してまず行わなければならないことである。


○ 「生きる力」という目標を関係者で共有するに当たっては、特に、次の3点を重視したい。
第一は、変化が激しく、新しい未知の課題に試行錯誤しながらも対応することが求め
られる複雑で難しい時代を担う子どもたちにとって、将来の職業や生活を見通して、社会において自立的に生きるために必要とされる力が「生きる力」であるということである。これからの学校は、進学や就職について子どもたちの希望を成就させるだけではその責任を果たしたことにはならない。
第二は、このような変化の激しい社会で自立的に生きる上で重要な能力であるものの、我が国の子どもたちにとって課題となっている思考力・判断力・表現力等をはぐくむためには、各教科において、基礎的・基本的な知識・技能をしっかりと習得させるとともに観察・実験やレポートの作成、論述といった知識・技能を活用する学習活動を行う必要があることである。
したがって、特に、教科担任制の中・高等学校の教師には、レポートの作成・推敲や
論述といった学習活動を行うのはすべてが国語科の役割だと考えるのではなく、必要に応じ国語科の教師と連携して、これらの学習活動を自らが担当する教科において行うことを求めたい。このような活動を行うことは、学校の教育活動全体で子どもたちの思考力・判断力・表現力等をはぐくむとともに、その教科の知識・技能の確実な定着にも結び付くものである。
第三は、自分に自信がもてず、自らの将来や人間関係に不安を抱えているといった子
どもたちの現状を踏まえると、コミュニケーションや感性・情緒、知的活動の基盤である国語をはじめとした言語の能力の重視や体験活動の充実を図ることにより、子どもたちに、他者、社会、自然・環境とのかかわりの中で、これらと共に生きる自分への自信をもたせる必要があることである*1。

*1 教育課程部会では、このような観点から、「生きる力」をはぐくむに当たって重要な要素の例として次の内容を整理した。
・ 自己に関すること (例) 自己理解(自尊・自己肯定)・自己責任(自律・自制)、健康増進、意思決定、将来設計
・ 自己と他者との関係(例) 協調性・責任感、感性・表現、人間関係形成
・ 自己と自然などとの関係 (例) 生命尊重、自然・環境理解
・ 個人と社会との関係 (例) 責任・権利・勤労、社会・文化理解、言語・情報活用、知識・技術活用、課題発見・解決

文部科学省教育委員会等が学習指導要領の具体的な規定や学習指導要領改訂の趣旨や内容についての教育関係者等への説明に当たっては、このような「生きる力」という理念の共有を最も重視する必要がある。
また、教育関係者だけではなく、保護者をはじめ広く国民に学校教育の目指している
方向性への理解を求めることも極めて重要であり、積極的な情報発信が必要である。


(3) 基礎的・基本的な知識・技能の習得


○ 4.(2)の第二にあるとおり、「自ら学び自ら考える力の育成」といった「生きる力」の理念は、基礎的・基本的な知識・技能の習得を重視した上で、思考力・判断力・表現力等をはぐくむことを目標としている

 


(5) 確かな学力を確立するために必要な授業時数の確保


○ 4.(2)の第四にあるとおり、現行学習指導要領は、自ら学び自ら考える力の育成の観点から、総合的な学習の時間の創設や中学校における選択教科の授業時数を充実し、必修教科の授業時数を削減した。
しかし、子どもたちの思考力・判断力・表現力等をはぐくむため、教科において、基礎的・基本的な知識・技能の習得とともに、観察・実験やレポートの作成、論述といった知識・技能を活用する学習活動を行うためには、現在の小・中学校の必修教科の授業時数は十分ではない。


○ このため、各教科において、基礎的・基本的な知識・技能の習得とともに、それぞれの教科の知識・技能を活用する学習活動を充実することができるよう、特定の必修教科の授業時数を確保することが必要である。授業時数の確保に当たっては、これらの学習活動を各教科で行うことを前提に、教科等を横断した課題解決的な学習や探究活動を行うという総合的な学習の時間と各教科との円滑な接続を図る観点から、総合的な学習の時間や中学校の選択教科の授業時数の在り方を見直す必要がある。また、学校の実態等を踏まえ年間授業時数を増加する必要がある。

 

とにもかくにも、「確かな学力」(基礎的・基本的な知識・技能の習得、思考力・判断力・表現力) が大事だという結論ありきです。

「自ら学び自ら考える力の育成」といった「生きる力」の理念は、基礎的・基本的な知識・技能の習得を重視した上で、思考力・判断力・表現力等をはぐくむことを目標としている

1998中教審答申では、「生きる力」という理念を構成する資質・能力の1つが「自ら学び自ら考える力」でした。いつの間にか、「自ら学び自ら考える力」は「『生きる力』の理念」になってしまっています。

理念をめざす具体的目標が、「基礎的・基本的な知識・技能の習得を重視した上で、思考力・判断力・表現力等をはぐくむこと」だというわけです。唖然とします。

それはまるで、都合の悪い社長を権限を持たない名誉職に祭り上げる人事のようです。

 

文科省用語辞典」を作るとします。

「生きる力」の項です。

2つの案が浮かびます。

(1案)

「生きる力」①1998「生きる力」の説明②2008「生きる力」の説明

(2案)

「1998生きる力」対義語「2008生きる力」

さて、どうしたものでしょうか。

 

私は、教育のあり方が時代とともに変化することを否定するものではありません。

初出である「1998生きる力」を、金科玉条のごとく扱えと言っているのでもありません。

基礎的・基本的な知識・技能の習得を重視した上で、思考力・判断力・表現力等をはぐくむこと」に反対しているわけでもありません。

しかし、「」を「=」として構築される教育には賛同できません。

難解文科省用語「生きる力」のかげで、現場は脱力感に陥り、失望し、疲弊していっているのです。

 

2017年3月31日、次なる小学校学習指導要領(2021年時点における現行学習指導要領)が告示されます。

 

 

 

難解、文科語。たとえば「生きる力」④

「生きる力」の変節

 

2008年3月28日、小学校学習指導要領が改訂・告示されます(以下、「2008年学習指導要領」)。

2008年学習指導要領には、「生きる力」という特別な名称が付されています。

 

小学校学習指導要領(平成20年3月)

第1章 総則
第1 教育課程編成の一般方針
 各学校においては,教育基本法及び学校教育法その他の法令並びにこの章以下に示すところに従い,児童の人間として調和のとれた育成を目指し,地域や学校の実態及び児童の心身の発達の段階や特性を十分考慮して,適切な教育課程を編成するものとし,これらに掲げる目標を達成するよう教育を行うものとする。
 学校の教育活動を進めるに当たっては,各学校において,児童に生きる力をはぐくむことを目指し,創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開する中で,基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力をはぐくむとともに,主体的に学習に取り組む態度を養い,個性を生かす教育の充実に努めなければならない。

 

1998年学習指導要領と2008年学習指導要領は、「児童に生きる力をはぐくむことを目指」すという点で完全に一致しています。

それは当然のことです。「1996中教審答申」は、「生きる力」は教育の「不易」の部分だと論じたのです。「不易」がコロコロ変わるようでは、文科教育行政の信頼が揺らぎます。

 

ところが、「生きる力」を構成する中身が異なるのです。

 

1998「生きる力」

自ら学び自ら考える力の育成

基礎的・基本的な内容の確実な定着

個性を生かす教育の充実

 

2008「生きる力」

基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得

思考力,判断力,表現力その他の能力

主体的に学習に取り組む態度

個性を生かす教育の充実

 

記述の序列、つまり優先順位が変わりました。

さらに、「自ら学び自ら考える力の育成」と「主体的に学習に取り組む態度」は同系色で関係づけていますが、ほとんど別物です。

 

1998「生きる力」の中核は「自ら学び自ら考える力の育成」であり、その具体的育成フィールドが「総合的な学習の時間」でした。「生きる力」を育むには「ゆとり」が必要だと説きました。

2008「生きる力」の中核は「基礎的・基本的な知識及び技能」「思考力,判断力,表現力その他の能力」=「学力」です。

そのために学習時間が増加されました。脱「ゆとり」です。

○国語・社会・算数・理科・体育の授業時数を10%程度増加
○週当たりのコマ数を低学年で週2コマ、中・高学年で週1コマ増加

その一方で、総合的な学習の時間の授業時数は削減されました。

 

2008「生きる力」は、1998「生きる力」誕生の経緯や背景を捨て去り、看板だけを残して別物になったのです。方向としては、「生きる力」誕生前に逆進です。

 

これが、「不易」の教育の実態です。不連続な断層を持つ連続性……学校現場の混乱や苦悩や多忙の大きな原因がここにあります。

 

1998「生きる力」2008「生きる力」の間に、なにがあったのでしょう。

難解、文科語。たとえば「生きる力」③

さらに深掘り、「生きる力」誕生の背景の背景

 

中央教育審議会中教審)というのは、文部科学大臣の諮問機関です。

まず、文科大臣が審議会に対してあるテーマについて諮問します。

諮問の趣旨説明を大臣が行い、文部科学省の官僚が補足説明をします。以後、文科官僚が事務局を担い、会議案件や大部分の討議資料(委員から資料が提出されることもあります)を用意します。

審議会の委員は、文科省が選任します。つまり、委員の人選は、諮問する側に一任されています。そこに恣意的なものがあっても、何ら不思議ではありません。

審議会委員は、官僚が用意した骨組みにほぼ沿った形で肉付けする役割を果たします。いわゆるちゃぶ台をひっくり返す事態は、通常はありません。

審議内容は官僚がまとめ、答申の原案を作成します。

最後に委員が答申案について審議し、正式な答申となります。

 

つまり、「生きる力」という言葉そのものをどの段階で意識したかはともかく、「生きる力」(自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる)が示している方向性は、文部官僚が諮問時に想定していただろうと思われます。

 

与謝野馨文部大臣が中教審に「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」諮問したのは、1995年4月26日です。

諮問文には、「国際化,情報化,科学技術の発展,高齢化,少子化や経済構造の変化」「受験競争の過熱化,いじめや登校拒否の問題」などのキーワードが散りばめられています。

 

現在、この時期の議事録が公開されていません。三重大学の佐藤年明氏が書かれた「『生きる力』論批判ノート」をもとに、審議過程を追ってみたいと思います。

 

1995年9月8日、第 15期中央教育審議会の第1回第1小委員会が開催され、座長選出のあと自由討議が行われています。

末吉裕郎専門委員(社団法人全国子ども会連合会相談役)から「生きる力と知恵」についての提案が出されており、これが第 1小委員会、総会を通じて最初の「生きる力」という語の登場であった。これは小委員会冒頭の有馬朗人会長による小委員会の設置趣旨説明と、辻村文部省総務審議官による配付資料(「総会におけるこれまでの主な意見」を含む)の紹介があった後で、初参加の専門委員 8名が広く今後の教育の在り方について順次意見を述べるという場面で出された個人意見である。議事録には文部省側から提出された資料は(会議での読み上げを除いて)掲載されていないが、末吉の提案からは、それが文部省やそれ以前の審議会総会での議論を受けてのものであるというということは読み取れず、単独の個人意見であったと思われる

                    佐藤年明「『生きる力』論批判ノート」

 

末吉氏には『学習と遊びの中の基礎体力づくり』という著書があり、全国子ども会連合会の事務局長、常務理事、相談役を歴任した人です。発言の「生きる力と知恵」の具体的内容は分かりませんが、活動領域から考えると「自分の持てる力を動員してなんとかする知恵とワザ」といった類いのものではないでしょうか。

ただそれは、「文部省やそれ以前の審議会総会での議論を受けてのものであるというということは読み取れず、単独の個人意見であったと思われる」と、佐藤氏は指摘しています。

 

1995年9月26日、第2回第1小委員会では「今後における教育の在り方及び学校・家庭・地域社会の役割と連携の在り方」について自由討議が行われました。

冒頭に辻村総務審議官がこのテーマに関してそれまでに総会で出された意見を整理して報告したが、その中に「変化の激しい社会の中での「生き方」の指導の重要性」があった。これについて、蓮見音彦委員(東京学芸大学長)から賛同意見が出された。
河野重男座長(東京家政学院大学長)は、「生きる力と知恵」の議論と「生き方」の議論を結びつけながら、最近の学校関係の研究テーマとして「生きる力」が増えてきたと指摘して「生きる力」をクローズアップした。

 

1995年11月6日、第5回第1小委員会。

「これからの学校教育といじめ・登校拒否、心と体の健康の問題」に関するヒアリングを受けての討議の中で、薩日内信一専門委員(東京都渋谷区立大向小学校長)が、子どもが学校生活の行き詰まりを打開、克服できるような「生きる力」をつけなければならないと述べた。

 

1995年12月19日、第8回第1小委員会。

事務局が「これまでの主な意見(総会、第 2小委員会、一日中教審、学校現場視察での意見を含む)と主な論点」を提案した。その中の「1 今後の教育の在り方 (基本的方向)」全 20項目中 14番目に、「これからの社会は、変化の激しい社会であり、変化の激しい社会を生き抜く生きる力が必要」と記載された。審議会総会・委員会内での文部省側からの配付資料に「生きる力」という語が記載されたことを確認できるのはこれが最初である
議論の中では薩日内専門委員が、「どうしてもこれから社会に主体的あるいは創造的に生きていく子供たちが持つべきカ、生きる力、そういったものが基礎・基本になるのではないか」と述べている。これは第 15期中央教育審議会の議論以前に「生きる力」の語を用いた最初の公的政策文書と思われる『小学校教育課程一般指導資料 新しい学力観に立つ教育課程の創造と展開』(1993年)の論調と類似している。つまり、学力の「基礎・基本」として「生きる力」を位置づけているのである。

 

1996年1月31日、第10回第1小委員会。
事務局から、第一委員会の報告書である「今後の教育の在り方及び学校・家庭・地域社会の役割と連携の在り方について」の「まとめ構成案」と「まとめ骨子案」が提案された。「まとめ骨子案」では、副題(子供に〔生きる力〕と〔ゆとり〕を)に始まり、「1.今後の教育の在り方」に 3箇所、「2.これからの学校の在り方」に 2箇所、「生きる力」の語が登場する。
河野座長も述べるように、「生きる力」は、報告案の「全体を貫くキャッチフレーズ」としての位置を占めるに到った

 

ただ、この時点では「生きる力」の内容が共有されていません。

その後の議論においても捉え方は委員によりさまざまで、反対意見も絶えませんでした。(第16回第1小委員会までの詳細は割愛します)

 

1996年5月24日に第192回中教審総会が開かれます。

河野第 1小委員会座長による第 1小委員会の審議状況報告の中で、「『審議のまとめ』の総会への報告の骨子」が読み上げられた。
河野は「生きる力」に「二つの大きな視点」があるとする。「第 1には、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する能力」であり、これは「いわば、これは新しい知的な力」である。第 2は、「自らを律しつつ、他人と協調し、他人を尽いやる心や、正義感や公正さ、さらに感動する心など、またボランティア精神といった社会貢献の心、そういった豊かな人間性とたくましく生きるための健康や体力」である。この「生きる力」の二側面的構成は、1996中教審答申の最終文面では必ずしも明確ではない。

 

ここにおいて、「生きる力」とは「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する能力」であるというフレーズが登場します。

しかし、なぜそうなったのかということは、佐藤氏の詳細な検証を見ても分からず終いでした。結局は、文部官僚が作文したということなのでしょう。

 

 

私が注目しているのは、経済界の動きです。

 

1995年5月、日経連(日本経営者団体連盟)が「新時代の『日本的経営』」を発表します。

そこには、製造拠点は人件費の安い海外へ移し、国内に残った仕事は3つの階層に分けると書かれています。

(1) 長期能力蓄積型 → エリート社員 

(2 )高度専門能力活用型  →  専門能力のあるスペシャリスト

(3) 雇用柔軟型  →  非正規雇用

つまり、いわゆる終身雇用慣行、年功賃金制度という日本的経営の終焉です。

 

「新時代の『日本的経営』」を発表されたのは、与謝野馨文部大臣が中教審に「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」諮問(1995年4月26日)した直後のことでした。

 

さらに日経連は1996年3月26日、「創造的な人材の育成に向けて」と題する教育改革提言を発表します。これは、「新時代の『日本的経営』」と対をなすものです。

その時期は、中教審第1小委員会で「生きる力」が議論され、文部官僚がまとめ文案を書いていたタイミングです。

 

創造的な人材の育成に向けて
~求められる教育改革と企業の行動~

創造的な人材育成のための『5つの提言、7つのアクション』

 

2.創造的な人材の要件と望ましい人材育成システムの基本的方向

  1. 創造的な人材の要件

今後のわが国社会において求められる、創造的な人材とは、自己の責任の下に、主体的に行動する人材であり、こうした人々の能力を最大限伸ばすことができるような環境を整えていくことが求められる。さらに、独創性を持つ人材をいかに見いだし育成していくかも重要である。

  • 主体性

創造性の根本は、個人の主体性にある。これは、他者の定めた基準に頼らず、自分自身の目標・意思に基づいて、進むべき道を自ら選択して行動することである。

いろいろな問題への対応に際しても、知識として与えられた解決策を機械的に適用するのでなく、既存の知識にとらわれない自由な発想により自力で解決する能力が求められる。

  • 自己責任の観念

その一方、個人の自由で主体的な選択が、野放図とならずに、社会的意義、価値を持つものとするためには、個人一人ひとりが選択に伴う責任を引き受けることが必要である。選択とは、もう一つのものを捨て去ることであり、自己責任とはいくつかの選択肢の中から自分の判断で選びとることである。
個人が主体性と自己責任を確立することは、他者の主体性を尊重する社会性の涵養や、社会規範・倫理に関する意識を高めることにもつながる。

  • 独創性

それぞれの人材が持っている創造性を引き出すことに併せて、科学・技術や、芸術・文化などさまざまな分野で世界をリードできる高い独創性をもった人材を発掘、育成していくことも重要である。
各界で真に独創的で卓越した人材たりうるか否かは、潜在的な素質や才能に左右される面も大きいものと考えられる。そこで、このようなとくに優れた素質や才能を持った人材を早期に見出し、これを集中的に育成していくことも、今後の課題として求められる。

 

3.教育界などへの期待~教育改革の推進


創造的な人材育成のため、教育界・行政・家庭においては、

  • 教育機関の多様化、オープン化による多様な選択機会の確立、
  • 大学入試の改革、
  • 大学教育の充実、
  • 思考力と体験を重視した学校教育の推進
  • ゆとりある教育環境の実現
  • 優れた素質・才能を伸ばすための教育の試み、
  • 家庭の教育力の回復、
  • 子供に社会体験をさせる地域教育

 など、一層の改革に取り組むことを期待したい。


 

 

 

1.思考力と体験を重視した学校教育の推進

 

 1.考える力の涵養


自分で目標・課題を設定し、主体的に行動することのできる人間を育てていくために、初等・中等教育では、思考力と体験を重視した授業を行う必要がある。

•子供が自らの人格を形成し、主体的に人生を生きていくために必要となる知識や知恵、すなわち基礎・基本の教育を徹底するとともに、自ら考え、かつ、それを発表できる力を養う。


2.そのために、子供に一方向的に知識を与えるだけではなく、討論や、自由研究、フィールドワークなど、思考力と体験を重視した授業を取り入れる。
とくに、与えられた問題に対する解答を絶対のものと決めつけず、物事には多様な解答方法があることを教える。


3.身近な生活体験や活動を通して、社会や経済の仕組みを教え、子供に職業観を育てる。生きた経済社会の実情や仕組みを正しく理解させ、適正な職業観を育てるには、初等・中等教育など、人生の早い段階から取り組むことが望ましい。

 

※「創造的な人材の育成に向けて」の詳細は、「アクティブ・ラーニングに至る道③ 生きる力・総合学習」(2020.3.25)を参照ください。

 

 

 

1995年12月12日に第189回中教審総会が開催され、「今後の教育の在り方等について」ヒアリング及び討議が行われました。

ヒヤリングは11団体から行われ、日経連(日本経営者団体連盟)もその1つです。

この時に日経連が提出した文書の内容は不明ですが、「今後の教育の在り方等について」と「一次答申」の見事なまでの理念・文言の一致に、関係性を求めるのは自然なことだと思います。

さらに、非公式な調整ともなれば、知るよしもありません。

 

検証できていないことゆえ断定はしません。

しかし、

「生きる力」の背景に、経済界が求める新時代の「日本的経営」を実現するための「創造的な人材育成」プランがあったと考えられます。

少なくとも私自身は、創造的な人材育成のための『5つの提言、7つのアクション』」に掲げられた他の項目から類推して、そう確信しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

難解、文科語。たとえば「生きる力」②

「生きる力」の誕生

 

文部省用語として「生きる力」という言葉が登場するのは、1998年12月14日に告示された「学習指導要領」です。

※文部省が文部科学省になるのは2001年1月6日。

 

小学校学習指導要領(平成10年12月)

第1章 総則
第1 教育課程編成の一般方針
1 各学校においては、法令及びこの章以下に示すところに従い、児童の人間として調和のとれた育成を目指し、地域や学校の実態及び児童の心身の発達段階や特性を十分考慮して、適切な教育課程を編成するものとする。
 学校の教育活動を進めるに当たっては、各学校において、児童に生きる力をはぐくむことを目指し、創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で、自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに、基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り個性を生かす教育の充実に努めなければならない。

 

前の稿の「抽象語」「具体語」ということで言えば、「生きる力」は典型的な「抽象語」です。字義の解釈となれば十人十色、何でもありの世界になりそうです。

教育の方針とするには、「生きる力」をはぐくむとはどうすることかを定義することが必要です。

それが、「自ら学び自ら考える力の育成」「基礎的・基本的な内容の確実な定着」「個性を生かす教育の充実」という部分になります。抽象的な表現ながらも、これらが「生きる力」を構成する具体です。

 

1998年学習指導要領における「生きる力」(以下、1998「生きる力」)が最も注力したのが、「自ら学び自ら考える力の育成」です。

その具体的な育成フィールドとして創設されたのが、「総合的な学習の時間」です。「総合」のねらいの1つ目には、「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること」と書かれています。

 

ここまでの整理をします。

1998「生きる力」は、「自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに、基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り個性を生かす教育の充実に努め」てはぐくむことを目指しました。

自ら学び自ら考える力の育成」はその中核を為し、その育成フィールドとして「総合的な学習の時間」が創設されました。

 

 

「生きる力」誕生の背景

抽象語を理解するには、そのもののトリセツ(今の場合は1998年学習指導要領)を読むだけでなく、その言葉が誕生した背景を読むことが必要です。

1998「生きる力」の場合は、中央教育審議会答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第一次答申)」(平成8年7月19日、以下「1996中教審答申」)がそれです。

 

「1996中教審答申」は、目次ページの冒頭に「-子供に[生きる力]と[ゆとり]を-」と記されており、「21世紀を展望した我が国の教育の在り方」は「生きる力]と[ゆとり]」であると表明しています。

 

そして、「生きる力」について、次のように述べています。

「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第一次答申)」

 

我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと(引用者注:この段落の前に教育の「不易」と「流行」について触れたくだりがあります。文脈からすると、以下に述べることは「不易」にあたるということです)、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。


[生きる力]は、全人的な力であり、幅広く様々な観点から敷衍することができる。
まず、[生きる力]は、これからの変化の激しい社会において、いかなる場面でも他人と協調しつつ自律的に社会生活を送っていくために必要となる、人間としての実践的な力である。それは、紙の上だけの知識でなく、生きていくための「知恵」とも言うべきものであり、我々の文化や社会についての知識を基礎にしつつ、社会生活において実際に生かされるものでなければならない。


[生きる力]は、単に過去の知識を記憶しているということではなく、初めて遭遇するような場面でも、自分で課題を見つけ、自ら考え、自ら問題を解決していく資質や能力である。これからの情報化の進展に伴ってますます必要になる、あふれる情報の中から、自分に本当に必要な情報を選択し、主体的に自らの考えを築き上げていく力などは、この[生きる力]の重要な要素である。


また、[生きる力]は、理性的な判断力や合理的な精神だけでなく、美しいものや自然に感動する心といった柔らかな感性を含むものである。さらに、よい行いに感銘し、間違った行いを憎むといった正義感や公正さを重んじる心、生命を大切にし、人権を尊重する心などの基本的な倫理観や、他人を思いやる心や優しさ、相手の立場になって考えたり、共感することのできる温かい心、ボランティアなど社会貢献の精神も、[生きる力]を形作る大切な柱である。


そして、健康や体力は、こうした資質や能力などを支える基盤として不可欠である。
このような[生きる力]を育てていくことが、これからの教育の在り方の基本的な方向とならなければならない。[生きる力]をはぐくむということは、社会の変化に適切に対応することが求められるとともに、自己実現のための学習ニーズが増大していく、いわゆる生涯学習社会において、特に重要な課題であるということができよう。
また、教育は、子供たちの「自分さがしの旅」を扶ける営みとも言える。教育において一人一人の個性をかけがえのないものとして尊重し、その伸長を図ることの重要性はこれまでも強調されてきたことであるが、今後、[生きる力]をはぐくんでいくためにも、こうした個性尊重の考え方は、一層推し進めていかなければならない。そして、その子ならではの個性的な資質を見いだし、創造性等を積極的に伸ばしていく必要がある。こうした個性尊重の考え方に内在する自立心、自己抑制力、自己責任や自助の精神、さらには、他者との共生、異質なものへの寛容、社会との調和といった理念は、一層重視されなければならない。


今後、国際化がますます進展し、国際的な相互依存関係が一層深まっていく中で、子供たちにしっかりと[生きる力]をはぐくむためには、世界から信頼される、「国際社会に生きる日本人」を育てるということや、過去から連綿として受け継がれてきた我が国の文化や伝統を尊重する態度を育成していくことが、これまでにも増して重要になってくると考えられる。


我々は、[生きる力]をこのようなものとして考えたところである。そして、[生きる力]をはぐくむに当たっては、特に次のような視点が重要と考える。 

 

(a) 学校・家庭・地域社会の連携と家庭や地域社会における教育の充実

(b) 子供たちの生活体験・自然体験等の機会の増加

(c) 生きる力の育成を重視した学校教育の展開

(d) 子供と社会全体の[ゆとり]の確保

……、我々は、[生きる力]をはぐくんでいくために、これらに共通のものとして、子供たちにも、学校にも、家庭や地域社会を含めた社会全体にも[ゆとり]が重要であると考える。今、子供たちは多忙な生活を送っている。そうした中で[生きる力]を培うことは困難である。子供たちに[ゆとり]を持たせることによって、はじめて子供たちは、自分を見つめ、自分で考え、また、家庭や地域社会で様々な生活体験や社会体験を豊富に積み重ねることが可能となるのである。そのためには、子供たちに家庭や地域社会で過ごす時間、すなわち、子供たちが主体的、自発的に使える時間をできるだけ多く確保することが必要である。そうした[ゆとり]の中で子供たちは、心の[ゆとり]を持つことができるようになるのである。


また、子供たちに[生きる力]をはぐくんでいくためには、子供たちに[ゆとり]を持たせるだけでなく、社会全体が時間的にも精神的にも[ゆとり]を持つことが必要である。社会全体が[ゆとり]を持つことにより、はじめて、学校でも家庭や地域社会でも、教員や親や地域の大人たちが[ゆとり]を持って子供たちと過ごし、子供たちの成長を見守り、子供たち一人一人と接することが可能となる。こうした社会全体の[ゆとり]の中で、子供たちに[生きる力]をはぐくんでいくことができるのである。


ここで[ゆとり]と言うとき、もちろん時間的な[ゆとり]を確保することも重要であるが、心の[ゆとり]や考える[ゆとり]を確保することがさらに重要である。こうした心の[ゆとり]を社会全体が持つためには、実は我が国社会全体の意識を改革していくということが必要となってくる。なぜなら、我々が心の[ゆとり]を持つことを妨げているものとして、例えば、他人がしているから自分もするといった横並び的な意識があったり、高等学校や大学で学ぶのは、ある一定の年齢層でなければならないというような過度に年齢を意識した「年齢主義」的な価値観があるのではなかろうか。こうした意味で、我々は、自分の生き方を自ら主体的に決めていくという価値観に立って、真の意味で個を確立していくことが必要だと考えるのである。

 

こうした方向性が出てくる背景には、中教審の現状認識があります。

現状認識は「答申」の冒頭で、「子供たちの生活と家庭や地域社会の現状」として述べています。

その中で「子供たちの生活の現状」として、「ゆとりのない生活」を第一に取り上げ、倫理観の欠如や自立の遅れを指摘し、いじめや不登校の問題を憂慮しています。

 

そうした現状認識のもとで、「生きる力」が生まれたのです。

 

「1996中教審答申」を整理します。

1996中教審生きる力は、次の3つの柱で構成され、それは教育の「不易」に属するものである。

自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力

豊かな人間性

たくましく生きるための健康や体力

[生きる力]をはぐくんでいくために、子供たちにも、学校にも[ゆとり]が重要である。子供たちに[ゆとり]を持たせることによって、はじめて子供たちは、自分を見つめ、自分で考えることが可能となるのである。

 

つまり、[生きる力][ゆとり]は不即不離、一体のものです。

 

 

1996中教審生きる力の「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」は、1998年学習指導要領の「生きる力」で「自ら学び自ら考える力の育成を図る」という文言で生かされました。

そして、具体的な育成フィールドとして創設された「総合的な学習の時間」では、「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること」と、1996中教審生きる力の「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」がそのまま取り入れられました。

 

 

「生きる力」誕生と背景のまとめ

 

・「生きる力」は、ゆとりのない生活、倫理観の欠如や自立の遅れ、いじめや不登校の問題を背景として生まれました。

 

・1996中教審[生きる力]は、「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」「豊かな人間性」「たくましく生きるための健康や体力」の3つの柱で構成されます。

 

[生きる力]をはぐくんでいくためには[ゆとり]が重要です。

 

・「生きる力」をはぐくむ具体的なフィールドとして「総合的な学習の時間」が新設されました。

 

難解、文科語。たとえば「生きる力」①

そもそも難解な「文科省用語」

 

「目標を実現するにふさわしい探究課題については,学校の実態に応じて,例えば,国際理解,情報,環境,福祉・健康などの現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題,地域の人々の暮らし,伝統と文化など地域や学校の特色に応じた課題,児童の興味・関心に基づく課題などを踏まえて設定すること。」

 

上の文は、現行学習指導要領において、総合的な学習の時間の課題内容を示した文です。

 

精査します。

 

探究課題については……を踏まえて設定すること」が、この文の骨組み(主述にあたる部分)です。

……」部分に踏まえるべき内容が書かれています。「現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題」「地域や学校の特色に応じた課題」「児童の興味・関心に基づく課題」の3つです。

 

整理すると、「探究課題については現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題地域や学校の特色に応じた課題児童の興味・関心に基づく課題を踏まえて設定すること。」となります。

 

現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題」とは何かというと、「例えば,国際理解,情報,環境,福祉・健康など」という直前の修飾部が具体的内容になります。

ここには「国際理解」「情報」「環境」「福祉・健康」の4つが示されています。

しかし、「現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題」=「国際理解,情報,環境,福祉・健康」ではありません。

よく見ると、「例えば国際理解,情報,環境,福祉・健康など」と書かれています。「例えば…,…,…,…など」という表現は、「…,…,…,…」は単なる例示であることを意味します。つまり、「現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題」は、例示した4つのどれかであってもいいし、それ以外のものであってもいいと言っているのです。

 

地域や学校の特色に応じた課題」についても、同じことが言えます。

地域の人々の暮らし,伝統と文化など」と、2つの具体を示した後に「など」を付けています。「地域の人々の暮らし,伝統と文化」は「地域や学校の特色に応じた課題」の例示に過ぎないということです。

 

先ほど整理した文の原文は、「探究課題については現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題地域や学校の特色に応じた課題児童の興味・関心に基づく課題などを踏まえて設定すること。」です。

つまり、「現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題」「地域や学校の特色に応じた課題」「児童の興味・関心に基づく課題」の3つも、探究課題を設定する際に踏まえるべき例示に過ぎないことになるのです。

 

この文は、いったい何を言おうとしているのでしょうか。

目標を実現するにふさわしい探究課題については,学校の実態に応じて,例えば,国際理解,情報,環境,福祉・健康などの現代的な諸課題に対応する横断的・総合的な課題,地域の人々の暮らし,伝統と文化など地域や学校の特色に応じた課題,児童の興味・関心に基づく課題など踏まえて設定すること。」具体的内容は、「学校の実態に応じて」考えてください。参考までに考える視点を例示しておきます。--とまあ、そんなところでしょうか。

 

実は、こうした文は、文部科学省の文章に登場する典型的な書きぶりの文です。はっきり言って、わかりにくい文が多いです。

そこにあるのは、「抽象」と「具体」の問題です。

 

文科省の発信する文章は、自然環境や人口密度や文化などが異なる全国津々浦々の地で読み解かれます。

その際、あらゆる違いを超えて共有されるための言葉は、必然的に「抽象語」になります。

 

しかし、「抽象語」だけでは教育活動になりません。

先の例で、「目標を実現するにふさわしい探究課題」を設定せよと言われても、それだけで学習活動が組み立てられる教室はいかほどあるでしょう。

 

学校現場が欲しているのは「具体語」です。

先の例では、「国際理解,情報,環境,福祉・健康」の部分がもっとも具体的であり、活動のイメージがつかめます。事実、この20年来、総合はこの4つのテーマを中心に展開されてきました。

 

目標を実現するにふさわしい探究課題」=「国際理解,情報,環境,福祉・健康」とすれば明快で分かりやすいです。

しかし、そうすることによって多くの学校で賛意が示される一方で、「それしかないのか」「それ以外は駄目なのか」という異議が当然のごとく出てきます。

「具体語」は、「抽象語」が内包する世界を狭めてしまうのです。

 

そこで登場するのが、「など」(あるいは、「等」)です。

など」の存在は、受け手と送り手の双方にメリットがあります。

受け手の学校サイドでは、示されている具体が例示だということになれば自由裁量の余地が広がります。

そして、送り手の文科省にとっては、異議に対する「安全弁」の役割を果たしていると思われます。(当事者でないので断言はしませんが)

その結果として、わかりにくい文・文章があふれることになります。

 

文科省用語(略して「文科語」)というのは、ことほどさように、そもそも難解なものなのです。

 

次回からは、そもそも難解な「文科語」をさらに超難解にしている例として「生きる力」を取り上げます。

 

 

 

 

日本語探訪(その29) 慣用句「型にはまる」

小学校3・4年生の教科書に登場する慣用句の第12回は「型に嵌まる」です。教科書の表記は、「型にはまる」となっています。

 

型にはまる型に嵌まる

 

「型に嵌まる」の読み方

かたにはまる

 

「型にはまる」の意味

世間一般の方式に従っていて、独創性・新鮮味がない。(広辞苑

 

「型に嵌まる」の使い方

型に嵌まったあいさつ

 

 

「型に嵌まる」の蘊蓄

「型に嵌まる」という慣用句は、あまりいい意味では使われません。逆に、「型を破る」「型破り」は、積極的な意味合いで使われることが多いです。

そんな「型」の深いはなしを紹介します。「kreo」に掲載された市川武也氏の文章です。

WEBで読める! 最新SP講座 2014.1.31

 

型があるから型破り。型が無ければ、それは形無し。

 

型を超えて出来ること、そこにチャレンジしてみる。


                             市川 武也

 


私はワークショップや研修を行う際に、時々歌舞伎役者の中村勘三郎さんの話をします。
私の世代では、「勘三郎さん」と言う名前よりも「勘九郎さん」(46年間この名前を名乗られていましたから)と呼ばせていただく方がしっくりと来ます。
現在、歌舞伎の世界で活躍されている6代目中村勘九郎さんのお父さんであり、18代目中村勘三郎さんです。
勘三郎さんは2012年に57歳と言う若さで亡くなり、各界や彼に親しみを持っていた多くの人たちは、その早すぎる別れに肩を落としました。
勘三郎さんは、生前に歌舞伎を沢山の人に知ってもらい楽しんでもらおうと、シアターコクーンで「コクーン歌舞伎」として新しい演出を取り入れたり、ニューヨークで「平成中村座」を上演するなど、当時ニューヨークタイムズ紙に「(その頃上映中の)大作映画よりも遥かにエキサイティングでおもしろい」と絶賛されるなど、新しい歌舞伎のあり方にチャレンジしていました。

 

ある日、そんな活動をする勘三郎さんの取材に来た記者が「勘三郎さんの演技は型破りですね」そう語りかけたところ勘三郎さんは「なに言ってやんでい!型破りって言うのはなあ、型があるから型破り。型が無ければそいつは単なる形無しなんだよ!」と話したそうです。
この話を聞いたときに、「実におもしろい」と私は何度も頷いてしまいました。

 

「型があるから型破りが出来る」「型が無ければ単なる形無し」

 

自分自身にとっての「型破り」とは何でしょうか?
企画やクリエイティブに携わる人たちに、同じ問いを投げ掛けます。

 

広告や販売促進における型について。


広告業界において、この20年から30年大きな変化がありました。以前は「コピーやクリエイティブの力」が商品の認知や購買に非常に影響を与えていたように感じます。

 

百貨店では「おいしい生活」(西武百貨店)
自動車では「くうねるあそぶ。」(日産自動車)
化粧品では「一瞬も、一生も、美しく」(資生堂)

 

そして今から20年ほど前、携帯電話が登場して、その後個人が触れる情報量が飛躍的に伸び始めると、言葉やヴィジュアルにより伝わる力が、それ以前の時代よりもフラット(影響力が減少)になり、人は更なる新しい刺激を求める様になりました。

 

販売促進(セールスプロモーション)においても同じような変化があり、キャンペーンやイベントにおける刺激や体現するよろこびや発見の、その後の効果の度合いが変わって来ました。

 

広く伝えること、売上げを促進すること、これらにおける「型」は、取り組む企業の特徴そのものだと思います。
テレビや新聞と言ったマス・メディアを多く扱う広告代理店であれば、テレビや新聞の視聴者や購読者が減って、視聴率や購読率が下がっている現代において、如何に関心を持ってもらい、そのメディアを介した情報を視聴者や購読者に効果的にリーチ(到達したり、理解して貰ったり)する方法にこだわりを持つこともひとつの「型」と思います。

 

販売促進の仕事に長年関わる私たちにとっても、この「型」についての考え方はとても重要です。
食料品や日配品などの企画・販売促進に取り組む場合、そうした商品の展開のあり方や、小売業のマーケティング目標、競合商品との関係、そして何よりも買い物をする人の意識(ショッパーインサイト)や買い物行動の捉え方など様々な要素があります。

 

こうした事を念頭に置きながら、業種や業態の異なる企業の課題に向き合う時に、流通小売業(リテール)やメーカー企業のマーケティング活動に関する細部〈ディテール〉にこだわると言うのは私たちの「型」だと思っています。
流通小売業の潮流や課題に精通をされている『商人舎』の結城義晴氏は、講演や著書の中で「Retail is Detail」と表現されています。

 

この言葉の意味するものは、「小売りの神は細部に宿る」。

 

私はマーケティングや販促活動で課題を捉える際、販売の現場や買い物客とのタッチポイント<接点>の捉え方こそが全てと思っているところがありました。
しかし今、お店に来店されるお客様の買い物の行動が変わって来たり(ネットショッピングの利用や、新しいタイプのお店やサービスの出現から)、購買への影響(ブランドに関する意識の変容)が「新しいメディアやコミュニケーション」を含む環境にあるのであれば、こだわりを持って考えていたもくろみは、ある枠の中だけの考えと感じる様になりました。

 

「型」を意識して大事にしながらも、その「型」を超える発想を持つことが、これからの時代に求められている、そう考えます。

 

「型」を超えようとする時のきっかけの呪文 『そもそも』


課題を整理しようとか、掴もうとかする際、また、何か新しい兆しの種を見つけようとする際に、この『そもそも』を繰り返すことはとても有効です。

 

「こう言うものだと思い込んでいるもの」「全ての人がそうしている」こうした概念の中から、隠れている本質をあぶり出したり、新しいきっかけをつくる時に、紐解くための<呪文>のように使います。

 

では、「買い物をする人」を捉えて、この<呪文>を唱えると何が導けるかを考えてみます。

 

買い物をする人の多くは、店舗で買い物商品を決定する


スーパーなどで食品や日用品を買い物をする人の商品決定は「お店に来てからや、商品を売場の棚などで見てから」が約3割と言われます。
新聞に折り込まれるチラシの「日替わりセール」や「お買い得の品」に注意を払いながらも、マスメディアに掲載される情報は余り関与していないと言われます。
このことは、既に流通小売業やそこで取引をする多くの事業会社(主にメーカー)も、そして広告代理店も理解をしていることです。
以前は、取引を行う商談の中で事業会社は「この商品の発売にあたり、コマーシャルをこのくらい投下します(GRP:世帯視聴率の合計を示したり)」とか「売り場でも合わせてキャンペーンの企画を用意します」と言った内容が常套句でした。

 

コマーシャルは購買に余り関与されていないからと言って(そう結論づけてしまうことで)コマーシャルを行わないことは商品のブランディングが成り立ち難い環境をつくり、キャンペーンを行わないことは現場(売り場)で何も行わないことになる、そう捉えられて本当の課題が見過ごされて来ました。

 

そもそも、買い物をする人は何で選ぶのか?


この買い物をする人(主婦であっても、シニアであっても、単身者であっても)を「そもそも」から掘り下げてみます。

 

○メディアで知ることは何か?メディア以外で知ることは何か?
○お店も、商品も、サービスも何と比べているのか?
○買い物をする時に、何を見ているのか?何が影響を与えているのか?
○買い物モードの中、何が気持ちの“スイッチ”を入れているのか?
○何故、それを選ばないのか?(この理由こそが一番知りたいところです。)
○買い物をした後、商品を利用した後、買い物客の気持ちには何が残るのか?

 

買い物をする人の、行動の前後関係を見て行き、「そもそも」を繰り返していくと色々な局面が捉えられます。
この段階では、調査(アンケートなどの分析)に入る前に、まずは「自分の頭で繰り返し考えて見る事が大事」と思い
ます。「そもそも」を呪文のようにして全てのコトを万遍なく追求するのではなく、どこが一番有効な箇所かにポイントを見つけて行きます。
(このポイントの見つけ方の差が、マーケティングやプランニングのスキルの差だと感じます)

 

自分の専門分野ではないと言う思いが課題解決の為に超えようとする壁を自らが高くしてしまうことがあります。
その時に、今回の言葉を思い出したいと思います。

 

型があるから型破り。型がなければ、それは形無し。

 

「型」はあって良い、でも、この「型」を超えなければ新しいチャンスは来ないことを感じています。

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追記:
「型」を英語で表すと
以前、アメリカに住む知人に「型」を英語で言うと何か?そんな質問を投げかけたことがあります。
Type Model 少し考えてからIdentity などの単語を挙げてくれました。
型を破る 英語だとflout the conventions
型は何かに置き換えると「らしさ」や「その企業や人の持つこだわりと言ったもの」この言葉の方がしっくり当てはまり、発想や行動を前へと進めやすいと思います。

 

日本語探訪(その28) 慣用句「顔から火が出る」

小学校3・4年生の教科書に登場する慣用句の第11回は「顔から火が出る」です。

 

顔から火が出る

 

「顔から火が出る」の読み方

 かおからひがでる

 

「顔から火が出る」の意味

深く恥じ入って赤面する。(広辞苑

 

「顔から火が出る」の使い方

 人前で大失敗を演じ顔から火が出る思いがした

 

「顔から火が出る」の語源・由来

 「顔から火が出る」の由来は、火が赤々と燃えている様子を、恥ずかしさのあまり顔が熱く真っ赤になることにあてはめたものです。

 

「顔から火が出る」の蘊蓄

「顔から火が出る」メカニズム

 「公益社団法人 日本心理学会」のホームページに掲載された『心理学ワールド』84号(2019年1月)所収論文「なぜ顔が赤くなるのか」(鎌倉女子大学児童学部子ども心理学科 教授 廣田昭久氏)の一部を紹介します。

 

なぜ顔が赤くなるのか
─生理心理学的・解剖学的アプローチ

鎌倉女子大学児童学部子ども心理学科 教授
廣田 昭久(ひろた あきひさ)


赤面すなわち顔の紅潮は顔面の皮膚血管の拡張の結果と理解できる。血管の拡張により血流量が増大し,皮膚が赤みを帯びて見えるようになり,それが赤面となる。顔面皮膚の血管は他の皮膚部位と同様自律神経の交感神経により支配されている。血管を支配する交感神経には血管収縮性神経と血管拡張性神経があり,耳介や口唇は交感神経性血管収縮神経が主に支配しているが,他の顔面部位では血管拡張神経も分布している。また近年,顔面皮膚血管は副交感神経性の血管拡張神経の支配も受けていることが分かり,顔面皮膚部位によっては交感・副交感の二重支配を受けていると考えられている。さらに,このような神経性の支配ばかりでなく,顔面皮膚血管には,交感神経系賦活時に副腎髄質から血中に分泌されたアドレナリンやノルアドレナリンの作用を受けた液性の血管拡張のメカニズムも報告されており,赤面現象として確認される顔面の血管拡張反応が,交感・副交感どちらの神経性の反応なのか,それとも液性の反応なのか,あるいはこれらの組み合わせによる反応なのかについては未だ明確になっているとはいえない。

しかし,しくみがどうであれ,我々は赤面する。特に顔の紅潮は好きな人や憧れの人など他者と面談する際や,人前での発表や演技などパフォーマンスを行う等の対人的な社会的な文脈において,紅潮の発現やその反応の増強を自覚することが多い。このような日常的な経験から,赤面現象,顔の紅潮は対人コミュニケーション状況等の社会的文脈における何らかの機能・役割を有すると推察できるかもしれない。


顔面部の皮膚温の低下が脳を冷却するとの報告がある。…顔面部の冷却による鼓膜温低下に反映される脳温低下の機序は,上述の顔面血流に関わる解剖学的な血管組織構造から説明される。冷却された顔の皮膚からの静脈血が上眼静脈などを経て海綿静脈洞に流入すると,内頸動脈は海綿静脈洞内を通って脳へと上行してくるので,冷却された海綿静脈洞内の静脈血と内頸動脈血との間で対向流熱交換がなされて内頸動脈血が冷却され,その冷却血が脳の各領域に送られて,鼓膜温の低下に反映されると考えられている。

この機序を本稿で紹介した社会的文脈の強い課題や驚愕時の顔面の皮膚血流量の結果と併せて考えれば,社会的文脈が強い課題遂行時や驚愕時に顔の皮膚血流量の増加が生じているのは,このような条件・状況時に生じる脳活動の高まりによって産生される脳の熱を冷却するためと考えることができるかもしれない。また,社会的文脈の強い課題や驚愕時には,顔面部での発汗活動も確認されている。汗として汗腺から排出される水分は蒸発する際に皮膚表面の温度を奪い,結果として皮膚温の低下を導く。したがって,皮膚直下の血流量を増やすことで,より効率的に血液温を低下することができる。

このような機序を考えれば,社会的場面での赤面(顔の紅潮)と発汗は,生物学的にはそのような場面・状況で生じる脳活動の高まりによる脳温の増加を冷却する,いわば脳のラジエーター的反応と考えることができるだろう。面前の場面・状況を適切に処理するために,脳温を適正値に保ち,脳の適切な働きを担保する,ホメオスタシス的な反応,生理的な機能として赤面現象を捉えることができるのではないか。また赤面現象は社会的場面等で生じる感情喚起状況ばかりでなく,様々な運動時も,暑熱環境下でも,カゼ等による発熱時にも見られるが,これらの状況・状態での赤面現象も,いずれも「脳を冷やす」という本質的な目的からの反応として理解することができるだろう。このように,脳の冷却システムとして顔面皮膚血流の変化を捉えることで,赤面現象,顔の紅潮という反応のより包括的かつ基本的な説明・解釈ができるだろう。

以上のようなことを仮定すると,赤面現象,つまり顔の皮膚血流量の増加は,一義的には脳の正常な働きを保ち,個体を維持するという生物学的に本質的な目的として生じ,それが結果的に社会的文脈の中で,他者に何らかの感情の発露等を伝達する信号となり,対人コミュニケーション機能を有するようになったと考えられるかもしれない。

 

 

「○○から火が出る」

「目から火が出る」…顔や頭を強く打った時の感じの形容。(広辞苑

「目から火が出る」には「顔から火が出る」ときのような生理作用はありません。

「口から火が出る」…ものすごく辛い物を食べた時の様子を表しますが、慣用句ではありません。