教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

森と湖と実りの大地から ~北海道キャンプ旅行の記録~ ④

北海道キャンプ旅行 出発から5日目

1991年7月29日(月)

 
 心配していた雨も降らず、一夜が明けた。5時30分起床。朝食のあとテントを撤収し、7時10分出発。


 国道40号線から問寒別(といがんべつ)川沿いに道々を10㎞ほど入っていくと幌延(ほろのべ)町上問寒、川上幸男さんの家に着く。8時20分。


 幌延に高レベル放射能のゴミ捨て場を作る計画が進んでいる。東京の原子力資料情報室の紹介で川上さんを知った。会ってやろうという返事がもらえて、訪問に至った。

※(補足)私は特に反原発の運動をしていたわけではありません。1991年当時、原子力発電所から出る「核のゴミ」は社会問題になっていました。そんな中で、北海道幌延町でガラス固化体による貯蔵処分計画が、青森県六ヶ所村で再処理計画が進んでいました。社会科教師の性(さが)みたいなもんで、現地を自分の目で見たい、現地の人の声を聞きたいと思い、キャンプ旅行の中に組み入れた次第です。


 川上牧場という白い文字が青色のサイロに映えている。牧舎に隣接して川上さんの自宅がある。案内された1室に川上さんが姿を出す。60才前後と見られるその人は、挨拶がわりに名刺を差し出された。「幌延町議会議員」「酪農家」の肩書が刷り込まれていた。息子さんの奥さんが、搾り終えたばかりの牛乳を温めて出してくださった。まったりとしたおいしさである。


 酪農のことから話は始まる。


 川上さんは香川県の田舎に生まれ、育った。1955年に北海道に移り、2年後の1957年に当地に入植した。当時は地下足袋で歩けないような湿地で、畑作ができる状態ではなかったという。笹が一面に生えている土地を開墾し、次の年から牛を飼い始めた。苦労など言葉では言えないほどしているが、当時の入植者は概ね同じ様な状況だったのでやってこれたという。電気も水道も舗装道路もない、しかも冬は雪に埋もれる山の中である。10人来たら3人残ってればいい方だという言葉が、厳しさの全てを語っている。6月の気候が悪く米が作れず、湿地のため畑も無理ということで、必然的に酪農の道を選ぶことになる。牛を1頭飼えば一人が生活できる時代だったという。飼い始めた年の収入は10万円ほどだった。最初3頭だった牛を毎年1頭ずつ増やした。順調にいっているときに増やすのは簡単だけど、生活のしんどい時に来年のために増やすのは大変なことだったという。当初9haだった牧草地は、今では55haに増えた。3頭から出発した牛は、80頭に増えた。牛乳と子牛と肉牛を含めた昨年の売上げは3000万円を超えたらしい。


 何でもやってきたよと、川上さんは遠い昔を見つめて言う。機械が故障すれば町へ部品を買いにいって自分で修理した。遠い町から出張費用を払って来てもらっていたのでは、採算が合わない。中古の機械だって上手に使えば随分もつんだと言う。50mの牛舎だって自分で作った。200tの牧草が入るサイロも、材料だけ買って自分で組み立てた。住居の殆ども自分で作ってしまった。出来ることは何でも自分でやってしまう、これが今日の川上牧場を築いたモットーのようだ。


 おかげでね、と川上さんは続ける。息子さんが酪農の仕事に就いた今日、8時半ごろに乳搾りを終えるとあとは寝ていても生活が成り立つ。80頭の牛の内、メスの乳牛(親)は45頭。午前5時半から8時半ごろまでかかって搾乳を済ませる。1日に搾るミルクの量は800リットル。搾ったミルクはタンクに入って冷やされる。雪印のトラックが取りにきて、殆どがバターと粉ミルクになる。ミルク1リットルが80円で、1日の売上げが64000円。1年で2000万円ほどになる。子牛も必要数以上に生まれると売るし、オス牛や乳の出なくなったメス牛も売る。これが年に900万円ほどになる。-- これが幌延の平均より少し大きな規模の酪農農家の実情らしい。

※(補足)川上さんの牧場のことは、小学校4年生の娘の夏休み自由研究のテーマになりました。


 幌延は酪農の町である。町の3分の1が酪農農家である。3分の1は所謂勤め人。残り3分の1は土木関係の仕事に従事している。決して豊かな町ではない。町職員1人当たりの住民の人数が24人で、これは道内でも少ない方から3番目だそうだ。町としては、何か活性化につながるものが欲しかった。故中川一郎代議士にも相談を持ち掛けている。当初は発電所を誘致する計画であったらしい。ところがそれがいつの間にか「核のゴミ捨て場」になってしまっていた。幌延が立地条件が最適だから建設されるのではない。条件としてはむしろ悪いのだが、こんな危険な施設を「誘致」してくれる自治体など希有である。町長の誘致に対して議会はどうかというと、14人の議員の中で核燃反対は川上氏ただ1人である。みんな賛成なのか。議員のうち4人か5人は土建業者である。理事者の側に付いていることで、甘い汁(仕事)が転がり込んでくる。日本の政治を取り巻く象徴的な姿が、ここにもあった。それが「賛成」の理由である。国がそんな危険なものを作るはずがないと言う議員もいる。お前(川上氏)が言うような危険なものなら、絶対に反対だという賛成派議員もいる。残念ながら、日本中を震撼させている問題の渦中の議会は無知に過ぎる。仕事が転がり込んでくるかどうかと同じレベルでしか考えられていないところに、我々の不幸がある。


 川上さんは、特別な運動家でも革新議員でもない。書斎を兼ねる居間には故中川議員の額も飾られている。北の大地に根を下ろした酪農家である。だからこそ大地を汚し、地下水を汚染する核燃に反対なのである。間違いなく川上さんは努力家であり、誠実な人である。書斎には六法全書や法律関係書、原発関係書が多く見られた。議会は町政のチェック機関でなければならないとも言われた。たとえ1人であっても駄目なものは駄目として譲らない、開拓の経験が鍛えた信念の強さかと思う。


 表に出ると夏の日差しが強くなっていた。芝を刈り取る機械、集める機械、「ロールケーキ」を作る機械、肥料を蒔く機械、そしてそれらを動かす大型のトラクター。川上さんは、これら財産とも言える機械の1つひとつを時には動かしながら説明してくれた。牧草地に目を遣れば、草を食む牛の群れが見える。牛舎では1昨日生まれたばかりの子牛に、ミルクを飲ませている奥さんの姿があった。10時30分、長居を詫びて幌延の建設予定地へと向かった。

f:id:yosh-k:20210726114100j:plain

川上さんの牧草地が広がる


 国道を離れてJR線沿いの道々を走ると、安牛駅手前の天塩川三日月湖のある近くに核のゴミ捨て場「貯蔵工学センター」建設予定地がある。道々から僅かにダートを走り、JRの踏み切りを渡ったところに事務所がある。プレハブ造りの事務所は金網と有刺鉄線で囲まれ、おっかない警備員がすぐさま飛び出してきて、じっとこちらを睨んでいた。ただならぬ物が作られようとしていることは、そこからも想像できる。この土地は酪農農家から買収したもののようで、事務所は牧舎らしき建物の隣に建てられていた。道はそのまま山林に入っていって、やがて行き止まりになっているらしい。つまり入り口を塞げばどこからも進入できない仕組みになっている。この牧草地の続く山並みを越えた向こう側に、川上さんの住む村がある。


 幌延町の市街に入ると町役場のすぐ近くに動力炉・核燃料開発事業団のPRセンター「幌延展示室」がある。高レベルの核のゴミをガラス固化体にして地層に埋めて貯蔵(処分)しようというのである。パンフ、ビデオ、模型とあらゆる手段を使ってその安全性が強調されている。それほどまでにしなければならない施設、と言うこともできる。

※(補足)幌延町の「貯蔵工学センター」建設計画と、動力炉・核燃料開発事業団のPRセンター「幌延展示室」のその後について。

2021年現在、動力炉・核燃料開発事業団は国立研究開発法人日本原子力研究開発機構と名称を変えています。同機構の「幌延深地層研究センター」において、「高レベル放射性廃棄物地層処分技術に係る研究開発」が今も続いています。

言い方を変えると、30年経った今も建設計画は実現のめどが立っていないということです。


 幌延から道々を北上すると、豊富町営の大規模草地牧場へと通じている。高台に1400haの牧場があり、3000頭の牛が放牧されている。日本一のスケールというが、あまりに広すぎて牛の姿を探すのも容易でない。レストハウスの脇で馬の親子が短い夏を楽しんでいた。レストハウスで1人前600円也のジンギスカンを食べた。ビールを飲むわけにはいかないので、搾りたてのフレッシュミルクで我慢する。これがまた100円で飲み放題。ジンギスカンもミルクもボリューム満点。周りの自然も大きいし、ついつい調子に乗り過ぎてこのあと腹の加減を悪くした。

f:id:yosh-k:20210726115059j:plain

豊富町営大規模草地牧場


 豊富市街からR40を南に下ると名山台展望台。南北30㎞、東西8㎞のサロベツ原野の広さを感じさせてくれる展望台だ。牧草地の彼方に利尻富士利尻島利尻岳1719m)が見える。パンケ沼横の道を抜けると海岸に出る。これが道々909、通称日本海オロロンラインである。北海道にまっすぐな道は無数にある。その中でもオロロンラインは第1級である。原野の中に直線道路が伸び、しかもそのすぐ左手は日本海である。波の向こうに利尻富士の優雅な姿が大きくなっていく。稚咲内までの10kmあまり、人家は全くない。道の向こうは地平線、北海道はデッカイ。

f:id:yosh-k:20210726135440j:plain

北緯45°の碑の彼方に利尻富士

f:id:yosh-k:20210726135539j:plain

道道909、通称日本海オロロンライン


 サロベツ原生花園の真ん中にレストハウスがあって、周辺を木道を歩いて散策できる。7月の初めにはエゾカンゾウの黄色い花に埋め尽くされるところだ。そのエゾカンゾウの花は終わり、ギボウシの仲間の花が咲いていた。秋が近い。それにしてもここは広い。どちらを見ても端がない。地平線となって消えるところまで原野が続き、北西の彼方に利尻富士が浮かんでいる。


 稚咲内(わかさかない)から抜海(ばっかい)へ向かう途中、綺麗なアヤメの群落を見つけた。道路と海岸の間に広がる牧草地、そしてロールケーキと迫り来る利尻富士、絵になる風景だ。浜勇知(はまゆうち)に殆ど訪れる人もない原生花園があった。海岸の砂浜に出て、子どもたちは白い貝殻を拾った。波に洗われた貝殻は碁石の様なつやと丸みをもっている。寄せ来る波のすぐ向こうが利尻富士である。風が冷たい。


 野寒布岬(のしゃっぷみさき)は断崖ではなく、まったくフラットな海岸線である。拍子抜けの感もあるが、北の果てに来たのだというただそれだけで、妙な感慨に浸ってしまう。夕刻になり最果ての侘しさも倍増、吹く風も相当に強い。振り向けば丘の上に自衛隊のレーダー基地が異様な光景として飛び込んでくる。大韓航空機墜落の時、レーダーを密かに米軍に送っていたのはこの基地だろうか。

f:id:yosh-k:20210726140518j:plain

ノシャップ岬


 岬から3kmあまり南に下ると稚内市富士見、利尻富士が見える町というわけだ。
ここに日本最北の温泉が湧き出している。「温泉民宿 北乃宿」という稚内温泉の宿に泊まった。『食いしん坊万歳』にも登場したという奥さんの料理は家庭的な味がして、それを運ぶ老爺の姿が印象的だった。外を吹く風は台風並みに強い。温泉が心地好い。好天に恵まれて良かった。好きなエリアだけに。

 ※(補足)「キャンプ」旅行の趣旨に反して、宿舎泊。「温泉民宿 北乃宿」は今もあって、ネット予約の写真を見ると1991年当時と建物も同じでした。

森と湖と実りの大地から ~北海道キャンプ旅行の記録~ ③

北海道キャンプ旅行 出発から4日目

1991年7月28日(日)


 街灯の下にクワガタが集まっていないかと期待して息子は早く目覚めたが、一晩中雨が降っていたと聞いて、また眠った。5時30分起床、6時50分出発。


 朝1番に再度キャンプ場近くのヒマワリ畑を訪ねた。圧倒される花の数である。駐車場横の売店のおじさんに聞いてみたが、「わからない」ほどあるらしい。

f:id:yosh-k:20210726103525j:plain

最上部に「なかふらの」の花文字。冬はスキー場になる。

 

 士別市の郊外にめん羊牧場がある。9時半ごろに立ち寄った。たくさんの羊が広大な牧草地で草を食んでいた。息子は牧舎で羊に触ったり、わらを食べさせたりしていた。どこかニュージーランドを想わせる風景である。

f:id:yosh-k:20210726104208j:plain

士別めん羊牧場


 朱鞠内湖は、湖畔の母子里(もしり)で1978年2月17日に氷点下41.2度という日本最寒気温を記録したことで有名である。静かな湖畔ではキャンパーたちが思い思いにテントを張っていた。レストハウスのワカサギのてんぷらは結構おいしかった。


 湖畔から美深(びふか)へ向かう国道は信州の高原を走っている気分にさせてくれる。もっとも美深峠でさえ450mしかない、低地の国道なのだが。林の間を走っているかと思えば、突然に一面のソバ畑が飛び込んでくる。北海道の奥の深さを改めて感じてしまう。


 美深から名寄へ戻っていく途中、北星駅辺りからダートを5㎞あまり走ると広大なヒマワリ畑があるという記事を見て、出かけてみた。川沿いのダートは林間に入り、最後は急な山道を一気に駆け上がる。坂を登り切った途端に、突如として広がるヒマワリ畑。これは感動ものだ。どれほどの広さなのか検討すらつかない。それほどに広い。冷夏の煽りで、つぼみはまだ少し固かった。一面に花を咲かせたら、まさに天国に続く花の絨毯といった体だろう。


 天塩川のほとりに美深森林公園キャンプ場がある。全面芝生のフィールドは無料。時折小雨が降るあいにくの天候だったが、その一角にテントを張った。すぐ近くには長崎から来た初老の夫婦がテントを張っていた。ゆっくりと時間が流れていく。いい夫婦だ。

※(補足)美深森林公園キャンプ場は、「森林公園びふかアイランド」として今も営業しています。ただし、1人400円と有料になったようです。当時いたチョウザメは今も続いているみたいです。

1991年に隣り合わせた長崎のご夫婦は1つの憧れでもありました。自分たちも退職したら…と思っていましたが、現実問題としてはこれほどのまとまった時間を作り出すことがむずかしいです。

 

f:id:yosh-k:20210726104404j:plain

全面芝生のフィールドが気持ちいい

 何と言ってもここでの圧巻は、洗濯にある。炊事場の横に洗濯機が置いていたので、早速第1回目の洗濯に取り掛かった。しかし、なにぶん空模様が良くない。
一旦桜の木に結んだロープを車の中に張り直し、車は見事に乾燥場となった。キャンプというのは、何をやってもサマになる。


 夕飯はうずらの卵と銀杏のオイスターソース炒めと、焼きそば。野外での料理は何だって新鮮に感じる。うずら卵はビールのあてにGOOD。食後に入った宿泊施設の温泉は、格別に気持ち良かった。

 

森と湖と実りの大地から ~北海道キャンプ旅行の記録~ ②

北海道キャンプ旅行 出発から3日目

1991年7月27日(土)



 雨の中で北海道旅行は始まった。


 道央自動車道岩見沢SAで軽く朝食を食べ、旭岳へ向かう。


 旭岳ロープウェイを降りると寒い。半袖のうえにトレーナーを羽織っているが、それでも寒い。傘を片手に周辺の花を見て歩く。わずかに残った雪も見える。山はこれ以上無理と判断、ロープウェイ乗り場下の食堂で少し早い昼食をとり、富良野へ向かう。寒暖計は11°Cを指していた。


 一面に広がるラベンダー畑とひまわり畑。確かにすごい。しかし、富良野富良野らしさは丘陵地に広がる野菜畑にこそある。丘陵地を行けども行けども続く畑、畑、畑。一辺が100m以上あるような畑に、カボチャ、ニンジン、ジャガイモ、ソバ、タマネギ、ビート、トウモロコシ、マメ、スイカ、ムギなどの作物が整然と植えられている。縞模様のようでもあり、モザイクのようでもあり、これはもはや芸術だ。

f:id:yosh-k:20210726100307j:plain

雨にかすむモザイク模様の丘陵


 雨の中での自炊をあきらめ、夕飯は富良野市で済ませることにした。ガイドブックに出ていたフォーシーズンという店で和風ハンバーグを食べる。マスターが息子にミヤマクワガタのオスとメスを1匹ずつ下さった。帰路のスーパーで入れ物とハチミツを買い求め、息子は世話に没頭していた。


 バンガローの近くにある中富良野保養センターにラベンダー風呂がある。乾燥したラベンダーを布袋に入れ、浴槽に浮かべている。かすかにラベンダーの香りがしているようである。湯の温もりがありがたかった。

f:id:yosh-k:20210726100416j:plain

バンガローの前で。息子(小1)と娘(小4)

※(補足)中富良野森林公園キャンプ場は現在もあります。テント12張りの小さなキャンプ場で、無料です。1991年当時あったバンガローは、今は存在しないようです。 

森と湖と実りの大地から ~北海道キャンプ旅行の記録~ ①

新型コロナウイルスの感染が収まらず、2回目の自粛の夏を迎えました。

 

時空は30年前の北海道。

 

1991年7月25日から8月10日までの17日間、親子4人で北海道をキャンプ旅行しました。

その折の旅行記が「森と湖と実りの大地から」です。

 

今夏は、30年前の旅行記をベースに、北海道バーチャルトラベルに出かけたいと思います。

 

 

1991年7月25日(木)

テントなどのキャンプ用具一式をマイカーに積み込み、いざ出発。

再現旅行は、途中のアクセスを省略し、7月27日開始です。

 

と、ここで終わってしまってはあんまりなので、

2008年7月25日の北海道を再現しましょう。

 

 

大雪山(黒岳~旭岳)縦走

                2008年7月25日(金)

 

 1991年の夏、黒岳に登った。山頂に立つと、ハイマツなどの緑と雪渓の白が山肌の茶色が織りなす風景に息を呑んだ。いつかあの風景の中を歩きたいと思い続けてきた。家族の健康状態や仕事の都合等で計画は何度か頓挫したが、今ようやく念願の日を迎えた。

 

f:id:yosh-k:20210723112418p:plain


マップは「やまびこ会」さんのHPからいただきました。逆コースなので、時間は参考になりません。

 

層雲峡温泉⇨⇨⇨黒岳■
 2008年7月25日(金曜日)、層雲峡温泉はガスがかかっているものの爽やかに明けた。午前5時20分、ホテルを出てロープウェイの山麓駅に向かう。5時30分、待合室には先客が3人いた。リュックの大きさからすると、大雪山系のいずれかの峰でテント泊をする様子だ。ロープウェイとリフトの従業員を乗せたバスが到着して、40分にその人たちを運ぶロープウェイが発車した。そのころから待合室には人が増え始め、いくつかの団体を含めて数十人に膨れ上がっていった。6時、初発のロープウェイは満員の乗客を黒岳5合目駅へ運んだ。確か91年の時はまばらだったと思うが…。


 5合目駅から少しばかり歩くとリフト乗り場があって、15分で7合目まで運んでくれる。ここで入山届けを書いて、いざ出発。6時35分。


 黒岳7合目は標高1520m、山頂は1984mだから464mの登りだ。大きな石が浮き出ているジグザグの急登だ。この登りの楽しみは、8合目あたりから始まる短い夏を咲き競う花々との出合いだ。黄色が鮮やかなエゾキンバイ、紫色のハクサンチドリ、真っ白で大きな花のエゾニュウ、繊細な感じのウラジロナナカマド、かわいい黄色のハイオトギリ、濃いピンクのエゾツツジ、深い青のタイセツトリカブト等々、花の道が続く。前回はシマリスにも出合えたが、今回はそのかわいい姿を見ることはなかった。


 インターネットのガイドなどでは登り1時間と書かれているのを見かけるが、これは相当健脚な人で、私は経験上300m登るのに1時間という計算をしている。事実、7時55分に山頂に着いた。私と妻の先を歩いていた人は3人で、それ以外は誰一人として私たちを追い越していかなかったのだから、しっかり歩いて1時間20分というのが妥当なところだろう。

 

f:id:yosh-k:20210723112806p:plain

リフトの前方に黒岳頂上が見える

 

f:id:yosh-k:20210723112915p:plain

エゾキンバイと層雲峡から湧き上がるガス

 

f:id:yosh-k:20210723112952p:plain

ハクサンチドリ

 

f:id:yosh-k:20210723113041p:plain

エゾニュウ

 

f:id:yosh-k:20210723113106p:plain

ウラジロナナカマド

 

f:id:yosh-k:20210723113130p:plain

ハイオトギリ

 

f:id:yosh-k:20210723113153p:plain

エゾツツジ

 

f:id:yosh-k:20210723113213p:plain

タイセツトリカブト

 
■黒岳⇨⇨⇨黒岳石室■
 頂上に立つと、冷たい風が石室の方から吹き上げてくる。前方には大雪の峰々が連なっている…はずなのだが、あいにくのガスで見えない。右手桂月岳の谷からの強風で左手北海岳の方角にガスが流れ、薄靄の向こうに縦走の行く先が見える。これに会いに来たのだ。


 のどを潤し、ゼリー状飲料の軽い朝食を摂って、8時出発。石ばかりの急坂の途中で前回はナキウサギを見た。ナキウサギは、氷河期の生き残りなのだそうだ。今回もと期待するのが人情だが、滅多に見られるものではない。さて、坂を下りきったところに最初の雪渓がある。その周り一面にチングルマとエゾツガザクラの群生が満開を迎えていた。ここから石室までの道の両側には濃いピンクのエゾツガザクラと薄いピンクのコエゾツガザクラ、白色のチングルマが花の絨毯の趣を呈していた。石室に近づくと青いミヤマリンドウの花が目に付くようになり、チングルマは綿毛になっていた。


 8時30分、黒岳石室に到着。右手の桂月岳山頂は、ガスに見え隠れしている。コース中唯一のトイレ(有料200円)でお手洗いを済ませ、8時40分、北鎮分岐への道を出発した。

 

f:id:yosh-k:20210723113338p:plain

黒岳山頂からの眺望

 

f:id:yosh-k:20210723113401p:plain

イワウメ

 

f:id:yosh-k:20210723113439p:plain

黒岳頂上部を見上げる

 

f:id:yosh-k:20210723113505p:plain

エゾツガザクラ

 

f:id:yosh-k:20210723113535p:plain

淡いピンクがコエゾツガザクラ

 

f:id:yosh-k:20210723113559p:plain

チングルマと雪渓

 

f:id:yosh-k:20210723113622p:plain

ミヤマリンドウ

 

f:id:yosh-k:20210723113655p:plain

チングルマの綿毛

■黒岳石室⇨⇨⇨間宮岳分岐■
 分岐を出て、ハイマツ帯を抜けた辺り一帯は雲の平と呼ばれ、「平」と言うには上り下りがあるものの至る所にお花畑があり、歩いていても気持ちがいい。コマクサがかわいい花を付けている。振り返ると、ガスの晴れ間に頭にコブを載せた黒岳の山頂が姿を現していた。


 石室が1890mで御鉢平を見下ろす御鉢展望台が2020m、その御鉢展望台には9時15分に着いた。御鉢平カルデラは約3万年前の火山噴火によってできたもので、長径が2.2km、短径が1.8kmの大きさがある。御鉢平内部は、有毒温泉から強力な毒性を持つ硫化水素のガスが噴出するために立ち入り禁止となっている。草木の育たない灰色の荒地が広がっている。


 展望台からの急登を一気に2140mまで上がると北鎮分岐だ。時計は9時46分を指している。ここからルートを右にとると、2244m、北海道第2の高さを誇る北鎮岳まで20分の登りだ。今回はガスで展望が望めないし、旭岳ロープウェイの時間も気になるのでパス。そのまま中岳に向かう。


 左に御鉢平を、右に大雪の山並みを見ながら道は下り、やがて登りになって一番高くなったところが中岳山頂だ。中岳の標高は2113m、山頂というよりも坂のてっぺんと言った方が感覚的に合っている。10時06分通過。


 さらに御鉢平に沿って砂礫の尾根を下ると2050mの中岳分岐だ。ここでコースを右にとると、旭岳を周回して姿見の池まで行くことができる。今回は間宮岳を目指して直進。


 御鉢平に沿った砂礫の尾根を登ること30分、標高2185mの間宮岳に到着。10時46分。この頂上も標識が立っていたから分かったものの、それがなければとうてい認識できないような通過点だ。


 頂上のすぐ先が間宮岳分岐で、左に行くと御鉢平を回って黒岳に戻れる。右が旭岳に通じる道だ。分岐点に置かれた粗末なベンチで昼食に持ってきたパンを食べ、11時出発。

 

f:id:yosh-k:20210723113833p:plain

コマクサ

 

f:id:yosh-k:20210723113854p:plain

御鉢平

 

f:id:yosh-k:20210723113919p:plain

右が中岳、左が間宮岳

 

f:id:yosh-k:20210723113939p:plain

中岳からの眺望


■間宮岳分岐⇨⇨⇨旭岳■
 濃いガスを覆われていた旭岳の山頂がわずかに顔を出す。目指すは標高2290m、北海道一の高山、朝日岳山頂だ。遅くとも14時15分のロープウェイに乗りたい。標準的な行程表でも2時間50分かかることになっている。苦手な下りのことを考えると、微妙な時間だ。ここまで、黒岳山頂で5分、黒岳石室で10分、間宮岳分岐で10分と休憩時間を惜しんで歩いてきた。足が疲れてきている。


 旭岳を正面に見ながら荒涼とした緩やかな下りが続く。20分近く歩くと、砂礫の急な下りになる。ストックのラバーを外し、石突きで滑りを止めながら一気に高度を下げていく。


 11時32分、下りきった2074m地点にある裏旭キャンプ指定地を通過。眼前に聳える旭岳は、山裾は大きな雪渓に覆われ、その上は剥き出しの地肌が山頂まで続いている。


 登りが始まるところに雪解け水が流れ下る小さな沢があって、それを跨ぎ越した後は左右に雪渓を見ながら高度を上げていく。やがて左右の雪渓が一続きになり、しばらく雪渓を登ることになる。ストックをしっかりと突き立て、ゆっくり登っていく。雪渓が終わると、砂礫と火山灰の急斜面だ。突然、妻の足が止まってしまった。登山道がないのだ。踏み跡を見ると直登するしかないのだが、足場は滑るし、直立すると後ろにひっくり返るような急斜面だ。しかし、登るしかない。ストックを半分ほどの長さに縮め、重心を前方に置きながら一歩一歩登っていった。振り向くと、間宮岳やさらに遠くの峰まで綺麗に晴れていた。


 やっとの思いで旭岳頂上に辿り着いた。12時13分。2290mの頂上は深いガスに包まれ、冷たい風が吹いていた。腰を下ろしている登山者が数人いたが、私たちはそのまま下山した。

 

f:id:yosh-k:20210723114041p:plain

砂礫の向こうに旭岳が見える

 

f:id:yosh-k:20210723114105p:plain

険しい下りだ

 

f:id:yosh-k:20210723114131p:plain

旭岳の直登は閉口した

 

f:id:yosh-k:20210723114154p:plain

旭岳山頂付近から来し方を振り返る



■旭岳⇨⇨⇨旭岳温泉層雲峡温泉
 表側の登山道は裏側の直登よりはましとは言え、砂礫と火山灰の急で滑りやすい尾根が山裾まで続いている。登山道の左斜面は500m以上も落ちていて、裾平と呼ばれる樹林帯に繋がっている。右は地獄谷で、その斜面からかなりの強風が吹き上げてくる。地獄谷から吹き出す噴煙が、時折、湿った暖気となって風に流されてくる。登山道は姿見の池までほぼ直線に下っており、時に足を滑らしそうになりながら歩を進める。ここまでよく持ったものだが、遂に爆弾の左膝裏が痛み出した。


 13時35分、何とか旭岳石室まで辿り着く。姿見の池は天候のせいで以前見たような感動はなかった。それよりも痛む膝と時間が気になった。ロープウェイ乗り場までは普通なら15分もあれば十分なのだが。


 ペースは落ちたとは言え、いつもの痛みに比べれば軽い方で、姿見駅には13時52分に着いた。ここの標高が1600mだから、約700mを下ってきたことになる。歩き始めてから7時間17分、実歩行時間6時間50分余、歩行距離約12km。結構よく歩いたものだと思う。


 姿見駅14時発の旭岳ロープウェイに乗車、旭岳温泉駅着14時10分。14時35分発の旭川駅バスに間に合った。層雲峡まで帰るには旭川でバスに乗り継ぐしかないのだが、そのバスが14時35分の後は17時05分しかない。それでも帰ることはできるが、層雲峡に着くのが20時30分で、ホテルに着いた時には夕食時間が終わってしまっている。バスは、5分遅れで旭川駅に15時50分着。乗ってきたバスは旭川電気軌道のもので、層雲峡行きは道北バス。降り場も乗り場も全く別の場所だった。喫茶店で一休みして、16時35分発層雲峡バスターミナル行きのバスに乗り込んだ。18時25分ターミナル着。駐車場までの坂道を歩き、車がホテルに着いたら18時35分だった。夕食時間に間に合った。かくして、連泊1品サービスをゲット。長い1日が終わった。

 

f:id:yosh-k:20210723114245p:plain

左手の斜面はほぼ垂直に落ちている

 

f:id:yosh-k:20210723114309p:plain

滑りやすい砂礫の急坂を下る

f:id:yosh-k:20210723114328p:plain

地獄谷から噴煙が上がっている

f:id:yosh-k:20210723114348p:plain

姿見の池まで急な下りが続く

 

日本語探訪(その83) 慣用句「水をさす」

小学校3・4年生の教科書に登場する慣用句の第33回は「水をさす」です。

  

水をさす

 

「水をさす」の読み方

みずをさす 

 

「水をさす」の意味

うまくいっているのに邪魔をして不調にする。(広辞苑

 

「水をさす」の使い方

二人の仲に水をさす。 

 

「水をさす」の語源・由来

「水をさす」の由来は、適温のお湯や適度な濃さの料理に水をそそぐ様子にあります。お湯はぬるく、料理は味が薄くなり台無しになってしまいます。このことから、良い状態のものに邪魔をして乱すことを「水をさす」と言うようになりました。

なお、「さす(差す)」 には「注ぐ、入れる」の意味があります。

 

「水をさす」の蘊蓄

「水をさす」の類義語

「横やりを入れる」…第三者が横から人の話や仕事に口を出して妨害すること。

 

「さす」を含む故事成語・ことわざ・慣用句
噂をすれば影がさす(うわさをすればかげがさす)

噂をすれば影がさすとは、人の噂をしていると、ちょうどそこへ噂の本人が現れることがあるということ。


釘を刺す(くぎをさす)

釘を刺すとは、後で問題が起こらないように念を押すことのたとえ。

釘を打って固定するの意から。
昔の日本では釘を使わず木材を組み合わせて建築物を作っていたが、江戸時代の中頃から念のために釘を刺して固定するようになった。


鹿を指して馬と為す(しかをさしてうまとなす)

鹿を指して馬と為すとは、理屈に合わないことを、権力によって無理に押し通すことのたとえ。

史記・秦始皇本紀』にある以下の故事に基づく。
秦の始皇帝が死んだ後、悪臣の趙高が自分の権勢を試そうと二世皇帝に鹿を献上し、それを馬だと言って押し通してみた。
しかし皆が趙高を恐れていたので、反対を唱えた者はおらず、「鹿です」と言った者は処刑された。
「鹿を馬」「馬を鹿」ともいう。


死に馬に鍼を刺す(しにうまにはりをさす)

死に馬に鍼を刺すとは、死んだ馬に鍼で治療を施しても生き返ることはなく効果がないことから、なんの効果もないことのたとえ。また、絶望的な状況でも、万が一の期待をこめて最終手段をとってみることのたとえ。

 

流れに棹さす(ながれにさおさす)

流れに棹さすとは、川の流れに乗って進む舟に、棹をさすことでさらに勢いをつける意味から、好都合なことが重なり順調に事が運ぶことのたとえ。

「棹さす」の蘊蓄

ふと、夏目漱石草枕』の冒頭が浮かびました。

「智に働けば角が立つ 情に掉させば流される…」

国語辞典編集者の神永曉さんが「日本語、どうでしょう?」に書かれていた記事です。

「棹さす」は「流れに棹さす」の形で使われることが多いのだが、文化庁が発表した2012年(平成24年)度の「国語に関する世論調査」でも、本来の「機会をつかんで時流にのる、物事が思い通りに進行する」という意味で使うという人が23.4%、従来なかった「逆らう」「逆行する」の意味で使うという人が59.4%と、逆転した結果が出ている。ただ、面白いことに文化庁は数年おきにこの語の調査を行っているのだが、本来の意味で使うという人は2002年が12.4%、2006年が17.5%、そして2012年が23.4%と、調査の度にわずかながら増えている。ただ、意味がわからないという人も2012年調査では20代以上で10%を超えているので、このことば自体があまり使われなくなっているということも考えられる。

ところで、

夏目金之助さんのペンネーム「漱石」は、故事成語の「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」に由来します。「漱石枕流」の意味は「石に漱(くちすす)ぎ流れに枕する」と読み、「こじつけて言いのがれること。まけおしみの強いこと。」という意味です。

出典は『晋書(しんじょ)』の「孫楚伝(そんそでん)」です。

西晋の武将、孫楚が、「流れに漱(くちすす)ぎ、石に枕す。(意味:俗世間から離れ、山水の中で自由に生活をする。)」を、誤って「石に漱(くちすす)ぎ、流れに枕す。」と言ってしまったのを、友人の王済が指摘をしたところ、

「石に漱ぐのは歯を磨くためであって、流れに枕をするのは耳を洗うためだ!」

と無理にこじつけた、と『晋書』の一文にあります。

 

日本語探訪(その82) 慣用句「水を打ったよう」

小学校3・4年生の教科書に登場する慣用句の第32回は「水を打ったよう」です。なお、教科書には「水を打った」で出てきます。

  

水を打ったよう

 

「水を打ったよう」の読み方

みずをうったよう 

 

「水を打ったよう」の意味

大勢の人がだれも口をきかず、静まりかえっているさま。(広辞苑

 

「水を打ったようよう」の使い方

公害の衝撃的な報告に、場内は水を打ったようになり、じっと聞き入っていた。 

 

「水を打ったよう」の語源・由来

「水を打ったよう」の由来は、「水を打つ」行為にあります。

「水を打つ」というのは水を撒くことです。水を撒くとほこりが立たなくなることから  、静まりかえった様子をたとえたものです。

 

「水を打ったよう」の蘊蓄

「水を打つ」「打水(うちみず)」は夏の季語

正岡子規の「打水」を詠んだ句を集めました。

打水の松に雫す八日月/正岡子規

打水の力ぬけたる柳哉/正岡子規

四辻や打水氷る朝日影/正岡子規

打水や蘇鉄の雫松の露/正岡子規

打水や虹を投出す大柄杓/正岡子規

打水に小庭は苔の匂ひ哉/正岡子規

打水のあめふりかゝる蟇/正岡子規

打水の音さらさらと庭の竹/正岡子規

打水やまだ夕立の足らぬ町/正岡子規

打水やぬれていでたる竹の月/正岡子規

 

 

「水を打ったよう」と真逆の光景、「蜂の巣をつついたよう」

「蜂の巣をつついたよう」…手もつけられないような大さわぎのさま。(広辞苑

 

ちなみに、実際にスズメバチの巣をつつこうものなら、「手もつけられないような大さわぎ」どころではありません。

参考までに、ネット上の質問と回答を紹介します。

「蜂の巣をつつくと蜂は必ず襲ってくるんですか?」

 

【ベストアンサー】

蜂(蜂の巣)の天敵は熊です・・・
軒下などに巣を作っている場合は別にして 土の中や腐った木の根元などに
作ってある蜂の巣から 大好物の蜂蜜を盗みに来るのが熊なのです。

蜂のDNAには巣を破壊する黒いもの(つまり熊)は天敵と刷り込まれていて
黒いものに攻撃をする習性があります。

仮に棒などで蜂の巣をつついた場合は間違いなく黒い頭(顔付近)を目掛けて
攻撃してきますよ。

嘘か本当か? 試してみるには それなりの覚悟とリスクが必要ですが
物事は経験も重要ですので是非 試されてはど~ですか?

うそうそ 絶対に止めなさいよ!!

補足
白い帽子ですか・・・?
前記した様に蜂の遺伝子の中に組み込まれている黒い物に特別に強い警戒心と
攻撃性をもっていますが 他の色の動物が彼ら(蜂)の巣を破壊した場合は
黙って見て居るのか? っと言えば そんな筈は無く自分たちの住処を破壊する
者には 当然襲い掛かって来ます。
黒く無ければ襲ってこないと言う意味では有りません。

 

 

日本語探訪(その81) 慣用句「水に流す」

小学校3・4年生の教科書に登場する慣用句の第31回は「水に流す」です。

  

水に流す

 

「水に流す」の読み方

 みずにながす

 

「水に流す」の意味

過去のことをとやかく言わず、すべてなかったこととする。(広辞苑

 

「水に流す」の使い方

「多年の恨みさっぱりと、水に流して折々は」 (歌舞伎「夜討曾我狩場曙 ( ようちそがかりばのあけぼの )」1874年)

 

「水に流す」の語源・由来

「水に流す」の由来は、神事の「禊(みそぎ)」にあります。 

「禊」とは、「身に罪または穢れのある時や重大な神事などに従う前に、川や海で身を洗い清めること」(広辞苑)です。身体を水で洗い清めることから、「みそそぎ(身滌ぎ・身濯ぎ)」の約とされます。「そそぎ」は「すすぎ」の母音交換系で、「すす」は洗滌(せんでき)する際の水の音を表す擬音語とされ、「すすぐ」は水で洗い清めることが原義です。

 

「水に流す」の蘊蓄

「汚名」は「水に流」さずに「すすぐ」

「すすぐ」…けがれをきよめる。(広辞苑

すすぐ行為は、「水に流す」の由来である禊です。つまり、ここにおいては「水に流す」と「すすぐ」は同義です。

「汚名をすすぐ」(「汚名を雪ぐ」とも書きます)と言います。が、「汚名を水に流す」とは普通は言いません。

どうしてでしょう。

「すすぐ」には、「けがれをきよめる」のほかに、「水で洗い清める」「口をゆすぐ。うがいする」「汚名を除き払う」(広辞苑)という意味があります。

「すすぐ」=「汚名を除き払う」行為が、「汚名をすすぐ」「恥をすすぐ」となるのです。それは単に「汚名」や「恥」を「水に流」して、すべてなかったことにすることではないのです。「除き払う」という営為がなければ、「雪辱」=「辱(はじ)を雪(すす)ぐこと」にはならないということです。