教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 1月25日

日本最低気温の日

 

1902(明治35)年の1月25日、北海道旭川市で日本の気象観測史上の最低気温であるマイナス41.0℃を記録しました。

 

新田次郎の著作に『八甲田山死の彷徨』があります。

小説のもとになったのは、旧陸軍が日露戦争に備えておこなった訓練での出来事です。訓練中に大寒波に見舞われ、参加した青森歩兵第5連隊の210人のうち199人が亡くなりました。1902年1月24日のことです。

旭川市で最低気温が記録されたのは、この遭難の翌朝でした。

 

ただし、気象庁の公式記録ではありませんが、幌加内町母子里にマイナス41.2℃という記録があります。

1978年(昭和53年)2月17日に北海道の幌加内町母子里(ほろかないちょうもしり)の北大演習林でマイナス41.2℃を記録したが、気象庁の公式記録の対象から外れていたため、公式では上記の旭川市の記録が最低気温となっている。2月17日は記念日として「天使の囁きの日」となっている。       (雑学ネタ帳)

 

30年余り前、幌加内町にある朱鞠内(しゅまりない)湖を訪ねたことがあります。湖畔に、町内の母子里で「最低気温マイナス41.2℃」を記録したことを示す看板がありました。以来ずっと、私は日本の最低気温は母子里のマイナス41.2℃と思い込んでいました。気象庁の「お墨付き」はありませんが、私の記念日は「2月17日」のまま、アップデートせずにおきたいと思います。

 

                       (気象庁HPより)

 

以下、「雑学ネタ帳」の記事より。

また、富士山頂の最低気温としては、1981年(昭和56年)2月27日にマイナス38.0℃を記録している。年間平均気温(1981~2010年)は富士山頂がマイナス6.2℃、旭川市が6.9℃で、富士山頂のほうが13.1℃も低い。年間平均気温で見ると富士山頂が日本で最も寒い場所と言える。

ちなみに、世界の最低気温の記録は1983年(昭和58年)7月21日に南極大陸のロシア・ヴォストーク基地で観測されたマイナス89.2℃であった。その後、記録が更新され、2010年(平成22年)8月10日に南極大陸の東部のドームA付近でマイナス93.2℃を観測し、これが世界の最低気温となっている。

2021年(令和3年)1月時点で、「日本最高気温の日」は7月23日(埼玉県熊谷市・2018年)と8月17日(静岡県浜松市・2020年)となっている。その最高気温は41.1℃である。

 

きょうは何の日 1月22日

カレーの日

 

1982(昭和57)年、社団法人全国学校栄養士協議会が、学校給食週間前の1月22日に「全国一斉献立カレーライスの日」として子供たちに好まれていたカレーを全国の学校給食メニューとして提供を呼びかけました。
全日本カレー工業協同組合がこの日を「カレーの日」に制定し、2016(平成28)年に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録されました。

 

「全日本カレー工業協同組合」のHPより引きます。

カレーとは?
 カレーは(Curry)の語源としては、各種スパイスで具材を煮込んだ汁状のもの、即ちインドのタミール語のソースの意のカリ(Kari)から転じたという説や「香り高いもの」、「美味しいもの」という意味で使われるヒンズー語の「ターカリー」(Turcarri)から「ターリ」(Turri)に転じ、英名になったという説やその他の説があります。いずれにしても、インドを中心とした熱帯、亜熱帯地方でのスパイシーな料理を総称して英語で《カレー》と呼ぶようになったものです。
 本場のインドでは、今でもほとんどの家庭が自己の処方に合わせたカレー料理を作っていますので、その種類は数百種にのぼります。例えば、肉類のほか魚介類中心のもの、野菜だけのものなどがあり、香り、色、辛味はお好み次第と言った具合ですが、日本のようなトロ味のあるものが少なく、サラッとしたものがほとんどです。
 カレー料理は、17世紀インドを統治していたイギリスに伝えられ王室メニューに加えられたと言われています。その後欧風にアレンジされ、当初親しまれた上流社会から一般家庭にも広がるようになり、18世紀末にはCross&Black well社によりカレー粉が企業化され、市販されるに至りカレー料理は欧州諸国で一時流行しました。
 我が国へは、明治初期イギリスより料理法とともに上記C&B社のカレー粉が渡来し、米飯と結びついて《ライスカレー》として国内に広まってきたのです。
 日本のカレーに欠かせないものとしては、肉類等の蛋白源のほか、じゃがいも、にんじん、玉ねぎがありますが、ルーツであるインドのものはタマネギとトマトが中心、トロ味をつける小麦粉はイギリス渡来後のものです。じゃがいも、にんじんがカレーに使われ出したのは、それらの栽培が普及してからであり、にんじん、玉ねぎについては明治20年以降のことです。
 カレーの普及は、明治の後期頃まで西洋料理店が主な媒介でしたが、明治の末期より、ライスカレーカレーうどんやカレーそばが食堂のメニューに出るようになって次第に大衆化されましたが、国内にカレーを広く浸透させた契機は、軍隊食メニューにライスカレーが採用されたことと栄養的にも、また料理の簡便さでも優れたカレーが集団給食にむいていたことが理由と考えられます。除隊した軍人たちは家庭にカレー料理のノウハウを持ち帰り、全国普及の役割を果たしたわけです。
 戦後の学校給食に採用されたカレーも、同様な理由でカレー普及の大きな力となっています。
 明治時代は、輸入のカレー粉に依存してきましたが、大正に入るや研究心旺盛な企業により、カレー粉の国産化が開始され、大正の末期には粉状タイプの即席カレー(カレールウ)も散見されました。第2次大戦後の昭和25〜6年には各メーカーにより各種タイプカレールウが次々と開発されました。一般家庭にこれらカレー製品が広く浸透していったのは、昭和30年代以降であり、この頃には缶詰カレーが、昭和40年代半ばには、日本の独創品であるレトルトカレーが商品化されています。また、昭和60年代に入り、電子レンジカレーも発売されました。
 一般にカレー製品は、カレー粉、カレールウ及び調理済みカレーに大別されます。

 

きょうは何の日 1月19日

のど自慢の日

 

1946(昭和21)年1月19日、NHKラジオの「のど自慢素人音楽会」が始まりました。この初回放送を記念して日本放送協会(NHK)が「のど自慢の日」に制定しました。

 

初めての聴取者が参加できる娯楽番組であった。第一回の予選では、モンペや復員兵スタイルの人が朝早くから900人も集まった。予選通過者は30人で競争率は30倍。人気のあった曲は「りんごの唄」「旅の夜風」「誰か故郷を思わざる」などだった。当初は鐘もなく、司会者が口頭で合格者に「合格です」、不合格者には「けっこうです」と告げていた。                 (雑学ネタ帳)

 

「NHKアーカイブス」より引用します。

NHKのど自慢

戦後まもなく、ラジオ番組としてスタート
『のど自慢』が始まったのは、1946(昭和21)年1月19日。ラジオ第1放送の番組で、最初は『のど自慢素人音楽会』という番組名だった。

敗戦からわずか5か月後。戦後の荒廃と混乱の中で、ラジオが数少ない娯楽の中心だった時代だった。戦時中は軍国歌謡や行進曲ばかりが流れていたが、新しい歌謡曲が誕生し、ラジオの音楽は著しい変化を迎えていた。

番組を企画したのは企画魔として知られた三枝健剛プロデューサー(当時)。音楽家三枝成彰氏の父である。こんな時代だからこそ、「国民に気持ちよく歌を歌ってもらおう」という考えからで、“マイクの大衆への解放”、“大衆化の象徴”という役割を担っていた。

『のど自慢素人音楽会』スタジオの様子(1946年2月撮影)

第1回の出場者は、ラジオのニュースで募集した。すると900人を超す応募者が東京・千代田区内幸町にあった放送会館に殺到した。担当者は、1日に300人ずつテストをして、番組に出演する合格者を選んだという。のちにこの予選会の様子も面白いということで随時「テスト風景」として放送するようになっていく。

番組はまもなく、ラジオ第1放送で毎週日曜の午後4時から30分間の定時番組となった。

第1回の放送は、高橋圭三アナウンサーが担当。その後は、高橋のほか、太田一郎、大野臻太郎、田辺正晴、大野拓、島野俊男、宮田輝らのアナウンサーが交替で担当した。

『のど自慢素人音楽会』


シンボルの「鐘」が生まれるまで
『のど自慢』といえば、合格・不合格を伝える「鐘」の演出で知られているが、番組のスタート当初、鐘はまだ使われておらず、合格の場合は司会者が「おめでとうございます。合格です」、不合格の場合は「もう結構です」と言葉で伝えていた。ところが、不合格の人が「歌の出来が“結構”」と取り違えて、ぬか喜びするケースが続出。そんな時、スタッフが楽器倉庫の隅にあった鐘を見つけて「これを鳴らせば…」ということになったとか。

その結果、合格・不合格もわかりやすく、番組のメリハリも付き、番組のシンボルにもなったのである。


歌だけでなく、演芸も加えた番組に
番組は1947(昭和22)年の7月、歌のほかに演芸を加えて、番組名も『のど自慢素人演芸会』に変わった。

当初、5~6人のアナウンサーが交替で担当していた『のど自慢素人演芸会』だが、1949(昭和24)年10月ごろから、宮田輝アナウンサーが毎週司会を務めた。
(以下略)

 

 

きょうは何の日 1月16日

籔入り

 

藪入り(やぶいり)とは、かつて商家などに住み込み奉公していた丁稚や女中など奉公人が旧暦1月16日と旧暦7月16日に実家へと帰ることのできた休日をいいます。

 

大辞泉」によれば、

《草深い田舎に帰る意から》正月と盆の16日前後に奉公人が主人から休暇をもらって、親もとなどに帰ること。また、その時期。特に正月のものをいい、盆のものは「後(のち)の藪入り」ともいう。宿入り。宿さがり。宿おり。

とあります。

 

以下、「Wikipedia」より引用します。

由来
藪入りの習慣が都市の商家を中心に広まったのは江戸時代である。本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において嫁が実家へと帰る日だったとされるが、都市化の進展に伴い商家の習慣へと転じた。関西地方や鹿児島地方ではオヤゲンゾ(親見参)などと呼ぶところもある 。六のつく日に行われることから、関西では六入りとの呼び名もある。

藪入りの日がこの二日となったのは、旧暦1月15日(小正月)と旧暦7月15日(盆)がそれぞれ重要な祭日であり、嫁入り先・奉公先での行事を済ませた上で実家でも行事に参加できるようにという意図だったとされる。そのうちに、地獄で閻魔大王が亡者を責めさいなむことをやめる賽日であるとされるようになり、各地の閻魔堂や十王堂で開帳が行われ、縁日がたつようになった。

変遷
藪入りの日となると、主人は奉公人たちにお仕着せの着物や履物を与え、小遣いを与え、さらに手土産を持たせて実家へと送り出した。実家では両親が待っており、親子水入らずで休日を楽しんだ。また、遠方から出てきたものや成人したものには実家へ帰ることができないものも多く、彼らは芝居見物や買い物などをして休日を楽しんだ。

藪入りは正月と盆の付随行事であったため、明治維新が起き、太陰暦から太陽暦への改暦が行われると、藪入りも正月と盆に連動してそのまま新暦へと移行した。文明開化後も商家の労働スタイルにはそれほどの変化はなく、さらに産業化の進展に伴い労働者の数が増大したため、藪入りはさらに大きな行事となった。藪入りの日は浅草などの繁華街は奉公人たちでにぎわい、なかでも活動写真(映画)などはこれによって大きく発展した。

第二次世界大戦後、労働基準法の強化などにより労働スタイルが変化し、日曜日を休日とするようになると藪入りはすたれ、正月休み・盆休みに統合されるようになった。藪入りの伝統は正月や盆の帰省として名残を残している。

語源と影響
藪入りの語源には諸説あり、はっきりしない。藪の深い田舎に帰るからという説、「宿入り」(実家へ帰る)からの転訛などの説がある。なお、同様に大奥の女性たちが実家に帰ることは「宿下がり」と呼ばれる。

藪入りは奉公人たちにとっては年に2度だけの貴重な休日であり、重大なイベントであったため、これにちなんだ小説や俳句、落語(「藪入り、旧題お釜さま」など)なども多く残っている。

 

きょうは何の日 1月13日

咸臨丸出航記念日

 

1860(万延元)年1月13日(旧暦)、咸臨丸がアメリカに向けて出航しました。

 

江戸幕府の軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」が、江戸品川沖を出発したのが1860年(万延元年)の今日(旧暦1月13日)とされる。

その咸臨丸には、勝海舟(艦長)・福澤諭吉中浜万次郎(ジョン万次郎:通訳)らの遣米使節が乗っていた。日米修好通商条約の批准書の交換が目的であったが、日本人初の正式な太平洋横断航海でもあった。また、咸臨丸がアメリカ・サンフランシスコに到着した日は同年の旧暦2月26日で、その日は「咸臨丸の日」となっている。

咸臨丸は、木造でバーク式の3本マストを備えた蒸気コルベットであった。「咸臨」とは古代中国の書物『易経(えききょう)』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。

                            (雑学ネタ帳)

 

咸臨丸については、「じゃらん」の記事より紹介します。

咸臨丸(かんりんまる)とは、幕末期に江戸幕府保有していた初期軍艦。木造で3本のマストを持つ蒸気船である。「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。

洋式の軍艦としては、観光丸(外輪船)に次ぐ2番艦であるが、洋式のスクリューを装備する船としては初の軍艦である。幕府の船として初めて太平洋を往復したことから名を知られる。幕府の練習艦として用いられた後、戊辰戦争に参加するものの、軍艦としての機能は他艦に劣り、既に運送船の役割を担っていた咸臨丸は新政府軍によって拿捕される。明治政府に接収された後、開拓使の輸送船となった。

【艦歴】
1855(安政元)年7月、オランダのキンデルダイクにて起工。
1857(安政3)年3月、完成。8月4日(旧暦)、日本へ送られ、長崎海軍伝習所練習艦となる。
1860(万延元)年旧暦1月13日、日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団一行がアメリカ軍艦ポーハタン号にて太平洋を横断。咸臨丸はポーハタン号の別船として品川を出帆。旧暦2月26日(新暦3月17日)にサンフランシスコに入港。艦長は勝海舟

1862(文久元)年、小笠原諸島を巡視し、父島と母島を探検(艦長は小野友五郎)。
1866(慶応元)年、酷使が祟り、疲弊が激しく故障頻発していた蒸気機関を撤去。帆船となる。
1868(慶応3)年、戊辰戦争が起こる。
 旧暦8月19日、海軍副総裁榎本武揚の指揮で品川沖を脱走。
 旧暦8月23日、銚子沖で暴風雨に遭い、下田港に漂着。
 旧暦9月11日、咸臨丸は修理が遅れたため新政府軍艦隊に追い付かれ、新政府軍艦隊に敗北。乗組員の多くは戦死または捕虜となる。逆賊として放置された乗組員の遺体を清水次郎長清水市築地町に埋葬。

1871(明治3)年旧暦9月19日、北海道木古内町泉沢沖で暴風雨により遭難し、沈没する。
1887(明治20)年、清水次郎長清水市興津の清見寺に咸臨丸乗組員殉難碑を建立。
1984(昭和59)年、サラキ岬沖で鉄製の朽ちた錨が発見される。
2006(平成18)年9月20日、錨は咸臨丸のものと発表される。

 

「在ニューヨーク日本国総領事館」のHPに、咸臨丸にまつわる記事が掲載されています。

咸臨丸の太平洋横断の話


前列右から福沢諭吉(木村摂津守従僕)、

肥田浜五郎(軍艦操練所教授方)、浜口与右衛門(同)、

後列右から岡田井蔵(軍艦操練所教授方手伝)、

小永井五八郎(軍艦操練所勤番公用方下役)、

根津欽次郎(軍艦操練所教授方手伝)の面々。
遣米使節団と同じ時期に太平洋を越えた船が遣米使節護衛艦として派遣された咸臨丸です。1860年1月、咸臨丸は軍艦奉行木村摂津守と艦長勝麟太郎のもと約90名の乗組員を乗せて浦賀を出航します。連日連夜暴風雨に見舞われ、初めての大航海に日本人乗員は大変な苦労を強いられますが、同乗していたアメリカ海軍ブルック大尉以下の助力もあって、出航から37日後の2月22日無事サンフランシスコに入港しました。咸臨丸一行は、サンフランシスコで連日大歓迎を受け、サンフランシスコ市民は日本から来た珍しい一団の冒険心を称えたそうです。損傷箇所の修復を受けた咸臨丸は3月19日帰途につき、復路は大きな嵐もなく無事5月5日、浦賀に入港し、日本人初の太平洋横断航海は終わりました。一行の中には、通訳としてジョン万次郎の他、後に慶応大学を起こす福沢諭吉等がいました。咸臨丸の偉業を偲ぶものとしてサンフランシスコ西の端、太平洋を見下ろす一角、リンカーンパークに大阪市が寄贈した咸臨丸のサンフランシスコ入港100年の記念碑が建てられています。


咸臨丸こぼれ話1 咸臨丸乗組員の墓(最初の日本人墓地)

左から富蔵、峯吉、源之助の墓石

厳しい航海で衰弱した富蔵、峯吉の二人の水夫は、サンフランシスコ到着後まもなく病死し、出航後病死した源之助とあわせて三人は当地で厚く葬られました。現在、サンフランシスコ郊外、コルマ市の日系人墓地の一角に彼らの墓があります。


咸臨丸こぼれ話2 勝海舟の青い目の孫娘

艦長勝海舟

艦長を務めた勝海舟徳川幕府の役人で、海軍建設に功績がありましたが、合理的で開明的な精神の持ち主であったため、明治政府にも重用され長く指導的役割を果たしました。その息子梶梅太郎は、明治時代に国立のビジネス大学(後の一橋大学)創立のために政府から招かれていたウィリアム・ホイットニーの娘、クララと結婚します。二人の間には6人の子供が生まれますが、クララは末娘ヒルダとともにフィラデルフィアに帰ります。1974年、日本の新聞は、ヒルダが生まれ故郷を訪れ祖父勝海舟の墓参りをしたことを報じています。

 

 

卯年・ウサギの本…『ガラスのうさぎ』(高木敏子)

ガラスのうさぎ』(高木敏子

 

ガラスのうさぎ高木敏子著(金の星社 1977年初版)

 

Amazon 内容(「BOOK」データベースより)

1945年3月10日、東京大空襲。東京の町は、戦火につつまれた。焼け跡には、敏子の家にあった「ガラスのうさぎ」が、ぐにゃぐにゃになって、ころがっていた。うさぎは、燃えさかる炎に身を焼かれながらも、戦争の悲惨さを、みつめつづけていたのだった―。東京大空襲で母と妹をうしない、その後、機銃掃射で父をも―。戦争の中を生きぬいた著者が、平和への祈りをこめて、少女時代の体験をつづった、感動のノンフィクション。

一九四五年三月十日の東京大空襲で、十二歳の敏子は母と二人の妹を失った。焼け跡には、敏子の家にあったガラスのうさぎが、変わりはてた姿でころがっていた。うさぎは、燃えさかる炎に身を焼かれながらも、戦争の悲惨さを見つめ続けていたのだった…。戦争の中を生きぬいた著者が、平和への祈りをこめて少女時代の体験をつづった感動のノンフィクション。戦時用語など語句の解説を増やした待望の新版。小学校高学年・中学校向き。

 

Wikipediaガラスのうさぎ」より

概略
太平洋戦争末期、東京を標的としたアメリカ軍による大規模な無差別爆撃が繰り返し行われたが、本作品では1945年(昭和20年)3月10日(3月9日深夜過ぎての3月10日未明)の東京大空襲ミーティングハウス2号作戦が扱われている。

主人公である敏子の母と妹二人を奪った空襲の焼跡には、ガラス工場を営んでいた敏子の父が作ってくれたガラス細工のウサギが歪んだ形でありながら残っていた。そして、その父も疎開途中の神奈川県二宮町アメリカ陸軍航空軍のP51ムスタングの機銃掃射に遭い、敏子の目の前で命を落としてしまった。

1977年(昭和52年)、敏子の両親と妹たちの33回忌に寄せて自費出版した「私の戦争体験」が編集者の目にとまり、子供向けに加筆して『ガラスのうさぎ』のタイトルで金の星社から出版された。

1978年、第20回厚生省児童福祉文化奨励賞を受賞[2]。1979年、日本ジャーナリスト会議奨励賞を受賞。1978年度の第24回青少年読書感想文全国コンクール課題図書に選ばれた。

2000年(平成12年)には、若い読者向けに注釈を加えた新版を刊行。

2005年(平成17年)、敏子はこの作品および後の平和活動を評価されエイボン女性大賞を受賞した。2018年時点で発行部数は約240万部である。

 

1『ガラスのうさぎ武部本一郎:画、金の星社、1977年12月
2『ガラスのうさぎ武部本一郎:画、金の星社フォア文庫、1979年10月
3『新版 ガラスのうさぎ武部本一郎:画、金の星社、2000年2月
4『新版 ガラスのうさぎ武部本一郎:画、金の星社フォア文庫、2005年6月

現在、3と4が入手可能です。

なお、「Wikipedia」には2の発行年が「1980年10月」とありますが、正しくは「1979年10月」です。(私の手もとに80年5月の7刷版があります)

 

 

この本にはウサギが登場しますが、タイトルにもあるようにガラス製です。

父の作ったガラスの置物がウサギであったことは、単なる偶然であったかもしれません。しかし、ウサギであったことが、戦争と平和を考える上で強いインパクトになっているように思います。

戦後77年が過ぎ、戦争の時代を知る人がほとんどいなくなってきました。だからこそ、読み継がれてほしい1冊です。

卯年・ウサギの本…『兎の眼』(灰谷健次郎)③

兎の眼』のことを書いたので、ウサギとは無関係ですが『太陽の子(てだのふあ)』に触れないわけにはいきません。

 

『太陽の子』灰谷健次郎著(理論社 1978年初版)

1976年1月号より1978年6月号まで雑誌『教育評論』に連載され、同年理論社より単行本として刊行。私の手もとにあるのは、1979年3月の11刷です。

 

Amazon 内容(「BOOK」データベースより)

ふうちゃんは、神戸生まれの女の子。おとうさんとおかあさんは沖縄出身で、神戸の下町で琉球料理の店「てだのふあ・おきなわ亭」を営んでいる。やさしい常連さんたちに囲まれて明るく育ったふうちゃんだが、六年生になった頃、おとうさんが心の病気で苦しむようになる。おとうさんの病気の原因は何なのか?ふうちゃんは、「沖縄と戦争」にその鍵があることに気づきはじめる…。戦争は本当に終わっているのだろうか。なぜおとうさんの心の中でだけ戦争は続くのか?今、日本人が本当に知らなくてはならないことがここにある。

 

Wikipedia「太陽の子」より

あらすじ
小学6年生の少女・ふうちゃんは、神戸の海岸に近い下町にある沖縄料理店「てだのふあ・おきなわ亭」の一人娘。両親は沖縄出身で、店には母の遠戚に当たるオジやん、鋳物工場で働く青年のギッチョンチョンとその先輩の昭吉くん、左腕のない溶接工のろくさん、父の親友のゴロちゃんといったやはり沖縄出身の人々、そして神戸生まれで艀乗りのギンちゃんといった常連が集まっていた。神戸で生まれ育ったふうちゃんは自分のふるさとが神戸と沖縄のどちらなのだろうかという思いを抱いていた。

初秋のある日、ふうちゃん一家は神戸の山の方にいた。ピクニックの趣だったが、それは神経科を受診する父の付き添いだった。ふうちゃんの父はこの半年の間に精神を病んで家族ともほとんど会話しなくなった。父は発作を起こすと「ふうちゃんが殺されるやろが」とつぶやいたり、ふうちゃんを抱きしめて泣いたりした。ふうちゃんを気にした担任の梶山先生は、沖縄の草花遊びの載った雑誌を贈る。ふうちゃんは草花遊びを店に飾って父を喜ばせようと考える。

ギッチョンチョンは沖縄出身のキヨシという少年を店に連れてくる。キヨシに沖縄の言葉を教えようとしたギッチョンチョンは、言葉の問題で自殺した沖縄出身者を軽蔑したギンちゃんを殴った。店で喧嘩した罰としてふうちゃんは二人に草花遊びづくりを手伝わせた。ギッチョンチョンは、キヨシが金を持って出ていったことや親と離れて育ち「捨てられた」と誤解していることを明かし、「肝苦(ちむぐ)りさ」だと話す。草花遊びで店を飾ると常連客は歓迎したが、ろくさんは店の外でアダンの葉で作った風車を握って泣いていた。ふうちゃんは母からろくさんが戦争で子どもを亡くしたと聞く。だが、それ以上の戦争の話は「悲しいことは一日も早く忘れてしまいたいやろ」と教えてもらえない。ふうちゃんはギッチョンチョンに頼んで沖縄戦の写真の載った本を見せてもらう。しかし集団自決の写真を見て嘔吐してしまう。

ふうちゃんはキヨシが勤めていた料亭で「オキナワ」と蔑まれていたことを知る。ギッチョンチョンの金を返しにきたキヨシを追いかけたふうちゃんは右足のアキレス腱を切って入院した。ふうちゃんは父がなかなか見舞いに来ないことを不審に思う。病院で付き添ったキヨシはおきなわ亭で働くことになる。沖縄出身の若い女性が孤独死したという新聞記事をきっかけに、キヨシは自分の姉が19歳で自殺したことをふうちゃんに打ち明ける。それ以来、キヨシは進んで沖縄料理を覚えたりするようになった。

全快後、ふうちゃんは自分の入院中に発作を起こした父が同級生の家に現れ、警察に通報されたあと病院に5日間入れられたことを知る。キヨシはふうちゃんを元気づけようと、沖縄菓子を作ったり、ギッチョンチョンからふうちゃんが付き添いを頼まれたデートを実行するなどした。

梶山先生が授業で自分たちの歴史をたどる勉強をしようと呼びかけたのに応じて、ふうちゃんはもう一度沖縄の歴史を調べようとする。だが周囲の人に話を聞けば相手の辛い部分に触れてしまうことに悩み、先生に手紙を書く。先生はふうちゃんの気持ちを思いやれなかった自分を恥じる、いっしょに勉強したいと返事に記した。

ふうちゃんの父が一人で外出して不審な行動をしているという話があり、その現場である明石市の海岸に行ったふうちゃんの母やゴロちゃんは、その場所が父が少年時代に戦火にあった沖縄本島南部の海岸に似ていることに気づく。父の発症の原因が戦争と関係しているとわかったことに周囲の人々はショックを受ける。キヨシは自分の姉の死や母が家を出て行った理由を考えるようになる。キヨシは所在のわかった母親にふうちゃんと会いに行き、その疑問をぶつけた。母は今は話せないが必ず手紙で説明すると涙ながらに答える。まもなく手紙が届くが、キヨシはいつもの通りだった。

その矢先キヨシはかつての不良仲間から、グループを抜けた制裁として殴打を受ける。キヨシは抵抗せずに耐えていたが、沖縄を侮辱する言葉を聞いて相手を傷つける。重傷を負ったキヨシは入院して二度にわたる手術を受けた。キヨシが回復に向かうと警察が事情聴取に病院に来る。過去の前科があり、今度も相手に傷を負わせているという理由だった。居合わせたろくさんは「警察は公平な立場」「沖縄も関係なく法の前には平等」という警官に根元しかない左手を見せ、日本兵の命令で幼いわが子をこの手で殺し集団自決に参加したことを告げて、これでも平等と言えるのかと尋ねると警官は沈黙した。その夜、ふうちゃんの母は父が幼少期に辛い目に遭ってきたことをふうちゃんに話す。翌日、キヨシは自分で書いた手紙をふうちゃんに渡した。その中にはキヨシの母の過去について触れられていた。

ふうちゃんの卒業とキヨシの退院に合わせ、ふうちゃんの母は一家とキヨシで父の故郷である波照間島に行くことを決める。だが、出発前夜、父は急逝する。物語は、ふうちゃんがキヨシと冒頭の「ピクニック」の場所にもう一度来た場面で幕を閉じる。

 

私にとって、この本はオキナワとの出会いでした。ふり返ってみると、戦争や差別のことを考える礎石になったと思います。

灰谷健次郎さんの著書はほぼ読んだと思いますが、『兎の眼』と『太陽の子』は特別な2冊です。(現在、この2冊は別の出版社から出されている文庫本で入手できます)

 

1981年、『兎の眼』と『太陽の子』の発行元である理論社が、両書の愛読者手記集を刊行します。

『99の人生との出会い 第1集 ぼくらが生きがいを紡ぐとき』

『99の人生との出会い 第2集 父母と子どもをつなぐ結び目を考える』

『99の人生との出会い 第3集 やさしさと思いやりの根本をみつめる』

平たくいえば「感想文集」です。そんなものが単行本として編まれることも驚きですが、それが3冊も同時に出されたのです。

元が良ければ、感想もそれに触発されるようです。深く心に残る手記がいくつもありました。そしてそれらが、『兎の眼』と『太陽の子』の理解と世界を一層豊かにしてくれたように思えます。

理論誌は2010年に民事再生法の適用を申請し、社名も含めて他社へ事業譲渡されています。『99の人生との出会い』は、残念ながら古書店か図書館でしか目にすることはできません。

 

 

灰谷さんは、1983年に「太陽の子保育園」(神戸市)を設立します。

その少し後に、氏を招いて講演会を催しました。そのとき、私はアポを取る世話役をしていました。講演会当日は司会・進行役でした。講演後の懇親会で、ある年配の女性が「とても素敵な先生なのに、どうして離婚されたのですか」と少々強めに質されました。そのことには直接答えられず、いささか困った顔をされていたのを懐かしく思い出されます。「価値観」の問題だったのかなあと、今は思います。

灰谷さんは1991年に沖縄県渡嘉敷島に移り住み、2006年に72歳で亡くなられました。