教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

学級目標は過程の共有化が大事

 学級目標は、教室の装飾品ではありません。重要なのは、目標に向けての歩みを担任と子どもたちが共有することです。歩み=過程の共有化には評価が欠かせません。評価はポイントを押さえて的確に褒めることですが、これが難しい。

 

《始業式の日の学級通信》

たんぽぽの花のように生きよう!!
      タンポポのようなクラスを作ろう!!

 

5年生の始業式の日に「たんぽぽの花のように生きよう!!  タンポポのようなクラスを作ろう!!」という学級目標を掲げたクラスのその後です。

 


《1学期終業式の日の学級通信》

        5年生の1学期は?,△?,×?
 今日は1学期の終業式。一人ひとりの学習や生活の様子は、「あゆみ」を見てほしい。ここでは、「クラス」としてどうだったかを考えてみたい。
 いたずらと保健室へ行く人の多さでトップだったころと比べると、今のきみたちは別人のように落ち着いている。ほんの少し大人に近づいたということもあるだろうが、きみたちは成長した。しかし、これも外から見れば、へこんでいたのが平らになったに過ぎないのかも知れない。
 私たちの目標は、「教室」という入れ物に静かに入っていることではない。それは「クラス」を作っていくためのスタートでしかない。私たちは、やっとそのスタートラインに立とうとしている。ーーと、先生は見ている。
 私たちがめざしているのは、「タンポポのようなクラス」を作ることだ。それは一言で言うと、それぞれのよさを生かしながら、一人ひとりを輝かせてくれるクラスを作るということだ。一人ひとりが輝いて見える場面には、いくつも出合わせてもらった。しかし、タンポポの花の輝きにはなっていない。
 きみたちと出会った4月、忘れられないことがある。それは、「お楽しみ会をしたらもめるだけだから、お楽しみ係は作らない。」「花を飾ったら花びんが割れるだけだから、花をかざらない。」と、きみたちが言い切ったことだ。事実、だれ一人として花を持ってきた人はいなかったし、教室をきれいに飾った人もいなかった。お楽しみ会もなかった。みんなのために何かをするという姿は、あまり見られなかった。
 やっとスタートラインに立とうとしていると思えるようになったことは、うれしい。でも、先生は今のクラスの姿に満足していないし、むしろ残念に思っている。何とかしようという声がどこからも出てこないことも、また残念に思っている。
 2学期は、係の名前も中身も、学級会のやり方も、朝の会や帰りの会も、全部変える。仲良しの友だちのためにだけではなく、みんなのために一生けんめいになることが、すてきだと思えるクラスにしたい。9月からがんばろうな。

 

文字にしていることはやや抽象的ですが、これをベースに具体的な中身を加えながら話しています。

 

以下に、折々の評価コメントを掲載します。実際には子どもの日記などがあって、その後にコメントしているのですが、ここでは省略します。

 

《2学期終業式の日の学級通信》

              続・冬空にタンポポの花一輪
 1学期末の「蒲公英」で、先生は「タンポポの花の輝きにはなっていない」ことが残念だと書いた。

 初めてお楽しみ会をした後の「蒲公英」では、「今までのきみたちに一番足りなかった力を、ほんのちょっとつかめたような気がします」と書いた。

 お米についての長い討論の末に実現した手巻き寿司パーティー後の「蒲公英」では、「私たちのクラスに今やっと1輪のタンポポが花開こうとしている」と書いた。

 そして今、きみたちに次の言葉を贈りたい。「冬空の下に私たちのタンポポが1輪、今、花開いた。」
 覚えておいてほしい。みんなの心が一つに重なった時、あの美しいハーモニーが生まれたということを。そして、やり終えた後の満たされた気持ちと、拍手の心地よさを。タンポポは1輪で咲くより野原一面に咲く方がもっといい。私たちのめざす「タンポポのようなクラス」は野原なのだ。群れ咲くタンポポの美しさは、日食の時紹介したダイヤモンドリングの輝きと同じだ。新しい年を迎えると同時に6年生からリーダーを引き継ぐきみたちに、先生は心から期待している。

 


  《6年生2学期終業式の日の学級通信》

      音楽発表で「タンポポ」の大輪開く!
 私たちは、一人ひとりが「たんぽぽ」になること、そしてクラスが一つの「タンポポ」になることを目標にしてきました。16日は、そんな私たちの「記念日」になりました。去年の今ごろ、『蒲公英』№63に学年発表のことを書いています。ぜひ、読み返してください。この1年間の歩みを振り返りながら、これからの3ヶ月を見つめましょう。

 

《卒業式の日の学級通信》

        出会いに乾杯!!~「蒲公英の子ら」へ~
 24名のなかまのみなさん、卒業おめでとう。卒業証書を手に巣立ち行くきみたちに、はなむけの言葉を贈りたいと思います。
 個としての「たんぽぽ」と集団としての「タンポポ」をめざして、私たちは2年間ともに歩んできました。決して立派な完成品ができあがったわけではありません。しかし、きみたちはよく努力したし、まちがいなくきみたちは変わったと思います。
 そもそも、個としての「たんぽぽ」にゴールなどありません。個性とは、生ある限り磨き続けていくものです。それでも、今たしかに言えることは、一人ひとりが「タンポポ」を構成する一つの花であるという自覚を持って生きるようになったこと、一つの「たんぽぽ」としてよりよく生きようと努力するようになったということです。音楽発表会を控えた12月12日、Hさんは日記にこう書きました。「みんなやる気を出して、全員で歌いたい。今までは歌詞がまちがっていそうで大きな声で歌えなかったけど、今はちがう。大きな声で歌える。私は、そうなっている。みんなも大きな声で歌ってほしい。」ぼくはこんな日記が出てくるのをずっと待っていたし、この日記を見た時、発表会の成功を確信しました。
 集団としての「タンポポ」は、今日で一応の終わりを迎えます。消えるわけではありませんが、これ以上にどうにかする努力はもうできません。そういう意味では、今日がゴールということになります。とびきりではないけれど、十分にきれいな「タンポポ」に育ったと思います。思い返せば、「お楽しみ会をしたらもめるだけだから、お楽しみ係は作らない。」「花を飾ったら花びんが割れるだけだから、花を飾らない。」という現実から私たちの2年間が始まりました。5年生1学期末の『蒲公英』№29には、「先生は今のクラスの姿に満足していないし、むしろ残念に思っている」と書いています。12月16日の手巻き寿司パーティー後の『蒲公英』№61に、「季節は冬を迎えたけれど、私たちのクラスに今やっと1輪のタンポポが花開こうとしている。」とあり、直後の全校集会を伝える『蒲公英』№62,63のタイトルは「冬空にタンポポの花一輪」となっています。そして5年生最後の『蒲公英』には、「きみたちに求めたいのは、ゲームで『一つになる』ことではない。そのことを第一歩として、学習やなかまのことを考え合うことで、『一つになる』ことだ。」と「宿題」が記されています。そして、この1年の歩みがあるわけです。きみたちはすてきな「タンポポ」として、今「栄光の架橋」(注:卒業式のなかで歌った曲)の上にいます。
 学級つうしん『蒲公英』は、なかまをつなぐ「ボンド」でありたいと願いつつ号を重ね、今最終号を書いています。「魔法のボンド」ほど効き目はなくても、『蒲公英』を配った時に一瞬静かになる空気がぼくは大好きでした。今後、『蒲公英』というタイトルの通信は二度と発行しません。そして、きみたちのこの2年間の歩みを心に刻んで、「蒲公英の子ら」と呼びたいと思います。
 出会いに乾杯!これからもきみたちのとなりを歩く一人でありたいと思います。健闘を心から祈っています。

 

通信のその部分だけを並べると何だかくどい感じがしますが、リアルタイムでは期間も空いているし、内容も記憶から遠のいていきます。節目節目に成長のあとを振り返り、目標に照らして評価することで、教師と子どもが成果と課題を共有できるのだと考えます。