教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

経験は○、経験主義は×

教師は授業で勝負する、と言います。では、その専門性をどのようにして身につけ、自らを磨き高めていくのでしょうか。それが今回のテーマです。

 


■経験は○、経験主義は×■

 

1990年代はじめのことです。

そのとき勤務していた学校は学力向上の地域指定を受け、低学力傾向克服に取り組んでいました。私は30代後半で、研究推進のチーフを担っていました。

子どものつまずきを分析する中で、繰り上がり・繰り下がりの処理の仕方が担任によってまちまちであることに気がつきました。東京のある小学校で実践しているワークシートが、子どものつまずきを減らせると推進チームは考えました。それを全校で採り入れようと提案したのですが、これが一朝一夕にはいきませんでした。経験の長い教師からの反発です。擦った揉んだの挙げ句、「点数を上げればいいんだろ」と啖呵を切られてしまいました。なぜそこまで“自分流”に固執するのでしょう。

 

教師は、経験を重ねることで技量を上げていく--というのは事実です。

経験年数と授業技術は比例するとは言えませんが、一般的にベテランの方が上手いです。経験は大事です。ウマくいった経験には「成功」のエキスが詰まっているし、ウマくいかなかった経験にも「成功」に導くための芽が詰まっています。自分の実践を検証する教師は、間違いなく伸びます。

 

しかし、「経験主義」となると、話は別です。ここで経験主義とよんでいるのは、上のハナシに出てくる教師のような態度を指しています。自分の経験を唯一の「ものさし」としてものごとを判断し、また、自分の経験則に固執する傾向が強いです。

それは、自信とかプライドとはちょっと違っていて、私には自信のなさの裏返しとして自分の殻を破りたがらない態度に映っています。


自分の経験が唯一の尺度になると、それ以上の世界はもうありません。つまり、経験値以上の伸びしろはないのです。私が経験主義を否定するのはそのためなのです。

 

 

■理論的裏付けが実践を確かなものにする■

 

経験主義に陥らないためには、自分の実践を客体化して見つめる目が必要です。

 

私は、私のライフワークである人権教育の手本となる実践校によく足を運びました。、実践校にはほぼ間違いなく大学の先生が関与していたからです。人権教育を理論的にリードしてきた先生たちが、自分の理論の実践フィールドとして学校現場に入り込み、研究をサポートし、授業づくりを支えていました。発表会ともなれば、学校現場はナマの実践を提供し、学者がその実践を理論づけてくれました。私には、これ以上の学びの場はありませんでした。

 

学校の現場で、大学の研究者のサポートを受ける機会に恵まれることは、まずありません。私は、先進校の実践を見ながら自分の実践のアプローチを重ね、自分の実践を理論づけるという学び方をしてきました。あるいは、先進校で見た実践をなぞることで、実践を支えている理論を自分の内に取り込んできました。


さらに、講演を聞いた学者たちの著書が、学びを深め、広げてくれました。自分の中に実践のイメージができるまでは現場を見ることが不可欠ですが、次からは文字情報で結構事足りるものです。両者相まって、私の実践を支える「理論家集団」を形成しているのです。

 

自分の実践を客体化して見つめる目は、自分の中の「理論家集団」が充実していくのに比例して養われていくものだと考えています。

自分の実践を客体化できるようになると、より優れた実践を何のためらいもなく受け容れられるようになります。そして、それが子ども(教育)に謙虚に向き合う教師の態度だと信じています。

 

 

■書斎を理論的ブレーンの「理論センター」に■

 

ブレーンと言っても、まあ片想いの恋のようなものです。こちらが一方的に気に入っているだけで、相手の研究者は私のことなど一面識もないのですから。

それでも、書斎が自分の実践を支えるブレーンたちの「理論センター」だなんて、なんと贅沢なことでしょう。私の場合、数十人のブレーンの面々に囲まれて毎日を過ごしてきました。(退職前に教育書を中心に1500冊ほど断捨離しましたが…)

 

私の蔵書はともかく、自分の実践を裏付ける「理論家集団」を手元に置き、折に触れて自分の実践を検証する--それが経験主義に陥らない方途だと思います。