いささか挑発的なタイトルですが、読まない教師・書かない教師には今日を超える明日はないという意味です。「経験は○、経験主義は× 」と一対のものとして読んでいただきたいと思います。
1 教育書は「はじめ」と「おわり」が大事
教師って、意外なほど本を読んでいません。しかし、子どもには強制的に読書を勧めます。詐欺師みたいなもんだと言ったら言い過ぎでしょうか。
子どもに読書を勧める時、「世界が広がる」「未知のものに出合える」「自分とは違った考え・見方に出合える」などと言います。その言葉を、そっくり自分に返してみましょう。
私は文庫・新書ファンで、理由は安価だからです。購入する本はエッセー、歴史書、山岳小説など、教育書以外のものも多くあります。
特に新書は、みなさんにもお薦めです。1冊700~800円程度で買えるし、ページ数も手頃で鞄に入れて持ち歩きやすい。内容はと言うと、これが結構濃密で、それでいて専門書に比べれば平易。知的財産を蓄える入門書としては、願ったり叶ったりだと思います。
さて、教育書。
教育書は、子どもへの読書の勧めと同様の理由で、経験主義に陥らないためにも大事です。教師は意外なほど本を読まないと書きましたが、教育のハウツー本は相当好きなようです。それも、そのまま使えるページが大好きみたい。
「まなぶ」の語源は「まねぶ(真似ぶ)」だとされています。優れた実践を真似ることは、まなびの大事な一歩だと思います。
ところで、「真似る」ことと「コピーする」ことは同じなのでしょうか。近しいには違いありませんが、微妙に違うように私は思います。そして、「真似る」ことは大事だけれど、「コピーする」ことはいかがなものかと私は考えています。
両者はどう違うのでしょうか。
「コピーする」というのは、字義のごとく、そっくりそのままいただくってことです。文字通り、その部分をコピーして使っている人も見かけます。それは“いかがなものか”とは思いますが、全否定はしません。若い時には、それもアリだと思います。しかし、これを続けていくと、やがて夥しい数のコピーの山に埋もれて過ごすことになる--かもしれません。
「真似る」というのは、基本的には先例をなぞるのですが、そこにほんのちょっとその人らしさが入ったり、クラスの子どもたちの実態を踏まえた工夫が加わったりする--という語感のニュアンスがあると思うのです。
実はこの微妙な違いが大事で、それによってバリエーションがウンと広がる可能性があるのです。ワザは、こうして増やしていくものだと思います。
「ワザ」と言えるレベルのものを身につけるには、それを支えている理論を学ぶ必要があります。理論を身につけることで、応用力が育ちます。さらには、多くのワザをしまっておく“引き出し”の整理ができ、必要な時に必要なワザを取り出せるようになるのです。
理論と言うと小難しく思われるかもしれませんが、専門書がなくてもハウツー本でも理論を学べます。それは、大抵の場合、「はじめに(序章)」と「おわりに(最終章)」に書かれています。そう、ハウツー本好きの殆どの人が、スルーしてしまっているページです。
試しに、手元にあるハウツー本を開いてみてください。
私の手元に、『わたし 出会い 発見』(大阪府同和教育研究協議会編 1996年)というのがあります。体験的参加型の人権教育プログラムが数多く紹介されていて、そのまま教室の実践に使えるのが好評だった「ハウツー本」です。この本の「はじめ」では、監修の平沢安政さん(大阪大学)と森実さん(大阪教育大学)が、人権教育の大きな流れの中にこの本を位置づけています。また、「おわり」では、大同教事務局が、この本の内容を理論的に補足しています。いずれも短文で、十分に意を尽くしているとは言い難いのですが、それでもこれら「理論編」部分をきちんと読んだ上でプログラムが実践されていたら、その後に出現した参加型プログラムをすること=人権教育の如き珍風景にはならなかったろうに…。
繰り返しになりますが、教育書は、「はじめ」と「おわり」が大事です。
読まない教師に、今日を超える明日はない。
2 実践記録のススメ
読まない教師に明日がないように、書かない教師にも明日がない。
教師こそ書き綴る生活を
「教育雑記帳」№16(1986.5.7)より
ぼくら、子どもには日記も含めてかなり日常的に書くことを強要していますね。ところでそういうぼくら自身がどれほどよく綴ってるでしょうか。ぼくは、教師こそ書き綴らなあかんと思てます。子どもの心動かされる表現、あるいは本の一節、すぐれた講演の感想、子どもに思うこと、授業や取り組みの記録…とにかく日常的に書くことです。書くことで思いが深まるし、感性が研ぎ澄まされてきます。よく考える教師にもなります。毎日が忙しく、あわただしく過ぎていきます。そんな毎日だからこそ、3分か5分の時間を大事にしたいと思うのです。1年の終わりにその年の学級づくりの記録を残していける、そんな日常的な実践と、日常的な書き綴る生活のある教師でありたいです。
30歳のころに書いた文章の一節です。それから30年以上が過ぎました。思いは、30歳の頃と変わりません。
私には、当時から自らに課していることがあります。それは、毎年1本、研究大会で発表できるレベルの実践記録を書くことです。裏を返せば、実践記録としてまとめられるような実践をやり続けるということでもあります。教室を離れた9年間は理屈っぽい文章しか書けませんでしたが、その間を除けば違(たが)わず続いています。テーマは、年度によって教科の授業記録であったり、障害児教育であったり、部落問題学習であったり、平和学習であったり、環境問題であったり、学力問題であったりしましたが。
いかに書き綴るのか。書き綴ることにどんな意味があるのか。
例えば、1年間の総合の取り組みをまとめるとしましょう。
まずは、時系列に取り組みを書き連ねてみましょう。研究論文とか報告レポートなどということを一切意識せず、したことを順番に並べます。取り組みの1つ1つが「目次」の見出しで、それぞれについて、学級通信の記事や子どもの日記なども使って内容を肉付けしていけばそれでよいのです。記憶の記録化です。通常の場合、このカタチで保存しておきます。
これだけでも、十分に意味があります。
書き綴る過程で取り組みの意味づけが明確になることもありますし、逆に不十分さが見えてくることもあります。気づいていなかった子どもの変容が浮き彫りになってくることもあります。それらのことが、次へのエネルギー源にもなります。
思いの強い取り組みであったり、報告レポートなどの必要に迫られた時は、1ステップ上の記録に練り直しましょう。ここが、このハナシのキモです。
余談ですが、研究会の報告の中には、時系列の取り組みの羅列というものもあります。しかし、これはおよそレポートに値しません。国分一太郎さんが、あるところに「若い先生たちの授業記録がダラダラと長いばかりで、何を言いたいのかが分からない」といったことを書いておられました。
取り組みの中である子の変容が見られたのなら、その子の姿を追うカタチの構成に変えてみましょう。この場合、その時々の子どもを語る切り口として、取り組みが位置付くことになります。
ある研究者の理論を仮説とした取り組みなら、仮説-実践-検証といったカタチの構成に変え、1つ1つの取り組みをその中に位置づけてみましょう。
つまり、取り組みをある明確な切り口で切り取ることで、意図や成果や課題が明確になっていくのです(余談ついでに、研究会で参加者が期待しているのはこの部分の共有なのです)。
こうして論理的に実践を整理できるようになると、次の取り組みを論理的に組み立てられるようになっていきます。チカラのある教師というのは、こうした財産を多く持っている教師なのです。
書くことで見えてきた成果は、自信となりやがては確信となっていきます。
書くことで見えてきた課題は、ステップアップの糸口となります。
書くことで見えてきた「視点」は、教材や子どもを観るチカラとなります。
書くことで身につけた構成力は、教育実践やクラスづくりを組み立てるチカラとなります。
書くことで--教師はのびるのです。
書かない教師に、今日を超える明日はない。