教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

アクティブ・ラーニングはじまる

■アクティブ・ラーニングの誕生■

 

「アクティブ・ラーニング」という言葉は、2012年8月に取りまとめられた中央教育審議会答申( 「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~(答申)」)の中に初めて出てきます。

 

生涯にわたって学び続ける力、主体的に考える力を持った人材は、学生からみて受動的な教育の場では育成することができない。従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要である。

 

つまり「アクティブ・ラーニング」は、はじめは大学教育の在り方について使われる用語でした。

それが、2017年に公示された学習指導要領では「主体的・対話的で深い学び」という表現で、小中学校でも取り入れられることになりました。

 

 

■小学校でアクティブ・ラーニングはじまる■

 

2020年4月、新学習指導要領の完全実施とともに「アクティブ・ラーニング」が本格的に始まります。

 

文科省の「用語集」には、「アクティブ・ラーニング」について次のように記されています。

 

 教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。

 

確認しておきましょう。

 

「アクティブ・ラーニング」=「能動的学修」は、「受動的学修」の対義語です。

「受動的学修」とは従来の知識注入型の教え込みを指します。

「能動的学修」は、知識注入型の教え込みからの脱却・転換を目指すものです。

 

文科省は、「アクティブ・ラーニング」の有効な方法として、発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等を紹介しています。

 

ここで立ち止まって考えましょう。

 

発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等って、まったく新しい学習方法でしょうか?

教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等って、今までになかった学習方法でしょうか?

 

そうです。

これらのものは、1989年改訂の学習指導要領に始まり、1998年改訂、2008年改訂の学習指導要領で繰り返し求めてきたものです。(この間の事情は別稿で述べます)

 

したがって、これから始まる新しい「アクティブ・ラーニング」は、内容としては特段新しいものではないということです。

 

 

■新看板は「主体的・対話的で深い学び」■

 

 新学習指導要領では「アクティブ・ラーニング」という言葉は出てきません。

指導要領が掲げる新看板は、「主体的・対話的で深い学び」です。

 

「アクティブ・ラーニング」と「主体的・対話的で深い学び」、言葉は違いますが同じものを指しているとみんな了解しています。

 

ではなぜ、「アクティブ・ラーニング」ではなく「主体的・対話的で深い学び」なのでしょう。

 

「アクティブ・ラーニング」には、発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等といった学習方法が含まれます。そして、それらは20年も30年の前から学校教育に取り入れられてきました。

問題は、20年も30年も経っているのに、それらが学校現場に根付いていないことです。「発見学習もどき」「なんちゃってディベート」…。

 

「アクティブ・ラーニング」を単に手法の問題ととらえられると、またしても同じ轍を踏む…と、文科省は考えたのでしょう。

これは教育の手法ではなく、教育の質の改革なんだよと言いたかったのでしょう。それが、「主体的・対話的で深い学び」というわけです。

 

小学校学習指導要領
第1章総則
第3 教育課程の実施と学習評価
1 主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善
各教科等の指導に当たっては,次の事項に配慮するものとする。
(1) 第1の3の(1)から(3)までに示すことが偏りなく実現されるよう,単元や題材など内容や時間のまとまりを見通しながら,児童の主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善を行うこと。
特に,各教科等において身に付けた知識及び技能を活用したり,思考力,判断力,表現力等や学びに向かう力,人間性等を発揮させたりして,学習の対象となる物事を捉え思考することにより,各教科等の特質に応じた物事を捉える視点や考え方(以下「見方・考え方」という。)が鍛えられていくことに留意し,児童が各教科等の特質に応じた見方・考え方を働かせながら,知識を相互に関連付けてより深く理解したり,情報を精査して考えを形成したり,問題を見いだして解決策を考えたり,思いや考えを基に創造したりすることに向かう過程を重視した学習の充実を図ること。

 

 

学習指導要領(平成29年3月31日公示)における「主体的・対話的で深い学び」に関する記述

 

新学習指導要領では、総則において「主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善」について規定するとともに、各教科等の「指導計画の作成上の配慮事項」として、このような授業改善を図る観点からこれまでも規定していた指導上の工夫について整理して規定。
義務教育においては、新しい教育方法を導入しなければと浮足立つ必要はなく、これまでの蓄積を生かして子供たちに知識を正確に理解させ、さらにその理解の質を高めるための地道な授業改善が重要。

 

(「主体的・対話的で深い学び」とは何か)


○ 「主体的・対話的で深い学び」の実現とは、特定の指導方法のことでも、学校教育における教員の意図性を否定することでもない。人間の生涯にわたって続く「学び」という営みの本質を捉えながら、教員が教えることにしっかりと関わり、子供たちに求められる資質・能力を育むために必要な学びの在り方を絶え間なく考え、授業の工夫・改善を重ねていくことである。


(各教科等の特質に応じた学習活動を改善する視点)


○ 「アクティブ・ラーニング」については、総合的な学習の時間における地域課題の解決や、特別活動における学級生活の諸問題の解決など、地域や他者に対して具体的に働きかけたり、対話したりして身近な問題を解決することを指すものと理解されることも見受けられるが、そうした学びだけを指すものではない。


○ 例えば国語や各教科等における言語活動や、社会科において課題を追究し解決する活動、理科において観察・実験を通じて課題を探究する学習、体育における運動課題を解決する学習、美術における表現や鑑賞の活動など、全ての教科等における学習活動に関わるものであり、これまでも充実が図られてきたこうした学習を、更に改善・充実させていくための視点であることに留意が必要である。


○ こうした学習活動については、今までの授業時間とは別に新たに時間を確保しなければできないものではなく、現在既に行われているこれらの活動を、「主体的・対話的で深い学び」の視点で改善し、単元や題材のまとまりの中で指導内容を関連付けつつ、質を高めていく工夫が求められていると言えよう。

 

(単元等のまとまりを見通した学びの実現)


○ また、「主体的・対話的で深い学び」は、1単位時間の授業の中で全てが実現されるものではなく、単元や題材のまとまりの中で、例えば主体的に学習を見通し振り返る場面をどこに設定するか、グループなどで対話する場面をどこに設定するか、学びの深まりを作り出すために、子供が考える場面と教員が教える場面をどのように組み立てるか、といった視点で実現されていくことが求められる。


○ こうした考え方のもと、各学校の取組が、毎回の授業の改善という視点を超えて、単元や題材のまとまりの中で、指導内容のつながりを意識しながら重点化していけるような、効果的な単元の開発や課題の設定に関する研究に向かうものとなるよう、単元等のまとまりを見通した学びの重要性や、評価の場面との関係などについて、総則などを通じてわかりやすく示していくことが求められる。


(発達の段階や子供の学習課題等に応じた学びの充実)


○ 「主体的・対話的で深い学び」の具体的な在り方は、発達の段階や子供の学習課題等に応じて様々である。基礎的・基本的な知識・技能の習得に課題が見られる場合には、それを身に付けさせるために、子供の学びを深めたり主体性を引き出したりといった工夫を重ねながら、確実な習得を図ることが求められる。


○ 子供たちの実際の状況を踏まえながら、資質・能力を育成するために多様な学習活動を組み合わせて授業を組み立てていくことが重要であり、例えば高度な社会課題の解決だけを目指したり、そのための討論や対話といった学習活動を行ったりすることのみが「主体的・対話的で深い学び」ではない点に留意が必要である。

 

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文科省の資料をいくら見ても「主体的・対話的で深い学び」は曖昧模糊、五里霧中。結局は教壇に立つ一人ひとりの教員の力量次第。

霧は晴れぬまま、新年度が始まりそうです。