教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

アクティブ・ラーニングに至る道① 1987年「臨教審答申」

2020年のアクティブ・ラーニング本格実施までの道を振り返りたどりつつ、アクティブ・ラーニングへの期待と課題・懸念を浮き彫りにしたいと思います。

 

 

まずはじめに、確認しておきたいことがあります。

 

日本の教育のあり方を決めているのは、崇高な教育理念でも文科省でもありません。教育のあり方を方向づけているのは、その時代の経済のありようです。

いきなりそんなことを書いてもピンとこないかもしれません。しかしそれは、確たる事実です。そのことを頭の隅に置いて読み進めてください。

 

 

日本が高度経済成長の中にあった時代、質の高い製品の大量生産を担う労働者が求められました。その時代の経済が教育に求めたものは、一定程度の均質な学力と従順な人間性です。

 

授業時数は増え、学習内容は膨らみます。小学校で集合を教えたという時代です。

 

1973年のオイルショックを機に潮目が変わります。

不況から脱した資本は生産拠点を中国や東南アジアに求め、経済のグローバル化が進みます。

 

経済の変化が教育の変化として目に見えるカタチになったのが、1987年の臨教審答申です。

 

臨教審(臨時教育審議会)は、1984年に中曽根康弘首相の主導で総理大臣の諮問機関として設置されました。1985 年 6 月、86年 4 月、 87 年 4 月と 8 月の 4 回にわたって答申を出しています。

 

文部科学省「学制百二十年史」

 第三編 教育・学術・文化・スポーツの進展と新たな展開

  第一章 教育改革

   第三節 臨時教育審議会と教育改革

    三 臨時教育審議会の答申

六十二年八月の第四次答申は、最終答申として、文部省の機構改革(生涯学習を担当する局の設置等)、秋季入学制について提言するとともに、これまでの三次にわたる答申の総括を行い、改革を進める視点として、次の三点を示した。

その第一は個性重視の原則である。審議会発足当初、いわゆる教育の自由化をめぐって意見が交わされたが、自由化というよりは個性重視という表現に固まり、答申では、画一性、硬直性、閉鎖性を打破して、個人の尊厳、自由・規律、自己責任の原則、すなわち「個性重視の原則」を確立することであるとしている。

第二は生涯学習体系への移行であり、学校中心の考え方を改め、生涯学習体系への移行を主軸とする教育体系の総合的再編成を図っていかなければならないとしている。すなわち、学校教育の自己完結的な考え方から脱却し、人間の評価が形式的な学歴に偏っている状況を改め、これからの学習は、学校教育の基盤の上に各人の責任において自由に選択し、生涯を通じて行われるべきものである、と述べている。

第三は変化への対応であり、中でも、教育が直面している最も重要な課題は国際化並びに情報化への対応であることを指摘している。

 

ここで注目したいのは、「個性重視」です。

画一性、硬直性、閉鎖性というのは従来の教育を指し、それを打破して個人の尊厳、自由・規律、自己責任の原則、すなわち「個性重視の原則」に向かうのだと述べています。

個人の尊厳=個性重視というのは、字義通りですから分かります。

自由・規律=個性重視、自己責任=個性重視というのはどうでしょう。

 

実は臨教審委員は一枚岩ではなかったようです。

審議会発足当初、いわゆる教育の自由化をめぐって意見が交わされたが、自由化というよりは個性重視という表現に固まりとサラリと書かれたこの部分、ここがミソです。「教育の自由化」を打ち出した第1部会とそれに反対する第3部会が対立し、その妥協の産物が「個性重視の原則」という文言なのです。

 

「教育改革に関する第一次答申」


個性重視の原則


今次教育改革において最も重要なことは、これまでの我が国の教育の根深い病弊である画一性、閉鎖性、非国際性を打破して、個人の尊厳、個性の尊重、自由・自律、自己責任の原則、すなわち個性重視の原則を確立することである。


 人間の生命は過去・現在・未来と結ばれており、また、各個人は家庭、学校、地域、国家などの各レベルにおいて複雑な相互依存関係のなかに生きている。個人の尊厳、個性の尊重の考え方の根本にあるものは、この時間・空間という縦・横双方の広がりのなかで、各個人はそれぞれ独自の個性的な存在であるということ、また、個性的な個人が集まって集団の活力を形成しているということである。


 個性とは、個人の個性のみならず、家庭、学校、地域、企業、国家、文化、時代の個性をも意味している。それぞれの個人は相互に無関係に孤立しているのではない。真に自らの個性を知り、それを育て、それを生かし、自己責任を貫くのもののみが、最もよく他者の個性を尊重し、生かすことができるのである。


 また、自由とは、放縦や無秩序、無責任、無規律と全く異なるものである。自由は、重い自己責任を伴うものであり、選択の自由の増大する社会に生きる人間は、自由を享受すると同時に、この自由の重み、責任の増大に耐えうる能力を身につけていなければならない。それゆえ、個人の尊厳、個性の尊重、自由・自律、自己責任は、相互に不可分の一体をなすものであり、また、自分を生かすことは他を生かすこと、自分を知ることは他を知ること、自分を尊重することは他を尊重すること、その逆も真であるというように、すべて表裏一体の関係にある。


 このように自他の個性を知り、自他の個性を尊重し、自他の個性を生かすことは、個人、社会、国家間のすべてに通ずる不易の理想である。」

 

個性は3つある、ということになります。

 

1つ目は「個人の尊厳」という文脈での「個性」で、これは一般概念です。

 

2つ目は「社会・文化」の「個性」というものです。「日本文化の個性」といった表現で登場します。これは、「国際化」に関して「世界の中の日本」「我が国固有の文化の尊重」として展開されていきます。

 

3つ目は「学校制度」の「個性」です。「学校教育の充実、個性化」といった表現で登場します。学校教育の個性化というのは、学校教育の多様化という意味です。学区制や学校設置基準などの教育行政の改革=学校の自由化を指しています。

 

つまり、答申の「個性重視」は本来ありえない意味内容を含み、そのありえない部分こそが改革の本質になっています。そのことは答申から30余年の歴史が雄弁に語っています。

ここでは、今日の教育改革に至る原点が1985から87年の臨教審答申にあるということを押さえておきたいと思います。