「自分が付き合う人ぐらい自分で決めるから」~忘れ得ぬ子のこと③~ に登場したよしえ(仮名)さんの4年生のとき(1987年)の話です。
学校というところは、チャイムで時間が管理され、時間割でカリキュラムが管理されています。そんな当たり前のことが、とりわけ「3歳の壁」のまえにいるよしえさんにはとても窮屈です。たとえみんなと同じ時間と空間を共有していても、よしえさんのペースで学校生活が動くことはありません。みんなの当たり前によしえさんが合わせることで、ともに生きる生活が成立しているわけです。
よしえさんのペースで学校が動く日があってもいい。みんながよしえさんの目線で過ごす日があっていい。ずっとそう思っていました。
その機会は、夏休みという特別な環境下で実現の運びとなりました。それが「いきるフェスティバル」です。
「いきるフェスティバル」開催を知らせる7月18日付け学級通信をもとに、その内容を紹介しましょう。
いきるフェスティバル《7月23日(木)》 プログラム
■集合 8時 小学校体育館前
8時に小学校を出発して、よしえちゃんの通学路を通って家まで行きます。
8時30分に着きます。近くを通る人はそこから参加を。
■プログラム1 よしえちゃんの通学路を歩こう 8:45発 9:15学校着
みんなでワイワイ言いながら学校まで歩きます。
歩きながらきけんな所なんかをおぼえてネ。
若干の解説を付けます。ひとりで通学路を歩けないよしえさんの通学保障は、大きな課題でした。入学当初から登校は同じ通学班の子たちに、下校は近隣の同級生に委ねていましたが、それもやがて限界を迎えました。
3年になってからは登校にはお母さんが同行し、帰りは私が近隣の子を誘って一緒に歩くようになりました。
母親が同行することには基本的に反対です。周りの子たちの理解を深めるための戦略的同行ならいいのですが、子の障害ゆえに負担を強いることはあってはならないと考えるからです。(当時は通学保障の人的配置は望めなかった)
帰りは、私がいることで数人の輪ができるという状況でした。
通学路を歩く企画は、よしえさんの登下校の現実を知ってもらう一歩でした。
■プログラム2 ワーイワーイ・ニコニコプン 9:30~9:55
ごぞんじ『おかあさんといっしょ』
よしえちゃんの大すきなテレビのひとつ。
よしえさんは『おかあさんといっしょ』が大好きで、この時間になると、みんなのいる教室から隣の教室へ移動して見ていました。
■プログラム3 すなばであそぼう 10:00~11:00
すなばあそびもよしえちゃんのすきなあそびのひとつ。
じつはみんなも大すき。山をつくってトンネルほって…。
よしえさんは指先に触る感触が好きだったようです。教室では教科書のページを繰るのに夢中で、どの教科書もコーナーがカールしていました。外へ出ると、砂のサラサラした感触がお気に入りでした。
この日、砂場遊びをしてみると、4年にもなった子たちがよしえさんそっちのけでトンネル掘りに熱中していました。これは意外な事実の発見でした。
■プログラム4 つくってたべよう 11:00~1:00
メニューはカレーライス。みんなでつくれば味もばつぐん。
家庭科室をつかいます。
フェスティバルには6人のお母さんが参加してくださいました。料理はもっぱらお母さんたちに担当していただきました。
■プログラム5 うたっておどろう 1:30~2:00
朝の会や帰りの会で歌ってきた歌をいっしょにうたおう。
おどりはもちろん「むかし話」などなど。とくいなやつさ。
よしえさんは音楽に合わせて体を動かすのが大好きです。なかでも「まんか日本むかし話」の音楽が好きでした。踊りの流派は「フリーダンスよしえ流」です。
■プログラム6 もっと知ろう 2:00~2:30
よしえちゃんのお母さんのお話を聞きます。
小さいころのこと、家でのこと、思っていること、みんなに言いたいこと、などなど。
この企画を出した時、よしえさんの近所でよしえさんともっともかかわってきたA子さんが、それは無理だと言いました。「人前で話すのが苦手だから無理だ」というのです。でも、ここは外せないキモです。結局、私がインタビュー方式で聞き出すことになりました。
当日、よしえさんのことを話している途中でお母さんの頬に涙が伝いました。A子さんは、あとのまとめのときにこう書きました。「『おばちゃん、泣いたらあかんで』と思いました」。この一文に涙が出ました。
■プログラム7 まとめをしよう 2:30~3:15
えんぴつなどを持ってくること。
まとめの時間に書いてもらったことは、2学期初めの学級通信で共有しました。その一部が「記録」の中に収録されています。
■「いきるフェスティバル」のこと
よしえちゃんのベースで1日を過ごしたいとぼくは思い続けてきた。日ごろ見えないものがきっと見えてくるだろうし、そこから新しいものが生まれ、育つに違いないと思うからだ。いくつかの障害やためらいはあったが、夏休みに入った7月23日、第1回「いきるフェスティバル」を企画した。
当日は、休み中ということもあって(計画が遅かったというのも大きい)全員参加ということにはならなかったが、18名のなかまと6名の母親、そして弟や妹、ぼくの家族を含め32名の参加を得ることができた。
たった1度の「まつり」が何ほどのものでもないことは、十分に承知している。しかし、新しい第1歩を踏み出すためのきっかけという意味では、それなりに目的を達したのではないかと思う。例えば、A君はこう書いている。「ぼくもよしえちゃんの家がわかったし、よしえちゃんのことがわかったので、たまにはよしえちゃんのいえにあそびにいこうと思います。よしえちゃんの家にあそびにいったら、よしえちゃんがいえでどんなせいかつをしているかもきこうと思います。」
B君はこう書いた。「よしえちゃんがカレーをおいしそうにたべていたからうれしいです。ぼくもたのしいと思いました。」
こういった“きっかけ”や“たのしさの共有”を、今後につないでいきたいものだと思う。
子ども以上に、ある意味では6人の母親の参加というのが大きかった。よしえちゃんの母親が人前で初めて自分の思いの一端を語ったというのも大きい。ある母親は、「1年の時から同じクラスでどうしてこんだん会にも出席されないのか、どうしてみんなの前に出てもっと自分の子どものことをうったえられないのかと感じてきました。しかし、今日お話を聞いてみて、人前で話すのがにがてなこと、そして、やはり人一倍よしえちゃんと生きることに一生けんめいなめだということがよくわかり、予定を1日早く切り上げて□□に帰ってきただけの意味はあったと満足」していると書かれた。
また別の母親は、「もし私の子がよしえちゃんだったら、きっとふつうの小学校に通わし、みんなと同じように生活し、ともに生きていくことをのぞむと思」うと書かれた。
いずれも1年前の学級懇談の時、よしえちゃんがみんなといるのは迷惑だ、よしえちゃんのためにも別のほうがいいと言った人である。
またある母親は、学級になっちゃんがいたから家の中が明るくなったと書
かれた。
「いきるフェスティバル」を通して、確かに何かをつかめたように思う。ぼく自身も大事にしたいものをいくつも得ることができた。「フェスティバル」は今後一層その輪を広げながら発展させていきたいと思う。しかし、これはあくまでも新しい何かを発見する、新しい何かに出会う、新しい何かをつかむという“出会い”の場であって、それ自体が目的ではない。