教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

学級通信、このよきもの①

学級通信は誰に向けて、何のために」(2020.3.5)の続編になります。

 

学級通信、このよきもの


1986年、教師になって9年目に同じ学年を担当する若い同僚に向けて通信を出していました。その中に、「学級通信、このよきもの」という連載があります。ここに紹介するのはその一部です。


本格的に学級通信や一枚文集に取り組みかけたのは3年目からということになります。…もう止めにしようかなと何度も思いながら、それでも続けてきたのは、確実に子どもが変わっていく姿に出会えたからでした。

通信は、完全に子ども向けに書いています。子どもに向かってぼくの思いを投げかける、子どもが変わっていく、その両者の営みを親が見守っているのです。ぼくにとって学級通信は学級経営の生命線でした。そして、実はぼく自身が子どもの変わり目に出会うことによって多くのことを学んできたのでした。まさに、学級通信、このよきものであるわけです。


ぼくにとっては「○○(3~4年目の通信名)」の子らとの歩みが、その後を方向づけていっているのですが、その子らの書き残したもののいくつかを紹介します。

 

■ 5の2になると“○○”という学級通信があり、私はそれをきっかけに仲間のことをよく考えるようになった。私は“○○”をくばってもらうのがすごくたのしみだった。(KR)


■ 私はこの学級でいろんなことを学んだ。いちばん大きく心に残っているところは、やはり仲間のこと。私が学んだことは、たいてい先生が出した○○から。○○って、とても重要な役割を果たしてたから、わかれるのはつらい。(FR)


■ K先生にはいろいろなことをおそわりました。その中でも、一番心に残っているのは差別のことと戦争のことです。先生は、すごく差別や戦争のことについては熱心でした。わたしは戦争のことについて先生に話をきくのが大好きでした。「○○」を先生がくばるのがまちどおしくて、すごく読むのが好きでした。わたしが結婚するとき、「○○」をもっておよめにいきたいです。(MK)

 


「□□(5~6年目の通信名)」のクラスに姉がいて、「△△(7~8年目の通信名)」のクラスに妹がいたHさんは、妹が中学校に入学して半月ほど経ったころ、次のような手紙をくださいました。

■ ……□□のクラス、△△のクラス、4年間続けて本当にお世話になりました。……卒業前の10 日間のプリントの1枚目を見たとき、何かホッとしたような、やっぱりK先生だと安心致しました。実は妹は日記も書かなかったし、「△△」も途中で切れたし、事情を知るまでの数か月間は、今度のクラスは先生も力が入らないのかなと思ったりして、物足りなさを感じていました。……そして、最後の10日間のプリント、卒業に関する文集、先生の残された文章1枚1枚に胸を打つものがあり、彼女たちの大事な思い出と、人間としての指針、先生の思いが本当に理解できるのは10 数年先、自分も親となり、子どもも同じような年頃になってからかも知れません。今は一度読んで読み返すこともなく本箱に置かれているだけですが、火事などの時には一番に持ち出してやりたい大事なものです。

 


生活を綴る

 

なぜ学級通信を書くのでしょうか。行事予定を知らせたり、学習の予定を知らせたり、あるいはまた生徒指導の道具にされているような通信は問題外です。ぼくにとっては学級経営の中心であったと思います。そうである前提として、子どもに生活を綴らせる営みがありました。今回はこの問題に触れたいと思います。



「何でも言える学級」などというスローガンを教室の前に掲げたりします。しかし、現実にはなかなかそうはならないものです。なぜでしょうか。いろんな原因があるでしょうが、ぼくは教師が子どもに生活をきちんと見させる努力をしていないことが、一番の原因になっていると思っています。

 

10 月7日(火)
 「ああ、つかれた。」という声がした。お母さんはようじで、家にはお父さんしかいなかった。お父さんは、毎日休みなく働いている、と思うと、しんどくないのかなあと思う。すぐ、お父さんはねころんだ。「うーん。」と手足をのばした。「よっぽどつかれているんだなあ。」と、わたしは思った。また、あすも行く。朝も早く行く。ねむくないのだろうか。


10 月8日(水)
 お父さんが帰ってくるのがおそかった。帰ってきた。服をぬいだすぐ、またきのうのようにねころんで、「う-ん。」と手足をのばした。「ポッ、ポッ」というかんじの音がした。それは、手、足からきこえてきた。たぶん、のばしたらなるんだろうと思った。(N)

 

 

もう、随分古い日記です。決して素晴らしい文章ではありません。しかし、これはNさんが父親について初めて書いた日記なのです。それまでは、「やさしい」ということ以外は書かない子でした。彼女のお父さんは、ごみ収集車に乗っている現業公務員でした。この職業に対する社会の偏見がある中で、彼女は口を閉じてきたのでした。

しかし、彼女の生活は間違いなくこの父親の収入によって支えられていたのです。現実を正面から見つめさせたいと思いました。

そこで、仕事から帰ってきた直後の5分間の父親を綴らせる取り組みをしました。何度かの赤ペンと、仲間の日記に励まされて綴ったのが、先の日記なのです。これをきっかけに彼女は父親の疲れの原因に迫っていくことになります。


朝6時30分に家を出て、職場に着くのが8時前。それからトラックに乗つてごみを集め、3、4回往復すると3時ごろになる。それから風呂に入り、4時に職場を出る。夏の暑さや、冬の寒さは格別にこたえるらしい。その1日の労働の結果が、あの日記の姿となって表れていることを彼女は確かめていきました。さらに、今の仕事につく前は、電気屋で働いていたことを聞き取ってきました。そして、「今の仕事は、電気屋で働くよりずっと『ふうっ』というぐらいつかれる仕事」であることを知るのです。彼女は、そのことから生活の重みを知っていったように思います。


ぼくは、日常的に生活を綴らせるという営みを欠いた学級経営などないと思っています。日記であれ、グループ日記であれ、作文の授業であれ、綴ることを通して確かなものを見る目を育てていくことです。父母の労働や仲間のこと、そしてそれに関わる自分自身の生活を大事に書かせたいですね。具体的な場面で生活を切り取らせるということをしなくてはならないと思います。何が大事なのかということを自分の頭で考えて選ぶことのできるカをつけてやらなくてはなりません。その上で、しっかりと思い出して綴れる力をつけてやることです。


「何でも言える学級」なんてまやかしに過ぎないと思っています。「何でも言える学級」の前提には、「何でも書ける学級」というのがなくてはならないだろうと思います。しかもそれは、「せんせい、あのね」という言葉に代表されるように、その子と教師との関係において書かれていくのだと思います。実は、そこまでいくのが大変なことで、子どもは本当に大事なことというのはなかなか語らないものです。教師がどれほど自らを語ってきたかというのが重要なポイントのような気がしますね。ある先生は、5行には5行の、2ページには2ページの返事を書いたと著書の中で述べられています。子どもが心をひらこうとするときに、それに向き合う教師の有り様が問われる思いがします。


「せんせい、あのね」から始まったものを、「あのなあ、みんな」に高めていくのが次の段階としてあるわけです。これは次号で触れます。