教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

生活を綴る⑦

「生活を綴る」の最終回です。 

 

綴り方に取り組み始めて間もないころ、教師になって3年目(1980年)に出会った子の作品を紹介します。

 

母の仕事とくらし

                    5年 KR (1980.11)

 

「ピポパプポ。プルルルル、プルルルル。」
「もしもし、松五郎です。」
音楽といっしょにおみせから父の声。いつもの家の声より元気のいい声だ。
 わたしは、
 「おかあさんにかわって。」
と、言った。父は、
「ちょっと、まつごろう。」
と、言った。
 それから、母がでんわに出るまでまっていると、いろいろな声が聞こえてくる。音楽がながれている。
「いらっしゃい。ありがとうございました。」
これは父や母の声。
「どうや、こうや、アハハ。」
これは、お客さんの声。音楽にまざってたくさん聞こえてくる。その横で母もわらっているみたいだ。お店にいなくても声や音だけで、様子がうかんでくる。お店の中は、てってもさわいでいるみたいだ。母もわらったりしているれど、手をはやくあっちこっち動かして、お客さんにたのまれたものをつくっているだろう。お客さんとしゃべりながら、しゃべられながら。
 だが、お客さんがしゃべりかけてきているのに、むしするわけにはいかない。いろんなはなしをされるだろう。うれしかったはなし、いやだったはなし。うれしかったはなしをすれば、お客さんも母もたのしいだろう。いやだったはなしをすれば母はききづらいかもしれないけど、お客さんはすっとするだろう。母は、お客さんにたのまれたものをつくるだけじゃなくてお客さんの心をすっとさしてあげているんだな。

 

 父と母がやっているお店というのは、のみやみたいな店だ。店がはじまるのは、夕方の5時で、おわるのは、夜中の1時ごろだ。ふつうの家では、おとうさんたちが帰るころに出て行く。
 だから、オフロをわかすのにもこまる。私たちでできないことがあるときにもこまる。
 でも、そこで私ががんばらなければならない。家のかたづけ、お茶わんあらいなどたくさん仕事がある。

 どうしてこんな苦しい仕事にかわらなければならなかったのだろう。今の仕事は、私が1年生のと中ぐらいからはじめた。A市にきたのも1年生のと中だった。それまでは、B市にいて、父はふつうのサラリーマンで母もつとめていた。
 私ははっきりとおぼえていないけど、母は、
「今よりようち園の時の方がようお手伝いやってくれたで。」
とか、
「弟のめんどうもみてくれたしよかったわ。」
と、あてつけるように、お茶わんをあらいながらいう。わたしは、
「うん、そうかな。」
と思って、ちょっとはずかしくなる。
 でも、あそびたいし、ならいものもある。
 でも、日曜日はかかさずげんかんのはきそうじをしている。

 B市に住む前は、C県に住んでいて、父と母は、メナードけしょう品の仕事をしていた。その時は、生活が苦しかったそうだ。わたしが赤ちゃんの時だから、1階で仕事をしていると、私が2階で大きな声でないて、いつも1階、2階、1階とのぼったりおりたりしていたそうだ。その生活の苦しい時に、父は交通事故で入院をしたそうだ。それで母1人でまだ赤ちゃんの私と弟を育てていけないので、わたしだけC県からA市のおじいちゃんの所へひきとられたのだそうだ。その時は、わたしも母もすごくないたそうだ。わたしは、まったくおぼえていない。C県でやっていたメナードけしょう品の仕事から、B市にきたのは、生活が苦しかったからだろう。B市からA市にきたのは、家をひっこししなければならないようになったからだろう。

 

 今の仕事になって、父も母も帰ってくるのがおそくなった。
 私は、ある日の夜中の1時半ごろ目がさめてトイレに行った。すると、「トン、トン、トン。」と、かいだんをあがってくるような音。
「ガチャ、ガチャ。」
かぎをあけている。母だ。私は、大きな声で、
「おかえり。」
と、言った。父は、
「まだおきてたんか。」
と、びっくりしたような声で言った。
と、思ったら父と母は、
「おなかすいた。」
と言って、どてんとすわってしまった。もう目はとろんとしていて、すわりかたは、もうあかんというようななさけないすわりかただ。私は、台所に行ってお茶わんとおはし、それにれいぞうこにあるものを持ってきた。
 すると、父と母は、
「ありがとう。」
と言うと同時に、おはしをもって目をぎょろぎょろさせながら、よういをしている。私は、さっとお茶わんをとってごはんを入れた。父と母は、
「いただきます。」
と言ってから、いっせいにおはしでごはんを食べ始めた。
「おいしい。」
と、聞こうと思ったけど、手にはおはしをもって、おさらやお茶わんのうえで「カチャカチャ」なっている。目は、机の上で「ぎょろぎょろ」している。おそろしいぐらいすごいはやさで食べている。ごはん1ぱいなんて「あっ」というまだ。よっぽどつかれているんだなと思って見ていた。
 すると、
「ごちそうさま。」
といってからふとんでごろんとねてしまった。みていても目がまわりそうだ。

 

 もう、今の仕事になってから4年たつ。夜もなれてきた。
 学校から早く帰ってきて母がけしょうをしているのを見ていたら、かばんに薬が入っていた。わたしは、「あっ。」と思った。
 そして、私は、母に、
「なにその薬?」
と聞いた。母は、
「うん、ちょっとしんどいねん。」
と、ささやいた。私は、今までこんなことぜんぜんしらなかった。ときどき横になっている時があったけど、元気だとばかり思っていた。母がびょう院など行くようになったのは、仕事があんまりきついせいだろう。朝は、6時半におきて、ごはんの用意をする。そして8時ごろから10時までねる。それからそうじ、せんたく、ばんごはんの用意をすませる。そして、オフロにはいる。おけしょうをして、すぐお店に行く。5時から夜中の1時まで仕事。ねる時間は7時間だ。すごく少ないこともないけど、5時から1時まで立ちっぱなしだ。これじゃびょうきになるのもあたりまえかもしれないけど、びょうきになってほしくない。私だって、母の手伝いを少しでも多くしてあげれば、びょうきだってならないかもしれない。
 わたしは、どんなことがあるかとさっそく考えた。まあお手伝いはするけど、もっと母がたすかることってないかなと考えた。

 

 今日は、日曜日だ。お店も休みだし、学校も休みだし、「今がチャンスだ。」と思った。ばんになった。外は、もう暗い。「いそがなくっちゃ。」と思って、オフロにはいりながらも考えた。とうとうオフロからあがった。母をさがすと、もうふとんの中に入っている。
「あたりまえやろな、いつも帰ってきてねるのは夜中の2時ごろになるから。」
わたしもふとんにはいって天じょうをにらみつけながら考えた。しばらくすると、母はうつぶせになって、
「あしだるいわあ~。」
と、しんどそうな声で言った。そこでわたしはひらめいた。
「マッサージしたろ。」
と、わたしは言った。母は、
「しんどなんで。」
と、言った。わたしは、まあええやんという気持ちで、さっそく始めた。はじめに足のふくらはぎを右手、左手、右手、左手とこうたいごうたいに早くかるくたたいてあげた。それからせなかのまん中の2本のすじを母のこしの所ぐらいにまたがって、主に親指を使っておしたり、うでをもんであげたり、首をもんであげたり、それをまたくりかえしやっていると、あせが流れてきた。「きにしない、きにしない。」と思いながらつづけた。すると、母は、目を半分つぶって、
「気持ちええわ、よられ出そう。しゅ~う。」
と、わかりにくい声で言った。

 

 

 

私にとって忘れられない綴り方であると同時に、忘れられない子どもでもあります。

 

1980年の11月17日、集団推敲の公開授業をしました。その授業の時に使ったのが、彼女の綴り方でした。

家庭の中のことが出てくるということもあって、授業の数日前、母親に会いに行きました。自分の一生懸命の生き方に誇りを持っている、そんな感じがしました。

授業は、滅多にないほどの出来で、その後そのレベルを超えていないように思えます。授業の日の夕方、彼女の両親の店である「松五郎」へ飲みに行きました。


彼女は、鋭い感性の持ち主でした。中学進学に関わって親との関係に亀裂が生じ、加えて、中学校に彼女の受け皿がありませんでした。彼女は荒れました。喫煙、シンナー、異性との交遊……。鑑別所で会った時の彼女の目は寂しそうでした。


表現と認識、そして行動の統一を言い続けていた時期でしたが、それは実に難しいことです。彼女の綴り方で言うなら、最後の場面はマッサージではなくて、生活の一部を担い切るところまで迫るべきだったと思います。それができていないが故に中学校での荒れがあったのかもしれません。私の弱さです。

 

いま彼女は、A市に戻ってきて飲食店をやっているとのこと。一度、顔を出さなきゃいけないと思っています。