2011年度6年生の記録
地域の戦争体験 〈2〉
第1部 日中戦争・太平洋戦争で亡くなった人たち
校区内の戦死者は37名で、そのうちの35名については校区内に縁故者からアンケートに回答をいただくことができました。
アンケートを整理していて分かったことがあります。おしなべて「遺族」と呼んでいる人たち個々の、戦死者との「距離感」の問題です。
2011年時点で、「戦死者の親」「戦死者の妻」という方は一人もおられませんでした。
もっとも近い方は、「戦死者の子」が2人、「戦死者のきょうだい」が3人でした。
一方で、戦死者の顔をみたこともない「遺族」が多数を占めました。
「戦死者との距離」の遠近は、そのままアンケート回答内容の濃淡に表れました。
戦死者の顔をみたこともない「遺族」の家では、回答のために親戚に問い合わせたり尽力いただいたようですが、ほとんど詳細をつかむことはできませんでした。
このことは、もうしばらく先のすべての「遺族」の姿を暗示しているようです。
だからこそ、記録し、遺すことが必要なのです。
「第1部 日中戦争・太平洋戦争で亡くなった人たち」は、アンケートの回答をパワーポイントで整理しました。
そして、パワーポイントの各スライドを画像保存しました。
続いてビデオ編集ソフトにその画像を貼り付け、ナレーションをかぶせて映像化しました。
プレゼンテーションの基本画面は、『新詳日本史図説』(浜島書店)所収の地図と戦死者の氏名・死亡年月日の一覧表です。地図には、死亡地に死亡日順に割り振った①~㉟の番号を付しています。
プレゼンは、①の人であれば地図の①が大きな青色数字になるとともに、氏名の行が赤色になるようにしています。
プレゼン画面に合わせて、子どもたちのナレーションが入ります。
日中戦争・太平洋戦争において、■■では37人の方が戦死されました。
①
(1)さん。昭和12年10月22日、○○・陸軍病院で死亡。22才でした。残されたのが母親と妹たち、幼い弟だったので、農作業や垣内の付き合いが大変だったそうです。
②
(2)さん。昭和12年8月出征、昭和13年6月28日、中国で戦死。27才でした。昭和12年2月に○○さんが生まれ、父・(2)さんはその寝顔を見て8月に出征されました。翌年6月に戦死され、3年後にはお母さんも26才で亡くなられました。○○さんは、「母も苦労しに生まれてきたように思えてならない」と記されています。
③
(3)さん。昭和12年8月出征、昭和13年10月6日、中国で戦死。26才でした。
④
(4)さん。昭和13年10月6日、中国で戦死。30才でした。翌年にはお父さんが病死され、奥さんが女手ひとつで二人の子どもを育てられました。
⑤
(5)さん。昭和14年1月出征、昭和14年10月7日、○○・陸軍病院で死亡。22才でした。お父さんは、60代半ばで2人の息子さんを相次いで亡くされました。
⑥
(6)さん。昭和14年11月21日、中国で戦死。
⑦
(7)さん。昭和15年3月8日、○○の病院で死亡。
⑧
(8)さん。昭和18年7月11日、ニューギニアの近く、ソロモン海戦で戦死。
⑩
(10)さん。昭和18年2月出征、昭和18年11月24日、ミクロネシア、ギルバートで戦死。28才でした。
⑪
(11)さん。昭和18年11月29日、ニューギニアで戦死。
⑫
(12)さん。昭和18年8月出征、昭和19年2月5日、ミクロネシア、ウェーク島で戦死。23才でした。
⑬
(13)さん。昭和19年2月26日、ニューギニアで戦死。24才でした。
⑭
(14)さん。昭和19年4月26日、ビルマ、現在のミャンマーで戦死。
⑮
(15)さん。昭和16年5月出征、昭和19年5月7日、北太平洋、千島列島近海で戦死。17才でした。出征された時は14才、志願兵でした。19年の5月と10月に相次いで戦死され、お姉さんが牛を使って田起こしを手伝っていたと、当時9才だった○さんは記憶されています。
⑰
(17)さん。昭和16年11月出征、昭和19年6月24日、ニューギニアの近く、カイ諸島で戦死。34才でした。16年に出征された2年後にお父さんが病死、男手がなくなって農作業や垣内の付き合いが大変だったそうです。9才だった○○さんは、「金銭的にも不自由だったので、何もかも辛抱してきたことが多い」と記されています。
⑱
(18)さん。昭和18年12月出征、昭和19年7月3日、朝鮮半島沖で戦死。22才でした。弟さんも続いて出征することになり、女だけで農作業をするのが大変だったそうです。
⑲
(19)さん。昭和19年9月14日、中国南方で戦死。
⑳
(20)さん。昭和19年9月30日、ミクロネシア、グアム島で戦死。
㉑
(21)さん。昭和13年11月、昭和19年10月13日、台湾東方で戦死。22才でした。出征された時は16才、志願兵でした。
㉒
(22)さん。昭和17年9月出征、昭和19年11月19日、フィリピンで戦死。16才でした。17年9月、(22)さんが志願兵として出征された時、○○さんは11才でした。出征の前夜、(22)さんは○○さんを外に呼び出し、「父さんや母さんの言うことを良く聞くように。特に母さんは病弱だから助けるように。」とこんこんと諭した後、キラキラ光る星空を眺めながら、心静かに『恩賜の煙草』を歌われたそうです。○○さんは、「兄のあの声、あの姿が、今も脳裏に焼き付いて離れません。」と書いておられます。
㉓
(23)さん。昭和19年12月12日、中国南方で戦死。
㉔
(24)さん。昭和20年1月23日、フィリピン・ルソン島で戦死。25才でした。
㉕
(25)さん。昭和17年1月出征、昭和20年2月19日、ミクロネシア、マーシャル諸島で戦死。25才でした。
㉖
(26)さん。昭和19年2月出征、昭和20年2月24日、フィリピン・ルソン島で戦死。20才でした。19年2月、(26)さんは役場勤めをやめ、志願兵として出征しました。その後1度の面会もなく、家族は心配の毎日でした。20年2月24日、ルソン島で玉砕。戦死公報が届いたのは、4ヶ月後の6月でした。
㉗
(27)さん。昭和20年2月24日、フィリピン・ルソン島で戦死。
㉘
(28)さん。昭和20年3月5日、ビルマで戦死。27才でした。
㉙
(29)さん。昭和19年5月出征、昭和20年4月7日、屋久島近海で戦死。24才でした。
㉚
(30)さん。昭和20年6月3日、ニューギニアの近く、テイモール島で戦死。
㉛
(31)さん。昭和20年6月10日、沖縄で戦死。
㉜
(32)さん。昭和17年出征。昭和20年6月22日、沖縄で戦死。24才でした。■■の村にも白木に入った遺骨が次々に帰ってきて、村の葬式が行われました。「若い者が次々に亡くなり、村中が暗かった。やるせない思いだった。」と、(32)さんの弟・○○さんは当時を振り返っておられます。
㉝
(33)さん。昭和20年7月20日、フィリピン・ルソン島で戦死。31才でした。
㉞
(34)さん。昭和20年9月17日、○○○の病院で死亡。
㉟
(35)さん。昭和21年7月9日、抑留されていたシベリアで死亡。
なお、(36)さんと(37)さんについては、詳しいことが分かりませんでした。
戦死者の記録の後に、そこから分かったことをまとめています。
この地図と表から、次のようなことが分かりました。
昭和15年までの戦死者は、中国と日本の病院に限られています。それが、昭和18年より後はニューギニアやミャンマーまで広がっています。昭和16年12月8日にアメリカと戦争を始めてから戦場が一気に広がり、18年ごろから激しい反撃に遭うようになっていったことが分かります。
昭和19年2月から20年9月までの間に、戦死者全体の3分の2の人が亡くなっています。
フィリピンで戦死した人は、昭和19年の終わりから昭和20年前半に固まっています。昭和20年6月23日には沖縄を占領されたこととあわせて考えると、もうあとがなくなっている日本の状況が分かります。
さらに、戦争が終わって1年もたっているのに戦死した人がいることに、おどろきました。戦争が終わってから、捕虜としてシベリア地方に連れて行かれて、働かされたのだそうです。厳しい仕事と飢えや寒さのために、たくさんの人が亡くなったということです。
校区という限られた地域の わずかな資料を整理するだけで、戦争の「実相」がかなり見えてきます。
このまま終わるのは不十分です。まずは入り口に立ったというところでしょうか。