教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

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日本語探訪(その54) 特別企画「右と左の物語」④「右翼」と「左翼」の世界

「右翼」と「左翼」の世界

 

野球では、ホームベースの位置から外野方向を見た時(キャッチャーの目線です)、1塁側の外野を「右翼(ライト)」、3塁側の外野を「左翼(レフト)」と言います。

この場合の「右翼」は、「right fielder」の訳語です。「翼」には「左右にはりだしているもの」という意味があり、それでこの字が充てられたのでしょう。

野球の「右翼(ライト)」「左翼(レフト)」は、本塁から見た位置関係を表しているものであり、ここには上位・下位の関係は存在しません。

 

思想における「右翼」「左翼」や「右派」「左派」は、どうでしょう。

 

一般的な概念として、「右翼」「右派」は保守的な思想や政治信条の人を指し、「左翼」「左派」は革新的な思想や政治信条の人を指します。

社会が保守的な傾向にあることを「右傾化」と言うのも、まさにこの概念から出ています。

 

それでは、なぜ「右翼」=「保守」で、「左翼」=「革新」なのでしょう。

 

ときは1789年、18世紀末のフランスが舞台です。

 

そのころのフランスには後に「アンシャン=レジーム」(旧体制)と呼ばれた身分制度がありました。アンシャン=レジームは、第一身分:聖職者、第二身分:貴族、第三身分:平民という明確に分かれた身分制で、第一身分の聖職者と第二身分の貴族は特権階級と呼ばれていました。

第一身分と第二身分の特権は、免税特権は政治に関与できる権利でした。第三身分の平民は自分たちだけが税金を徴収されて、それが聖職者や貴族・王政のために使われることに不満を感じていたのです。これがフランス革命が始まる一つの序章です。

フランス王室は慢性的な赤字で、代々積み重なった赤字は国家の歳入の9倍ほどであったといわれています。そして当時フランスは歴史的な小麦の不作によりパンの値段が高騰し、市民の怒りは高まっていました。

それに加えてフランス王家は、財政赤字を減らすために国民の徴税を強め、国民の負担は大きくなっていきました。これにより市民の怒りは最高潮に達した状態となったのです。

 

5月5日 175年ぶりにヴェルサイユで全国三部会が開会
6月10日 シェイエスが第三身分(平民)は独自行動をとると宣言。「時は来た。錨綱を切れ」
6月17日  第三身分部会による国民議会の宣言
6月20日 球戯場の誓い(テニスコートの誓い)
6月23日 国王臨席会議、国民議会の無効を宣言。ルイ16世、議員に身分毎の部会に分かれるように命令
6月25日 第一身分(聖職者)の大半が国民議会と合流
6月26日 第二身分(貴族)の一部が国民議会と合流
6月27日 ルイ16世、第一・第二身分に国民議会への合流を勧告(王権の敗北)
7月6日  憲法制定委員会の設置
7月9日  国民議会、憲法制定国民議会(立憲議会)へと改称
7月11日 ルイ16世、軍隊のパリへの集結命令
7月14日 バスティーユ牢獄が襲撃される(フランス革命の勃発)

7月25日:パリ・コミューン成立
8月4日   封建的特権の(有償)廃止を決議
8月11日 封建制廃止令
8月26日 「人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)」を採択
9月11日 立憲議会、国王の停止的拒否権を議決

 

1789年9月11日、憲法制定国民議会(立憲議会)でのことです。

 

9月11日の会議において、「国王の法律拒否権」「一院制・二院制」の是非を巡って激しく議論されました。

王党派は、国王の権力を従来どおり維持しようという立場です。議会が制定した法律に対し国王の拒否権を認め、庶民院貴族院の二院制を主張しました。

一方、急進派は、議会の議決に国王の拒否権を認めず、一院制を主張しました。

また、中間派は国王に延期権は認めるなどの立場です。

 

当日の会議では、王党派の議員は扇形の議席のうち議長から見て右側に陣取りました。

これに対して急進派の議員は、議長から見て左側に陣取りました。

中間派の議員は、その中間に集まりました。

 

保守的な思想の議員が議場の右側(右翼)に、革新的な思想の議員が左側(左翼)に座ったわけです。

このことが、「保守」=「右翼」、「革新」=「左翼」と呼ばれるようになったことの起こりです。

 

 

「保守」=「右翼」・「革新」=「左翼」というとき、「右」と「左」に上下関係はありません。

 

しかしながら、1789年9月11日の各派の座席位置は単なる偶然ではないと思われます。

1789年5月5日、ヴェルサイユ宮殿で三部会が開催されました。その様子を描いたクデの絵がヴェルサイユ宮殿美術館にあります。
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議長席から見て右(絵では左)に第一身分の聖職者、左(絵では右)に第二身分の貴族、正面(絵では手前)に第三身分の平民が座っています。

第一身分が右で、第二身分が左です。

このことには、明確な意味があります。

ヨーロッパは、伝統的に「右上位」の社会なのです。

英語で「右」は「right」。「right」には「右」のほかに、「正しい」という意味があります。逆に「left」の原義は「弱い、価値のない」です。言葉そのものが「右上位」です。

 

そう考えると、1789年9月11日の憲法制定国民議会において、保守的な第一・第二身分が右に、革新的な第三身分が左に陣取ったのは当然な成り行きと思われます。

 

 

次回は、再び「右上位」の世界です。