教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

非論理がまかり通る時代にこそ「論理力」を

通常国会が閉会しました。

それにしても、現首相の国会答弁にも、前首相の国会答弁にも、消化不良のモヤモヤとイライラが尽きません。悲しいほどに……。

 

先日(2021年6月2日)の朝日新聞に、論理学者・高橋昌一郞さんのインタビュー記事が載っていました。 

久々に溜飲が下がる思いでした。

 

朝日新聞 2021.6.2

「論理」見失った先のコロナ禍五輪
最悪の未来 想定しない政府■国会答弁に兆候

                    論理学者・高橋昌一郎さんに聞く


 「論理的」とは「筋道が通っている」ということ。古代ギリシャの哲学者アリストテレスが「すべての学問の道具」として論理学を位置付けたのは、筋道が通っていなければ、どんな学問も成立しないからだ。


 「論理的」に考えることは、未来を予測することにもつながる。たとえば、津波は、複雑な要因で大きく変化するため、陸上に到達する時点でどれほどの高波が押し寄せるかわからない。 そこで世界各国は、最悪の事態を想定して「津波警報」を発令している。それが「危機管理の論理」といえる。


 さて、昨年3月、東京五輪パラリンピックが1年間延期されることに決まった。それ以降、もし日本政府が徹底した入国規制や人の流れの抑制を実施し、さらに今頃までに国民の大半がワクチン接種を終えて新規感染者数がゼロに近付いていたら、五輪はまさに「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証し」として、世界から称賛されたにちがいない。


 ところが、昨年の夏から冬にかけて政府は「GoToトラベル」と「GoToイート」キャンペーンを行い、感染が拡大した。 今春には変異ウイルスの猛威で重症者が急増し、各地で医療態勢の崩壊が迫っているなかで、大会関係者が多くの医療従事者を確保しようとして非難を浴びた。 今では国内外で東京オリンピックを中止すべきだという声が高まっている。


 そもそもコロナウイルスはえたいが知れず、専門家でさえ未来を予測するのがむずかしい。そのような状況で次々と重大な決断を下さなければならない各界のリーダーが、非常に困難な立場に立たされていることは理解できる。 しかし、政府はあくまで最悪を想定して、最善を尽くすべきだった。日本はこの論理を見失ったため、すべてがチグハグになったように映る。


 緊急事態宣言下にもかかわらず、会食する政治家がいた。 深夜まで大人数で送別会を開き、その後に集団感染を起こした官僚もいた。ようするに、コロナを「過小評価」した人々が現在の危機的状況を招いたといえる。オリンピックを成功させたければ、日本は右往左往せずに、一貫して「危機管理の論理」を追求すべきだった。


 実は、政府が論理を見失っていく兆候は、コロナ禍以前からあった。国会の答弁では、「ご販論法」などと呼ばれるような、意図的に論点をずらす奇妙な習慣が生まれた。質問に正面から答えず、とにかく時間を稼ぐ。誰も責任を取ることなく、謝りもしない。国会の質疑応答全体が、もはやコントのようにさえ見える。


 そうした非論理がまかり通る背景にあるのは、ネットの発達がもたらした「情報過多」だ。次から次へと新たな出来事が起きて、流れてくる情報があまりに多いために、その場でうやむやにしておけば国民は忘れてしまう。情報に流されて、自分の頭で考えられなくなる


 では、どうすればいいのか。逆説的に聞こえるかもしれないが、何かが「論理的でない」と思ったら、ネットで記事にコメントするなり自分で文章を書くなり、とにかく発信するべきだ能動的に発信しようとするとき、人は極めて論理的になりうる玉石混交の情報のなかで、論理的な「玉」を増やすこと。そうすることで非論理を海汰し、社会全体が「論理的」な行動を取る道につながる
                             (構成・山崎聡)

 

高橋氏の言説は、論理学者なのだから当然とも言えますが、理にかなっています。

非論理がまかり通る社会を悲観しているだけでは、何ら展望は開けません。

能動的に発信しようとするとき、人は極めて論理的になりうる玉石混交の情報のなかで、論理的な「玉」を増やすことで非論理を海汰し、社会全体が「論理的」な行動を取る道につながる。

 

論理的に考え、論理的に発信する人が増えることで、「社会全体が「論理的」な行動を取る道につながる」と言うのです。

 

「論理的に考え、論理的に発信する」力は、促成栽培で育つものではありません。繰り返しの経験の積み重ねが蓄積されて育つものです。

そう考えると、私たち大人が努めてそうあろうとするのは勿論のこと、未来に生きる子どもたちに論理的な力をつけていくことが、真っ当な社会に繋がると言えます。それもまた、子どもの育ちに関わる大人の責務だと私は思います。