教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

教員免許更新制廃止、そして… ⑤教員免許更新制の系譜(中曽根康弘さんのころ)

「不適格教員」という言葉が公に使われるようになるのは、管見によれば臨時教育審議会(臨教審)が最初です。

 

臨教審は、1984年に公布された臨時教育審議会設置法に基づき総理府に設置され、内閣総理大臣の諮問に応じて調査審議することを所掌事務とした行政機関です。

ときの内閣総理大臣は、中曽根康弘氏です。

 

臨教審は、次の内容について答申を出しています。

第1次答申(1985年)「我が国の伝統文化、日本人としての自覚、六年制中等学校、単位制高等学校、共通テスト」
第2次答申(1986年)「初任者研修制度の創設現職研修の体系化適格性を欠く教師の排除
第3次答申(1987年)「教科書検定制度の強化、大学教員の任期制」
第4次答申(1987年)「個性尊重、生涯学習、変化への対応」

 

『審議経過の概要(その2)』(1985年4月)の「3.これまでの論点」によると、「最近、教員として明らかに不適格と思われる者が不祥事を起こした事例が見られるが、教職の子共に及ぼす影響の重大性にかんがみ、医療処置を含め、適切な対応が取られるべきであるとの意見があった」として、いわゆる不適格教員への対応について問題提起されています。

さらに、『審議経過の概要(その3)』(1986年1月)の「第5章 教員の資質向上」
において、「教職適性審議会(仮称)の設置」という具体的な方策を公表しました。

それによると、審議会の所掌は「教員としての適格性を欠く者(懲戒処分を対象者を除く)の審査、およびとるべき措置の審査」であり、「教育委員会は、その意見を得て、分限免職その他の処分を課するなど必要な措置を講ずること」とされています。

 

この「教職適性審議会」構想は、臨教審の最終答申には盛り込まれませんでした。

制度化には無理があると判断されたものと推測します。

 

しかし、その考え方は中教審に継承され、1998年の中教審答申において、中教審としては初めて「適格性を欠く教員の問題」をとりあげています。

 

 

さて、問題は「不適格教員」の議論が中教審ではなく、中曽根首相の下に設置された臨教審という諮問機関の場で始まったという事実です。

 

中曽根首相と言えば、第二次臨時行政調査会(臨調)に基づく国鉄の分割・民営化がまず浮かびます。

 

ここに1982年5月13日、第96回国会の参議院内閣委員会の議事録があります。
臨調・行革や国鉄問題についての質疑があり、その後に鈴木内閣の行政管理庁長官・中曽根康弘氏と安武洋子氏(日本共産党)のやり取りが出てきます。

145・安武洋子
○安武洋子君 私は、まず最初に中曽根長官にお伺いをいたします。
 長官はこの四日、生長の家の相愛会男子全国大会で、……、「いよいよ、時の潮は満ちて参りました。私はまず行政改革を断行して成功しよう」——少し飛ばしますけれども、「この大きな仕事が失敗したならば、教育の改革もできなくなる。防衛の問題もダメになります。いわんや憲法を作る力はダメになってしまうのであります。」と、こういうふうにごあいさつをなさっていらっしゃいます。これはだれが聞きましても、文脈から申しますと、行革に失敗したら——教育の改革ということをおっしゃっておりますが、教育の改革もできないし、防衛の問題もだめになる、いわんや憲法をつくる力もだめになると。行革は教育改革をやるためだとまずずばりとおっしゃっているわけですが、さらに防衛の問題を挙げておられます。
155・安武洋子
○安武洋子君 ……。長官のごあいさつはその後にまだ続いておりますが、いま問題になっているところから続いて、「したがって、行政改革で大掃除をしてお座敷をきれいにして、そしてりっぱな憲法を安置する。これがわれわれのコースであると考えておるのであります。」と、こうなっております。ということは、行政改革で大掃除をしてお座敷をきれいにして、そしてりっぱな憲法を安置する。いま憲法があるわけですから、りっぱな憲法をつくってそれを安置する、これがわれわれのコースであるというふうにおっしゃるなら、前からの文脈と考えて、ますます憲法を新しくつくってそれを安置をしよう、その座敷をきれいにするのが行政改革であると、これは日本人であればだれが見てもこういうふうになりますが、いかがでございますか。
156・中曽根康弘
国務大臣中曽根康弘君) いまの憲法は、私はなかなか歴史的な意味のある、戦後の日本を建設するについて非常に功績のあった憲法であると思っています。もちろん、それは一〇〇%完全なものであるとは思いませんし、憲法についてはいろいろ議論のあるということも私は知っております。私自体もまたいろいろ考えを持っておりますが、鈴木内閣の閣僚である間は個人の意見を言うのは慎んでおります。そういう意味におきまして、行政改革という現在のことをともかくやり抜いて、お座敷をきれいにして、そうしてその上で憲法をりっぱに安置しておこう、ちょっとお座敷が汚れたりしているからふいたらどうか、そういう意味があるわけであります。

 

お座敷をきれいにして、そしてりっぱな憲法を安置する」ーー中曽根康弘氏の政治姿勢を端的に表す有名なフレーズです。

りっぱな憲法を安置する」ことが目的であり、「お座敷をきれいに」するのは目的達成のためのプロセスです。

 

中曽根氏の言動から推して、「りっぱな憲法」というのは「米軍の押しつけではない自主憲法」であり、「天皇の元首化」「9条改正」などを柱とするものです。

そうした憲法を制定するには、「お座敷をきれいに」する必要があるというわけです。中曽根氏の言う「りっぱな憲法」制定を阻害する勢力を排除するということです。

 

りっぱな憲法」制定を阻害する勢力の代表的なものは、当時の状況で言えば日本社会党という政党と、総評(日本労働組合総評議会)という労働組合です。

総評は社会党の支持基盤でもありました。したがって、総評労働運動が弱体化すれば社会党の衰退に繋がります。

当時の総評労働運動の中核には、国労国鉄労働組合)や日教組日本教職員組合)がありました。

 

1982年11月27日、中曽根康弘氏が内閣総理大臣に就任します。(1987年11月6日まで)

中曽根首相の下、国労組合員への徹底した選別排除をへて、1987年4月に国鉄は分割民営化されます。

そして、総評もまた1989年に解散します。

さらに、社会党は1996年に社会民主党と改称し、「現実路線」を歩みます。現実路線に反対する人たちは「新社会党」を結党しますが、やがて国政の場から消えていきます。

 

国労潰しを担った臨調行革の教育版が、臨教審(教育臨調という言い方もありました)です。

適格性を欠く教師の排除」は、歴史の文脈からすると、日教組運動の活動家の排除を念頭に置いていたと思われます。それが制度として成立しなかったのは、法的に無理と判断したのだと考えられます。

日教組潰しは、活動家排除とは別の方策も用意されました。

初任者研修制度です。前者の「排除」に対して、こちらは「囲み込み」です。

 

臨教審は、1986年4月の第二次答申において、新任教員に対して実践的指導力と使命感を養うとともに幅広い知見を得させるため、初任者研修制度を導入することとし、早急に具体策を検討することを提言しました。これを受けて、同年5月、教育職員養成審議会に対して諮問が行われ、87年12月、同審議会は、「新任教員に対し、採用後一年間、指導教員の指導の下における教育活動の実務及びその他の研修を義務づける」旨の初任者研修の制度化を答申します。88年5月「教育公務員特例法及び地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律案」が可決成立し、89年度より実施されています。

これによって、教員の条件附採用期間は従来の6か月から1年に延長されました。

発足当初の初任者研修においては、「初任者は、学級や教科・科目を担当しながら、校内において指導教員を中心とする指導・助言による研修を週2日程度、少なくとも年間60日程度受けるとともに、校外において教育センター等における研修を週1日程度、少なくとも30日程度受けている。また、校外研修の一環として、4泊5日程度の宿泊研修を受けるとともに、都道府県・指定都市教育委員会から推薦された一部の初任者は、文部省が主催する洋上研修に参加」といった状態でした。

徹底した官製研修漬けによって、従順でモノ言わぬ教師を育てる環境、新たな活動家が生まれにくい状況が整えられていったと言えます。

 

中曽根氏の思想や手法は、その後の自民党政治の中に脈々と生き続けていくことになります。

 

初任者研修制度の「思想性」は、2003年度に始まる「10年経験者研修」に繋がっていきます。

 

こうして、「お座敷をきれいに」するという憲法改正への環境作りは功を奏しつつあるように思われます。