教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 12月25日

クリスマス 

 

クリスマス(Christmas)は、イエス・キリストの降誕を記念する祭です。


「クリスマス(Christmas)」という英語は「キリスト(Christ)のミサ(Mass)」という意味に由来します。

 

「降誕祭」は「降誕(誕生)をお祝いする日」であり、いわゆる「誕生日」ではありません。イエス・キリストの誕生日は不明で、また12月25日を「誕生をお祝いする日」とした理由もつまびらかではありません。
Wikipedia」には次のような記述があります。

エスが誕生した月日は不明であるが、4世紀初頭の教会では12月25日と定めていた。これはローマ暦の冬至に相当する。春分の日でもある3月25日の受胎告知からちょうど9ヶ月後である。多くのキリスト教徒は、世界各国でおおよそ採用されている、グレゴリオ暦の12月25日に祝う。しかし、東方キリスト教会の一部では、クリスマスを旧ユリウス暦の12月25日に祝い、これは現在グレゴリオ暦の1月7日に相当する。キリスト教では、イエスの正確な誕生日を知ることよりも、神が人類の罪を償うために人の姿でこの世に現れたことを信じることが、クリスマスを祝う最大の目的であると考えられている。

 

日本でクリスマスのお祝いが行われるようになったのは、1874(明治7)年に原女学校で開かれたのが最初とされています。

講談社HPに掲載された堀井憲一郎さんの記事より紹介します。

明治最初のクリスマス
あらためて明治になってからの日本の〝降誕祭〟の模様を見ていく。

いくつかの書籍と、新聞記事でクリスマス世相を追っていきたい。

基本は東京の朝日新聞朝日新聞東京版)である。ただ、東京の朝日新聞が始まるのはわりと遅く明治21年(1888)からである。明治の前半は東京には朝日新聞がなかったのだ。それ以前は別の資料から拾っていく。

東京の異人居留地は、築地にあった。

このエリア内にキリスト教徒である異人たちが多数住まいをなし、また各国領事館や公館、それに教会やミッション系の学校などがあった。開国以来、江戸東京における別世界であり、異人文化が存在し、また受け入れる場所であった。

のち、銀座周辺にもキリスト教関係の建物や場所がいくつか開かれ、築地から銀座エリアが、日本のクリスマス先端地域となっていく。

日本人による明治以降の最初のクリスマスは、1874年(明治7年)、この築地居留地内にあった学校内で行われた、とされている。

東京の女子校御三家「桜蔭・雙葉・女子学院」のひとつ〝女子学院〟の発祥は、1870年(明治3)に築地居留地に建てられた〝A六番女学校〟にある。

1874年に原胤昭(はら・たねあき)らがそこで初めてのクリスマスを開いた。

この一件に関するタネ本はひとつである。

銀座の教文館出版から出ている『植村正久と其の時代』。昭和13年(1938)刊行(1976年復刻)の本である。その第二巻の十一章「我國に於ける最初のクリスマス」とそのものずばりのタイトルで書かれている。昭和初年にクリスマスは空前のブームを見せるので、その時代を反映してルーツを探って書かれたものだとおもわれる。

原胤昭本人から聞いた談話として記されている。

原は江戸育ち、もと幕臣、この1874年にキリスト教に入信した。当時数えて22歳の若者である。入信の感謝のしるしに、その年のクリスマスを盛んにやりたい、と祝会を企画した。

1874年の築地で、日本人がクリスマスを開いたのはたしかなようだが、これが日本人による明治期の初めてのクリスマスかどうかは、きちんと検証されているわけではない。

1873年やそれ以前の神戸、大阪、横浜、長崎、函館などで、どういう降誕祭が開かれていたかの精密な記録がなく、またその調査が行われていないため、反証できないだけである。厳密には、現在のところ書類で確認できる明治期最初の日本人によるクリスマス、となる(煩雑なのでそうは記さないが)。

 

神田明神の祭礼のような気持ちで…
原胤昭が入信の記念に開いた1874年の築地のクリスマスは、すこし奇妙な日本ふうの祭りになっていた。

築地の学校でクリスマスが開かれると聞いたアメリカ公使館が、間違って変なことをやられてはと心配して、祝会の前日に4人の公使館員を送ってきて、会場の下検分をやった。

熱心というか、ヒマというか、信用されてないというか、これも不思議な光景である。

ただ、アメリカ公使館の懸念は的中した。天井から吊り下げたミカンで飾った十字架を見て、これはカトリックがやることだと注意され、撤去させられた。

原胤昭は江戸っ子なので、神田明神の祭礼のような気持ちでやった、と述懐している。

神田明神の祭礼のような気持ちで迎える降誕祭。ずいぶん日本的というか江戸的な感覚である。

大枚を投じ、大骨を折って作った十字架を撤去させられてしまい、原胤昭は、これでは寂しいから、造花を集めて綺麗に飾ろうとおもいついた。しかし祝会の前日である、すぐにたくさんの造花が手に入るものではない。

そこで「浅草の蔵前から仲見世にかけて何軒もあった花簪(はなかんざし)屋」へ、賃金が高くかかるのもおかまいなしに人力車で人をやって、大急ぎで花簪を買い集めた。それで会場を飾った。かなり日本的な空間ができあがったとおもう。

 

殿様姿のサンタクロース
クリスマスツリーも飾った。

ただ会が始まる前から一切を見せてはおもしろくないから、一同をあっと言わせるために、落し幕を設えようと考えた。しかしそんなものは、横浜くらいまで行かないと買えそうにもない。

そこで、原胤昭の家は旧幕時代は八丁堀の与力で、相当権勢を張っていた関係から、近所の新富座へ交渉して、芝居の落し幕を借りることになった。賑やかなことが好きな座付きの若い者がわいわいと騒ぎながら、提灯をつけて手伝いにやってくるという騒ぎになった。

クリスマスを新富座の若い者が手伝っている、というところがおもしろい。彼らのなかにキリスト教徒がいるとはおもえない。お祭りだから、という気分が横溢としていたのだろう。

また、サンタクロースは純日本風の趣向でやろうということになった。

趣向、というところも江戸文化らしい。

裃をつけ、大刀小刀を差し、大森カツラをかぶり、殿様風の身拵えに扮装したサンタクロースを用意した。おもわず「何ですかそれは」と言いたくなるスタイルである。

当夜は、暗誦、対話、唱歌を塾の女生徒(おそらくA六番女学校の生徒)がやってくれ、中村正直(敬宇)ら大勢の人が集まりとても盛会であった、とのことである。

そういうクリスマスであった。

近代日本初とされるこのクリスマスは、ずいぶんと日本風である。アメリカ公使館も心配するはずだ。なにしろ殿様姿のサンタクロースなのだから。

クリスマスを日本に馴染ませようという意図があり、またクリスマスはそれぐらいやっても大丈夫というたかのくくりようが見られる。神田明神のような、というコメントもまた、日本の祭祀の土俗的部分を取り入れようとしているようで、とても興味深い。

キリスト教徒だけの集会のはずなのに、すでに日本土俗化している部分がいくつもある。いろんな示唆に満ちた〝明治最初のクリスマス〟である。