教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 6月3日

雲仙普賢岳祈りの日

 

1991(平成3)年6月3日、長崎県島原半島にある雲仙・普賢岳で大火砕流が発生しました。

避難勧告地区内で警戒中の消防団員、警察官、取材中の報道関係者などが巻き込まれ、死者40人、行方不明3人という犠牲者を出しました。

 

Wikipedia」の「雲仙岳」より、大火砕流の部分を引用します。全文は「雲仙岳」をご参照ください。

火砕流の発生
6月3日15時30分以降、小・中規模の火砕流が頻発し、15時57分には最初の大規模な火砕流が発生した。この火砕流と(火砕流から発生する)火砕サージは報道陣が取材に当たっていた「定点」には至らなかったものの、朝から降り続いた降雨に加えて火砕流から発生した火山灰が周囲を覆ったため、「定点」付近の視界は著しく悪化した。

6月3日16時8分、溶岩ドーム底部が地すべり的に崩壊を起こし、それまでで最大規模の火砕流が発生した[3]。火砕流は高温爆風(火砕サージ)を伴いながら、谷の出口から真東に進み、火口から約4.3kmの島原市北上木場にまで達した。火砕流は赤松谷川方面にも流れたが、南からの突風で火砕サージは「定点」方面に流れたため、この方面の住民と消防隊員、さらに撮影スタッフもカメラを据え置いて即座に風上に逃げたこともあり難を逃れた。

一方、火砕流の襲撃を受けた「定点」の報道関係者は不測の事態に備えて即座に逃げられるよう、チャーターしたタクシーや社用車を南に向けてエンジンをかけたまま道路に止めていたものの視界が悪く、逃げ道となるべき風上からも、前述の赤松谷川方面から流れてきた火砕サージの襲撃を受けたため、ほとんど退避できなかった。「定点」から数百m離れた農業研修所の消防団員は火砕流の轟音を土石流が発生したものと判断し、水無川を確認するため研修所から出たところを火砕サージに襲われ、多くの団員はそのまま自力で避難勧告地域外へ脱出したものの、重度の熱傷と気道損傷を負った。

ファイル:Fugendake 02 Pyroplastic flow area.JPG

雲仙普賢岳(2007年、東から撮影)

ファイル:Unzen pyroclastic and lahar deposits.jpg

雲仙岳と東側山麓ラハール跡 右の山肌が露出した山は眉山

ファイル:UnzenDevastation.jpg

土石流に埋もれた深江町の民家(1991年)