教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 6月27日

演説の日

 

1874(明治7)年6月27日、福澤諭吉慶応義塾の三田演説館で日本初の演説会が行いました。
「演説」はもともと仏教語で、「講義や仏教者による説教」といった意味がありました。福澤は大勢に向けて話をするという意味である英語の「Speach(スピーチ)」を、この「演説」という言葉に置き換えました。

福澤による第1回目の演説の題目は「明治七年六月七日集会の演説」。その演説は「学問の伝播」「大勢の人に向かって意見を述べられるようになること」「婦人、子供もきちんと話ができるようになること」「議論ができるようになること」といった内容で、西洋風の演説を稽古する意義について述べたと言います。


慶應義塾」のHPより引用します。

[慶應義塾豆百科] No.30 演説の創始

自分の意思を多数の相手に伝達する手段として、演説や討論という方法を日本に紹介したのは、福澤先生をはじめとする初期の慶應義塾入門生、すなわち慶應義塾の社中である。

古来わが国には演説という習慣がなく、自分の意見を他に示し賛同を求めるには、書面にしたためてこれを示す以外に方法がなく、重要なことは文章にするという文書第一主義が一般的であり、口頭による意見の発表は、十分に信頼のおけるものではないとの考えが支配的であった。しかし、この習慣を改めない限り、議会政治の開始はもとより、公平な裁判の実施すら覚束なくなるというので、慶應義塾では教室の中での教育以外に、社会教育の一方法として工夫されたのが、この演説であった。

演説を始めるに当たって、手本とする原書を翻訳してこれを見倣うわけだが、まずスピーチやディベートの訳語からつくらなければならなかった。スピーチの訳には、もと中津藩で藩士が非公式に自分の意見を上申する時に使った「演舌書」という言葉を先生は思い出され、演舌の舌を、俗だからと説に替えて「演説」という訳語を作り、ディベートは弁論・討論と訳された。しかし、セカンドは賛成するという動詞には気付かず、ついに誤訳されてしまったが(『会議弁』)、とにかく明治6年夏から三田山上の福澤先生の自宅や他の教員宅で、他人の傍聴を許さず10余名の有志の者のみで、演説や討論の練習に励んでいた。

当時最高の知識人の結社と見られた明六社のメンバーですら、日本語はヨーロッパの言語と違い、大衆に意見を伝えるには適さないなどと見当違いのことを言う者(森有礼)もいたが、その明六社の集会で先生はさり気なく時事問題について演説され、日本語でも立派に自分の意見を他人に伝達することの出来ることを証明されて、演説の必要をとなえられた。

明治7年にはいよいよ三田演説会を組織して一般に公開することとし、また演説や討論の仕方を手ほどきした本や規則を発表して、その普及につとめられた。それに従い、この三田演説会の専用演説ホールとして明治8年に造られたのが、現在も三田山上の南西隅稲荷山に建つ「三田演説館」であり、この建物は明治期建造物の特異な遺構として、昭和42年国の重要文化財に指定されている。今日でも三田演説会や学位授与式・各種講演会の開催などに使用され、有効に利用されている。

 

[慶應義塾豆百科] No.31 三田演説館

平成9(1997)年に修復された三田演説館
三田演説館は日本最初の演説会堂である。福澤先生の建造にかかり、開館は明治8年5月1日。当初は現在の図書館(旧館)と塾監局との中間辺に位していたが、大正13年、現在地—三田構内南西の小丘稲荷山上に移築され、さらに昭和22年5月修復がほどこされて、同40年には開館以来まさに90年を閲し、10月22、23両日にわたって記念の行事が行われた。しかも、この間、大正4年東京府からはやくも史蹟に指定され、また昭和35年3月には東京都重宝(建造物)の指定をうけ、さらに同42年6月には重要文化財に指定されている。

演説といえばいまでこそ知らぬ者はいないけれども、わが国で初めてそれが試みられたのは実に明冶6年のことで福澤先生を中心に門下生数名が西洋のスピーチ(演説)、ディベート(討論)の法を研究して創始したものである。そして、翌7年6月第1回の演説会を開き、ついで建てられたのがこの演説会堂であった。構えは木造瓦葺、洋風、なまこ壁で、床面積58坪余(192.16平方メートル)で、一部2階建で総坪数は付属建物合わせて87.9坪余(290.34平方メートル)になる。聴衆400、500名を容れるに足り、ちようどそのころアメリカにいっていた富田鉄之助に依頼して種々の会堂の図面をとりよせ、それを参考に二千数百円を投じて造られたという。

後年、福澤先生はこれにつき、「其規模こそ小なれ、日本開闢以来最第一着の建築、国民の記憶に存す可きものにして、幸に無事に保存することを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」(「福澤全集緒言」)といっておられるが、あえて五百年といわず、今日すでに立派な名所となって、見学者も少なくない。ことに、近年しきりに明治建築の保存がさけばれているとき、この建物はその意味においてもはなはだ貴重といわなければなるまい。三田演説館はひとり慶應義塾にとってのみならず、日本の誇るべき文化財の1つである。

なおこの建物は平成7年12月より1年4か月かけて解体修復が施され、平成9年4月に完成した。