教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

教科書の厚さと学びの深さ

新聞を読んでいたら、小学校主要4教科の教科書の合計ページ数が、50年ほど前の約3倍になっているとあった。

50年ほど前といえば、私の初任の頃である。退職する頃には英語の教科書はなかったが、それでも相当ページ数は増えていたはずだが、認識不足だった。

 

子どもの知識量が50年前の3倍になった、ということはあり得ない。学習指導要領が求めている学習内容が大きく変わっていないのだから。

 

授業のスピードが50年前の3倍になった、ということもないだろう。だが、教科書の総ページ数を総授業時間数で割った時、1ページに費やできる時間は間違いなく短くなっている。あくまで机上での比較だけれど。

 

昔から教育界には、「教科書を教える」「教科書で教える」ということばがある。「教科書『を』教えるのではなく、教科書『で』教えよ」のように使われる。

『を』の授業は、字義通り教科書に書かれていることをそのままなぞるがごとき授業をいう。私は、それは授業ではないと教えられた。

『で』の授業は、教科書を使って(教科書を入り口として)「何か」を学ばせる授業をいう。「何か」の中身は、真理であったり、原理であったり、深い考察であったり、洞察であったり…教科や教材によりさまざまである。

したがって、教科書のページ数だけで学びの深さを比べることはできない。はてさて、50年前と今と、どちらが「教科書で教える」授業に近づいているのだろう。

 

それにしても、感慨深いものがある。

今の3分の1のページ数だった50年前の教科書のころ、「知識偏重」「詰め込み教育」などの批判があった。

それを改めて、「ゆとり教育」が始まった。

PISAが決定打となって「脱ゆとり」へと舵を切ったのが2000年代のはじめ。以後、教科書のページ数は増え続ける。

教師の負担軽減ということもあって、2030年からページ数に上限を設けるらしい。新聞記事は、それを報じるものだった。

 

感慨ついでに、1978年に初任の私が担任した3年生の光村図書・国語の目次を探してみた。

 

3年前の同じく光村の目次を見ると、確かに教材数も増えている。

「夕日がせなかをおしてくる」「ありの行列」「モチモチの木」は、50年前の教科書にも現行の教科書にもある。いまの教室、そっとのぞいてみたい気もする。

やっぱり教科書は紙か

新たな教科書は「紙中心」、デジタルは補助的扱いに…小4以下は完全デジタル認めず

2026年10月18日「読売新聞オンライン」の見出しだ。

具体的な中身は次の通りだ。

2030年度以降に小中高で導入されるデジタル教科書のあり方を示す文部科学省の「大臣指針」素案が17日、判明した。新たな教科書は紙を中心とし、デジタルは、補助的・補完的な扱いと位置付けた。紙を使わない完全デジタルの教科書は小学4年生以下は認めず、小5以上も英語や実技系教科などに限定。導入後、学習や健康への影響を検証し、必要に応じて見直すことも盛り込んだ。

22日に開かれる文科省の有識者会議で示す。6月に改正学校教育法などが成立し、30年度以降の教科書は「紙とデジタルのハイブリッド」「完全デジタル(デジタルのみ)」「紙のみ」の3形態となる。新たな教科書のあり方は大臣指針で示すことになっていた。

素案では、新たな教科書は、基本的に全学年・教科でハイブリッドを中心とし、小5以上は「主に紙」、小4以下はデジタル部分をより限定的にした「おおむね紙」で構成することを明記した。デジタルは補助的・補完的に組み込む。

一方、完全デジタルの教科書は小4以下は認めない。小5以上も英語のほか、音楽、美術といった実技系教科などに限定する。

 

2、3年前とは空気が変わった。明らかに、デジタル教科書へのブレーキがかかっている。何があったのだろう。

 

2025年3月18日の読売新聞は、デジタル教育先進国フィンランドのいまを伝えている。

フィンランドは2000年は始まったPISAテストで世界一になり、日本からも「フィンランド詣で」が相次いだ。2025年調査では数学が22位、読解力が16位だった。

以前のリーヒマキでは、パソコンを使った授業が週に20時間を超えることもあった。「子どもの集中力が低下し、短気になるといったことが、その頃、フィンランド全体で問題化した。デジタルに偏った教育への懸念が高まった」。市のヤリ・ラウスバーラ教育部長(61)は振り返る。

 

市は23年末、中学生と保護者、教職員計約2000人へのアンケートを実施した。すると、保護者の7割が紙の教科書を望み、教員の8割が外国語などの授業で紙を使いたいと答えた。今秋から中学の物理や化学でも紙を復活させる予定だ。

 

ハルユンリンネ中のハンナ・ピュルバナイネン校長(52)は「紙の教科書は教室に落ち着きをもたらす」と話す。

 

2026年4月17日のBBCニュースの記事は、同じくデジタル教育先進国スウェーデンの現状を伝えている。

スウェーデン政府は、学校で紙の本、ノート、ペンといった物理的な教材に改めて重点を置いている。低下する識字力の反転が、この方針の狙いだ。

 

かねてデジタルツールの使用に懸念を示してきた、カロリンスカ研究所の神経科学者、シセラ・ナトリー博士は、「教室ではテクノロジーが混乱を引き起こしている。その混乱について、認識が高まっている」と述べた。

ナトリー博士は、端末画面上で他の子どもたちが何をしているかが目に入ることで、生徒が集中力を失う可能性があると言う。さらに、デジタル機器で文章を読むことでや、過度な画面使用が低年齢の児童の脳にさえ影響を及ぼしかねないことを示す国際的な研究が増えているとも話す。

スウェーデン政府は、より伝統的な教育方法に回帰することで、経済協力開発機構(OECD)が実施する「OECD生徒の学習到達度調査」(PISA)での評価が上がることを期待している。かつてこの調査で上位にあったスウェーデンの成績は、2012年に急落し、その後いったん回復したものの、2022年には数学と読解力で再び大きく落ち込んだ。

OECD平均をわずかに上回ったものの、2022年には識字力でイギリス、アメリカ、デンマーク、フィンランドといった国々を下回った。また、15歳または16歳の生徒の24%が、読解力の基礎水準に到達していなかった。

「学校で教育を受ける間ずっと、たくさんの画面に囲まれ続けた子どもたちが、国際調査で後れを取っていることは分かっている」と、フォルシェル氏は述べた。

今年1月にOECDが公表したスウェーデンの教育に関する報告書は、総合的に見れば、スウェーデンの生徒はデジタルツールへのアクセスから恩恵を受けていると結論づけた。

報告書はその一方、スウェーデンの教室ではデジタル機器が原因で生徒の気が散り注意散漫になりやすいことが、現象として広く見られると指摘。数学の授業では、デジタル機器をしきりに多用することと成績の低下が相関していることが分かったという。ただし注目すべき点として、それでもその生徒たちの成績は、デジタル機器をまったく使わない生徒たちよりも高かったという。

 

・成績の低下

・子どもの集中力が低下し、短気になる

・低年齢の児童の脳にさえ影響を及ぼしかねない

・紙の教科書は教室に落ち着きをもたらす

これがデジタル教育先進国の北欧の現在地だ。

こうしたマイナス面の実証がブレーキとなって、「紙とデジタルのハイブリッド」となったわけか。それも、「紙」が主で「デジタル」が補助という関係の…。

 

そもそも、デジタルへの流れは学校教育の側からの要請で始まったものではない。学校現場は大きな力に振り回されながら、そのつけは最も弱い子どもの上にまわってくる。我が思うところはまた別の機会に…。

 

超難関中学校の入試問題と論理力

小学校3年生の孫娘の口からある中学校の名前が出た時は、正直驚いた。

そこは、偏差値70ほどの超・超難関中学である。

親はちょっとした軽口のつもりでも、本人はその気になっているから困る。やめてくれよな、と言いたくなる。

 

軽口は親バカで、ここからは爺バカの話になる。

 

私が教員であった時代は私立中学の入試問題が簡単に手に入る環境ではなかったし、そもそも興味も関心もなかった。

いまは、ネットで検索すればいともたやすく手に入る。

ものは試しだ。孫娘の口から出た中学校の算数問題をダウンロードして解いてみた。

 

公立高校入試の数学問題でもそうだが、1番には「点数を稼ぐのはここですよ」的な小問がいくつか配されている。

5問のうち2問が計算問題で、もっとも点の取りやすいところだ。ところが、なんということだ。1つの計算問題にノートを1ページも要するではないか。

結局、解くには解けたのだが、脳の老化が進んでいる今の私の実力では合格できない。試験時間と問題構成から考えて、1番には10分も使えないだろう。つまり、最初の計算問題2問などは1分そこそこで解く必要がある。私は、すでにタイムオーバー。

 

2番の中に、面積を求める問題があった。

小学校の学習内容としては、円や三角形の面積を求める公式を覚えていれば解ける問題である。ところが、問題の図をどんなに眺めても公式が適用できない。これは、図形を移動することで公式が使えるカタチになる。問われているのは公式ではなく、問題解決能力だ。私はここでも時間を使い過ぎているようだ。

 

超難関中学校の入試問題が超難問であるのはなぜか、考えた。

学習内容としてはあくまでも小学校の学習指導要領が示す範囲内での出題である。したがって、方程式や関数を使うような中学校の「先取り」問題はない。では、何が難しいのか。なぜ難しいのか。

 

小学校で使われている業者テストは、学習内容が「むき出し」の問題である。学習内容を理解しているかどうかを問うのが目的だから、それでいい。

対して私がいま対峙している入試問題は、学習内容が幾重にも包み込まれている。包み込む「しかけ」が多重になるほど、複雑になるほど「難問」になる。つまり、ここで問うているのは学習内容ではなく(学習内容を理解しているというのは自明の前提)、「しかけ」を解く力ということになる。

 

それでは、「しかけを解く力」とは何か。

私は自分で問題を解いていて、それは「論理力」だと直感した。

 

論理力を育てる。

ネット検索してみたら、問題集だってあるではないか。たとえばZ会には、低学年の段階から論理力を育てるためのシリーズが何冊もある。

論理力がいわば「体幹」になって、そこに高度な受験テクニックが加わることで、やっと超難関校の受験資格を得ることになるわけだ。

 

それにしても、複雑な気分である。

私は、PISAテストが始まって以降、論理力を育てることに注力してきた。その極みが超難関中学校の入試学力につながっていたとは……。

 

孫娘には、折を見て「やめておけ」と言ってやろうと思っている。

日本語には頑固爺でいたい

文化庁が行った2025年度「国語に関する世論調査」の結果が公表された。

その中に、「れる/られる」(いわゆる「ら抜き言葉」)に関するものがあり、「出れる」が半数を超えたと報じられた。

(1)~(5)は「れる/られる」が後に続く言い方について尋ねたものである。なお、「食べれない」、「来れますか」、「考えれない」、「見れた」、「出れる?」は、共通語においては改まった場で用いるのは適当ではないとされてきており、新聞などでもほとんど用いられていない。これらは、上一段活用、下一段活用、カ行変格活用の動詞の可能表現である。この場合、辞書等では、動詞の未然形に可能の助動詞「られる」が付いた「見られる」「出られる」「来られる」などが本来の形であり、「見れる」「出れる」「来れる」などの形は、五段活用動詞(「読む」「書く」など)から生じる下一段活用の可能動詞(「読める」「書ける」など)などの影響によるものと考えられるとされている。

ちなみに、「来れる」「見れる」は前回2020年度調査ですでに半数を超えていた。

 

「ら抜き言葉」については、以前に書いたことがある。

yosh-k.hatenablog.com

その時に結びにこう書いた。

言葉は生き物ですから、やがては「ら抜き」言葉が当たり前の言い方になるかもしれません。「当たり前」のめやすとして、私はNHKニュースに注目しています。

いま、インタビューなどで「食べれる」などと言われたとき、テロップでは「食べられる」と表記されています。それがそのまま「食べれる」と表記されるようになったとき、「当たり前」が変わったということです。

 

教師の発する言葉はとても影響力があり、それも文法の授業などでない日常の話し言葉が何よりのテキストになります。「当たり前」が変わるまでは、若い先生も、たとえ若い世代では少数派であっても、「食べられる」と言い続けてほしいと思います。

私は、日本語には頑固爺であり続けたいと思っている。

 

ドラえもんのポケット

「ドラえもんのポケット」

初めての転勤の時、職場の後輩が私を形容して贈ってくれた言葉だ。

 

「ドラえもんのうた」

こんなこと いいな

できたら いいな

あんなゆめ こんなゆめ いっぱいあるけど

みんなみんなみんな かなえてくれる

ふしぎなポッケで かなえてくれる

……

 

「ドラえもんのポケット」

私は、この言葉が大層気に入っている。

教科書のない授業、子どもを活かす教材・教具・指導法…。とにかく、新しいことに挑戦するのが大好きだった。引き出しを増やす「投資」も、また楽しかった。

 

やがてポケットがいっぱいになって、いや、それは単なるビール腹だったりして…などと囃されたっけ。

 

おかげさまでビール腹にはならず、また、ポケットから溢れる心配も杞憂に終わった。退職から10年余が過ぎ、筋肉が重力に抗しきれずに下腹に落ちてきているのがちょっと見苦しい。古希は「古代より希な長寿」を言うが、いまどきの70は「老春」まっさかり。ドラえもんのポケットならぬ下腹を撫でながら、あの頃を懐かしんでいる。

 

 

新カテゴリー「徒然なるままに」は、あの『徒然草』に由来する。吉田兼好さんのような文章は書けないけれど、「心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書き」たいと思っている。きょうは我が人生の記念日にして、新たな始まりの日。

自己調整力、論理力、それからニコリのパズル③

ここ数年、ニコリのパズルはマイブームである。

 

「ニコリ」はパズル制作会社で、看板商品の「数独」は、商標登録されたニコリ製ナンプレである。私は「数独」もするが、「推理パズル」や「スリザーリンク」のファンだ。

 

「自己調整力」、「論理力」ときて、そのあとが「ニコリのパズル」。

文脈が読めない?

 

マトリックスを活用する推理パズルは、○と×を使って論理的に解いていく。数独やスリザーリンクもまた、論理的に解いていくパズルである。ここでの「論理的」は、理詰めで、筋道立ててという意味だ。

たとえば、数独。上級レベルの1問がある。

問題を見ながら、どこから解いていくか決める。

実際に解いてみる。

行き詰まったら、どこまで戻るか検証する。

別の解き方を検討する。

 

これって、

「学びの主体的な調整」とは、

学習の計画を立て(課題解決のための方策を含む)、

学習したことを振り返り、

学習への取り組み方がうまくいかないと気づいたら、取り組み方を変更する力

をいう。

という文脈に似ている。

 

論理的に解くパズルをすれば論理力が育つ、などと言うつもりは毛頭ない。

しかし、間違いなく論理力の「体幹」は鍛えられると思う。

 

 

自己調整力、論理力、それからニコリのパズル②

OECDによるPISA学力調査は2000年に始まった。

 

佐藤学さんの『学校を改革する』(岩波ブックレット、2012年)より引用する。

1989年にベルリンの壁が崩壊し、経済のグローバリゼーション化が進行した。その結果、先進諸国では産業主義社会からポスト産業主義社会へと移行して労働市場が大きく変貌し、生産労働に従事する労働人口が激減し、知識情報産業の労働市場(情報、経営、金融)と対人サービスの労働市場(福祉、医療、教育、文化)が飛躍的に拡大している。この変化に対応して、知識が高度化し複合化し流動化しており、学校教育は生涯学習の基礎として、将来にわたって学び続ける基礎教養を形成し、学びの主体としての学習者を育てる必要に迫られており、創造的な思考や探求を行い、他者と協同するコミュニケーション能力を育てることを要請されている。
 「21世紀型の学校」は、「質と平等の同時追求」を根本原理として構想されている。産業主義によって経済発展を遂げている途上国の教育改革は今なお「量」の達成(引用者注:「量」は従来のテストで測れる知識量のこと)が中心目的であるが、ポスト産業主義社会に突入している先進諸国の教育改革においては、「質と平等の同時追求」が教育改革の成否を規定する根本原理となっている。この根本原理を最も端的に示したのが、OECDによって2000年から3年ごとに実施されてきた国際学力調査(PISA調査)であった。

佐藤さんの文章は、専門書でなくても結構難しい。簡単に言うとこうだ。
経済構造の変化によって、知識をたくさん持っている「学力」ではなく、「創造的な思考や探求を行い、他者と協同するコミュニケーション能力」をもった「学力」を要請するようになった。先進諸国の教育改革は今まさにその方向で進んでおり、その達成度を測るのがPISAテストだというわけである。

いつの時代もそうなのだが、その時代の経済が求める人材が教育の有り様を規定してきた。知識詰め込みが間違いで、PISA型学力が正しいというのではない。今の経済がPISAを求めているということだ。

 

PISAテストが求める学力とは、「論理力」「論理的思考力」である。

 

「論理的思考力」(ロジカルシンキング)とは、簡単に言うと「筋道立てて考える力」だと理解してきた。それで間違いではないのだと思うが、次の一文が示唆に富んでいる。京都市立新道小学校(2011年度末で閉校)の「平成19年度 校内研究の概要」(2007年)を紹介しよう。

「論理的思考」と「論理的表現」を区別して
 前年度,それぞれの学年の実践の中で,明確な定義付けを行わないままにではあるが,どんな指導・活動が「論理的思考」を高め発揮させることになるのかを試行錯誤的に追求していった。
 その結果,かなり具体的な指導・活動の姿が浮かび上がってきた。しかも,学年ごとにそれぞれの学年の発達年齢に相応した内容となっていた。
 そこで,今後もできる限り具体的な実践の中から,「論理的思考」を高める指導・活動を追求し,残り2年間の研究の中で,それらを系統化・体系化し,新道小学校における「論理的思考」を高める指導・活動が,全学年の総合・生活・国語の学習を通してどのように展開されていくのか,一覧できるようにしていきたいと考えた。
 ただし,これまで我々は,「論理的思考」という言葉を,「筋道立てて考える」とか,「~だから~だなどと理由を付けて説明できる力」とか,あいまいではあるが,簡単に言えば,科学・学問的な論文に見られるような,「理路整然とした思考ができること」というイメージで語ってきた。(下線は引用者。以下同様)
 しかし,研究の過程に於いて,我々は以下のことに気づかされた。まず,①「論理的思考」と「論理」はまったく違うものであり,はっきりと区別されなければならないと言うこと。その上に立って,②我々がこれまで「論理的思考」と考えてきたことは,すべて「論理」もしくは「論理的であること」であり,それは「論理的思考」の結果としての,言わば「論理的表現」(文章・口頭による説明)であるということ。そして,③「論理的思考」そのものは,その「論理的表現」を達成するための試行錯誤も含めた様々な探求作業だと言うこと。この「論理的思考」において重要なのは,「探す」「問う」「吟味する」「選択する」ことである。それは,集めた情報はもちろん自分自身の仮定や探求活動の仕方そのものを批判的に「問い」,「吟味し」,「探し」,「選択」していく作業過程である。
 したがって,「論理的思考」段階では,一方で,「分析・分類・条件統制・比較・関係づけ」といった整然とした作業が必要だが,他方で,自らの活動・作業・進む方向などを常に批判的に吟味し「問い」続けることが不可欠である。
 したがって,今後の研究では,結果としての「論理的表現」とそこに至る「論理的思考」とを明確に分けて,実践上も「論理的表現」の達成を指導者はもちろん児童もはっきりと目標として意識し,その目標につながる「論理的思考」のとりくみ(指導・活動)を創造していきたい。

 

「論理的思考・表現」の定義化としての「論理力の17要素」
 一昨年度以来,「論理的思考」をキーワードとして研究・実践を深めてきた。そして,昨年度は,積み上げた実践をもとに,「論理的思考」と「論理的表現」とを明確に区別し,研究・実践を整理した。この間,上述のように「できる限り具体的な実践の中から,「論理的思考」を高める指導・活動を追求」するということで,あえて論理的思考・表現の定義付けの議論は保留してきた。しかし,この2年間の論理的思考・表現を高める実践を踏まえ,それを分析的に振り返り,一覧表(「論理的思考・表現と活動」低・中・高)として整理する中で,あらためて論理的思考・表現を定義化する必要性が出てきた。
 この2年間の実践は,どの学年の取り組みを見ても,結果として,子どもたちの論理的思考・表現を鍛え高めるものであったことは明白である。しかし,では,具体的にどのような力を伸ばし育ててきたのかと問われたとき,「論理的思考・表現を育ててきた」というだけでは,抽象的に過ぎ,具体性を欠く。それでは,今後に於いて,子どもたちの具体的な活動や作業レベルで,どんな力を発揮させ育てていくのか,意識的に組み立てていくことができない。この「論理的思考・表現」を,もっと具体性のある分節化された要素として定義していかなければならないのである。
 そこで,昨年度末の研究の総括の中で,広島県安芸高田市立向原小学校の研究を参考に,本校のこれまでの実践を踏まえつつ,論理的思考・表現を「『論理力』の17要素」に分節化し,より厳密な定義を試みた。この現段階での試案は別表(「『論理力』の17の要素」「『論理力』の17の要素・学年系統」)を参照。また,この「論理力」の17要素を昨年度の実践に適用したのが,別表「論理的思考・表現と活動低・中・高」である。

 そして,今年度,論理的思考・表現の力を「論理力の17要素」として具体化し,意識的に各要素に定義された力を育て高める実践のあり方を研究していくこととなる。
 以上のような方向で,研究主題に迫っていくのであるが,そもそも,私たちが論理的思考・表現をキーワードとして進めてきたのは,総合的な学習の時間にしっかりとした力を身につけんがためであった。そのためにこそ,他教科(とりわけ国語科)との関連も図ってきた。その結果,育てるべき力を「問題解決能力」,「論理的思考能力」,「論理的思考・表現の力」と深めてきた。そして,いまあらためて確認できるのは,こうした力は,総合的な学習固有のものではなく,国語力と大いに連動する学力そのものであることだ。つまり,私たちとしては,総合的な学習を教科の学習と同じく,学力を鍛え育てる場と考えてきたのである。そうした趣旨を確認する意味で,今年度の研究主題・サブテーマの表現を以下のように改訂することにした。また,「問題解決能力」は「論理的思考・表現の力」を核としたものとして理解でき,内容的に重複することも踏まえ,その言葉を省き,学力を鍛え育てる総合的な学習という点を強調した。

 

「論理力の17要素」を再掲する。

対話する力

発想する力

比較する力

分類する力

定義する力

計画する力

記録する力

収集する力

選択する力

説明する力

分析する力

検討する力

推論する力

説得する力

評価する力

構成する力

論証する力

 

ここで、自己調整力の話に戻る。

「学びの主体的な調整」とは、

学習の計画を立て(課題解決のための方策を含む)、

学習したことを振り返り、

学習への取り組み方がうまくいかないと気づいたら、取り組み方を変更する力

をいう。

そうした力を育てる「自己調整学習」のサイクルは次のようなものだった。

学習と健康・成長

 

両者は、重なる。PISA学力の基本は変わっていない。取り組みが進むにつれて、課題が顕在化してきたということだろう。