教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

岩手紀行③ 小岩井農場・網張温泉

八幡平アスピーテラインの山頂から秋田県側に下ると、乳頭温泉や田沢湖に通じる。ずっと以前の秋、秋田県側から岩手に下ったことがある。今回は、ここでUターンして、再び小岩井農場を目指す。休暇村岩手網張温泉に泊まるためである。

 

小岩農場の駐車場に車を止めて、周辺を散策する。

サクラは散りつつあるが、新緑が美しい。

 

 

コブシの花が満開になっていた。

 

 

牧場の向こうに岩手山が見えている。それだけで、いい。

 

休暇村岩手網張温泉は、小岩井農場から15kmほど走った高地にあり、雫石の市街地を見下ろせる。霞の向こうが盛岡である。

 

岩手紀行② 八幡平

小岩井農場から岩手山の東麓を北上すると八幡平に至る。

 

道の駅にしね近くで左折して7kmほど走ると、焼走り溶岩流の駐車場がある。

焼走り溶岩流は、1732年の岩手山噴火の際に流出した溶岩流により形成された岩原である。国の特別天然記念物に指定されている。

自然の力というのはすごいとしか言いようがない。

 

岩手山パノラマラインを走り、松尾八幡平ビジターセンター辺りの細道を抜け、八幡平アスピーテラインを上っていく。除雪作業を終えたアスピーテラインは、4月15日に開通したばかりだ。頂上付近には「雪の壁」がある。

八幡平山頂レストハウスから見る岩手山。小岩井農場から見た岩手山の裏側の姿になる。

「雪の壁」は立山でも乗鞍岳でも見たが、自家用車で通過できるのはここが初めてだ。開通から10日しか経たないが、壁にはハングルやローマ字による落書きが目立った。残念である。

昼は、レストハウスで稲庭うどんを食べた。

岩手紀行① 小岩井農場一本桜

2025年秋、NHKBSで連続テレビ小説『どんど晴れ』の再放送が始まった。そのオープニングで、残雪の岩手山を背景に咲く小岩井農場の一本桜が映る。

 

見たい、と思った。めずらしく、そんな感情に包まれた。

 

そして、2026年4月25日午前10時5分。

岩手県岩手郡雫石町、小岩井農場一本桜の前に立っている。

土曜日のこの日、快晴にして満開。道路脇の駐車場は順番待ちの列ができるほどの混雑ぶりだった。

 

 

 

 

 

写真がすべて。余計な説明など要らないだろう。

と言いつつ、ちょっとばかり付け加えておく。小岩井農場のHPより転載。

秀峰岩手山を背景に、小岩井農場の緑の大地に根を張る一本桜(樹種:エドヒガン)。詳しい樹齢は不明ですが、明治40年代に植えられたと言われています。一本桜があるこの草地は、今は農場の牛などの餌になる牧草を収穫する畑ですが、昔は牛の放牧地でした。牛は暑さが苦手なので、夏の強い日差しから牛を守る「日陰樹」として植えられたものです。

 

2泊3日の岩手旅行の主たる目的は、1日目の朝一に果たされた。

そろり美濃路⑤ 浅間町~名古屋宿~宮宿~七里の渡し

浅間町~名古屋宿~宮宿~七里の渡し

今回は、名古屋市営地下鉄浅間町駅から名古屋宿、宮宿を経て、東海道・七里の渡し跡まで歩いた3月28日のたびである。

 

浅間町駅の南東、名古屋城に近づいたあたりで、街道は右に折れ堀川に平行して南下する。清須から移された五條橋があるのはこの通りだ。

やがて美濃路は左折して、伝馬橋を渡る。もちろん今は面影もないが、これもまた清須越の跡だ。

橋のたもとに説明板がある。

「名古屋歴史ワンダーランド」に、当時の様子が紹介されている。

この南北の道は、名古屋と熱田を結ぶ幹線道路で本町通とか熱田道と呼ばれ、東海道の熱田宿と中山道の垂井宿を結ぶ美濃街道でもあった。
 この場所には不審者が城下に入り込まないように木戸が設けられていた。

 

 江戸時代の名古屋は熱田からの出入口にあたるここ橘町のほか、清洲からの出入口である美濃街道の樽屋町、下街道は坂上町(現:赤塚交差点北西)に設けられていた。なお、『名古屋市史』はこの他巾下に、『金鱗九十九之塵』は飯田街道の駿河町にもあったとしている。

 木戸の内側は木戸内と呼ばれ城下、外側は木戸外と呼ばれ郊外であった。
 木戸は夜には閉鎖され不審者が城下へ入り込むのを防ぐ軍事上重要な施設であった。また、文化4年(1807)には、熱田で出火したとき火元係は全員橘町大木戸の外まで駆けつけるようにとの御触れが出ている。

 これらの大木戸は明治5年に取り壊された。

 

東に1kmほど進むと「札の辻」で、名古屋城の正面から下ってきた道と出あう。美濃路はここで右に折れ、熱田に向けて南下する。

道ばたのサクラが満開になっていた。

金山駅を過ぎた先の交差点が佐屋街道の分岐である。宮からの海路を避けたい人は、ここを通って西に向かった。

写真の大通りが美濃路で、左が熱田で右が名古屋になる。交差点から左奥に続く道が佐屋街道である。佐屋街道の道標は、交差点手前の黄色と黒の縞模様に向こうにある。

望遠で撮ってみた。

 

2kmほど進むと、熱田神宮である。

 

美濃路は熱田神宮の南で東海道と出あい、終点となる。

写真の右から左に伸びるのが美濃路で、手前に見えるのが東海道。熱田の追分の道標はビルの手前にある。もともとは左手前の道ばた(つまり南側)にあったらしい。

道標の説明板と4面の写真。

 

宮宿があったのは「道標」の地点から南側で、その先が熱田湊で「七里の渡し」で桑名へ至る。七里の渡し舟着場跡は宮の渡し公園として整備されている。広重は、「東海道五十三次」宮宿にその様子を残している。

『ちゃんと歩ける東海道五十三次』によると、次のようにある。

七里の渡し

宮と桑名の間には「木曽三川と呼ばれる木曽川、長良川、揖斐川の大河が横たわり、河口は川幅が広く、架橋は不可能であった。

そこで海上七里の渡しになった。但し潮が引くと十里の渡しとなった。

渡船の管轄権は尾張藩が掌握し、渡船48艘、船頭25人、水夫(かこ)130人が従事した。

渡しは暁七ツ(午前4時)から夕七ツ(午後4時)、蔵福寺の時の鐘を合図に行われ、船賃は正徳元年(1711)の記録によれば乗合で一人45文であった。

海路を嫌う旅人は宮宿の熱田の追分より佐屋まで陸路を6里進み、木曽川を川舟で3里下って桑名に渡る佐屋街道を利用した。

 

熱田神宮まで戻って名鉄で名古屋駅へ。今回は名古屋コーチンを食し、あのあんパンも土産に買った。1日の歩数は21537歩。

 

美濃路のたびは終わった。

次は、まさかの……。

 

そろり美濃路④ 国府宮~清須宿~名古屋城

国府宮~清須宿~名古屋城

今回は、名鉄国府宮駅から清須宿を経て、名古屋城まで歩いた3月24日のたびである。

 

国府宮駅前のベンチで例のあんパンを食べて、いざ出発。

美濃路に戻ったところに、国府宮一の鳥居がある。

 

1時間ほど歩いて東海道本線の長い踏切を越えた先に、長光寺(六角堂)の道標がある。「右ぎふ道」「左京都道」の文字が見える。

 

2kmほど歩くと、清須宿に着く。

清須宿本陣跡。

高札場跡近くの道標には、「佐屋」「甚目寺」「津島」の文字が。

宿場の外れが五条川で、五条橋を渡る。

橋のたもとの解説板にはこうある。

五条橋
五条橋は室町期、斯波氏の時代から架かり、一六一〇年の清洲越で城と共に名古屋堀川に移されるまで、まさに「御城橋」の役を果たしてきた。
信長が愛馬に跨って渡り、豊臣秀吉がほぼ、全国統一を成しとげた小田原征伐の帰路、この橋の上で上島神社へ社額の寄進を行った。
清洲越の後、美濃路宿駅として清洲が復活すると、旅人の往来著しく、五条橋は何度も改築されてきた。
現在の橋は名古屋移転前の擬宝珠の親柱と銘文をそのまま復元したもの。
                                                      美濃路まちづくり推進協議会

擬宝珠は名古屋に移され、現在は名古屋城の博物館にある。

五条橋から清洲城を見る。ちなみにこの天守は、清洲町の町制100周年記念として1989年に建てられた。

 

1時間ほど歩くと、庄内川に行き当たる。

堤に沿った西枇杷島で珍しいものに出会った。「屋根神様」と呼ばれるもので、愛知と岐阜でのみ見られるものらしい。

こちらは1891年築の家で、西枇杷島町で戦前に建てられた唯一の木造三階建ての建物だという。2階の格子は、もとは全階にあったらしい。

 

庄内川に架かる枇杷島橋を渡ると名古屋市である。

次回のスタート地点である名古屋市営地下鉄浅間町駅付近から美濃路を外れ、名古屋城に立ち寄る。前回(3月16日)の美濃路歩きの翌日に、名古屋で桜の開花発表があった。すぐ近くまで来ているのだから、寄らない手はない。

 

名古屋駅のお楽しみも3回目。今回はきしめんである。みやげのあんパンも買った。

総歩数27046歩。

 

そろり美濃路③ 須賀~起宿~稲葉宿~国府宮

須賀~起宿~稲葉宿~国府宮

今回は、名鉄須賀駅から起宿、稲葉駅を経て、名鉄国府宮駅まで歩いた3月16日のたびである。

 

名古屋駅に行列のできるおいしいあんパン屋がある。朝は空いていて、妻と2個ずつ買ってきた。今回は、それを食べながら歩く。

 

須賀駅前で美濃路と名鉄の線路が交差する。出発して3kmほど歩くと、木曽川に行き当たる。かつて起(おこし)と呼ばれて地で、起渡船場があってそれで木曽川を渡った。堤防上に起渡船場石灯台が残っている。

いまはすぐ近くの濃尾大橋を渡る。濃尾大橋は長さが778mもある日本百名橋の1つだ。1956年の架橋なのだが、それまでは起渡船が現役だった。

木曽川の彼方に御岳が見えた。

橋を渡って少し進んだところに、船橋跡の碑が建っている。

『ホントに歩く 東海道 別冊 美濃路』(風人社)所収のコラムを一部抜粋して借りる。

船橋とは、川の両側から船を並べて、綱や鎖で連結して固定し、その上に板を載せて橋としたものだ。浮き橋である。『古事記』『日本書紀』『万葉集』にも記載があることから、その起源は古い。また、「船橋」「舟橋」の地名が各地に残っていることから、全国的にあったことがわかる。

木曽川(起川)の船橋は、全国で最大のものだった。天和2(一六八二)年のときは、川幅が824mで、舟板の長さ864m。舟は274艘だった。

船橋は、一般人の通行は一切できなかった。特別な通行とは、例えば、起川では、慶長12(一六〇七)~宝暦14(一七六四)年の間に18回架橋されたが、朝鮮通信使が10回、徳川将軍が6回。例外が2回だった。徳川将軍といっても、家康、秀忠、家光のみである。起に船橋が初めて架けられた慶長12年は、朝鮮通信使の始まりの時で、最後の船橋となった宝暦14年は、最後の(江戸まで来た)通信使で、つまり、通信使の通行には、計10回の全部に架橋されたことになる。

江戸時代の朝鮮通信使とは、朝鮮王国が徳川将軍の代替わりの祝賀に派遣され友好親善の使節である。200年間に12回来日したが、うち江戸までの全10回のすべてが美濃路を通行した。

 

その先が起宿である。高札場跡に、復元されたものが建っている。

本陣跡は標柱のみだが、脇本陣だった旧林家住宅が残る。


1.5kmほど進むと、江戸から98里目にあたる冨田の一里塚がある。道の両側の塚と榎が残っているのは美濃路ではここだけで、国指定史跡になっている。塚は高さが2m、塚径は約10mある。

名古屋に向かって写真を撮ると、右手のケヤキが大きく、左のものはやや小ぶりだ。

一里塚脇の広場で小休止。あのあんパンを食す。

この日、岐阜で桜の開花宣言があった。広場横の桜のつぼみも大きく膨らんでいた。

 

冨田一里塚から2kmほどで日光川に架かる萩原橋を渡る。その手前に市川房枝さんの生家跡があって、いまはトイレのある広場になっている。

 

橋を渡った先が、萩原宿である。

 

名鉄萩原駅に近い街道沿いに、舟木一夫さんの生家跡があるらしい。見過ごした。

 

萩原宿からひたすら歩くこと6km。稲葉宿である。

問屋場のあったあたりに藤市酒造の建物があって、そこの看板がとにかく立派だった。「瑞豊」というのは本みりんで、いまも販売されている。

稲葉宿本陣跡には碑が建っていて、広場になっている。

 

本陣跡からしばらく街道を歩き、高御堂二南交差点で美濃路を離れて名鉄名古屋本線国府宮駅に向かう。ここからは、特急に乗ると1駅で名古屋である。

 

街道は16kmほど歩いたことになっているが、アプローチも含めると実際には20kmに近いかもしれない。1日の歩数は、26785歩。

名古屋駅でのお楽しみ。前回はひつまぶしを食べた。今回は味噌カツだ。もちろん、生ビール付きで…。

そろり美濃路② 大垣宿~墨俣宿~須賀

前回2025年11月10日に、垂井宿から大垣宿まで歩いてから随分間があいた。

街道までのアクセス時間を考えると、日の短い冬場は避けたい。ーーそんなわけで、冬の間に京街道を歩いた。

春の訪れとともに再開である。

 

大垣宿~墨俣宿~須賀

今回は、大垣宿から墨俣宿を経て、名鉄須賀駅まで歩いた3月2日のたびである。

 

前回、垂井駅までは車で行ったが、この先のアクセスはすべて鉄道を使う。朝7時半頃に家を出て、JR大垣駅に着いたのは11時ごろ。大垣駅に、前回のたびの終わりに食べたおいしい卵かけご飯の店がある。まずはそこで、歩く前に腹ごしらえ。

 

大垣駅から1時間ほど歩いたところにクスノキの大樹がある。「宮脇家」のものと、手元にある案内書に出ている。

そのすぐ先が揖斐川で、かつて「佐渡(さわたり)の渡し」があったところである。

佐渡常夜灯の脇にある説明板にはこう書かれている。

佐渡常夜燈
この常夜燈は、嘉永七年(一八五四)に佐渡の渡しの航路標識、航行安全祈願および伊勢両宮への献灯のために建立されました。佐渡の渡しは、佐渡川(現揖斐川)で隔てられた美濃路を佐渡村(現大垣市東町)の渡船場と対岸の西結(にしむすぶ)村( 現 安八町西結)の渡船場で結ぶ航路であり、当時の川幅は堤から堤まで約百四十三間(約二五九メートル)、常水時は約五十間(約九十メートル)余りでした。通常は渡し船が二艘、予備として鵜飼船が二艘用意されており、その新造や修理は大垣藩の費用で賄われていました。また、将軍や朝鮮通信使が通行する際には、渡船場のやや下流に船をつなぎとめ、その上に板を敷いて橋とする船橋(ふなはし)が架設されました。

新揖斐川橋から見る揖斐川。渡しがあったのは川幅が狭まったあたりか。

橋からは岐阜城や伊吹山が見える。

 

橋を渡った先には、サンシュユの花が咲いていた。街路樹にサンシュユが植えられているのを初めて見た。

通りすがりの庭に紅梅が咲いていた。

 

新揖斐川橋を渡ると安八郡安八町。輪中地帯である。おしゃれな水防倉庫が建っている。

 

墨俣城の近くを通過。

秀吉の墨俣一夜城は「砦」で、天守はない。今あるのは、大垣市墨俣歴史資料館。

奇しくも、前夜(3月1日)のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」はこの場面だった。

一夜城の南に墨俣宿がある。

 

本陣跡の先に墨俣の渡しである。長良川の河川改修で渡し場跡は分からない。長良大橋を渡る。

橋の中程で上流側を映す。右手奥の錘型の山に岐阜城がある。

 

長良川を渡ったすぐあとに、境川を渡る。当時は小熊川で、川幅36m。境川橋のあたりに「小熊の渡し」があった。1艘の船に7人の船頭と馬船4艘が備えられていた。朝鮮通信使や紀州徳川氏の通行時には船橋が架けられた。ちなみに長良川の川幅は218mあって、こちらは渡船が2艘。やはり特別な通行には船橋を架けた。

今回は、揖斐川、長良川、境川と3つの川を渡った。このあともう1つ、木曽川が控えている。美濃路の難所はこれらの川である。『ホントに歩く 東海道 別冊 美濃路』(風人社)におもしろいコラムが載っている。転載して紹介したい。

【コラム】 美濃路の四川を象が渡った

美濃路は、美濃国と尾張国を通過する。東海道の海路の渡しや大河河口の渡河はなく、中山道の険しい山道もなく、平坦で通行しやすい街道とされる。しかし、尾張はたしかに平坦で難所はないが、じつは美濃では、大垣から起までのたった4里余の間に、揖斐 (佐渡さわたり) 川、長良(墨俣すのまた) 川、境(小熊おぐま)川、木曽 (起おこし)川の四川を渡らねばならなかった。それが美濃路最大の難所であった。

ベトナムから来た象が、享保14(1729)年に、長崎から江戸までの陸路354里(約1380㎞)を、7日間、一日平均3~5里((12~20㎞)で歩いた史実について、『別冊姫街道』のコラムに記した。象は、姫街道だけ3日後の5月5日には名古屋と宮で休憩して、池鯉鮒(ちりゅう)まで行って、泊まった。美濃路では、宿泊は起宿と清須宿でのたったの2泊だけだった。

象の旅の径路に姫街道や美濃路が選ばれたのは、象は船が苦手だったので、今切の渡しや七里の渡しを避けたのだった。では、美濃路の四川を、渡船が苦手な象が、はたしてどのように渡河したのだろうか。石坂昌三著 『長崎から江戸へ象の旅』から、象の渡河を紹介したい。

最初の渡河は、揖斐川である。船が用意されていたが、象は浅瀬を見て歩いて渡り始めた。気持ちよく水を切って進んだが、役人達がやれやれと胸をなで下ろした、その渡り終わる直前、突如、川の深みに頭まで沈み、姿を消して大騒享保の象の通行ぎとなった。すると、象は長い鼻をシュノーケルのように水面に出して、水中を潜りながらも渡りきった。見守った役人たちからも拍手が起こったそうだ。

二番目の墨俣川は水量が多く、歩いて渡れなかったので船が準備されたが、この日、象はとても機嫌が悪く、どう叩いても引っ張っても船に乗ろうとしなかった。20人で象と綱引きをしても負けそうだったが、加勢があり、ようやく船に乗せて無事に渡った。ところが上陸後、象は突然暴走して、見物客をなぎ倒して傷つける事件が起こった。その後、象はやっと収まって渡河を終えた。

次の境川は、歩いて無事に渡った。最後の起 (木曽)川は、大河である。墨俣の経験を活かして、饅頭を与えるなどして象の機嫌をとった。川の水が見えないよう船上では筵で囲い、食べものを与えて、食べることに集中させて渡船した。こんな事件を起こしながらも、四川の渡河は、なんと1日の出来事だった。

 

1kmほど進むと、西小熊一里塚跡がある。

さらに4kmほど歩いて、この日のゴール名鉄須賀駅に到着。

1日の歩数は26753歩。街道を15km、その他もろもろで18km以上歩いたようだ。