教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

ぶらり中山道⑬ 今須宿~関ヶ原宿

今回は柏原宿から垂井宿まで歩いた2025年5月14日のたびの今須宿~関ヶ原宿 (1里 4.1km)部分。

 

今須宿の少し先に、江戸日本橋から114里目の今須の一里塚がある。国道敷設で撤去されたものを本来の位置より東側に復元している。

少しばかり国道21号線を進み、横断して山路に入ると今須峠である。厳冬期は積雪が多く難所であったところだ。

 

JR東海道本線山中踏切を横断してしばらく進んだ場所にある案内に従って街道から路地に入っていくと、常盤御前の墓がある。

都一の美女と言われた常盤御前は今若、乙若、牛若の3児を産み幸せな生活を送っていたが源氏が戦に破れると一転。鞍馬山から東国に向かった牛若丸を追ってこの山中まで来たが土賊に殺された。

墓の後ろに2基の句碑があるが、その一つは「芭蕉句碑」(説明板の左にある黒ずんだ碑)。
  義ともの心耳 似多里秋乃 可世  者世越翁
  「義朝の 心に似たり 秋の風 はせを翁」と読む。

 

再び国道21号線と出会い、横断して少し進むと坂道がある。その坂道を上り詰めたところが不破関である。

坂道の手前の藤古川を挟んで大海人皇子の軍と大友皇子の軍が対峙した。壬申の乱である。

不破関は、壬申の乱(672年)のあとに設けられた。「破れ不(ざ)る関」を意味する。東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発(あらち)関とともに古代律令制下の三関(さんげん)の1つ。789(延暦8)年に停廃されてのちは、関守が置かれた。

不破関

不破関守跡

 

不破関の先で中山道は国道21号線と合流し、しばらく行くと大神宮常夜燈がある。この辺りが関ヶ原宿の西口である。

広重画「関ヶ原

のんびりとした西町の茶屋風景。茶屋の藁屋根の軒には「名ぶつさとうもち(砂糖餅)」と書かれた提灯が下がり、「そばきり うんどん(うどん)」の看板を掲げ、商い物の傘、扇、草履を描いている。

 

関ヶ原宿はそのまま国道21号線になっていて、もっとも中山道時代の風景をとどめない宿場である。昔も今も変わらずに交通の要衝である証しと言えなくもないが…。

ぶらり中山道⑫ 柏原宿~今須宿

米原を拠点にしての1泊2日のたびの第2日は、柏原宿から垂井宿までの13.1kmを歩く。2025年5月14日。

柏原宿~今須宿 1里(3.3km)

今須宿~関ヶ原宿 1里(4.1km)

関ヶ原宿~垂井宿 1里14町(5.7km)

 

今回は柏原宿~今須宿部分。

 

柏原宿東見付手前の八幡神社伊吹山の雄姿を愛でつつ、芭蕉伊吹山の縁をたどった。

案内板には次のようにある。

芭蕉伊吹山
松尾芭蕉は、柏原宿を三回西から東へ通っている。三回目のあと大垣の句会で詠んだ、伊吹山の句碑が、清滝の入口にある。
奥の細道」では、伊吹山麓の北国脇往還関ヶ原へと通った。
そのときも伊吹山の句を残している。
その句碑は、すぐ後ろ神社境内、松の木の下にある。

句碑の説明板。

                              芭蕉(桃青)の句文碑
戸を開けはにしに
山有いふきといふ花にも
よらす雪にもよらす只
これ孤山の徳あり

其まゝよ
月もたのまし
伊吹山
桃青
(遺墨模写)

芭蕉は、元禄二年(一六八九) 敦賀から「奥の細道」結びの地大垣へ、伊吹山を左手に見ながら北国脇往還を歩いた。
そのあと、大垣の門人高岡斜嶺邸の句会で、この句文を残している。
その席で伊吹山は、花や雪や月の借景がなくても、ただ単に聳立する孤山としてだけで、立派に眺め賞し得る山容を備えていると褒めている。そして言外に句会の主人斜嶺の人柄は、伊吹山のようだと述べた。
この句碑は、ほかに旧山東町朝日と大垣埼玉県・栃木県の四力所にある。

「そのままよ月も頼まじ伊吹山」は1689(元禄2)年の作。

「清滝の入口にある」と案内板に書かれていた句は、1691(元禄4)年初冬のもの。

「折々に伊吹を見ては冬籠り」

芭蕉伊吹山がお気に入りだったようだ。

 

JR東海道本線野瀬踏切を渡ってしばらく行くと、カエデ並木がある。


その先が近江と美濃の国境である。いまは滋賀県岐阜県の県境になっている。

国境の長久寺村は近江側20軒、美濃側5軒の集落で、近江側は近江なまりで銀が流通し、美濃側は美濃なまりで金が流通していたそうだ。

国境は1尺5寸の小溝で、近江側に旅籠かめや、美濃側に旅籠両国屋があって、寝ながらに話ができた。「寝物語の里」の所以である。

広重画「今須」

広重は今須として国境を描いた。近江側の茶屋近江屋と美濃側の茶屋両国屋の間に「江濃両国境」と記された榜示杭がある。


国境の美濃側に、芭蕉の句碑がある。

「正月も美濃と近江や閏月」

野ざらし紀行芭蕉が寝物語の里を通過する際に詠んだ句ということになっている。曖昧な言いまわしだが、『野ざらし紀行』にはこの句がなく、芭蕉の句ということ自体に疑念があるようだ。


今須宿の街並み。

この地を治めた長江氏は年貢の取り立てには大桝を、米の貸し付けには小桝をと、「異桝」を用いた。この「異桝」が「今須」の地名由来となっている。

今須宿に7軒あった問屋場の1つ。美濃16宿の中で当時のまま現存するのは、この山崎家のみである。1820(文政3)年築の建物には、永楽通宝の軒丸瓦がある。

 

 

 

ぶらり中山道⑪ 醒井宿~柏原宿

今回は鳥居本宿から柏原宿まで歩いた2025年5月13日のたびの醒井宿~柏原宿 (1里半 6.0km)部分。

 

米原市梓区に松並木が保存されている。

柏原宿の西口辺りには楓並木があった。

 

西見付跡に「九里半街道」の説明板があった。

中山道関ヶ原宿と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。木曽・揖斐・長良三川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原宿から中山道に入り番場宿で、船積の米原湊道へ進む。牧田から米原湊までの行程は九里半あった。関ヶ原・今須・柏原・醒井・番場の五宿は、この積荷で、六、七軒と問屋場が多かった。」

鳥居本宿の問屋場は1軒だが、番場宿は6軒。写真のような「問屋場跡」の表示が一般住宅の敷地にあった。

醒井宿の問屋場は7軒。その1つが「醒井宿資料館」として保存されていた。

柏原宿の問屋場は6軒、今須宿が7軒、関ヶ原宿は8軒。たしかに多い。

柏原宿の場合、6軒の問屋は東西3軒ずつに分かれ、10日交代で勤めた。

 

復元された柏原の一里塚。江戸日本橋より115里目。

 

本陣跡。和宮降嫁の宿泊の際に建て直された。和宮の夫である第14代将軍徳川家茂は、第二次長州征伐の途上、この本陣に宿泊した。

 

旅籠跡。

 

広重画「柏原宿」。

「伊吹艾(もぐさ)」を商う伊吹堂亀屋左京店。右端の福助人形の横に番頭、伊吹山模型前に手代が居て、客と応対している。左は茶屋を兼業し、金時人形と庭園が見える。

伊吹堂亀屋左京店は、創業1661(寛文元)年の伊吹艾店。伊吹山から産出するヨモギを原料にした艾が中山道有数の宿場名物であった。今も同じ建物で伊吹堂の名で艾屋を続け、福助人形や庭園も現存している。

 

5月13日、鳥居本宿から柏原宿まで15kmのたびを終えて米原に戻る。1日の歩数、26095歩。

ぶらり中山道⑩ 馬場宿~醒井宿

今回は鳥居本宿から柏原宿まで歩いた2025年5月13日のたびの馬場宿~醒井宿 (1里 3.9km)部分。

 

広重画「醒ヶ井」

茅葺屋根が続くのは、醒井宿の西口に建てられた六軒茶屋。宿へ向かう大名行列の最後尾をやり過ごし、農夫が高台で休んでいる。奥に醒井宿の西端が覗き、右のなだらかな丘陵は宿の南に続く枝折山である。

写真は、六軒茶屋を少し過ぎたあたりからの枝折山。右に名神高速が走る。

 

醒ヶ井は水の綺麗なところで、宿を流れる地蔵川には梅花藻が繁茂している。花の盛りはもう少し先だが、一部で咲き始めていた。川べりでは、地元の中学生が美術の授業で写生に取り組んでいた。

 

旧旅籠「多々美屋」。今は、「料理旅館多々美屋」として営業している。右手は枝折山。

本陣跡。現「割烹本陣樋口山」。

 

 

ぶらり中山道⑨ 鳥居本宿~馬場宿

米原を拠点にしての1泊2日のたびの第1日は、鳥居本宿から柏原宿までの15kmを歩く。2025年5月13日。

鳥居本宿~馬場宿 1里1町(5.1km)

馬場宿~醒井宿 1里(3.9km)

醒井宿~柏原宿 1里半(6.0km)

 

今回は鳥居本宿~馬場宿部分。

 

国道8号線に沿って進んできた中山道は、鳥居本町のはずれ矢蔵橋で右に折れ、山道に入っていく。

坂道の途中に階段があって、そこからしばらく山道を登ることになる。今は自動車が通れる舗装路があって、山道はやがてそれに合流する。

はて、和宮東下のころの道はどうだったのだろう。まさか、この山道を和宮の車を押し上げたのだろうか。

合流した舗装路の先が摺針(すりはり)峠である。

広重が鳥居本宿の絵として描いた望胡堂はここにあった。かつては茶屋本陣の格式を備えた大きな茶屋があって、参勤の諸大名や朝鮮通信使、そして和宮もここからの琵琶湖の絶景を楽しんだという。今は下の写真の通り。夢の跡である。

 

峠を越すと旧摺針村で、その先で名神高速道路が見えてくる。しばらく高速道の脇を進むと小摺針峠である。峠は名神高速道路米原トンネルの上にあって、米原市彦根市の境になっている。

小摺針峠から名神の脇道を下っていくと馬場(ばんば)宿である。

広重画「馬場宿」

石垣と土塁は宿場入り口の見付で、この絵は東見付から宿場を描いたらしい。背後の山は六波羅山。

馬場宿は宿場の長さ(宿長)が約127mで、中山道の宿場の中で最も短い。

 

本陣近くの路地を右に進み、写真で青緑色に見えている名神高速の向こうに蓮華寺がある。写真の石碑には、「境内在故六波羅鎮将北条仲時及諸将墳墓」とあり、隣の案内板には「南北朝の古戦場」「瞼の母番場忠太郎地蔵尊」と書かれている。

1333(元弘3)年、反鎌倉幕府勢力(後醍醐天皇)方に寝返った足利尊氏に敗れ、京を追われた六波羅探題北条仲時は、ここ番場まで逃れたが朝廷軍に包囲され、蓮華寺本堂前庭にて432人全員が自刃した。

 

瞼の母」は、長谷川伸の戯曲(1930年)で、そこに登場する30歳すぎの旅の博徒が番場の忠太郎。忠太郎は番場の旅籠屋「おきなが屋忠兵衛」に生まれるが5歳で母のおはまと別れ、12歳で父も死去したという設定になっている。物語が先で、それに由来して忠太郎地蔵がある。

 

 

 

 

ぶらり中山道⑧ 高宮宿~鳥居本宿

今回は豊郷から鳥居本宿まで歩いた2025年5月1日のたびの高宮宿~鳥居本宿部分。

 

高宮宿を出て芹川の手前に、「床の山碑」があり、芭蕉の句が刻まれている。

「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」

それにしても、芭蕉の句碑が多い。滋賀県内に93もの芭蕉句碑があると、綣村の句碑の説明に記されていた。

芭蕉と言えば、ここから2㌔ほど進むと森川許六の庵跡がある。許六は彦根藩士だったそうだ。


小野町という東山道時代の宿駅がある。小野小町の出生地と言われている。

東山道というのは律令時代の官道で、中山道は古代の東山道をほぼ踏襲して修復したものだ。したがって、中山道の街道筋には江戸時代以前の歴史もいっぱい転がっている。

その小町ゆかりの地の写真。真ん中が中山道で、すぐ左には東海道新幹線の線路があり、右の土手に上は名神高速道路が走っている。ロマンのかけらもない。

京都を出てから関ヶ原辺りまで、いずれの日も新幹線と名神高速が見える、あるいは聞こえる距離にあった。街道沿いには駅もなければインターも特定の場所にしかないのだから、住民にとってはあまりありがたい存在ではないはずだ。ここは、その両方が中山道に最も接近したポイントである。

 

鳥居本宿の入り口あたりに、彦根追分の道標がある。

1827(文政10)年の建立で、「右彦根道 左中山道京いせ道」と刻まれている。

中山道と城下町を結ぶ脇街道として整備された彦根道の分岐点。彦根道は野洲までの朝鮮人街道に続いている。

 

合羽形の庵看板を掲げる「合羽所松屋」。1825(文政8)年創業。

鳥居本は合羽が有名で、文化文政年間には15軒の合羽所が軒を連ねていた。合羽は1720(享保5)年に馬場弥五郎が創業したことに始まる。楮を原料とした和紙に柿渋を塗り込め、防水性を高めた合羽は人気があり、雨の多い木曽路に向かう旅人にとっては必需品であった。

「本家 合羽所 木綿屋 嘉右衛門」の看板。1832(天保3)年創業。


広重画「鳥居本

ここには鳥居本宿は描かれていない。ここから馬場宿に向かう途中にある摺針峠の望胡堂から見た琵琶湖を描いている。摺針峠からの眺めは中山道随一の名称と言われた。現地の現状は次回に…。

 

近江鉄道鳥居本駅から駅前駐車場を予約して借りた愛知川まで戻って、この日のたびは終わり。歩数はおよそ2万歩。

ぶらり中山道⑦ 愛知川宿~高宮宿

愛知川宿から高宮宿までは2里(8km)ある。その先、高宮宿から鳥居本宿までは1里半(5.7km)ある。愛知川宿から3㌔ほど先の豊郷までは前回歩いたので、今回は豊郷から先の11㌔ほどを歩く。2025年5月1日。

 

愛知川宿~高宮宿

 

豊郷というところは、なかなかおもしろい。

道ばたに「江州音頭発祥地碑」がある。その昔、ここからはずいぶん離れたわが里でも、盆踊りのレパートリーとして江州音頭が踊られていた。自分が踊ったわけではないが、妙に懐かしく感じる。

そのすぐ先に、豊会館(又十屋敷)がある。これは豪商藤野喜兵衛屋敷跡で、明治に鮭缶の製造を始めた。「あけぼの印の缶詰」は、あけぼの缶詰に受け継がれ、現在は合併してマルハニチロの「あけぼのさけ」として販売されている。

豊郷町役場の少し手前には、伊藤忠兵衛生家がある。

伊藤忠兵衛は高宮布の行商から身を立て、大阪で呉服太物商「丸紅」を設立し、神戸では海外貿易を扱う「伊藤忠商事」を設立した。

 

犬上郡彦根市の境あたりにケヤキ並木が残っている。

その先には松並木がある。

 

高宮宿の手前に犬上川に架かる「無賃橋」がある。

1832(天保3)年、彦根藩は増水時の「川止め」をなくすため、近江商人藤野四郎兵衛らに命じて費用を広く一般から募らせ、橋を架けさせた。当時、川渡しや仮橋の通行は有料であったが、渡り料無賃としたことから「むちんばし」と呼ばれた。。

京側、南詰の碑。このはるか先に伊吹山が位置する。

現在の高宮橋は1932年に架けられたもの。

江戸側、北詰の碑。

橋の先が高宮宿である。

 

広重画「高宮」

左右に松並木、西から見た渇水期の犬上川と橋脚だけの無賃橋を中央に、その先に常夜灯が立ち、高宮宿の家並みが続く。遠景には伊吹山が見える。手前の女性が背負っている藁包は高宮布になる麻の原料。

 

高宮宿本陣跡。向かいの円照寺には大坂夏の陣に向かう徳川家康が腰掛けた「家康腰懸石」がある。

 

高宮宿は多賀大社門前町として栄えた。多賀大社大鳥居と常夜燈。

大鳥居は多賀大社一の鳥居で、1635(寛永12)年建立。柱間が約8m、高さが約11mある。

常夜燈の高さは6m、底辺は3.3m四方ある。燈明を灯す小窓までは、裏側に13段の階段がある。古くは1対あったそうだ。

 

多賀大社の参詣道を少し行ったところのベンチで、昼休憩をした。