教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 5月27日

日本海海戦の日

 

日露戦争中の1905(明治38)年5月27日から5月28日にかけて、大日本帝国海軍連合艦隊ロシア帝国海軍が極東へ送った第2・第3太平洋艦隊によって日本海で戦闘が行われました。この戦いを「日本海海戦」といいます。

 

日本海海戦」は日露戦争における最大の海戦で、東郷平八郎司令長官が率いる日本の連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊日本海対馬沖で激突。連合艦隊が大勝し、日露戦争の勝利を大きく引き寄せたとされています。
日露戦争に勝利したことも転機のひとつとなって、やがて無謀な戦争に突入して国の破局を迎えます。司馬遼太郎は「日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせた」と表現しています。

 

日本海海戦の詳細については「Wikipedia」にまとめられています。

ja.wikipedia.org

 

 

 

きょうは何の日 5月24日

ゴルフ場記念日

 

1903(明治36)年5月24日、イギリス人貿易商のアーサー・ヘスケス・グルームによって日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」が開場しました。「ゴルフ場記念日」がいつ、誰によって制定されたかは不明です。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

ゴルフ場記念日(5月24日 記念日)
1903年明治36年)のこの日、日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」がオープンした。

 

 

このゴルフ場を造ったのは、六甲山山頂に住んでいたイギリス人貿易商のアーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom、1846~1918年)。開場当時、六甲山には外国人の別荘が建ち並んでいて、彼らのレジャーと社交の場としての利用が造成の目的であった。そのため、外国人専用のもので日本人は利用できなかった。

グルームは、神戸が開港した1868年(慶応3年)に神戸に上陸した。美しい自然が残る六甲山に魅了され、1895年(明治28年)に六甲山で最初の人家である別荘を建てた。その後、登山道の整備やゴルフ場の造成、植林など六甲山の開発と景観保護に力を注ぎ、「六甲山の開祖」と呼ばれている。

グルームの功績をたたえて、毎年6月に六甲山の山開きとともに「六甲山グルーム祭」が、六甲山の記念碑台で開催される。また、記念碑台にはグルームの胸像が建てられている。日本最古のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」は2003年(平成15年)に創立100周年を迎えた。

 

 

5月28日は「ゴルフ記念日」、6月5日は「六甲山の日」となっている。

 

神戸ゴルフ倶楽部」のHPより引用します。

六甲山の開祖、グルーム

1868(慶応3)年、神戸が開港した年、1人のイギリス青年が神戸に上陸した。その名はアーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)21歳、トーマス・グラバーと共同経営しているグラバー商会の兄フランクを頼って、第2の故郷となる日本にやってきたのである。

グルームは、神戸元町の山側にあった善照寺に居を構えて、その年には寺の住職の取り持ちで士族の娘・宮崎直と結婚、日本人以上に日本を愛するようになった。彼は貿易商としても成功し、また、趣味を多くて、絵を描き、芝居を演じるほか、水泳、ボート、クリケット、登山などを好むスポーツマンであった。

彼をとりこにしたのは、手付かずの荒々しい六甲山の自然で、しばしば山に登り、またその眺望の素晴らしさに、1895(明治28)年には借り受けた土地に山荘を建てた。これが六甲山に建った最初の山荘で、神戸居留地にある彼の商館の番号をそのままとって「101」と呼ばれていた。次に友人たちを勧誘し、避暑地としての六甲山の魅力を広めていった。こうしてグルームは「六甲の開祖」と称されるようになり、現在「六甲・山開き」と共に「グルーム祭」が毎年、行われている。

日本で最初のゴルフコース誕生

神戸ゴルフ倶楽部は、山荘「101」での週末の団欒の中から生まれた。その夜の客はG.Millward、J.Adamson、T.C.Thornicraftだった。ウイスキー片手にイギリスの思い出話に花を咲かせ、故国で盛んなゴルフの話に及んだところ、大のゴルフ好きであるAdamsonが「今や香港でもゴルフが出来るそうだ」と言うのを聞いて、それまで黙って話を聞いていたグルームが「ここにコースを造ろうじゃないか」と言い出したと伝えられている。1896(明治29)年の夏、グルームはすでに50歳を過ぎていたが、それまでゴルフの経験はなかったという。

早速、土地を借り、グルームは何人かの仲間の協力を得て、岩を掘り起し、雑草や笹の根を手鎌で刈り取り、ツツジの根を引き抜いたりという全くの人手によるホール造りが1898(明治31)年から始まり、3年の苦労の末、1901(明治34)年の秋に最初の4ホールが完成した。

当初は、仲間うちでプレーするだけであったが、やがて噂が広まって来場者も増え、5ホールの増設にも着手し、コース管理・運営もグルーム1人の手に負えなくなってきた。そこで9ホール完成の見込みがついた1903(明治36)年2月27日、神戸商工会議所で「神戸ゴルフ倶楽部」の創立総会が開かれた。

コース誕生のきっかけとなった時のメンバーのThornicraftは初代のPresidentに、MillwardはCaptainに、GroomはHon.Sec.&Tres.に選任された。なお、Adamsonはコース設計を担当し、1904(明治37)年には、さらに9ホール拡張され、全長3576ヤード、ボギー78の18ホールのコースが完成した。18ホールのティグラウンドやグリーンは、すべて砂を固めて造られて、六甲のサンドグリーンは長い間名物的な存在であった。

開場式とオリジナル・メンバー

1903(明治36)年5月24日、兵庫県服部知事、神戸市坪野市長や英Hall領事などの列席のもと、神戸ゴルフ倶楽部の開場式が催された。質素で和やかな雰囲気の昼食会の後、始球式に移り、服部知事は1番ティに進み出て始球式を行った。これがまさに日本最古のゴルフ倶楽部で打たれた最初のボールである。

この日、ゴルフ初体験の知事の記念すべき第一打は、走り寄って拾えるほどのチョロであったと語り草として伝えられている。グルームはそのボールを自ら拾い、永く倶楽部に保存し、記念となすと述べ式が終わった。このボールは、今もグルームの言葉通り、倶楽部のクラブハウスにマントルピースのオーナメントとして大切に保管されている。

始球式に続いて倶楽部競技が行われ、これが神戸ゴルフ倶楽部の最初の競技であると同時に、日本での最初のゴルフ競技である。Challenge Cupと呼ばれ、第1回の倶楽部選手権で、コース設計に最初から係わっていたAdamsonがグロス95で優勝し、グルーム寄贈のChallenge Cupを手にした。このCupは以後も倶楽部選手権の優勝者の名前を刻んで、今日まで受け継がれている。

開場の年、倶楽部会員が自署した「ORIGINAL ROLL OF MEMBERS FUNDED FEBRUARY 1903」は、当倶楽部から寄贈した原本がJ.G.Aゴルフミュージアム(廣野G.C)に保存されており、その複製が当倶楽部のメンバーズ・ルームに掛けられているが、それには135名の署名がある。開場式の印刷物には「会員現在120名」とあるが、年次報告書にも135名が登録されている。

会員は、数名のドイツ人、フランス人、アメリカ人の他は、ほとんどがイギリス人で日本人もわずかにいたが、名誉会員的な存在であった。当初の会員の殆どがK.R&A.C(Kobe Regatta & Athletic Club)及びKobe Club(神戸外国倶楽部)の会員であり、初代PresidentのThornicraftもKobe ClubのPresidentを務めたことがある。

 

きょうは何の日 5月21日

小学校開校の日

 

1869(明治2)年5月21日、京都市に日本最初の近代小学校「上京第二十七番組小学校」と「下京第十四番組小学校」が開校しました。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

「上京第二十七番組小学校」は後の「柳池(りゅうち)小学校」、「下京第十四番組小学校」は後の「修徳(しゅうとく)小学校」である。当時の京都には、上京・下京のそれぞれに番組(学区)という行政区画が置かれ、番組ごとに小学校が建てられたため、「番組小学校」と呼ばれた。

「上京第二十七番組小学校」の創設者であり、私財を投じて校舎や敷地を寄付した商人・熊谷直孝(くまがい なおたか)を初め、多くの寄付や献金が住民から集まった。そして、地域が一丸となって学校の建設が進められ、年内には64の番組小学校が開校した。国が「学制」を定める3年も前のことであった。

学制とは、日本最初の近代学校制度に関する基本法令のこと。1872年(明治5年)に公布され、日本における近代学校の成立・発展の基礎となった。全国に小学校をつくり6歳以上の男女が身分に関係なく通うことを目指したもので、義務教育の始まりであった。

「柳池小学校」は戦後の新学制によって「柳池中学校」となり、統廃合を経て2003年(平成15年)に「京都御池中学校」となったが、敷地内には「日本最初小学校」と記された石碑が建てられている。

 

「上京第二十七番組小学校」と「下京第十四番組小学校」の開校は、1869年に京都で開校された64の番組小学校の先陣でした。

Wikipedia」より引用します。

番組小学校

番組小学校(ばんぐみしょうがっこう)は、明治維新後の1869年(明治2年)、京都の町衆たちの手によって、当時の住民自治組織であった「番組(町組)」を単位として京都(当時の上京と下京)に創設された、64の小学校を指す。

これらの小学校は、1872年(明治5年)の、国家による学校制度(学制)の創設に先立つ、日本で最初の学区制小学校であった。

概要

近世、京都には「町組」という住民自治の組織があったが、明治維新の前後に町組は「上京(下京)○○番組」という通し番号のついた地域的なまとまりを持つ組織に再編され、「番組」と呼ばれるようになった。

日本初の近代小学校とされている柳池校の記念碑 京都御池中学校の敷地内に立つ。

1869年(明治2年)には、27程度の町を1番組として、上京に33の番組、下京に32の番組、合計65(同年、下京で1番組が分離し、番組の数は66となった。)に再編されるとともに、1つの番組に対して自治会所機能を併せ持つ小学校が1つ作られることになり、同年中に64校の小学校が開校された。(番組の数が66であるのに対して、小学校数が64校なのは、番組2つで1つの小学校を設置したところが2箇所あったため。)

京都府は、各番組に対して、新築校舎の模範設計を示している。校舎は2階建てであり、1階中央の玄関を入ると、左右に大小の差のある男女の筆道場が配置されている。2階には広間の講堂、出勤場(職員室)、算術教室が置かれた。建設費は、各番組に対して、京都府から800円が貸与され、半額が無利子の10年年賦で返済の予定とされたが、実態は番組ごとに異なっていた。また、各番組の全戸別に対して、半年に1分の軒金が課せられ、有志による寄付と合わせて、恒久的な運営費に充当するものとされた。番組によっては、「上(下)京○○番会社」を設立して、資金運用に当てたところもあった。

1870年(明治3年)正月、各番組小学校において「稽古はじめ」式が催され、授業が開始された。京都府が作成した式次第によれば、孔子菅原道真の2学神像が祀られたという。京都市学校歴史博物館には、下京七番組小学校の像が展示されている。授業科目は、「句読」「暗誦」「習字」「算術」の4科であった。

この番組は1872年(明治5年)には「区」として再編され、さらに1879年(明治12年)郡区町村編制法により上京区下京区が置かれると、「組」と改められた。

市制によって誕生した京都市が、1892年(明治25年)に学区制度を確立。番組をルーツとする学区は、1893年明治26年)に上京区28学区、下京区32学区となり、この形は1941年(昭和16年)の国民学校令により学区による小学校の運営が廃止されるまで存続した。

その後、戦後の学制改革によりり、もとの小学校を新制中学の校舎に利用するなどによって小学校の通学区の変化があったが、戦前の学区制度廃止前の学区は「元学区」という住民自治の単位として現在も生き残っている。

多くが少子化により統廃合されたが、建物は公共施設やホテルなどに利用されている。学校跡地の民間利用は原則、京都市からの敷地貸付(建物は譲渡)により実施されている。

 

きょうは何の日 5月18日

国際親善デー

 

1899(明治32)年5月18日、ロシア皇帝ニコライ2世の提唱により、オランダのハーグで第1回平和会議が開催されました。
 会議には日本を含む26カ国が参加し、「国際紛争平和的処理条約」や「陸戦の法規慣例に関する条約」などが結ばれました。

 「国際親善デー」は、これを記念して1922(大正11)年に制定されました。

 

「世界史の窓」より引用します。

ハーグ万国平和会議/ハーグ国際平和会議

1899、1907年の2回、オランダのハーグで開催された国際平和会議。帝国主義諸国の武力衝突を回避するための協力態勢樹立を目指した。恒久的な平和維持には失敗したが、この会議によって、ハーグ陸戦条約、毒ガス禁止など、一定の戦争を制限する国際法規が生まれ、現在まで効力を維持している。

 いずれもオランダのハーグで開催された、帝国主義諸国による国際平和維持の試みであったが、結果的に成果を上げることは出来なかった。第1回を提唱したのはロシアのニコライ2世であるが、その理由は19世紀末に高まってきた列強対立と国際政治の不安定化にともなう軍備拡張が各国の財政に大きな負担をもたらしていたところにある。<岡義武『国際政治史』1955 再版 2009 岩波現代文庫 p.144>

■1899年 第1回ハーグ会議

 1899年5月の第1回会議では26カ国(日本、清も含む)が参加し、オランダのハーグで開催された。軍備制限に関する国際的協定の策定について話し合ったが、軍備制限は「人類の物質的および道徳的幸福のために切に望ましい」ことを決議し、軍備制限協定の締結を「要請する」にとどまった。しかし、戦争に関する国際法規としてハーグ陸戦条約の採決や、毒ガスの禁止などの見るべき成果も上げている。<以下、藤田久一『戦争犯罪とは何か』1995 岩波新書 p.20-24 による要約>
ハーグ陸戦条約 戦時国際法として、交戦者の資格、捕虜の取り扱い、傷病者の取り扱い、害敵手段や方法、軍資、降伏規定、休戦、占領法規に関する規定が定められた。捕虜の規定では、その虐待を禁止し、後の第二次世界大戦での日本軍の捕虜虐待を告発する根拠となった。第2回ハーグ万国平和会議で補足された規定も含め、次のような要点である。
交戦者の資格には正規軍だけではなく、一定の条件で民兵義勇兵にも交戦資格が与えられた。
害敵手段・方法では施毒兵器や不必要な苦痛を与える兵器の使用禁止、無防備都市に対する攻撃の禁止、砲撃の制限、略奪の禁止などがが定められた。
まだ航空機が未発達だったので、空爆に関する規定は含まれていなかった。またハーグ陸戦条約は、この条約の非締結国が交戦国中に一ヵ国でもくわわれば、その時から締約国間にもこの条約が適用されないという、いわば総加入条項があった。
 ハーグ陸戦条約は、新しい内容というより従来から認められていた慣習を法典化したとみなされ、その後の二度の世界大戦においても、総加入条項があるにもかかわらず、非締約国をも含むすべての交戦国に適用されるべきものと考えられた。
毒ガスの禁止宣言 ハーグ平和会議は毒ガス(窒息性ガスまたは有毒性ガスの散布を唯一の目的とする投射物)の使用を禁止する宣言を採択した。また残虐な武器として「ダムダム弾」の使用も禁止された。ダムダム弾とはもとは猛獣狩りに使われたもので、人体にあたるとはじけてなかの鉛が飛びだし、不必要に大きな苦痛を与えるもので、1890年代にインドでイギリス軍が山岳民族と戦うために開発、カルカッタ近郊のダムダムで作られたのでその名がある。
常設仲裁裁判所  第1回会議において、参加諸国は国際紛争の平和的処理に関する条約を締結し、ハーグに国際的な仲裁裁判所として常設仲裁裁判所(Permanent Court of Arbitration)を設立することで合意した。これは世界最初の国際的な司法機関で、帝国主義国家間の紛争が増加している中で、国家的対立を平和的に解決する場として期待が寄せられ、1901年10月に発足したが、実際の運用での困難なケースが多く、具体的な機能を発揮することはなかった。朝鮮半島満州をめぐる日本とロシアの対立もここで係争されることなく、1904年に日露戦争となった。この戦争は日本軍が優勢のまま勝敗がつかず、長期化する恐れがあったことから、1905年、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトが仲裁に乗りだし下関条約が締結され、講和となった。

 

第1回ハーグ平和会議に参加した26カ国
ドイツ、オーストリアハンガリー、ベルギー、清国、デンマーク、スペイン、アメリカ、メキシコ、フランス、イギリス、ギリシア、イタリア、日本、ルクセンブルグモンテネグロ、オランダ、ペルシア、ポルトガルルーマニア、ロシア、セルビア、シャム、スウェーデン、スイス、トルコ、ブルガリア

 

国際親善協会のHPより引用します。

名称
公益財団法人 国際親善協会
[英文名称:International Friendship Foundation 略称:IFF]

主務官庁
内閣府

目的
国籍、人種、宗教等の区別なく国際親善を図り、汎く人類の福祉と世界平和に貢献し、我が国と世界各国の相互理解の増進及び友好関係の円満な発展を助長するを以てその目的とする。

事業
1 世界各地において、日本の伝統的な文化、芸能、芸術、スポーツ等の紹介を通じ、開催地域との友好親善・相互理解を図る「ジャパンウィーク」の開催
2 国際親善を図るための事業で、前項に掲げる以外の文化、芸能、芸術、学術、スポーツ等に関する交流及び紹介
3 国際親善・国際交流に資するシンポジウム、セミナー、会議等の開催及び出版物の刊行
4 国際親善・国際交流に資する国内外の情報収集及びデータベースの作成とその提供
5 その他本協会の目的を達成するために必要な事業

 

 

きょうは何の日 5月15日

沖縄本土復帰記念日

 

1972(昭和47)年5月15日、「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」(略称 沖縄返還協定)が発効し、沖縄の施政権が日本に返還されました。日本の法令用語としては、「沖縄の復帰」といいます。

沖縄返還協定」は、1971(昭和46)年6月17日に日米間で署名され、沖縄の施政権が日本に返還されることとなりました。

 

Wikipedia」の「沖縄返還」より一部を引用します。

沖縄復帰記念式典
1972年(昭和47年)5月15日、日本政府(内閣)主催で沖縄復帰記念式典が東京会場(日本武道館)と那覇会場(那覇市民会館)の両会場で同時に開催され、午前10時30分に開会が宣言された。

東京会場の式典には日本側から昭和天皇及び香淳皇后佐藤栄作首相はじめ第3次佐藤改造内閣の閣僚、国会議員、沖縄県関係者、各界代表、青少年らが出席した。また、アメリカ合衆国政府を代表して副大統領スピロ・アグニュー、沖縄県を代表して副知事の宮里松正が出席した。司会は、総理府総務副長官の砂田重民が務めた。

東京会場では、最初に内閣官房長官竹下登が「開式のことば」を述べたあと国歌斉唱が行われた。佐藤栄作首相の式辞ののち、先の大戦さらに祖国復帰を待たずに亡くなった人々の冥福を祈るため黙祷が行われた。昭和天皇の「おことば」の後、米国のアグニュー副大統領が米国大統領リチャード・ニクソン沖縄返還に関する宣言書を読み上げて祝辞を述べ、宣言書を佐藤首相に手交した。続いて船田中衆議院議長河野謙三参議院議長、石田和外最高裁判所長官による祝辞、宮里沖縄県副知事の挨拶、青少年代表による決意表明などが行われた。式典の最後に佐藤首相の発声により万歳三唱が行われ、内閣官房副長官三原朝雄が「閉式のことば」を述べ式典は終了した。

那覇会場では総理府総務副長官の栗山廉平が「開式のことば」を述べたあと国歌斉唱が行われ、その後、東京会場とマイクロ回線でつなぎ東京会場での祝辞前のところまで映像を送って同時に進行された。那覇会場での祝辞は総理府総務長官である山中貞則の挨拶に続いて行われ、同日付で沖縄県知事に就任した屋良朝苗(前琉球政府行政主席)が挨拶した。その後、沖縄県議会議長の星克、ピートリー那覇駐在アメリカ総領事、衆議院を代表して床次徳二(沖縄及び北方問題に関する特別委員会委員長)、参議院を代表して長谷川仁(沖縄及び北方問題に関する特別委員会委員長)、最高裁判所を代表して吉田豊(事務総長)、全国地方公共団体を代表して池田直(佐賀県知事)が祝辞を述べ、そのあと青少年代表による決意表明が行われた。式典の最後に山中総務長官の発声により万歳三唱が行われ式典は終了した。

 

沖縄県公文書館のHPより引用します。

1972年5月15日 沖縄県知事として沖縄復帰記念式典へーあの日の屋良主席ー 


 1972年(昭和47)1月7日の米国サンクレメンテにおける佐藤内閣総理大臣ニクソン米国大統領との会談で、沖縄復帰の日を1972年(昭和47)5月15日とすることが合意されました。これに伴い、日本政府はただちに沖縄復帰記念式典の開催準備に着手しました。
当日、日本政府主催の式典が、東京会場(日本武道館)と那覇会場(那覇市民開館)の両会場で同時に実施されることとなり、午前10時30分に開会が宣言されました。
 那覇会場では、山中総理府総務長官に続いて、屋良沖縄県知事があいさつに立ちました。  この日の日記に、屋良知事は次のように書いています。

翻刻
かくて今日から主席ではなく沖縄県
知事となった 而(しか)も初代知事になった
歴史的一日の幕を閉じた終戦以来復帰を希求し、且必ず
実現するとの大前提に立ってその準
備にそなえて一仕事 一仕事を地道
に計画し 実践して来た 私に天は
その復帰の〆くくりを完成させた
運命のめぐり合わせと云おうか
私の運命でもあり沖縄の運命でも
あったのではないか、私が全く無私
没我の状態でこの難苦行にさいなま
されて来た しかし私は心身共完全
健康を維持して来た、われに神佛の
加護があったと信ずる。

 

日本政府主催沖縄復帰記念式典 那覇市民会館
1972( 昭和47) 年5 月15 日
【00000108854/040393】
あいさつする屋良知事。午後は同じ那覇市民会館で、沖縄県主催の式典が開催されました。


 屋良知事の歓喜と安堵が日記の文面から伝わります。
 いっぽう、政府主催式典でのあいさつでは、「沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実であります。そこには、米軍基地の態様の問題をはじめ、内蔵するいろいろな問題があり、これらを持ち込んで復帰したわけであります。したがって、私どもにとって、これからもなおきびしさは続き、新しい困難に直面するかもしれません」と将来を予測し、険しい態度を示しました。

 

沖縄復帰記念式典における「沖縄県知事あいさつ」〔全文〕


  沖縄百万県民の長年にわたる祖国復帰の願望が遂に実現し、本日ここに内閣主催による沖縄復帰記念式典が挙行されるにあたり、沖縄県民を代表してごあいさつ申し上げることができますことを生涯の光栄に思います。
 私は、いま、沖縄がこれまで歩んできた歴史の一齣一齣をひもとき、殊に終戦以来復帰をひたすらに願い、これが必ず実現することを信じ、そしてそのことを大前提としてその路線に沿う基礎布石、基盤づくりに専念してきた者として県民とともにいい知れぬ感激とひとしおの感慨を覚えるものであります。
 私は、復帰への鉄石の厚い壁を乗り越え、けわしい山をよじ登り、茨の障害をふみ分けて遂に復帰に辿りついてここに至った県民の終始変わらぬ熱願、主張、運動、そこから引き出された全国民の世論の盛り上がり、これにこたえた佐藤総理大臣をはじめ関係ご当局のご熱意とご努力、さらには米国政府のご理解などを顧みて深く敬意を表し、心から感謝を申し上げるものであります。
 それと同時に、きょうの日を迎えるにあたり、たとえ国土防衛のためとはいえ、さる大戦で尊い生命を散らした多くの戦没者の方々のことに思いを馳せるとき、ただただ心が痛むばかりであります。
 ここに、謹んで沖縄の祖国復帰が実現いたしましたことをみ霊にご報告申しあげますとともに、私ども沖縄県民は、皆さまのご意志を決して無にすることなく、これを沖縄県の再建に生かし、そして、世界の恒久平和の達成に一段と努力することを誓うものであります。
 さて、沖縄の復帰の日は、疑いもなくここに到来しました。しかし、沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実であります。そこには、米軍基地の態様の問題をはじめ、内蔵するいろいろな問題があり、これらを持ち込んで復帰したわけであります。したがって、私どもにとって、これからもなおきびしさは続き、新しい困難に直面するかもしれません。
 しかし、沖縄県民にとって、復帰は強い願望であり、正しい要求でありました。また、復帰とは、沖縄県民にとってみずからの運命を開拓し、歴史を創造する世紀の大事業でもあります。
 その意味におきまして、私ども自体が先ず自主主体性を堅持してこれらの問題の解決に対処し、一方においては、沖縄がその歴史上、常に手段として利用されてきたことを排除して県民福祉の確立を至上の目的とし、平和で、いまより豊かでより安定した、希望のもてる新しい県づくりに全力をあげる決意であります。
 しかしながら、沖縄に内包する問題はなお複雑なものがあります。幸い、私ども沖縄県民は名実とも日本国民としての地位を回復いたしましたし、政府ならびに全国民の皆さまにおかれては、沖縄問題を新しい立場から共通の課題として止揚していただき、その完全・全面的解決のためこれまで以上のご関心とご協力を賜わりますよう念願するものであります。
 沖縄は、長く、苦しかった試練を乗り越え、いまここにその夜明けを迎えました。復帰は、まさしく沖縄という新しい生命の誕生でありますし、私ども県民は、これまでの基地の島という暗いイメージを払拭し、新たな自覚にたって県民自治を基調とする「平和で、明るい、豊かな県づくり」に邁進するとともに、文化豊かな社会の建設に真剣に取り組み、国家繁栄のために貢献する決意であります。
 沖縄の戦後はまさに茨の道でありましたが、県民の体験はまた貴重なものであります。私どもは、きのうのきょうではなく、歴史上銘記さるべきこの日を転機としてとり残されてきた歴史に終止符を打ち、体験を生かし、国民の皆様のご協力も得て復帰の意義と価値を高め、その正しい位置づけに十分努力するつもりであります。
 本日の式典にさいし、私どものためにいろいろと、おはげましを賜わりました皆さまのご好意に対し厚くお礼を申しあげ、皆さまと国のこの上ないご繁栄を祈念してごあいさつといたします。
               昭和47年5月15日 沖縄県知事 屋良朝苗
 (「沖縄復帰記念式典記録 昭和47年12月1日」内閣総理大臣官房 所収)

 

復帰の背景や経緯は、Wikipedia「沖縄返還」にまとめられています。

 

もう少し深く知るために、比較的近刊の2冊を紹介します。

沖縄50年の憂鬱 新検証・対米返還交渉
 (光文社新書) 新書 – 2022/4/12
河原 仁志 (著)
990円

出版社からのコメント
◎ 本書内容
2022年5月は沖縄が日本に返還されて50年になる。共同通信社の記者時代から沖縄の取材を続けてきた著者は、退社した2019年7月以降、ここ数年に相次いで解禁された日米の機密文書を渉猟し、これまでの返還交渉についての世間の常識や通説と大きく食い違う証言や事実に数多く遭遇してきた。そして、この返還交渉こそが、いま私たちが暮らすこの国の在り様や政治の姿、あるいは日米関係の原点であることに気づく。本書では、研究者の意見も交え、返還交渉の歴史を新しく検証。当時の交渉は、日本にとって帳尻の合うものだったのか――。「50年目の収支決算」を通して、この国の姿を見直す。

◎ 目次
【第1章】復帰の背景
【第2章】交渉の経緯
【第3章】合意の舞台裏
【第4章】密約の実態
【第5章】半世紀の検証


日米地位協定-在日米軍と「同盟」の70年
 (中公新書 2543) 新書 – 2019/5/21
山本 章子 (著)
924円

日米地位協定は、在日米軍の基地使用、行動範囲、米軍関係者の権利などを保証したものである。在日米軍による事件が沖縄などで頻発するなか、捜査・裁判での優遇が常に批判されてきた。冷戦崩壊後、独伊など他の同盟国では協定は改正されたが、日本はそのままである。
本書は、日米関係と在日米軍の戦後70年の軌跡を追う。実際の運用が非公開の「合意議事録」で行われてきた事実など、日本が置かれている「地位」の実態を描く。

「頑張る」を科学する ③評価的「頑張る」

「頑張る」を科学する ③評価的「頑張る」

 

評価的「頑張る」とは、ある出来事(物事)の結果に対する教育評価としての「頑張る」のことです。

 

教師がよく使っているスタンプの中に、「がんばりました」「がんばりましょう」といったものがあります。提出した宿題ノートの末尾にポンと押されているアレです。

 

点検したノートのおしまいに、「よくがんばったね」と赤ペンで書かれていることもあります。

 

通知表に、「がんばりました」「がんばろう」という評価があることもあります。

 

こうした教育評価としての「頑張る」の意味を考えてみたいと思います。

 

シリーズの初回において、

こんにち、教育や子育ての場で使われる「頑張る」には、

従来からの、「困難に耐えて努力する」と、

もっと積極的な、いわば「挑戦」とも言うべき「持てる力をフルに出して、努力する」

という2つの意味合いがある。

と述べました。

現実的には、「持てる力をフルに出して、努力する」と定義するのがしっくりくるかと思います。

いずれにしても、「頑張る ≒ 努力する」なのです。

 

提出物に対して「がんばりました」と評価するのは、有りだと思います。ただし、「頑張る ≒ 努力する」からすると、ここでの「がんばりました」は「よく努力しました」と同義です。

一方、「がんばりましょう」は「努力が足りません」という意味になります。もしも出来栄えに対して評価しているのであれば、その不出来は努力不足によるものなのか吟味が必要です。もっと温かみのある言葉があってしかるべきだと思います。

 

 

さて、問題は、通知表に使われた場合の「がんばりました」「がんばろう」という評価です。

言葉の意味からすると、

「がんばりました」・「がんばろう」 ≒ 「努力しました」・「努力しましょう」

ということになります。

 

話を単純化するために、評価のガイドラインをテストの平均点が80点以上で「がんばりました」、40点以下で「がんばろう」とします。

努力して80点とった子もあれば、努力しなくても80点とれた子もあるでしょう。努力しなかったので40点以下の子もあれば、努力したのに40点以下の子もあるでしょう。テストの点数と努力を紐付けて評価するというのは、無理があります。

 

そもそも、通知表は子どもの「努力」を評価するものでしょうか。

そうでないことは、学校関係者なら百も承知でしょう。では、なぜこうした通知表が存在するのでしょう。

ここでの「がんばりました」は、「よくできました」と同義です。実際、「よくできました」という言葉を使っている通知表も見たことがあります。

同様に「がんばろう」は「できませんでした」と同義になるのですが、「できませんでした」と書いてある通知表を私は知りません。「よくできました」・「がんばろう」は見たことがあります。しかしこれでは評価のベクトルが矛盾します。

ここからは推測になりますが、「できませんでした」と露骨に評価するのは教育的ではないと考えて、「次はがんばりましょう」とやんわり表現したのが始まりでしょうか。だとしても、教育的「頑張る」において指摘した問題の数々は解消されず、決して子どもへの励ましにはならないでしょう。

 

いずれにしても、通知表の評価に「頑張る」という言葉を使うのは、ことの本質も課題も曖昧にしてしまい、決して適切な用法ではないと思います。

 

「頑張る」を科学する ②教育的「頑張る」

「頑張る」を科学する ②教育的「頑張る」

 

教育的「頑張る」とは、励ましの場における「頑張る」のことです。

 

これを、ある出来事(物事)の「前に行う励まし」と、「後に行う励まし」に分けて考察します。

 

■ある出来事(物事)の前に行う励まし語としての「頑張る」

運動会の前日、子どもがダンスや徒競走への不安を日記に書いてきたとします。それに対して教師は、「がんばりましょう」と赤ペンを入れました。

この場合の「頑張る」は、新明解国語辞典の「②持てる力をフルに出して,努力する。」そのものです。

試験前に「がんばりましょう」と声をかけるのも、「困難に耐えて努力する」ほど重くなく、「持てる力をフルに出して、努力する」といった意味合いが強いでしょう。

凡そここでの「頑張る」は、挨拶語や社交辞令の如く使われる「軽さ」はあるとしても、大きな問題はないと思います。

 

■ある出来事(物事)の後に行う励まし語としての「頑張る」

ある子どもに30点のテストを返す時、教師は「次はがんばりましょう」と声をかけました。

これは、出来事(物事)の結果に対して行う励ましです。

 

教師の声かけに対する子どものリアクションを3つ想定しました。

■「よし、次はがんばろう」

唯一、教師の励ましが子どもの心に響くケースです。

「頑張る」には、困難に耐えるか持てる力の発揮かの違いはあれど、「努力」が求められています。

30点のテストの場合、その子には60点をとれるくらいの能力があって、本人が明らかに「努力不足」を自覚できるのであれば、「次はがんばりましょう」という励ましは教育的意味があるということになります。

 

■「がんばってるのに…」

その子なりに精いっぱいやっている結果が30点だった場合、「次はがんばりましょう」という励ましは子どもの心にどう働くのでしょう。

大きな災害に遭って必死で自分を支えている人に、「頑張ってください」と声をかける。病魔と闘っている患者さんに、「頑張りましょう」と励ます。ーーそれ以上に何を努力しろと求めているのでしょう。

30点のテストの場合、努力すべきは教師の授業にあったのかもしれません。「がんばってるのに、応えられなくてごめんね。次はもっと分かってもらえるように頑張るよ」と、声に出して言うかどうかは別にして…。

 

諏訪中央病院の院長であった鎌田實さんに、『がんばらない』(集英社 2000年)という著書があります。この本は、『あきらめない』(集英社 2003年)という本と対になっています。

鎌田さんは、さだまさしさんの名曲「風に立つライオン」の続編のような「八ヶ岳に立つ野ウサギ」という曲のモデルになった2人の医師の1人です。

上記2冊に書かれているのは患者さんの話です。要約してしまうと感動は伝わりませんが、「あなたはあなたのままでいてください」、でも「あきらめないで生きてください」というメッセージ。そして、あきらめない生き方に寄り添うのが医療だと著者は言いたかったのだと、私は受け取っています。

30点のテストに引き寄せてみます。

30点のあなたに特別な頑張りを求めたりはしません。あなたはあなたのがんばりのままでいい。でも、60点をあきらめないで学び続けてほしい。その学びに教師である私が寄り添い、提供しますから。

 

■「がんばるってどうすればいいの」

やはり30点のテスト。「次はがんばりましょう」

次の日、日記にこうありました。「せんせい、わたしはどうしたらいいのでしょう」

どうやら教師の励ましは、この子には困惑や混乱しかもたらさなかったようです。

 

「頑張る」は動詞です。

「書く」は動詞で、鉛筆を持った手を動かす動作を連想できます。

「歩く」は動詞で、足を交互に動かす動作を連想できます。

では、「頑張る」からはどんな動作を連想できるでしょう。手も足も出ない。そう、「頑張る」では体が動かないのです。

 

30点の子の場合、わかる・できるまでの学びの過程を習得していないことが多いでしょう。その子に「努力」を求めるには、具体的なスモールステップを提示してやることが必要です。新出漢字を5回書く、計算問題を5問解く…といった具体的な日課を継続することで、結果を出してやることです。そして、その成功体験への道のりが「頑張る」ことなんだと体感させてやることです。

「頑張る」ことの処方箋を症状にあった体の動かし方として示す。教育的励ましとはそういうものだと思います。