教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 2月29日

うるう日 

 

「うるう日」とは、太陽暦において暦と季節のずれを補正する暦日のことです。漢字では「閏日」と書き、「うるうび」または「じゅんじつ」とも読みます。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

「うるう日」とは、太陽暦において暦と季節のずれを補正する暦日のことである。漢字では「閏日」と書き、「うるうび」または「じゅんじつ」とも読む。

1年の日数は365日ではなく、平均回帰年(平均太陽年)は約365.242 189日≒365日5時間48分45秒強であり、そのずれを調整するために「うるう年(閏年)」に閏日が入る。

現在広く採用されているグレゴリオ暦では、4年に1度(正確には400年に97度)の閏年に、2月28日の翌日に閏日として2月29日が入る。西暦が4で割り切れる年が閏年。ただし、100で割り切れる年で、かつその結果が4で割り切れない年は平年となる(2000年は閏年、2100年は平年)。閏日が入ることで、閏年は1年の日数が平年の365日より1日多い366日となる。

閏日を2月に置くことの由来は、古代ギリシア太陰暦を元にしてつくられた初期のローマ暦では年始は3月1日とし、2月が年末の月であって、ずれを調整するために27日間または28日間の「うるう月(閏月)」が2月の次に置かれたことに由来する。

その後、ローマ暦を改暦したユリウス暦グレゴリオ暦でも閏日を置く月を2月とし、現在に至っている。紀元前713年、ローマ暦において2月23日と3月1日の間に閏月が導入されて以来の伝統から、閏日が2月24日となっている国もある。

日本では1872年(明治5年)にグレゴリオ暦新暦)を採用した際、2月29日を閏日と定めた。日本において、2月29日生まれの人は、戸籍法により「2月29日生まれ」として記載される。

4年に1度しか誕生日が来ないが、「年齢計算ニ関スル法律」により、誕生日前日の終了時(午後12時)をもって加齢するため、2月29日生まれの人は、平年・閏年を問わず、毎年2月28日午後12時に加齢されている。

英語では閏日のことを「Leap Day」(跳躍の日)と言う。これは、平年はその前年の同じ日より1つだけ曜日がずれるが、閏年の翌年は2つずれる、つまり、曜日を1つ飛び越える(leap)ことからそう呼ばれる。

かつてイギリスでは、4年間のうちでこの日だけ女性から男性へのプロポーズが伝統的に公認され、男性はそれを断わることはできないとされていた。

 

 

きょうは何の日 2月26日

2.26事件の日 

 

1936(昭和11)年2月26日未明、急進的な陸軍青年将校が所属部隊から約1400人の兵を率いて首相官邸等を襲撃し、内大臣斎藤実・蔵相高橋是清・陸軍教育総監渡辺錠太郎らを殺害、政治・軍事の中枢である永田町・三宅坂一帯を占拠しました。

叛乱軍の栗原安秀陸軍歩兵中尉(中央マント姿)と下士官・兵

戒厳令下の警備 『国際写真情報』第15巻第4号所収

戒厳令下の警備 『国際写真情報』第15巻第4号所収

 

 

「史料にみる日本の近代」のHPより引用します。

陸軍大臣告示 (標準画像)

この史料は、同日に宮中で開かれた非公式の軍事参議官会議で、決起将校達に同情的な荒木貞夫・真崎甚三郎などにより鎮撫・原隊復帰を目的として作成され、決起将校達に伝達されたものであるが、途中で字句が変わるなど、混乱を招いた。事態は決起将校達に一時的に有利に動くように見えたが、天皇が断固たる討伐の意思を示して事態は一転鎮圧へと向かい、29日に終息した。

事件に対する処分は厳しく、反乱将校及び彼らに思想的影響を与えた北一輝西田税は死刑となり、その後の粛軍人事で皇道派などの将官多数が予備役に編入され、統制派が実権を握った。また、クーデターの恐怖が政界に影を落とし、軍部の発言力がさらに増すこととなった。

 

Wikipedia」より引用します。

二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)とは、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した日本のクーデター未遂事件。

皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠したが、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した。この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の広田内閣(廣田内閣)が思想犯保護観察法を成立させた。

概要
昭和初期から、陸軍では統制派と皇道派の思想が対立し、また、海軍では艦隊派条約派が対立していた(派閥については後述)。統制派の中心人物であった永田鉄山らは、1926年(大正15年/昭和元年)には第1次若槻内閣下で、諸国の国家総動員法の研究を行っていた[3][注釈 1]。

一方、その後の犬養内閣は、荒木貞夫陸軍大将兼陸軍大臣教育総監真崎甚三郎陸軍大将、陸軍軍人兼貴族院議員の菊池武夫を中心とする、ソ連との対立を志向する皇道派を優遇した。皇道派青年将校(20歳代の隊附の大尉、中尉、少尉達)のうちには、彼らが政治腐敗や農村困窮の要因と考えている元老重臣を殺害すれば天皇親政が実現し諸々の政治問題が解決すると考え、「昭和維新、尊皇斬奸」などの標語を掲げる者もあった[注釈 2]。

しかし満州事変に続く犬養首相暗殺事件ののち、日本国は軍政に移行する。斎藤内閣は青年将校らの運動を脅しが効く存在として暗に利用する一方、官僚的・立法的な手続により軍拡と総力戦を目指す統制派(ソ連攻撃を回避する南進政策)を優遇した。行政においても、1934年には司法省がナチス法を喧伝しはじめ[4]、帝国弁護士会ワシントン海軍軍縮条約脱退支持の声明を行い[5]、陸軍大臣には統制派の林銑十郎陸軍大将が就任し、皇道派を排除しはじめた。1935年7月、皇道派の重鎮である真崎が辞職勧告を受けるに至っては、陸軍省内で陸軍中佐相沢三郎による相沢事件が発生し、当時は陸軍軍務局長となっていた統制派主導者の永田鉄山が死亡した。斎藤内閣や林ら陸軍首脳らはこれに対し、皇道派将校が多く所属する第一師団の満州派遣を決定する。

皇道派青年将校たちは、その満州派遣の前、1936年(昭和11年)2月26日未明、部下の下士官兵1483名を引き連れて決起した。決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣鈴木貫太郎侍従長斎藤実内大臣高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監牧野伸顕前・内大臣を襲撃、首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省参謀本部陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。元首相兼海軍軍人斎藤実は殺害されたが後継の岡田啓介首相は無傷であった。

将校らは、林銑十郎ら陸軍首脳を通じ、昭和天皇昭和維新の実現を訴えたが、天皇は激怒してこれを拒否。自ら近衛師団を率いて鎮圧するも辞さずとの意向を示す。これを受けて、事件勃発当初は青年将校たちに対し否定的でもなかった陸軍首脳部も、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧することを決定し、包囲して投降を呼びかけることとなった。叛乱将校たちは下士官兵を原隊に帰還させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし彼らの考えが斟酌されることはなく廣田内閣の陸軍大臣寺内寿一の下、一審制裁判により、事件の首謀者ならびに将校たちの思想基盤を啓蒙した民間思想家の北一輝らが銃殺刑に処された。これをもってクーデターを目指す勢力は陸軍内から一掃された。

 

 

きょうは何の日 2月23日

富士山の日 

 

「富士山の日」の由来は、「ふ(2)じ(2)さん(3)」(富士山)と読む語呂合わせと、この時期、富士山がよく望めることによります。パソコン通信Nifty-Serve内の同好会「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」が1996(平成4)年1月に制定しました。記念日は「山の展望と地図のフォーラム」が制定した日として、一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録されました。

 

これとは別に、山梨県河口湖町が2001(平成13)年12月に、静岡県が2009(平成21)年12月に、山梨県が2011(平成23)年12月に、2月23日を「富士山の日」として制定しています。

富士河口湖町のHPより引用します。

富士山の日条例
 
目 的    
 この条例は、富士山についての理解と関心を深め、愛する心を育み、富士山とともに生きる町民として、その恩恵に感謝の意を表すとともに、富士山及び麓の環境保護と適正な利用を推進し、町民の誇りとして後世に引き継ぐことを目的とする。
期 日     富士山の日は、2月23日とする。
行事等     町は、富士山の日についての啓発と富士山の日にふさわしい行事を行うものとする。
附 則     この条例は、平成15年11月15日から施行する。

 

山梨県のHPより引用します。

山梨県富士山の日条例

平成23年12月22日山梨県条例第55号

(目的)

第1条県民が、世界に誇るべき国民の財産であり、豊かな恵みをもたらしている富士山について理解と関心を深め、富士山を愛する多くの人々とともに、富士山憲章(平成10年11月18日に静岡県山梨県とが共同して制定したものをいう。)の理念に基づき、富士山を後世に引き継ぐことを期する日として、富士山の日を設ける。

(富士山の日)

第2条富士山の日は、2月23日とする。

平成23年12月22日山梨県条例第55号

(目的)
日本の象徴である富士山について、県民が、理解と関心を深め、その恵みに感謝し、愛する心を育むとともに、その保護及び適正な利用を図ることにより、富士山の豊かな自然及び美しい景観並びに富士山に関する歴史及び文化を後世に引き継ぐことを期する日として、富士山の日を設ける。(第1条)

(富士山の日)
富士山の日は、2月23日とする。(第2条)

以下略 

 

静岡県のHPより引用します。

静岡県富士山の日条例

平成21年12月25日静岡県条例第72号

(目的)

第1条 県民が、世界に誇るべき国民の財産であり、豊かな恵みをもたらしている富士山について理解と関心を深め、富士山を愛する多くの人々とともに、富士山憲章(平成10年11月18日に静岡県山梨県とが共同して制定したものをいう。)の理念に基づき、富士山を後世に引き継ぐことを期する日として、富士山の日を設ける。

(富士山の日)

第2条 富士山の日は、2月23日とする。

以下略

 

それでも同僚には「先生」、生徒は「呼び捨て」ですか?

とある職員室での会話。

 

「○○先生、最近のA(生徒の名前、呼び捨て)どう思います?」

 

「ああ、◇◇先生も気になってるんか。B(生徒の名前、呼び捨て)も含めて、あいつらのグループを何とかしないとあかんな。」

 

なんとも尻の据わりが悪い。2月17日の「天声人語」である。

 

 最初に呼ばれたのは「記者さん」だった。初任地で警察署を担当したころの話である。新人だから名無しでも仕方ないか。めげずに毎日通っていると「朝日さん」になった。どの社の記者なのかが認識されたわけだ。ようやく名前を覚えられると、名字に「ちゃん」がついた▼35年前を思い出したのは、法務省が一昨日、受刑者らの新たな処遇を公表したからだ。刑務所や拘置所などに収容されているすべての人が、4月から「名字+さん」で呼ばれるという。一昨年に発覚した、名古屋刑務所の刑務官による暴行事件を受けた改革の一環だ▼事件後に設置された第三者委員会の調査によると、かつて番号で呼ばれた受刑者は戦後、呼び捨てが多くなった名古屋刑務所では、職員同士の雑談で「懲役」や「やつら」などと呼んでいたという▼相手をどう呼ぶかとは、その人とどう向き合うかだ。人権を無視した名古屋の職員の態度は「ストレス発散のための動機もあった」という。人間の更正を担う組織の深い闇を見た思いがする▼今回の改革では受刑者が刑務官を「先生」と呼ぶのも改め、「職員さん」や「担当さん」などになる。先生と呼んでいたこと自体が驚きだが、呼び方で上下関係が決まったり、強まったりすることはある▼江戸時代に「様」から転じた「さん」は、「君・ちゃん」と違って性別や年齢に左右されない敬称だ。「先生」と呼び合い、発言者を「君」で指名する国会の方々も、「さん」に統一してはいかがか。

 

刑務所と学校を同列に扱うつもりはありません。でも、「相手をどう呼ぶかとは、その人とどう向き合うかだ」という指摘は全くその通りだと思います。

 

私は、教員同士の呼び方について2度、子どもの呼び方について1度、記事を書いたことがあります。

yosh-k.hatenablog.com

yosh-k.hatenablog.com

yosh-k.hatenablog.com

 

この機会に自分自身と、自分の職場を見つめ直してみませんか。

再度、お聞きします。

それでも同僚には「先生」、生徒は「呼び捨て」ですか?

きょうは何の日 2月20日

普通選挙の日 

 

1925(大正14)年5月5日、成年男子による普通選挙を規定する法律「普通選挙法」が制定されました。これにより、財産(納税額)に関係なく、25歳以上のすべての男性に選挙権が与えられました。
この普通選挙法に基づく最初の「普通選挙」が、1928(昭和3)年2月20日田中義一内閣の下で、第16回衆議院議員総選挙として実施されました。

 

衆議院議員総選挙・御署名原本・昭和三年・詔書一月二一日 (国立公文書館

 

普通選挙法」の「普通」には、女性は含まれていません。当時の政府にも、普選運動をリードした人たちにも、女性の人権という視点はまだありませんでした。

 

女性も参加した完全な普通選挙が実施されるようになったのは、1946(昭和21)年4月10日、戦後初の衆議院議員総選挙からです。この選挙の結果、日本初の女性議員39名が誕生しました。

 

きょうは何の日 2月17日

天使の囁きの日 

 

1978(昭和53)年2月17日、北海道幌加内町母子里(ほろかないちょうもしり)で、国内最低気温のマイナス41.2℃を記録しました(気象庁の公式記録の対象から外れていたため非公式)。

 

「天使のささやきの日」は、 1994(平成6)年、北海道の地元住民によって作られた「天使の囁き実行委員会」が制定 しました。

記念日は「天使のささやきの日」の名称で、一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録されました。漢字表記の「天使の囁きの日」ともされます。

「天使のささやき」とは、マイナス20℃以下になると空気中の水蒸気が凍ってできる氷の結晶「ダイヤモンドダスト」のことです。

 

高橋真澄さんが撮影した「ダイヤモンドダスト

霧ヶ峰の霧氷とダイヤモンドダストとサンピラー

霧ヶ峰の霧氷とダイヤモンドダストとサンピラー 作成者 T.Hasebe

 

きょうは何の日 2月14日

聖バレンタインデー 

 

セントバレンタインデーは、270年ごろローマで殉教したテルニーの主教聖バレンティヌス(バレンタインはその英語読み)の記念日。ローマの異教の祭りと結びついて女性が男性に愛を告白する日とされるようになり、日本ではチョコレートを贈る風習があります。(平凡社「世界大百科事典」)

 

Wikipedia」より引用します。

バレンタインデー(英: Valentine's Day)、または聖バレンタインデー(バレンタインデー)・セイントバレンタインデー(英: St. Valentine's Day)は、キリスト教圏の祝いで主に欧米で、毎年2月14日に行われるカップルが愛を祝う日とされている。家族や親友などと祝う人もいる。

元々269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した「聖ウァレンティヌス(テルニのバレンタイン)に由来する記念日」だと、主に西方教会の広がる地域においてかつて伝えられていた。

この日は、キリスト教圏では一般に恋人や家族など大切な人に贈り物をすることが、習わしとなっている。

 

「スイーツ学園」のHPより引用します。

セント・バレンタインデーの由来
日本国中で、盛り上がるイベントのひとつ、セント・バレンタインデー。
今でこそ、知らない人はいない程、国民的行事のひとつですが、セント・バレンタインという人はどういう人だったのか・・・?

では、ご説明いたします。

3世紀、ローマ帝国のテルニという町にバレンチーノ(英語読みでバレンタイン) というキリスト教の司祭がいました。彼は、信仰厚く、信徒たちの信望を集めていました。
しかし当時のローマ帝国キリスト教を認めておらず、時の皇帝クラウディウス・ゴティックスはキリスト教をつぶすためバレンチーノを捕らえて改宗するよう迫りました。しかしバレンチーノはこれを拒否したため、270年2月14日、会堂で殺されてしまいました。

バレンチーノはやがて聖人に列せられ、殉教した2月14日が「聖バレンチーノの日」とされたのです。
この聖人についてこれ以上のことはよくわかっていません。
相当昔の人であり、特に重要視されているわけでもなく、日本のカトリック教会の教会暦でもバレンチーノの名は出てきません。

ところが、そのバレンチーノがいつの間にか「愛の守護神」となり、2月14日が「愛の日」となったのです。これに関して次のような説があります。

皇帝クラウディウスは「士気が落ちる」として兵士たちの結婚を禁止していました。
しかしバレンチーノは兵士たちに恋人ができると、こっそり結婚させたためバレンチーノに祈ると破れた恋ももとにもどるという伝説が生まれたといいます。

 

2月14日が「愛の日」となった理由は他にもあります。
キリスト教以前のローマではファウヌスという森の神が信じられていました。
ファウヌスは家畜の神、多産の神であり、豊穣と多産を祈る祭が2月15日に行われ、この祭はルペルカリアと呼ばれました。ルペルカリアでは男たちはクジで女性を選ぶことができ、ローマの若者たちにとってこの日はパートナーとなる女性を見つけるチャンスの日でした。

しかし、ローマがキリスト教を認め、キリスト教化してくるとそうした古い信仰は否定されました。

それでも男女がパートナーを見つけるという伝統は残り、聖バレンチーノの日がそれにとって代わった形で、前日の14日が「愛の日」と いうことになったといいます。

現在欧米で祝われているバレンタインデーはカードの交換であったり、クッキーを焼いたりと、必ずしも特定の物に集約されていません。贈物がチョコレートに なっているのは日本だけです。

 

バレンタインデーがいつから日本で始まったかについては複数の説があります。
昭和11年に神戸のモロゾフが英字新聞に広告を出したのを最初とする説や昭和33年にメリー・チョコレートの現社長(当時営業主任)がヨーロッパの友人からの手紙に書かれていた聖バレンタインデーの内容を、女性が男性にチョコレートだけを贈る日捉えてキャンペーンを始めたとする説などです。

しかしモロゾフやメリー・チョコレートの企ては当初まったくの失敗で売上が伸びたわけではありませんでした。そもそもこれらの説はバレンタイン=チョコレートを前提にした話であり、チョコレート以外の物も贈物として想定すれば他にも事例はあります。

新聞広告をみると昭和31年に西武デパート松屋、34年には松坂屋、35年にはボンジー化粧品と高島屋がバレンタインをうたっています。
デパートのバレンタイン広告は実に多様な品物を薦めており、チョコレートには一言も言及していません。
圧倒的に広告が多いのはデパートで、他にもボンジー化粧品、キンカ堂三菱自動車東芝などチョコレート業界とは無関係な企業が見られます。
デパートがなぜ昭和30年代になってバレンタインデーのセールを始めたのかに ついて次のようなことが考えられます。

関東大震災後、大都市に新興中産階級が生成発展したため、デパートは顧客を上層階級から一般大衆へと移し、デパートの大衆路線化・近代化が進められます。
戦後、日本経済は急速な復興を果たし、消費物資が徐々に解除され、昭和25年には商品の生産・流通は完全に自由化され、昭和30年代には大量生産、大量販売が進展し、大衆消費社会が形成されました。

2月は「節分セール」以外にセールス・ポイントのないデパートは、ビジネスチャンスを求めて新しいイベントを次々に設けていき、バレンタインセールへとつながるのです。
また、当時、宣伝の主体は購買層を広くとっていましたが、時が経つにつれ、いつの間にか対象が若い世代、そして特に女性へと絞られていくようになります。

 

宣伝により順調にいくかに見えたバレンタインですが、昭和43年をピークに客足が遠のき、売上も減少してしまいます。その後、数年を経てバレンタインデーはチョコレートを贈る日として売上が急増し、広告は現象に追随するように現れます。

バレンタインデーにチョコレートを渡し始めたのは小学校高学年から高校生の女の子で、昭和50年代になって次第に女子大生やOLへと広がり始め、デパートは売上を伸ばしました。昭和50年代後半には「義理チョコ」が登場し、昭和60年代になると主婦層へも広がりを見せるようになりました。

以上のことから、バレンタインデーは企業の商略によって定着したというよりは消費者が様々な贈物の中からチョコレートを選び、女性が男性へと贈る機会を作り上げていったのだといえるのではないでしょうか。

日本のバレンタインデーの背景にはこんな難しい話があったんですね。