今回は柏原宿から垂井宿まで歩いた2025年5月14日のたびの今須宿~関ヶ原宿 (1里 4.1km)部分。
今須宿の少し先に、江戸日本橋から114里目の今須の一里塚がある。国道敷設で撤去されたものを本来の位置より東側に復元している。
少しばかり国道21号線を進み、横断して山路に入ると今須峠である。厳冬期は積雪が多く難所であったところだ。
JR東海道本線山中踏切を横断してしばらく進んだ場所にある案内に従って街道から路地に入っていくと、常盤御前の墓がある。
都一の美女と言われた常盤御前は今若、乙若、牛若の3児を産み幸せな生活を送っていたが源氏が戦に破れると一転。鞍馬山から東国に向かった牛若丸を追ってこの山中まで来たが土賊に殺された。
墓の後ろに2基の句碑があるが、その一つは「芭蕉句碑」(説明板の左にある黒ずんだ碑)。
義ともの心耳 似多里秋乃 可世 者世越翁
「義朝の 心に似たり 秋の風 はせを翁」と読む。
再び国道21号線と出会い、横断して少し進むと坂道がある。その坂道を上り詰めたところが不破関である。
坂道の手前の藤古川を挟んで大海人皇子の軍と大友皇子の軍が対峙した。壬申の乱である。
不破関は、壬申の乱(672年)のあとに設けられた。「破れ不(ざ)る関」を意味する。東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発(あらち)関とともに古代律令制下の三関(さんげん)の1つ。789(延暦8)年に停廃されてのちは、関守が置かれた。
不破関跡
不破関守跡
不破関の先で中山道は国道21号線と合流し、しばらく行くと大神宮常夜燈がある。この辺りが関ヶ原宿の西口である。
広重画「関ヶ原」
のんびりとした西町の茶屋風景。茶屋の藁屋根の軒には「名ぶつさとうもち(砂糖餅)」と書かれた提灯が下がり、「そばきり うんどん(うどん)」の看板を掲げ、商い物の傘、扇、草履を描いている。
関ヶ原宿はそのまま国道21号線になっていて、もっとも中山道時代の風景をとどめない宿場である。昔も今も変わらずに交通の要衝である証しと言えなくもないが…。