教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 3月20日

LPレコードの日 

 

1951(昭和26)年3月20日、日本初のLPレコードがレコード会社の日本コロムビア株式会社から「長時間レコード」の名前で発売されました。

第1号は米コロムビア原盤による、ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルによるベートーヴェン交響曲第9番(2枚組。レコード番号WL-5001/2)の輸入販売でした。価格は、当時の値段で2枚組で5000円と、非常に高価でした。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

LPレコードについて

LPレコード(25cm)

LPレコードは、毎分約33回転(33 1/3rpm)、標準は直径12インチ(30cm)で収録時間は30分である。直径10インチ(25cm)のものもある。それまでの材質がシェラック(樹脂)のSP盤(Standard Play)に対し、素材がポリ塩化ビニールとなったことで、丈夫で薄く軽くなり高密度で長時間の録音が可能になった。

長時間の再生できるので、LP盤(Long Play)と呼ばれる。また、在来レコードより音溝(グルーヴ)が細いことからマイクログルーヴ(microgroove)、回転数から33回転盤とも呼ばれる。長時間の記録できることから、クラシック曲の収録やアルバムとして使用された。

世界で初めてLPレコードの量産・商品化に成功したのはアメリカのコロムビア・レコード社で、1948年(昭和23年)に世界初のLPレコードが発売された。アメリカやイギリス、日本など各国のレコード会社もこれに続き、LPレコードは普及が進み、遂には世界のアナログ盤の標準媒体の1つとなった。

 

きょうは何の日 3月17日

漫画週刊誌の日 

 

1959(昭和34)年3月17日、日本初の少年向け週刊誌『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』が発刊されました。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

1959年(昭和34年)のこの日、日本初の少年向け週刊誌『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』が発刊された。

 

週刊少年マガジン』について
講談社が発行する漫画雑誌で、現在は毎週水曜日に発売されているが、創刊当初は木曜日発売で定価は40円であった。

週刊少年マガジン』創刊号

(表紙の写真は横綱・朝汐太郎)

その当時のキャッチコピーは「ゆめと希望の少年マガジン」で、主力作品は連続小説が大半を占めていた。最初はヒット作には恵まれず、ライバルである『週刊少年サンデー』に水を空けられている状況が続いた。

しかし、1965年(昭和40年)のちばてつや「ハリスの旋風」を皮切りにマガジンの快進撃が始まり、「巨人の星」「あしたのジョー」の2大スポ根マンガで一気に少年雑誌としての地位を不動のものとした。その他にも「ゲゲゲの鬼太郎」「天才バカボン」なども連載を始め、1967年(昭和42年)1月にはついに100万部を突破した。

 

週刊少年サンデー』について
小学館が発行する漫画雑誌で、現在は毎週水曜日に発売されているが、創刊当初は火曜日発売で定価はマガジンよりも安い30円であった。

週刊少年サンデー』創刊号

(表紙の写真は読売巨人軍長嶋茂雄

「サンデー」という誌名は「この雑誌を読むとまるで日曜日のように楽しい気分に浸れるように」という初代編集長・豊田亀市が名付けた。創刊前には「小学館の新児童誌」と宣伝され、実際、創刊から10年近くの間、学年誌の延長線上にあり、読み物や付録などが充実していた。

創刊号のラインアップは手塚治虫「スリル博士」、横山隆一「宇宙少年トンダー」、寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎」、藤子不二雄海の王子」、益子かつみ「南蛮小天狗」であった。

創刊号の売上げはサンデーが30万部、マガジンが20.5万部でサンデー側に軍配が上がり、マガジンも5号から30円に値下げした。これ以降もお互い張り合って雑誌の総ページ数を増やしていった。

1960年代半ばには手塚治虫「W3」がマガジンからサンデーに移籍する「W3事件」が起き、1960年代末には「天才バカボン」がマガジンからサンデーに移籍するなど、その後もライバル間の争いは続いた。

 

「一般社団法人 日本雑誌協会」のHPより、直近の印刷証明付部数(印刷部数公表)を調べてみました。

週刊少年ジャンプ

    算定期間            印刷証明付き発行部数
第59回:2022年10月~2022年12月        1,260,000
第60回:2023年1月~2023年3月         1,257,273
第61回:2023年4月~2023年6月         1,176,667
第62回:2023年7月~2023年9月         1,160,833
               年間平均部数    1,213,750


週刊少年マガジン

    算定期間            印刷証明付き発行部数
第59回:2022年10月~2022年12月        441,000
第60回:2023年1月~2023年3月         404,167
第61回:2023年4月~2023年6月         370,083
第62回:2023年7月~2023年9月         358,167
              年間平均部数    393,354


週刊少年サンデー

    算定期間            印刷証明付き発行部数
第59回:2022年10月~2022年12月        171,818
第60回:2023年1月~2023年3月         164,231
第61回:2023年4月~2023年6月         160,417
第62回:2023年7月~2023年9月         153,333
              年間平均部数    162,292

 

マガジンとサンデーの関係で言えば、今はマガジンがサンデーの2.5倍ほどの発行部数になっています。

それらのさらに上に、『週刊少年ジャンプ』(集英社)があります。少年ジャンプは1968年創刊で、翌69年から週刊になりました。

週刊少年ジャンプ』は、1994年12月末発売の1995年3・4号で653万部という日本国内における漫画雑誌の最高発行部数を記録しました。「SLAM DUNK」「ドラゴンボール」「るろうに剣心」「キャプテン翼」「こちら葛飾区亀有公園前派出所」など、メジャーな作品が満載の時代でした。

きょうは何の日 3月14日

ホワイトデー 

 

Wikipedia」より引用します。

ホワイトデーとは、一般的にバレンタインデーにチョコレートなどをもらった男性がそのお返しとしてキャンディ、マシュマロ、ホワイトチョコレートなどのプレゼントを女性へ贈る日とされる。日付は毎年3月14日。

ホワイトデーの習慣は日本で生まれ、中華人民共和国や台湾、韓国など東アジアの一部でも見られる。欧米やオセアニア南アメリカやアフリカなどその他の世界各国ではこういった習慣は見られない。

 

ホワイトデーは、キリスト教とは何の関係もない日本発祥のものです。その起源について、引き続き「Wikipedia」より引用します。

起源
ホワイトデーの起源については諸説あり、ホワイトデーの時期になると様々な企業、各陣がそれぞれ「元祖」だと主張している。近年ではデパートなどで食品以外の贈り物などの販売促進も行われており、菓子業界では駅やデパートでの手焼きクッキーなどの販売も売り上げを伸ばしているとされ、現在の市場規模は約750億円に上ると言われる。

不二家・エイワ説
日本でバレンタインデーが定着するに従って、菓子業界でそれにお返しをする日を作ってはどうかという案が出された。これを受けた菓子業界では、昭和40年代に入って以降、個々に独自の日を定め、ビスケットやマシュマロ、キャンディ等を「お返しの贈り物」として宣伝販売するようになった。不二家もまた「リターン・バレンタイン」という名称でバレンタインデーのお返し用菓子類の宣伝販売を行うようになり、1973年(昭和48年)にエイワと協力して3月14日にマシュマロを販売するキャンペーンを開始した。

石村萬盛堂
黄身餡をくるんだ白いマシュマロ菓子の「鶴乃子」で知られる福岡市の老舗菓子屋「石村萬盛堂」の社長は、バレンタインデーのお返しにせめてマシュマロでも渡してほしい旨の文章が少女雑誌に掲載されているのを目にした。石村萬盛堂はこの文章に触発され、バレンタインデーの返礼としてマシュマロを渡す日を創設し、返礼用マシュマロ菓子として「君からもらったチョコレートを僕の優しさ(マシュマロ)で包んでお返しするよ」とのコンセプトで、黄身餡の代わりにチョコレートをくるんだマシュマロを売り出すこととした。この「マシュマロデー」は、百貨店岩田屋のアドバイスで、当時大型のイベントが無かった時期にあたる3月14日に設定され、1978年(昭和53年)3月14日からキャンペーンが開始された。後に、他業界にもこのキャンペーンを拡張するため、1980年代に百貨店側からの申し出により名称をホワイトデーに変更した。日本記念日協会に登録されているホワイトデーは石村萬盛堂説を取る。

全飴協説
全国飴菓子工業協同組合(全飴協)は、1978年(昭和53年)に「キャンディを贈る日」としてホワイトデーを制定し、2年後の1980年(昭和55年)より三越電通の協力も得てイベントやキャンペーンをスタートさせた。ホワイトデーを3月14日に定めた理由は、269年2月14日、兵士の自由結婚禁止政策に背いて結婚しようとした男女を救うためにウァレンティヌス司祭は殉教したが、その1ヶ月後の3月14日、その2人が改めて永遠の愛を誓い合ったとされていることや、古事記および日本書紀で日本において初めて飴が製造されたとされる日が3月14日前後とされていることに由来している。ホワイトデーという名称は、英和辞典のホワイトの項に、シュガーやスイートといった解説が記載されており、若者の純愛や砂糖をイメージさせることによるものである。

 

 

きょうは何の日 3月11日

東日本大震災発災の日 

 

2011(平成23)年3月11日14時46分、三陸沖の宮城県牡鹿半島の東南東130km付近で、深さ約24kmを震源とする地震が発生しました。

 

内閣府「防災情報のページ」より引用します。

東日本大震災の概要


マグニチュード9.0

東日本大震災は、2011年3月11日14時46分頃に発生。三陸沖の宮城県牡鹿半島の東南東130km付近で、深さ約24kmを震源とする地震でした。マグニチュード(M)は、1952年のカムチャッカ地震と同じ9.0。これは、日本国内観測史上最大規模、アメリカ地質調査所(USGS)の情報によれば1900年以降、世界でも4番目の規模の地震でした。

被害概要

被害状況等については、まだ行方不明者も多く、全容は把握されていません。緊急災害対策本部資料によると、震災から3ヶ月を超えた6月20日時点で、死者約1万5千人、行方不明者約7千5百人、負傷者約5千4百人。また、12万5千人近くの方々が避難生活を送っています。

震度

本震による震度は、宮城県北部の栗原市で最大震度7が観測された他、宮城県福島県茨城県、栃木県などでは震度6強を観測。北海道から九州地方にかけて、震度6弱から震度1の揺れが観測されました。
 その後も強い揺れを伴う余震が多数観測されています。気象庁によると、4月7日に宮城県沖を震源として発生した震度6強の余震をはじめ、5月31日までに発生した余震は、最大震度6強が2回、最大震度6弱が2回、最大震度5強が6回、最大震度5弱が23回、最大震度4が135回観測されました。

3月11日 東日本大震災の震度分布図(気象庁 提供)

地殻変動

全地球測位システム(GPS)による国土地理院の観測では、今回の地震に伴う地殻変動で、東北地方から関東地方の広い範囲で東向きの地殻変動が見られました。宮城県牡鹿半島は、東南東方向に約5.3m水平移動し、約1.2m沈降。また、同県沿岸部の海抜0m以下の面積は、震災前の3.4倍の56km2になっていることなどが確認されています。

未曾有の 大津波

今回の大震災では、岩手、宮城、福島県を中心とした太平洋沿岸部を巨大な津波が襲いました。
  各地を襲った津波の高さは、福島県相馬では9.3m 以上、岩手県宮古で8.5m 以上、大船渡で8.0m以上、宮城県石巻市鮎川で7.6m以上などが観測(気象庁検潮所)されたほか、宮城県女川漁港で14.8mの津波痕跡も確認(港湾空港技術研究所)されています。また、遡上高(陸地の斜面を駆け上がった津波の高さ)では、全国津波合同調査グループによると、国内観測史上最大となる40.5mが観測されました。
  国土地理院によると、青森、岩手、宮城、福島、茨城、千葉の6県62市町村における浸水範囲面積の合計は561km2。これは、山手線の内側の面積の約9倍にあたります。また、同院が公開した浸水範囲概況図から、今回の津波が、仙台平野等では海岸線から約5km内陸まで浸水していることが確認できます。

気象庁 提供)

大量の帰宅困難者液状化現象

震度5強が観測された首都圏では、交通機関が不通となったため、大量の帰宅困難者が発生する事態となりました。徒歩で帰宅を試みる人々で歩道は大混雑。また、帰宅できなかった多くの人々が勤務先や駅周辺あるいは、都が開設した一時収容施設等で一夜を明かしました。東京都の発表によると、3月12日午前4時現在で、約9万4千人が都の関係施設や都立学校、区市町の一時受け入れ施設を利用していたということです。
 関東では、茨城、千葉、東京、埼玉、神奈川の広い範囲で液状化現象が発生しました。重いマンホールが持ち上がるほどの砂の噴出や、家屋、電信柱などの傾斜や沈下、また、水道、電気、ガスといったライフラインが一時ストップする被害が生じました。

(出典 6 月20 日17:00 現在 首相官邸 緊急災害対策本部発表)

 

きょうは何の日 3月8日

国際女性デー 

 

「国際女性デー」は、国際婦人年である1975年3月8日に国連で提唱され、その後、1977年の国連総会で議決されました。

女性の地位向上、女性差別の払拭等を目指す国際的な連帯と統一行動の日です。

 

1904年3月8日にアメリカの女性たちが参政権を求めてデモを行ったことをきっかけに、女性の地位向上を呼びかける動きが世界で活発化しました。
この動きはアメリカで婦人参政権が認められたあとも続き、1975年には「広く女性の社会参加を呼びかけるための記念日」として、国連で正式に制定されました。

 

「公益財団法人 日本女性学習財団」のHPより引用します。

国際女性デー(国際女性の日)

毎年3月8日は、女性の権利と世界平和をめざす「国際女性デー」として、世界各国で記念行事や催しが開催されている。20世紀初頭のアメリカにおける女性の社会主義運動に端を発し、女性の選挙権獲得を求めて「女性デー」として集会を行った1909年2月の最終日曜日(28日)が起源とされている。1910年に開催された第2回国際社会主義女性会議(コペンハーゲン)において、クララ・ツェトキン(ドイツの社会主義者・女性運動指導者)らが、女性問題にかかわるあらゆる要求を国際連帯の下に取り組んでいこうと「国際女性デー」を提唱、多数の賛同を得て採択された。このことを契機に、以降女性デーは世界的に広がっていった。国連では、国際婦人年(1975年)に初めて「国際女性デー」が実施され、1977年には国連総会で「国際女性デー」(3月8日)が決議された。日本初の女性デーは、1923年3月8日に「種蒔き社」主催で行われたが、集会は反対派の妨害で混乱し40分後に警察によって解散させられたという。その後戦争などで一時中断した時代を経て、戦後は政党や労働組合婦人部が中心となって全国各地で集会を行うようになった。現在では、一般の女性団体・グループなども、この日を記念にした事業に取り組んでいる。(2004.3)

 

発端となるアメリカのデモについては、「3月8日」と紹介しているものと「2月28日」と紹介しているものがあります。

 

「暦生活」のHPでは次のように整理しています。

International Women’s Day
国際婦人デーは国際女性デーとも言われ、英語ではInternational Women’s Dayと称しています。1909年の2月28日、ニューヨークで女性労働者が婦人参政権を要求してデモ行進をおこなったことに由来しています。その後、1910年にコペンハーゲンで開催された第2回国際社会主義者婦人会議で「女性の政治的自由と平等のために闘う」記念日として決議されました。

翌年の3月19日、オーストリアデンマーク、ドイツ、スイスで初めて実施され、100万人を超える参加をみました。他方、アメリカでは2月の最終日曜日に開かれていました。3月8日となったのは1914年のドイツからで、その日が日曜日であったことによるらしく、それ以降、各地で女性たちの集会がその日に開催されるようになりました。

 

 

 

きょうは何の日 3月5日

スチュワーデスの日 

 

1931(昭和6)年3月5日、東京航空輸送社(後に大日本航空に吸収)が実施した日本初のスチュワーデス採用試験の結果が発表されました。

 

「エアガール」という呼び名で募集され、2月5日に試験が行われました。140人の応募に対し、合格者は3人でした。その3人は東京-下田-清水間の定期旅客路線に新卒として採用されました。

 

このマンガがすごい!WEB」のHPより引用します。

3月5日は「スチュワーデスの日」!

これは、昭和6(1931)年に東京航空輸送の日本初スチュワーデス採用試験の結果発表がこの日だったために制定されたもの。当時、スチュワーデスは「エアガール」と呼ばれていた。

新聞に掲載された募集広告の文面は「エアガール求む 東京、下田間の定期航空旅水上機に搭乗し、風景の説明や珈琲のサービスをするもの、容姿端麗なる方を求む」といった内容。
3人の募集枠に対し、なんと140人の応募があったという。じつに約46倍の狭き門だったのだ。

先進的な職業と世間的にも注目を集め華々しく就業したスチュワーデス3人だったが、女性の平均月給が28円ほどといわれた当時に、3人が手にした初給金は16円程度だったといわれている。あまりに低い処遇に不満を抱いた彼女たちは、全員いっせいに退職してしまったそうな。
ん~、ムリもない。
その後賃金ベースも見直され、スチュワーデスは名実ともに花形職業になっていく。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

スチュワーデスについて
「スチュワーデス(stewardess)」とは、旅客機に乗り込み接客サービスを行う女性客室乗務員のことで、船舶の司厨員に由来する「スチュワード(steward)」の女性の呼称である。

現在では、テレビドラマなどの影響もあり、性差のない語である「キャビンアテンダント」または「CA(シーエー)」と呼ばれることが多い。ただし、「cabin attendant」は和製英語で、英語では「フライトアテンダント(flight attendant)」あるいは集合名詞「キャビンクルー(cabin crew)」と呼ばれる。これに伴い、日本語訳では「客室乗務員」という言葉が正式とされるようになった。

 

きょうは何の日 3月2日

中国残留孤児の日 

 

1981(昭和56)年3月2日、中国残留日本人孤児47名が、肉親探しのために、厚生省の招待で初めて公式に来日しました。このうち29名の身元が判明しました。

 

 中国残留孤児とは、第2次大戦後、諸事情で帰国できず中国に残された日本人孤児のことです。戦後、未帰還の孤児は1万4000人以上と言われていましたが、中国との国交がなかったこともあり、調査が開始されるまで終戦から36年もの歳月を要しました。

 以降、1999年まで合計30回にわたり、2116人が肉親との血縁関係確認のために来日しましたが、肉親が判明したのは665人でした。

 集団調査は1999年をもって終了となりましたが、それ以外で自費帰国した者をいれると2300人以上の残留孤児が帰還できたことになります。

 その後、帰国を果たしても日本文化にも馴染めず孤立するケースが頻出。日本語が話せず仕事に就けないなどの窮状を支援するため、現在はさまざまな支援団体が発足し、支援を続けています。

 

「中国帰国者支援・交流センター」のHPより引用します。

中国残留邦人をご存知ですか

戦前、中国東北地区(旧満州地区)には、開拓団を始めとして多くの邦人が在住していましたが、ソ連軍の対日参戦時(昭和20年8月9日)には、成年男子の多くは日本軍(関東軍)に召集されていたため、残された人々は老人婦女子が主体となっていました。

ソ連参戦以後、これらの人々は、居住地を追われ、避難する途中で、或いは酷寒の難民収容所等で、飢餓や伝染病等により死亡する人が続出するという悲惨な状況にありました。このような状況の中で、生活手段を失い、中国人の妻となるなどして中国に留まった婦人等を「中国残留婦人等」と、両親、兄弟姉妹と生別又は死別し孤児となって中国人に引き取られ、自己の身元を知らないまま今日を迎えた子供を「中国残留日本人孤児」と呼び、これらの人々を「中国残留邦人」と総称しています。

 

略史

中国地域からの邦人の引揚げは、昭和21年5月から開始されましたが、昭和24年に社会主義体制の新中国が成立した後、一時中断しました。その後、昭和28年に再開し、日本赤十字や中国紅十字会などの民間ベースを中心に昭和33年まで集団引揚げが断続的に行われました。

その後、個別引揚げが行われていたものの、昭和47年まで日本と中国の間に国交がなく、人の交流や文通もままならない状態が長く続きました。

昭和47年9月29日の日中国交正常化を契機として、多くの残留邦人が日本に帰国するようになり、中国残留孤児問題がクローズアップされるようになりました。このため、厚生省(当時)は、肉親探しのための手掛かり資料を基に保有資料による調査、報道機関の協力による公開調査により身元の解明の促進を図り、昭和56年3月からは、それまでの調査では身元が確認できない孤児を集団で一定期間日本に招き、報道機関の協力を得て肉親探しを行う訪日調査を実施してきました。

平成12年度からは、中国現地で日中両国政府の共同調査で孤児認定を行い、そのうち、肉親情報のある方のみに訪日して頂き、肉親と思われる方との対面調査を行う方法に改めたところです。