教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

森と湖と実りの大地から ~北海道キャンプ旅行の記録~ ⑤

北海道キャンプ旅行 出発から6日目

1991年7月30日(火)

 
 7時朝食、7時30分出発。稚内港へ立ち寄り、一路宗谷岬へと向かう。稚内港の利尻・礼文フェリーターミナル横の岸壁に、ドーム式の防波堤がある。長さが427mもあって、ギリシャ時代の遺構を見る雰囲気だ。

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ドーム式防波堤

※(補足)1983年に訪れた時は、この港から利尻島に渡りました。その後、礼文島のハイキングも幾度か計画はしたのですが、いまだ実現には至っていません。

※(補足)宗谷岬の手前に「間宮林蔵 渡樺出港の地」碑が建っています。1808年4月13日(新暦では5月だと思いますが)、間宮林蔵はこの場所から樺太へ渡る船を出したということです。訪れた日は鉛色の海が広がり、とても船を出そうという気にはなれそうもない雰囲気でした。

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間宮林蔵 渡樺出港の地


 北緯45度31分14秒、日本最北端の地宗谷岬。そこに「日本最北端の地」碑が建つ。碑の高さが4m53㎝、なかなか芸が細かい。午前8時、気温を知らせる掲示板の数字は、15度余を表示していた。雨が降り出しそうな空、そして強風、鉛色にさえ見える海。最果ての地の厳しさを思う。傍らに日本一北の店と看板を掲げた柏屋みやげ店がある。日本最北端到達証明書が100円で売られている。何でも商品になってしまう、結構な国だ。娘と息子は我が家へはがきを書き送った。ここには日本最北端大岬郵便局があって、日本一北にあるポストが立っている。投函した。

※(補足)宗谷岬というと、ダ・カーポの楽曲『宗谷岬』が自然と口をついて出てきます。

流氷とけて 春風吹いて
ハマナス咲いて カモメもないて
はるか沖ゆく 外国船の
煙もうれし 宗谷の岬
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬

この曲がヒットしたのが1976年で、1983年に訪れた時は向かいのみやげ物屋の拡声器から大音量で流れつづけていました。平易なメロディーなので、私はここで覚えてしまいました。曲はいいのですが、私と同年にここを訪ねた本多勝一氏はこう書いています。

「みやげ物屋の拡声器が浜辺の人々にがなりたてる。歌詞がまた決まり文句と手アカだらけの単語をこねて団子にしたような“作品”であり、歌詞を刻んだ石碑も建てられ、自然破壊の役割を果たしている。騒音に対するこの鈍感さ、自然に対するこのひどい冒瀆、心ある人は二度とこんな岬に来ないだろう」( 『北海道探検記』集英社文庫、1985年)

1991年の旅行記には曲のことが出てきませんので、おそらく鳴り止んでいたのでしょう。

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宗谷岬


 稚内から網走へと続く国道238号線のうち、宗谷から網走までの300kmほどをオホーツクラインという。もっとも北海道的な車窓風景が続く所である。


 村営猿払牧場には、直径8mの風車を付けた風雪の塔が建っている。生憎の天候で、600haの牧場は実感できない。隣接して日ソ友好記念館が建っている。北方領土返せの建物は幾つもあるが、友好館はぼくの知るかぎり唯一ここにしかない。1939年、ソ連船インディギルカ号が遭難し多数の乗組員が亡くなった。村の人たちは、戦争中も官憲の目を盗んで慰霊祭をしてきたという。そうした資料や写真が展示されている。道を隔てた海岸にはイ号遭難者慰霊碑が建っている。その台石のカコウ岩はソ連政府から贈られたものである。こうした友好の歴史をこそもっと大事にしていかなくてはならない。潮風にハマナスの花が揺れていた。

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イ号遭難者慰霊碑


 オホーツクラインを走っていると、自治体が建てた「自衛隊さん御苦労さん」といった内容の看板に何度か出会った。自衛隊の基地や演習場が至るところにある。自治体による自衛隊誘致も相当数にのぼっている。思想ではなく、北の地の生活の現実がそうさせている。


 浜頓別の海岸にベニヤ原生花園が広がる。330haの花園には100種類以上の高山植物や湿性植物が群生するが、寒さのせいだろうか殆ど花をつけていなかった。海岸に出ると小雨を含んだ猛烈な風である。この海岸で8年前はたくさんの綺麗な貝殻を拾った。どうしたものか今回は皆無だった。ロシア語のラベルが貼られたソースと思われるビンが打ち上げられていた。遠くソ連から漂着したのだろう。確かに隣国なのだ。


 悪天のため北見神威岬は素通りし、ウスタイベ千畳岩へ立ち寄った。ここも強風、息子が寝ていたこともあって写真を1枚撮って引き上げた。枝幸駅前、もっとも国鉄廃線になってからはバスターミナルしかないのだが、そのかつての枝幸駅前食堂で昼食を食べた。おそらく近くから来たと思われる親子連れと、トラックの運転手などで、古き時代の食堂は賑わっていた。線路はなくなっても、やっぱり駅前食堂なのである。


 ここから100kmばかり走ると紋別市である。ラジオから流れてくる天気予報は夜半から雨だと言う。雨の中でのテント撤収は、できることなら御免被りたい。紋別市役所へ行って貸し出しテントの利用許可を貰うことにした。市役所近くのスーパーで夕飯のおかずを買った。遠来の珍客にスーパーの従業員一同が、車を見に出てきた。大きなイカが220円とは、いかにも安い。「新鮮ですね?」と聞いたら、笑われてしまった。イカの産地へ来て新鮮なのは当たり前のこと。気前よく4匹買った。ついでに近くのスポーツ店でウインドブレーカーを買ってもらった。この寒さは堪らない。


 紋別市街を抜け、コムケ湖の畔に、それはまたオホーツク紋別空港のすぐ近くでもあるのだが、コムケ国際キャンプ場がある。全面芝生の快適なキャンプ場である。早速テントの貸し出しを受け、係のおじさんに手伝ってもらって設営した。折から薄日が漏れてくる。息子は、バットとボールを持ち出して一人遊びに興じている。大問題が持ち上がった。キャンプ場にビールがない。町には遠いしと思案の末、飛行場の存在に気付いた。急いで空港へと車を走らせたが、既に空港のビルは施錠されており、ガラス越しに見えるビールを買い求めることは叶わなかった。かくして2夜連続でビールとは無縁の生活を送ることになった。炭火の上に鉄板を乗せ、イカはそのままで焼いた。程よく焼けた辺りで包丁を入れると、中のワタが出てくる。このワタをタレがわりにからめて食べるのである。新鮮故になせるわざであるが、これがなかなかいける。ああ、ビールがない。残り2匹は普通のイカ焼きにしたが、4人で4匹はついに食べ切れなかった。団体キャンパーの喧騒を尻目に、早々に床についた。

※(補足)夜中にしっかり雨が降りました。