教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

森と湖と実りの大地から ~北海道キャンプ旅行の記録~ ④

北海道キャンプ旅行 出発から5日目

1991年7月29日(月)

 
 心配していた雨も降らず、一夜が明けた。5時30分起床。朝食のあとテントを撤収し、7時10分出発。


 国道40号線から問寒別(といがんべつ)川沿いに道々を10㎞ほど入っていくと幌延(ほろのべ)町上問寒、川上幸男さんの家に着く。8時20分。


 幌延に高レベル放射能のゴミ捨て場を作る計画が進んでいる。東京の原子力資料情報室の紹介で川上さんを知った。会ってやろうという返事がもらえて、訪問に至った。

※(補足)私は特に反原発の運動をしていたわけではありません。1991年当時、原子力発電所から出る「核のゴミ」は社会問題になっていました。そんな中で、北海道幌延町でガラス固化体による貯蔵処分計画が、青森県六ヶ所村で再処理計画が進んでいました。社会科教師の性(さが)みたいなもんで、現地を自分の目で見たい、現地の人の声を聞きたいと思い、キャンプ旅行の中に組み入れた次第です。


 川上牧場という白い文字が青色のサイロに映えている。牧舎に隣接して川上さんの自宅がある。案内された1室に川上さんが姿を出す。60才前後と見られるその人は、挨拶がわりに名刺を差し出された。「幌延町議会議員」「酪農家」の肩書が刷り込まれていた。息子さんの奥さんが、搾り終えたばかりの牛乳を温めて出してくださった。まったりとしたおいしさである。


 酪農のことから話は始まる。


 川上さんは香川県の田舎に生まれ、育った。1955年に北海道に移り、2年後の1957年に当地に入植した。当時は地下足袋で歩けないような湿地で、畑作ができる状態ではなかったという。笹が一面に生えている土地を開墾し、次の年から牛を飼い始めた。苦労など言葉では言えないほどしているが、当時の入植者は概ね同じ様な状況だったのでやってこれたという。電気も水道も舗装道路もない、しかも冬は雪に埋もれる山の中である。10人来たら3人残ってればいい方だという言葉が、厳しさの全てを語っている。6月の気候が悪く米が作れず、湿地のため畑も無理ということで、必然的に酪農の道を選ぶことになる。牛を1頭飼えば一人が生活できる時代だったという。飼い始めた年の収入は10万円ほどだった。最初3頭だった牛を毎年1頭ずつ増やした。順調にいっているときに増やすのは簡単だけど、生活のしんどい時に来年のために増やすのは大変なことだったという。当初9haだった牧草地は、今では55haに増えた。3頭から出発した牛は、80頭に増えた。牛乳と子牛と肉牛を含めた昨年の売上げは3000万円を超えたらしい。


 何でもやってきたよと、川上さんは遠い昔を見つめて言う。機械が故障すれば町へ部品を買いにいって自分で修理した。遠い町から出張費用を払って来てもらっていたのでは、採算が合わない。中古の機械だって上手に使えば随分もつんだと言う。50mの牛舎だって自分で作った。200tの牧草が入るサイロも、材料だけ買って自分で組み立てた。住居の殆ども自分で作ってしまった。出来ることは何でも自分でやってしまう、これが今日の川上牧場を築いたモットーのようだ。


 おかげでね、と川上さんは続ける。息子さんが酪農の仕事に就いた今日、8時半ごろに乳搾りを終えるとあとは寝ていても生活が成り立つ。80頭の牛の内、メスの乳牛(親)は45頭。午前5時半から8時半ごろまでかかって搾乳を済ませる。1日に搾るミルクの量は800リットル。搾ったミルクはタンクに入って冷やされる。雪印のトラックが取りにきて、殆どがバターと粉ミルクになる。ミルク1リットルが80円で、1日の売上げが64000円。1年で2000万円ほどになる。子牛も必要数以上に生まれると売るし、オス牛や乳の出なくなったメス牛も売る。これが年に900万円ほどになる。-- これが幌延の平均より少し大きな規模の酪農農家の実情らしい。

※(補足)川上さんの牧場のことは、小学校4年生の娘の夏休み自由研究のテーマになりました。


 幌延は酪農の町である。町の3分の1が酪農農家である。3分の1は所謂勤め人。残り3分の1は土木関係の仕事に従事している。決して豊かな町ではない。町職員1人当たりの住民の人数が24人で、これは道内でも少ない方から3番目だそうだ。町としては、何か活性化につながるものが欲しかった。故中川一郎代議士にも相談を持ち掛けている。当初は発電所を誘致する計画であったらしい。ところがそれがいつの間にか「核のゴミ捨て場」になってしまっていた。幌延が立地条件が最適だから建設されるのではない。条件としてはむしろ悪いのだが、こんな危険な施設を「誘致」してくれる自治体など希有である。町長の誘致に対して議会はどうかというと、14人の議員の中で核燃反対は川上氏ただ1人である。みんな賛成なのか。議員のうち4人か5人は土建業者である。理事者の側に付いていることで、甘い汁(仕事)が転がり込んでくる。日本の政治を取り巻く象徴的な姿が、ここにもあった。それが「賛成」の理由である。国がそんな危険なものを作るはずがないと言う議員もいる。お前(川上氏)が言うような危険なものなら、絶対に反対だという賛成派議員もいる。残念ながら、日本中を震撼させている問題の渦中の議会は無知に過ぎる。仕事が転がり込んでくるかどうかと同じレベルでしか考えられていないところに、我々の不幸がある。


 川上さんは、特別な運動家でも革新議員でもない。書斎を兼ねる居間には故中川議員の額も飾られている。北の大地に根を下ろした酪農家である。だからこそ大地を汚し、地下水を汚染する核燃に反対なのである。間違いなく川上さんは努力家であり、誠実な人である。書斎には六法全書や法律関係書、原発関係書が多く見られた。議会は町政のチェック機関でなければならないとも言われた。たとえ1人であっても駄目なものは駄目として譲らない、開拓の経験が鍛えた信念の強さかと思う。


 表に出ると夏の日差しが強くなっていた。芝を刈り取る機械、集める機械、「ロールケーキ」を作る機械、肥料を蒔く機械、そしてそれらを動かす大型のトラクター。川上さんは、これら財産とも言える機械の1つひとつを時には動かしながら説明してくれた。牧草地に目を遣れば、草を食む牛の群れが見える。牛舎では1昨日生まれたばかりの子牛に、ミルクを飲ませている奥さんの姿があった。10時30分、長居を詫びて幌延の建設予定地へと向かった。

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川上さんの牧草地が広がる


 国道を離れてJR線沿いの道々を走ると、安牛駅手前の天塩川三日月湖のある近くに核のゴミ捨て場「貯蔵工学センター」建設予定地がある。道々から僅かにダートを走り、JRの踏み切りを渡ったところに事務所がある。プレハブ造りの事務所は金網と有刺鉄線で囲まれ、おっかない警備員がすぐさま飛び出してきて、じっとこちらを睨んでいた。ただならぬ物が作られようとしていることは、そこからも想像できる。この土地は酪農農家から買収したもののようで、事務所は牧舎らしき建物の隣に建てられていた。道はそのまま山林に入っていって、やがて行き止まりになっているらしい。つまり入り口を塞げばどこからも進入できない仕組みになっている。この牧草地の続く山並みを越えた向こう側に、川上さんの住む村がある。


 幌延町の市街に入ると町役場のすぐ近くに動力炉・核燃料開発事業団のPRセンター「幌延展示室」がある。高レベルの核のゴミをガラス固化体にして地層に埋めて貯蔵(処分)しようというのである。パンフ、ビデオ、模型とあらゆる手段を使ってその安全性が強調されている。それほどまでにしなければならない施設、と言うこともできる。

※(補足)幌延町の「貯蔵工学センター」建設計画と、動力炉・核燃料開発事業団のPRセンター「幌延展示室」のその後について。

2021年現在、動力炉・核燃料開発事業団は国立研究開発法人日本原子力研究開発機構と名称を変えています。同機構の「幌延深地層研究センター」において、「高レベル放射性廃棄物地層処分技術に係る研究開発」が今も続いています。

言い方を変えると、30年経った今も建設計画は実現のめどが立っていないということです。


 幌延から道々を北上すると、豊富町営の大規模草地牧場へと通じている。高台に1400haの牧場があり、3000頭の牛が放牧されている。日本一のスケールというが、あまりに広すぎて牛の姿を探すのも容易でない。レストハウスの脇で馬の親子が短い夏を楽しんでいた。レストハウスで1人前600円也のジンギスカンを食べた。ビールを飲むわけにはいかないので、搾りたてのフレッシュミルクで我慢する。これがまた100円で飲み放題。ジンギスカンもミルクもボリューム満点。周りの自然も大きいし、ついつい調子に乗り過ぎてこのあと腹の加減を悪くした。

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豊富町営大規模草地牧場


 豊富市街からR40を南に下ると名山台展望台。南北30㎞、東西8㎞のサロベツ原野の広さを感じさせてくれる展望台だ。牧草地の彼方に利尻富士利尻島利尻岳1719m)が見える。パンケ沼横の道を抜けると海岸に出る。これが道々909、通称日本海オロロンラインである。北海道にまっすぐな道は無数にある。その中でもオロロンラインは第1級である。原野の中に直線道路が伸び、しかもそのすぐ左手は日本海である。波の向こうに利尻富士の優雅な姿が大きくなっていく。稚咲内までの10kmあまり、人家は全くない。道の向こうは地平線、北海道はデッカイ。

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北緯45°の碑の彼方に利尻富士

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道道909、通称日本海オロロンライン


 サロベツ原生花園の真ん中にレストハウスがあって、周辺を木道を歩いて散策できる。7月の初めにはエゾカンゾウの黄色い花に埋め尽くされるところだ。そのエゾカンゾウの花は終わり、ギボウシの仲間の花が咲いていた。秋が近い。それにしてもここは広い。どちらを見ても端がない。地平線となって消えるところまで原野が続き、北西の彼方に利尻富士が浮かんでいる。


 稚咲内(わかさかない)から抜海(ばっかい)へ向かう途中、綺麗なアヤメの群落を見つけた。道路と海岸の間に広がる牧草地、そしてロールケーキと迫り来る利尻富士、絵になる風景だ。浜勇知(はまゆうち)に殆ど訪れる人もない原生花園があった。海岸の砂浜に出て、子どもたちは白い貝殻を拾った。波に洗われた貝殻は碁石の様なつやと丸みをもっている。寄せ来る波のすぐ向こうが利尻富士である。風が冷たい。


 野寒布岬(のしゃっぷみさき)は断崖ではなく、まったくフラットな海岸線である。拍子抜けの感もあるが、北の果てに来たのだというただそれだけで、妙な感慨に浸ってしまう。夕刻になり最果ての侘しさも倍増、吹く風も相当に強い。振り向けば丘の上に自衛隊のレーダー基地が異様な光景として飛び込んでくる。大韓航空機墜落の時、レーダーを密かに米軍に送っていたのはこの基地だろうか。

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ノシャップ岬


 岬から3kmあまり南に下ると稚内市富士見、利尻富士が見える町というわけだ。
ここに日本最北の温泉が湧き出している。「温泉民宿 北乃宿」という稚内温泉の宿に泊まった。『食いしん坊万歳』にも登場したという奥さんの料理は家庭的な味がして、それを運ぶ老爺の姿が印象的だった。外を吹く風は台風並みに強い。温泉が心地好い。好天に恵まれて良かった。好きなエリアだけに。

 ※(補足)「キャンプ」旅行の趣旨に反して、宿舎泊。「温泉民宿 北乃宿」は今もあって、ネット予約の写真を見ると1991年当時と建物も同じでした。