守山宿から武佐宿までは3里半(15.9km)ある。守山宿から3㌔ほど先の野洲までは前回歩いたので、今回は野洲から先の13㌔ほどを歩く。2025年4月17日。
野洲川の河川敷から三上山がきれいに見える。
三上山は標高432mの低山ではあるが、周りが低地だからひときわ目立ち近江富士と呼ばれる。4年前に登ったことがある。琵琶湖がよく見えた。
朝鮮人街道は、近江八幡~安土~彦根を経て鳥居本で再び中山道と合流する。
野洲から武佐までの区間でたびたび国道8号線を歩いた。つまり、中山道が国道8号線として使われているということだ。
分かったことがある。国道になった区間は旧集落がない。街道としては物騒であった区間だ。集落がないので広い道に改修できたし、土地も安かったはずだ。国道沿いには大きな工場や会社が建っている。街道歩きとしては面白みがないが、ちょっと目線を変えると楽しめる。
善光寺川を過ぎたあたりに、「平家終焉の地」がある。
説明板には次のように記されている。
平家終焉の地
滋賀県野洲市大篠原
平家が滅亡した地は、壇ノ浦ではなく、ここ野洲である。
平家は源氏に追われて都落ちした後、寿永四年(元暦二年・一一八五)三月二十四日壇ノ浦の戦いで敗れた。平家一門はことごとく入水したが、建礼門院、平家最後の総大将の平宗盛、その子清宗らは捕えられた。宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉に下ったが、源頼朝に対面した後、再び京都へ送り返される。
『平家物語』巻第十」「大臣殿被斬」の段によると、京都へ上る途中、ここ篠原の地で、義経は首を持ち帰るため宗盛と清宗を斬った。首は京都へ持ち帰り、胴はこの地に葬られたが、せめてもの情けから父子の胴は一つの穴に埋められた。この地が「宗盛胴塚」とよばれる所以である。
かつては、胴塚の前まで池が広がっており、首を洗ったことから「首洗い池」といわれる。また、父子の無念が通じたのか、この池では蛙が鳴かないと伝えられ「蛙鳴かずの池」と呼ばれている。
野洲には、『平家物語』に登場する白拍子「祇王」が、水不足に苦しむ故郷の村人のために、宗盛の父、清盛に願い出て用水を開いたという伝説がある。その流れは祇王井(祇王井川)と呼ばれ、今も広大な田畑を潤しており、宗盛の最期とともに平家の栄華盛衰の物語を伝えている。
令和三年六月
野洲市観光物産協会
広重は武佐宿の図として横関川の渡しを描いた。
横関川は水量が少ない時は舟橋だった。船二艘を縦に繋ぎ、両舷に杭を打って舟を固定し、舟の上には渡し板を敷いている。
横関川は今は日野川と呼び、渡しのあった近くの国道に横関橋が架かっている。
京側から見た渡し場の跡。
日野川(横関川)が蛇行した先辺りに渡し場があった。
渡しの江戸側に案内板があるが、渡し跡は藪の中。
草津宿~守山宿~武佐宿、2回合わせて約4万歩のたびとなった。