教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

歴史教育の周辺(番外) 「あさま山荘事件」から50年

記憶にも記録にもとどめなければならないことがあります。

 

きょう2022年2月28日は、「あさま山荘事件終結からちょうど50年という節目の日です。

 

あさま山荘事件」とは

連合赤軍のメンバー5人が(1972年)2月19日、軽井沢のあさま山荘に押し入り、管理人の妻を人質にとって立てこもった。28日朝から始まった警察の制圧作戦に、犯人側もライフルや拳銃で応戦し、機動隊員2人が殉職した。結局、午後6時過ぎ、機動隊が山荘に突入して犯人全員を逮捕し、人質を救出した。この事件の捜査の中で、連合赤軍は別の山岳アジトで仲間に対するリンチ事件をおこし、多くの人命を奪ったことが明らかになった。 (NHK放送史)

 

1972年2月28日。

この28日の様子は、NHKと民放各局が生中継を行いました。午前9時40分から午後8時20分まで続いたNHKの報道特別番組は、平均視聴率が50%を超えたということです。

そのころ私は高校1年でした。

この日は月曜日で、学校から帰った私は、クレーンに吊された振り子の鉄球が建物を壊す映像に釘付けになったことを鮮明に覚えています。

 

この事件については昭和の映像史などで繰り返し取り上げられていますし、映画にもなりましたから、若い世代の方でもいくらかご存じでしょう。

 

「1971年12月 連合赤軍リンチ事件」

事件そのものも衝撃的でしたが、思春期の私は、それとは別の事件に強い衝撃を受けたのでした。

上のニュース記事に、「この事件の捜査の中で、連合赤軍は別の山岳アジトで仲間に対するリンチ事件をおこし、多くの人命を奪ったことが明らかになった。」とあります。

連合赤軍のメンバーは当局の追及から逃れるために群馬県の山中に入ります。その結末が「あさま山荘事件」に至るのですが、その前段の1971年12月から翌年1月、12人の同志を「総括」と称してリンチ殺人していたのでした。

その12人目の犠牲者となった女性のおなかに幼い命が宿っていたというのです。詳しい事情は分かりませんでしたが、私には大きすぎるショックでした。

 

1973年3月と9月に、私は4篇の詩を残しています。

死の4部作

・最後の訪問者

・死の淵より

・午前零時発最果て行き

・土中の営み

詩作の背景には、リンチ事件があります。事件報道から1年が経過していましたが、心の奥底に沈殿する何かがあったのだと思います。

 

リンチ事件の真相

あさま山荘事件」から50年との報道に接し、半世紀の時を経て「リンチ事件」と向き合うことにしました。

妊娠中であった女性の名は、金子みちよさん(享年24)。

子どもの父親は吉野雅邦(「あさま山荘事件」で逮捕され、1983年に無期懲役が確定)。

吉野雅邦は、金子みちよさんリンチ殺人の当事者でした。

 

「FLASH」掲載の深笛義也さんの記事、「23歳で妻をリンチ死『連合赤軍』元幹部・吉野雅邦の慟哭を聞け!【獄中で綴った300ページの手記を独占初公開】」の一部を引きます。

■【総括】目の前で焔の中に投げ込まれるのを、見つめているしかありませんでした 
 7月13日には早岐が逃亡し、その後ベースは神奈川県の丹沢に移動した。
 急拵(きゅうごしら)えのビニール小屋。6人がシュラフにくるまり、吉野と金子は隣り合っていた。
《横になってしばらくして、みちよが顔を寄せてきたので、私はそれに応じて接吻を交わしました。彼女はすぐに私の胸元へと唇を滑らせます。そこが私のウィークポイントと知
 ちょうどそのとき、吉野は戸口から寺岡恒一に呼び出された。慌てて身づくろいをした吉野に、寺岡は早岐と向山を殺害する、と告げた。
《「殺(や)る?……殺す?……なぜ……」と、懸命にそれを咀嚼(そしゃく)しようと試みます》
 吉野は結局、実行メンバーに加わった。8月3日に早岐が、10日に向山が殺害され、2人は千葉県の印旛(いんば)沼付近の山林に埋められた。
 12月、連合赤軍が結成されてからは、総括リンチによる死が続いた。お腹に子どもがいることに甘えて、自らを総括しようとしていない、という理由で金子は殴られた末に縛られた。
 吉野はうわごとを言う金子を、「うるさい、黙ってろ」と一喝した。金子は「私は山に来るべき人間ではなかった」という言葉を残して、1972年2月4日、死に至った。享年24。早岐から数えて13人めの死者だった。
 死の3日後、金子の衣服が焼却された。吉野との初めてのデートのときに着ていた、レモンイエローのワンピースもその中にあった。
《目の前で焔の中に投げ込まれるのを、ただじっと見つめているしかありませんでした。その時に初めて、彼女がそれを山の中にまで持ち運んできていたことを知ったのでした》
 金子の遺体を埋めるとき、吉野は脚を持った。吉野は手を離すことができず、遺体を頭から落としてしまった。そのとき、お腹の中で8カ月まで育っていた、娘の悲鳴が聞こえた気がしたという。

 

事実を知ることは、ショックを増幅させることになってしまいました。

 

私は彼らの年齢とそれほど離れてはいませんが、彼らの思想も行動も理解することはできません。価値観の相違だと言われればそれまでですが、一つの命を守れない者に「世界」を語る資格などないと私は思います。

 

「総括」の名の下に母体とともに葬られた胎児の無念を、私は記憶し記録に残したいと思います。それもまた、歴史に学ぶことだと思いますから。