教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 3月28日

シルクロードの日

 

1900(明治33)年3月28日、スウェーデンの地理学者・中央アジア探検家のスヴェン・ヘディンによって、廃虚になっていたシルクロードの古代都市・楼蘭(ろうらん)が発見されました。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

1900年(明治33年)のこの日、スウェーデンの地理学者・中央アジア探検家のスヴェン・ヘディンによって、廃虚になっていたシルクロードの古代都市・楼蘭(ろうらん)が発見された。

都市国家楼蘭は、中央アジアタリム盆地タクラマカン砂漠北東部に、かつて存在した塩湖で「さまよえる湖」として知られるロプノールの西岸に位置した。シルクロードの要衝として栄えたが、4世紀頃からロプノールが干上がるのとほぼ時を同じくして国力も衰え、やがて砂漠に呑み込まれた。

シルクロード」(絹の道)とは、古代の中国と西洋を結んだ歴史的な交易路を指す呼称である。絹が中国側の最も重要な交易品であり、この道を通って西方に運ばれたことから名付けられた。

ヘディンが、自らの中央アジア旅行記の書名の一つとしてシルクロードの名称を用い、これが1938年(昭和13年)に『The Silk Road』の題名で英訳されたことで、その名前が広く知られるようになった。

ユーラシア大陸の東西交流史において重要な役割を果たしたシルクロードは、その一部が2014年(平成26年)に初めて「シルクロード長安-天山回廊の交易路網」としてユネスコ世界遺産に登録された。

 

Wikipedia」の「シルクロード」より一部を編集して紹介します。

シルクロード(絹の道、英語: Silk Road, ドイツ語: Seidenstraße, 繁体字:絲綢之路, 簡体字:丝绸之路)は、紀元前2世紀から15世紀半ばまで活躍したユーラシア大陸の交易路網である。全長6,400キロメートル以上、東西の経済・文化・政治・宗教の交流に中心的な役割を果たした。19世紀後半に作られた「シルクロード」という名称は、一部の現代史家の間で使われなくなり、東アジア、東南アジア、インド亜大陸中央アジア、中東、東アフリカ、ヨーロッパを結ぶ複雑な陸路・海路をより正確に表す「シルクルート」という名称が使われるようになった。

シルクロードの主要なルート(1世紀ごろ)

青い線が海の道

 

シルクロード」という名称は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China(支那)』(1巻、1877年)においてザイデンシュトラーセン(ドイツ語:Seidenstraßen;「絹の道」の複数形)として使用したのが最初であるが、リヒトホーフェンは古来中国で「西域」と呼ばれていた東トルキスタンを東西に横断する交易路、いわゆる「オアシスの道(オアシスロード)」を経由するルートを指してシルクロードと呼んだのである。リヒトホーフェンの弟子で、1900年に楼蘭の遺跡を発見したスウェーデンの地理学者ヘディンが、自らの中央アジア旅行記の書名の一つとして用い、これが1938年に『The Silk Road』の題名で英訳されて広く知られるようになった。

 

オアシスの道
東トルキスタンを横切って東西を結ぶ隊商路は「オアシスの道」と呼ばれる。このルートをリヒトホーフェンが「シルクロード」と名づけた。長安を発って、今日の蘭州市のあたりで黄河を渡り、河西回廊を経て敦煌に至る。

ここから先の主要なルートは次の3本である。西トルキスタン以西は多数のルートに分岐している。このルート上に住んでいたソグド人が、唐の時代のおよそ7世紀~10世紀頃シルクロード交易を支配していたといわれている。

オアシスの道
(ロプノールが干上がると、楼蘭を経由する水色のルートは通行が困難になった。)

(引用者注:水色線漢代絲綢之路」の真ん中の赤点が「楼蘭」です。)