教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 7月2日

ユネスコ加盟記念日

 

1951(昭和26)年7月2日、日本が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に加盟しました。

 

ユネスコの概要について、文部科学省のHPより紹介します。

ユネスコとは
ユネスコ国際連合教育科学文化機関、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization U.N.E.S.C.O.)は、諸国民の教育、科学、文化の協力と交流を通じて、国際平和と人類の福祉の促進を目的とした国際連合の専門機関です。

ユネスコ憲章前文より) 【目的及び任務…憲章第1条参照】

創設等
憲章採択   昭和20年(1945年)11月16日
創設 昭和21年(1946年)11月4日
日本加盟 昭和26年(1951年)7月2日

本部
フランス共和国・パリ市 
 本部本館住所   7, Place de Fontenoy, 75352 Paris 07 SP, FRANCE
 ウェブサイト   UNESCO(※ユネスコ本部ホームページへリンク)

地域事務所
   世界53か所【令和3年(2021年)6月現在)】

地域レベルの活動を管轄する地域事務所(クラスターオフィス:Cluster Office)
事業活動の円滑な実施のために特定の国に置かれる地域事務所(ナショナルオフィス:National Office)【原則として時限的に設置】
特定の分野について地域及び地域事務所等への助言等を行う地域事務局(リージョナルビュロー:Regional Bureau)
 国連及び他の国連関係機関との連絡調整等のために置かれる連絡事務所(リエゾンオフィス:Liaison Office)(ニューヨーク、ジュネーヴアディスアベバブリュッセル
 

加盟国数(Member States)
193か国【令和3年(2021年)6月現在】
 (その他、連携メンバー(Associate Member)として11地域)

事務局長(Director General)
オドレー・アズレー氏(Ms. AUDREY AZOULAY)
 (事務局長の任期は4年、1期に限り再選可。)

財政(2020~2021年度:2か年予算)
通常予算 1,329百万ドル(約1,462億円)
 (うち我が国の分担率 11,052%)

 

国際連合教育科学文化機関憲章(ユネスコ憲章)/The Constitution of UNESCO
前文

この憲章の当事国政府は、その国民に代って次のとおり宣言する。

戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。

相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。

ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代りに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。

文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。

政府の政治的及び経済的取極のみに基く平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。

これらの理由によって、この憲章の当事国は、すべての人に教育の充分で平等な機会が与えられ、客観的真理が拘束を受けずに探究され、且つ、思想と知識が自由に交換されるべきことを信じて、その国民の間における伝達の方法を発展させ及び増加させること並びに相互に理解し及び相互の生活を一層真実に一層完全に知るためにこの伝達の方法を用いることに一致し及び決意している。

その結果、当事国は、世界の諸人民の教育、科学及び文化上の関係を通じて、国際連合の設立の目的であり、且つその憲章が宣言している国際平和と人類の共通の福祉という目的を促進するために、ここに国際連合教育科学文化機関を創設する。

第1条 目的及び任務

1 この機関の目的は、国際連合憲章が世界の諸人民に対して人種、性、言語又は宗教の差別なく確認している正義、法の支配、人権及び基本的自由に対する普遍的な尊重を助長するために教育、科学及び文化を通じて諸国民の間の協力を促進することによつて、平和及び安全に貢献することである。

2 この目的を実現するために、この機関は次のことを行う。
(a) 大衆通報(マス・コミュニケーション)のあらゆる方法を通じて諸国民が相互に知り且つ理解することを促進する仕事に協力すること並びにこの目的で言語及び表象による思想の自由な交流を促進するために必要な国際協定を勧告すること。
(b) 次のようにして一般の教育と、文化の普及とに新しい刺激を与えること。
 加盟国の要請によつて教育事業の発展のためにその国と協力すること。
 人種、性又は経済的若しくは社会的な差別にかかわらない教育の機会均等の理想を進めるために、諸国民の間における協力の関係をつくること。
自由の責任に対して世界の児童を準備させるのに最も適した教育方法を示唆すること。
(c) 次のようにして知識を維持し、増進し、且つ、普及すること。
 世界の遺産である図書、芸術作品並びに歴史及び科学の記念物の保存及び保護を確保し、且つ、関係諸国民に対して必要な国際条約を勧告すること。
 教育、科学及び文化の分野で活動している人々の国際的交換並びに出版物、芸術的及び科学的に意義のある者その他の参考資料の交換を含む知的活動のすべての部門における諸国民の間の協力を奨励すること。
 いずれの国で作成された印刷物及び刊行物でもすべての国の人民が利用できるようにする国際協力の方法を発案すること。 

3 この機関の加盟国の文化及び教育制度の独立、統一性及び実りの多い多様性を維持するために、この機関は、加盟国の国内管轄権に本質的に属する事項に干渉することを禁止される。 

 

日本のユネスコ加盟に関して、「ユネスコ 未来共創プラットホーム」に掲載されている「ユネスコ加盟70年の歴史をたどる」(2021年11月)を紹介します。

ユネスコ加盟70年の歴史をたどる

執筆者
町田大輔
文部科学戦略官

1986年(昭和61年)、文部省(現文部科学省)に入省。文部科学省文化庁内の各部局のほか、他省庁、地方、独立行政法人、大学、研究所で様々な業務に携わったが、科学と国際分野の経験が比較的長い。1996~2002年、旧文部省国際学術課課長補佐、在仏日本大使館ユネスコ代表部)一等書記官、文化庁国際文化交流室長としてユネスコに関わった。2021年4月から現職。

 

ユネスコ加盟70年の歴史をたどる 第1回 プロローグ
2021年11月1日
ユネスコ加盟70年の歴史をたどる」
今年は、日本のユネスコ加盟70周年に当たります。これから不定期に(目標は一月に2回)、70年の歴史の中で記憶されるべき出来事を交えながら、ユネスコと日本の関わりについて御紹介したいと思います。

私は、1998年(平成10年)3月から2001年(平成13年)1月にかけて、日本政府のユネスコ常駐代表部(当時は組織上は在仏大使館の一部署)で書記官として働いており、それから20年ぶりにまたユネスコの仕事に関わることになりました。この20年で変わったところもあれば、変わっていないところもあるように思います。ユネスコ創設および日本の加盟以来の様々な出来事を追っていくことで、ユネスコの本質が見えてくるのではないかというのがこの寄稿の狙いです。私とユネスコとの関わりは公のものですが、ここでの記述には私の個人的な感想が含まれており、政府の見解ではないことを最初に申し上げておきます。

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ユネスコは、日本が先の大戦で敗戦した後に初めて加盟した国際機関であり、当時青年だった世代の方々にはなじみが深い機関だと思われます。私がこう思うのは、プリンストン大学留学経験者による行天豊雄先生(旧大蔵省を退官後、プリンストン大学でしばらく教えていた)を囲む会に若い頃参加し、「今文部省の国際学術課という部署で働いています」と申し上げたところ、「ユネスコとかに関わっているの?」と聞かれ、この世代の人にはユネスコはそんなになじみ深いものだったのかと驚いたことがあったからです。

かくいう私も、小学生の時には、埼玉県所沢市にある西武園の西端にあった「ユネスコ村」に遠足に行った記憶があります。学校行事として行ったものなので、小学校教育の中でもユネスコが取り扱われていたことになります。ユネスコ村には、当時のユネスコ加盟国60か国のモデルハウスが建っていたのですが、なにぶん子供の頃のことなので、それ以上の記憶はありません。今のGoogle Mapを見ると、「ユネスコ村駅跡」と書いてあるだけです。

一方、私が旧文部省で初めてユネスコと関わった頃の日本の若い人たちの間では、ユネスコはほとんど知られていなかったと思います。「名前は聞いたことがある」という程度で、たいていはユニセフと混同していました。ユニセフは募金活動を熱心にやっていましたし、年末になるとユニセフのGreeting Cardを買う人がたくさんいて、よく知られていました。

今では「世界遺産」を通じて多くの日本人がユネスコの名を知っています。私たちにもなじみのある文化遺産・自然遺産が「世界遺産」リストに多く登録されているからです。しかしユネスコの事業はほかにもたくさんあります。日本が世界遺産条約に加盟(批准)したのは、1992年(平成4年)です。ユネスコに加盟した1951年(昭和26年)からの40年間にも様々な形で日本は関わっています。これは私自身も経験していない時代のことなので、古い本や資料を読んで知ったことですが、次回は日本がユネスコに加盟する前の出来事を追ってみたいと思います。

 

ユネスコ加盟70年の歴史をたどる 第2回:ユネスコの設立と日本の加盟(上)
2021年11月26日
ユネスコ加盟70年の歴史をたどる」
ユネスコの前身は、第一次世界大戦後に設立された国際連盟が諮問機関として設置した「国際知的協力委員会(International Committee on Intellectual Cooperation)」であると言われていますが、直接の設立のきっかけとなったのは、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの侵攻によりロンドンに亡命政府を置いていたヨーロッパ各国の教育大臣にイギリス政府が参加を呼び掛けて1942年11月に開催された連合国教育大臣会議(Conference of Allied Ministers of Education; CAME)です。ヨーロッパの教育・文化の復興を目指し、各種委員会を設置して活発に議論を続けましたが、翌年からアメリカ、ソ連、中国、インド、豪州、ニュージーランド、カナダ、南アフリカが参加するようになりました。そして、アメリカが常設組織化を求めたことから、常設組織の設立に関する協議が進められました。

国際連盟に代わる戦後の新しい国際機関についての構想がアメリカを中心として検討され、1944年8月~10月のダンバートンオークス会議による一般的国際機関の設立に関する提案、1945年4月~6月のサンフランシスコ会議での国際連合憲章の採択を経て、1945年10月に国際連合が発足しました。一方、連合国教育大臣会議での協議を踏まえ、1945年11月に国連の専門機関設立のための会議がロンドンで開催され、ユネスコの憲章が採択され、翌1946年11月に国連と連携関係を持った専門機関(国連憲章第57条、第63条、ユネスコ憲章第10条)としてのユネスコの第1回総会がパリで開催されました。

ユネスコ憲章では、前文の冒頭の「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という一節が特に有名で、確かにそのとおりだと思います(ソ連や東欧諸国は唯物論の立場からこれに異議を唱えたそうです)。その次の「相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。」というのは、人間(あるいは国家)の欲望から目をそらした一面的な見方のように私には思われますが、お互いの文化を理解することは重要なことですし、人的な交流を広げ、国民レベルで友好を深めることは戦争の抑止につながると思います。

敗戦後に平和国家として再起を目指していた日本にとって、ユネスコの理念は国民の心に大きく響き、早くも1947年(昭和22年)7月に仙台で、9月に京都でユネスコ協力会が発足しました。民間ユネスコ運動は急速に全国に広がり、同年11月には第1回ユネスコ運動全国大会が東京で開催され、翌1948年(昭和23年)5月には日本ユネスコ協力会連盟が設立(1951年の社団法人化の際に「日本ユネスコ協会連盟」と改称)されています。

後にユネスコ活動に関する法律案が国会で審議された時に、参考人として呼ばれた勝本清一郎氏(当時の日本ユネスコ協会連盟理事長)は、平和運動には精神主義的なものと実力主義的なものがあり、ユネスコは前者、国連本体(安保理)は後者、両方が必要だという趣旨のことを述べています。敗戦後に戦争と軍隊を放棄した日本にとっては精神主義的な平和運動を担うユネスコこそが自分たちの向かう場所だと思われたのでしょう。

政府内でも1948年(昭和23年)4月に教育刷新委員会が、国民のユネスコへの関心と理解を深めるための啓蒙運動を行うため、また教育・科学・文化関係団体をユネスコ事業に参加させるため、これらの団体の代表者を主体とし政府代表者と個人を加えた「中央協力機構」を設立することを内閣総理大臣に建議しています。国会でもユネスコへの関心が次第に高まっていき、1949年(昭和24年)11月に衆参両院の議員有志による国会ユネスコ議員連盟が結成され、11月から12月にかけて、それぞれの院でユネスコによる駐日代表部の設置(同年4月)に感謝しつつ、我が国のユネスコへの正式参加を要望する決議を行っています。

しかし、日本が連合国と平和条約を調印するのは1951年9月(発効は翌年9月)のことであり、ユネスコに加盟するのは容易なことではありませんでした。その経緯は少し長くなりますので、次回御紹介したいと思います。

 

ユネスコ加盟70年の歴史をたどる 第3回:ユネスコの設立と日本の加盟(下)
2021年12月3日
ユネスコ加盟70年の歴史をたどる」
ユネスコ憲章第2条によれば、国際連合の加盟国はユネスコに加盟する権利を持っています(第1項)が、国際連合の加盟国でない国は、国連経済社会理事会での過半数の賛成、執行委員会の勧告、総会の3分の2の賛成を経て初めてユネスコに加盟することができます(第2項)。当時まだ連合軍の占領下にあった日本は、GHQの許可を得なければ加盟を申請することもできませんでした。もっともアメリカは日本のユネスコ加盟を支持していたので、GHQの許可は割とすんなりと得られたようで、日本は1950年(昭和25年)12月に加盟申請を行うことができました。国連経済社会理事会では、日本のユネスコ加盟についてソ連・東欧諸国が反対、イギリスも当初、日本の講和前の加盟には反対しており、国連経済社会理事会での投票(1951年3月)では棄権しましたが、ユネスコ総会での投票(同年6月)では賛成票を投じました(この時点でソ連・東欧諸国はユネスコ未加盟)。これについては、イギリスが独立国でない植民地をユネスコの準加盟国とすることができるよう提案していたこととの整合性が説明できなかったからという解釈もあります。

結果的にはパリで開催された第6回ユネスコ総会(1951年6月~7月)において、フィリピンの反対を除けば全ての加盟国が日本の加盟に賛成し、我が国は連合軍占領下においてユネスコへの加盟を果たすことができました。しかし、そこに至るまでには、様々な準備が行なわれていました。第2回ユネスコ総会(1947年11月~12月、メキシコ・メキシコシティ)で、インドおよび南アフリカの代表から日本の加盟を希望する発言があったことを受けて、ユネスコはアジア極東方面特別顧問の郭有守氏を日本に派遣し、GHQの関係者や森戸文部大臣との会談、国会や東京都内の教育機関の視察などを基に、日本のユネスコに対する熱意を確認しました。

第3回ユネスコ総会(1948年11月~12月、レバノンベイルート)にはGHQからもオブザーバー参加して日本の現状が紹介され、その結果、ユネスコに関する情報を日本の関係者に周知させることやユネスコの事業計画の実施上望ましいと認められる場合にはユネスコの専門家会議に日本人の専門家を出席させることなどの内容からなる決議が採択されたほか、ユネスコの駐日代表部を設置することが決定されました。また、第4回ユネスコ総会(1949年9月~10月、パリ)では「日本に対する事業計画」が採択され、これには日本人にユネスコ奨学金受給資格や補助金を与えることも含まれていました。

第3回から第5回ユネスコ総会(1950年5月~6月、イタリア・フィレンツェ)を通じてGHQのWilliam K. Bunce民間情報教育局宗教文化資源課長がオブザーバーとして出席しましたが、第5回総会で初めて日本人が3名オブザーバーないしアドバイザーとして出席しました。ここではユネスコの所掌分野において日本を対象とした事業を行うことが決議されました。数年をかけて日本の熱意が加盟国に伝わっていき、ユネスコの事業に日本も組み入れられていき、ついに第6回ユネスコ総会会期中の1951年6月21日に、ほぼ満場一致で日本の加盟が実現しました。その際に日本代表団の前田多門首席代表(敗戦直後の時期の文部大臣)が行なった感謝演説は、我が国にとっては国際社会に復帰する第一歩となった歴史的な演説として記録されています。ユネスコおよびその加盟国への感謝、ユネスコ精神が日本の再建の指導原理となるべきこと、ユネスコが掲げる理想の実現に向けて日本国民も役割を果たす責任を感じており、憲章が求める義務を果たしユネスコの活動への協力する決意でいること、新渡戸稲造の功績に言及しつつ、日本は西洋と東洋の文化の統合に関心を持っていることが述べられています。第6回ユネスコ総会の議事録に英語の原文が残っていますが、残念ながらウェブ上では見ることができません。

ユネスコ加盟国になると、ユネスコ憲章第7条により、国内委員会を設立する必要が生じます。次回はユネスコ国内委員会の設置およびその初期の活動について触れたいと思います。