教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

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きょうは何の日 3月24日

桜田門外の変

 

安政7年3月3日(新暦1860年3月24日)、江戸幕府大老井伊直弼が、江戸城桜田門の前で攘夷過激派の浪士に襲撃されました(桜田門外の変)。

安政五戊午年三月三日於イテ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図」大判六枚続 月岡芳年画 明治初期

 

国史大辞典」より引用します。

桜田門外の変
さくらだもんがいのへん

万延元年(一八六〇)三月三日水戸・薩摩の十八士が江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺した事件。直弼は安政五年(一八五八)六月勅許を得ずに日米修好通商条約の調印を断行し、違勅問責のために押懸登城した水戸老侯徳川斉昭らの三家の諸侯を処罰したばかりでなく、将軍継嗣問題でも朝廷の期待する一橋慶喜を斥け、紀伊藩主徳川慶福(のち家茂)を継嗣に決定した。孝明天皇は幕府の条約調印に激怒して三家・大老の上京を命じたが、直弼は朝命を拒んで老中間部詮勝の上京を奏聞したので、同年八月ついに水戸藩への密勅の降下となった。直弼は勅諚の列藩への回達を禁ずるとともに、反対派の一掃に乗り出し、上京した詮勝を指揮して安政の大獄を起した。このような直弼の専断に対して、直弼を除いて時局を安定させようとする志士も少なくなかった。薩摩藩有志の中には亡き島津斉彬勤王の遺志を継承し、水戸・長州・越前などの諸藩と提携して除奸運動を企てた。同年九月在京中の西郷吉兵衛(隆盛)は詮勝の入京を目前にして、東西呼応して義兵を挙げ、詮勝を撃退し彦根城を攻略することを江戸の同志に説き、同藩の有馬新七は諸藩の有志と挙兵除奸の計画を進め、しばしば江戸・京都間を潜行したが、目的を達することができなかった。水戸藩では同年十月高橋多一郎・金子孫二郎が奉勅義挙の義盟を西南諸藩に求めることを計画し、住谷寅之介・大胡聿蔵・矢野長九郎・関鉄之介が諸藩を遊説して、翌六年正月から二月にかけて帰藩した。この遊説で水薩両藩の志士の提携が緊密化し、三月高崎猪太郎(五六)が水戸に潜行して高橋らに挙兵すべきことを説いたが、この時は水戸藩の自重論によって具体化しなかった。しかるに同年八月安政の大獄によって斉昭父子が処罰されたので、高橋・関らは薩藩の志士と結託して挙兵しようとした。時に薩藩では西郷の大島流謫後、大久保正助(利通)らが挙兵のために脱藩を計画していたが、十一月に藩主島津茂久が諭書を下して軽挙を戒めたので、志士の脱藩計画は挫折した。水戸藩では十二月に勅諚返納の幕命が下ったので、反幕感情は激化し、除奸計画は直弼要撃の計画へと進展した。翌万延元年正月高橋・金子の領袖は薩藩有志と交渉のために木村権之衛門を出府させた。高崎・堀仲左衛門(伊地知貞馨)はすでに帰藩したので、木村は有村雄助・次左衛門兄弟らに水藩有志の計画を告げて賛成を得た。それは水藩有志五十人を二手に分け、一手は直弼要撃にあたり、一手は横浜の外人商館焼打ちにあたり、薩藩有志は京都を守衛し、東西呼応して一挙に幕府の改造を断行しようとするものであった。薩藩の山口三斎・田中直之進(謙助)はこれを同志に告げるため帰藩した。ここに水薩両藩の盟約がほぼ内定したので、高橋・金子らは決行期日、京都の守衛、直弼首級の海路西送、同志出府の待合場所、同志間の合言葉、同志の潜伏所など二十数箇条の密約箇条を定め、木村はこれを有村と交渉するため、佐野竹之介・黒沢忠三郎を伴って同月再び出府した。時に水戸藩庁の探索が厳しく逮捕の手が延びたので、二月高橋・金子・関らが相ついで脱藩、高橋は薩藩兵の東上を待つため、子息の荘左衛門らと中山道を西上し、他は江戸に潜居して同志の到着を待った。金子らの出府が遅れたため、決行期日は二月十日が二十日前後となり、それも延期された。三月一日金子は木村・関・斎藤監物・稲田重蔵・佐藤鉄三郎および有村雄助日本橋西河岸の山崎屋に会し、直弼要撃の期日を三日の上巳の節句とし、部署・方策を決定した。ついで二日同志は品川の妓楼相模屋に訣別の宴を開き、前日の金子を除く水戸藩五士に野村彝之介と要撃に参加する佐野・黒沢ら十三士、合わせて十九士が会し、総帥の金子と当日の先発隊の一士および有村兄弟は欠席した。三日早朝関・斎藤・佐野・黒沢・稲田・岡部三十郎・大関和七郎・蓮田市五郎・森五六郎・山口辰之介・広岡子之次郎・森山繁之介・杉山弥一郎・鯉淵要人・広木松之介・海後磋磯之介・増子金八の十七士と有村次左衛門は雪を冒して愛宕山に集合、桜田門外に赴いた。この日十七士は士籍・神職などの分による除籍願書を藩庁に提出した。十八士は登城する直弼の行列の供先を襲って混乱させ、短銃の音を合図に両側から一斉に駕籠に斬りかかり、有村が直弼の首級を挙げた。この要撃で稲田が闘死、山口・鯉淵・広岡・有村が重傷のため自刃、斎藤・佐野・黒沢・蓮田は老中脇坂安宅邸に、森・大関・森山・杉山は熊本細川斉護邸に自訴したが、佐野・斎藤・黒沢は傷のために死んだ。彦根藩側では即死、深手のため死んだもの八士を出した。関・岡部・広木・海後・増子と現場にいた野村・木村は逃れて行方を晦ました。金子は品川鮫洲の川崎屋で現場から駆けつけた佐藤から吉報を得て、ともに上国に向かったが、有村雄助を伴っていたため、同月九日伊勢四日市で薩藩捕吏に追捕され、伏見奉行に引き渡された後、江戸に檻送された。先に上国に向かった高橋父子は、待望の薩藩兵の東上もないまま、同月二十三日大坂四天王寺で捕吏に囲まれて自刃した。この日雄助は藩地で自刃を命ぜられた。幕府は文久元年(一八六一)二月江戸吉原で岡部を捕え、七月二十六日桜田事変の獄を断じ、金子・大関・蓮田・森山・杉山・森・岡部を死罪に、佐藤を中追放に処した。関は同年十月越後雲母温泉で水戸藩捕吏に捕えられ、江戸檻送後、翌二年五月十一日、死罪に処せられた。桜田事変三周年の同年三月三日、広木は相模鎌倉の上行寺で自刃した。要撃に参加した浪士で命を全うしたのは、海後と増子のみであった。義挙の目的は浪士が懐中した「斬奸趣意書」に「公辺之御政事正道に御復し、尊王攘夷正誼明道、天下万民をして富岳の安に処せしめ給はん事を希ふのみ」とあるので明らかで、また「公辺へ御敵対申上候儀には毛頭これ無く」とは三家家臣としての当然の発想であるが、大老の死は幕威を失墜させ、幕府衰亡の転機となり、また坂下門外の変を誘発する一因ともなった。
[参考文献]
水戸藩史料』上坤、『水戸市史』中四、『彦根市史』中、『鹿児島県史』三、岩崎重英『(維新前史)桜田義挙録』、関鉄之介『西海転蓬日録』(『野史台維新史料叢書』九)、同『丁難日録』(同)、同『南遊遣悶集並日録』(同八)、同『庚申転蓬日録』(同)、同『万延転蓬日録』(同)、同『文久転蓬日録』(同)、『大久保利通日記』一(『日本史籍協会叢書』)、吉田常吉桜田事変とその波紋」(『茨城県史料研究』九)
(吉田 常吉