清少納言と紫式部は共通点が多いのですが、どう考えても水戸黄門は異色です。
そんな3人の共通点とは……?
『枕草子』で知られる清少納言は、平安時代中期の966年頃に生まれました。
清原元輔の娘で、本名を清原諾子(きよはら の なぎこ)とする説があります。これについては定かではありませんが、「清原」某さんであったことは確かです。
それでは、今に伝わる「清少納言」という名前は何でしょう。
「清少納言」というのは、「女房名(にょうぼうな)」です。
「女房名」とは、なんぞや。「Wikipedia」より引きます。
女房(にょうぼう)
女房(にょうぼう)とは、平安時代から江戸時代頃までの貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女官もしくは女性使用人。女房の名称は、仕える宮廷や貴族の邸宅で彼女らにあてがわれた専用の部屋に由来する。
女房名(にょうぼうな)
女房名(にょうぼうな)は、主に平安時代から鎌倉時代にかけて、貴人に出仕する女房が仕える主人や同輩への便宜のために名乗った通称、またその形式。
当時は女子の諱を公にすることは忌避されていた。宮中での歌合の記録などにも女性の実名が記されることはなく、系図の上にすら実名を垣間見ることは稀だった。そのため、和歌や文学の世界における活躍が広く知られた女房でも、その実名は判明していないという例がほとんどである。
女房名は、父・兄弟・夫など、本人の帰属する家を代表する者の官職名を用いることが多い。
清原元輔の娘(「諾子」?)は、女房として使え、その際に「清少納言」と名乗っていたということです。
「清少納言」の「清」は、「清原」という姓に由来するとされています。「少納言」は、官職名です。
したがって、「清少納言」は「せい・しょうなごん」と読みます。(一般には「せいしょう・なごん」と読まれることが多いですが…)
「女房名は、父・兄弟・夫など、本人の帰属する家を代表する者の官職名を用いることが多い」のですが、「清少納言」の由来は不明です。いくつかある推察を「Wikipedia」より引きます。
女房名に「少納言」とあるからには必ずや父親か夫が少納言職にあったはずであり、同時代の人物を検証した結果、元輔とも親交があった藤原元輔の息子信義と一時期婚姻関係にあったと推定する角田文衞説。
藤原定家の娘因子が先祖長家にちなみ「民部卿」の女房名を後鳥羽院より賜ったという後世の事例を根拠に、少納言であり能吏として知られた先祖有雄を顕彰するために少納言を名乗ったとする説。
花山院の乳母として名の見える少納言乳母を則光の母右近尼の別名であるとし、義母の名にちなんで名乗ったとする説。
岸上慎二は、例外的に親族の官職によらず定子によって名づけられた可能性を指摘している。後世の書ではあるが「女房官品」に「侍従、小弁、少納言などは下臈ながら中臈かけたる名なり」とあり、清原氏の当時としては高からぬ地位が反映されているとしている。
『源氏物語』で知られる紫式部は、平安時代中期の970年代に生まれました。
藤原為時の娘で、本名を「藤原香子」(かおりこ / たかこ / こうし)とする説があります。これについては定かではありませんが、「藤原」某さんであったことは確かです。
それでは、今に伝わる「紫式部」という名前は何でしょう。
「清少納言」の場合、「清」が清原氏の出自であることを示し、「少納言」が「本人の帰属する家を代表する者の官職名」でした。
その例に従えば、「紫式部」の「紫」が姓を示し、「式部」が官職名ということになります。
ところが、「紫式部」の姓は「藤原」です。実際、当初は「藤式部(とうしきぶ)」と呼ばれていたようです。それが、『源氏物語』が有名になると、登場人物の「紫の上」にちなんで「紫」を冠すようになった推測されています。
「式部」の由来にも2説あります。
父為時の官位(式部省の官僚・式部大丞だったこと)に由来するとする説と、同母兄弟の惟規の官位によるとする説です。
惟規の官位は、1004年に少内記、その後兵部丞、六位蔵人、式部丞を経て1011年に従五位下に叙爵されています。
「水戸黄門」という名前は後世の創作における別称で、本名は「徳川光圀」。
『水戸黄門漫遊記』は、徳川光圀が隠居して日本各地を漫遊して行なった世直し(勧善懲悪)を描いた創作物語です。実在の徳川光圀は江戸と国元の往復や領内巡検をしている程度で、諸国を漫遊したという記録は一切ありません。
身分制社会では、諱(いみな)は本人・直系尊属・本人が仕える君主のみが、プライベートないし畏まった特別の場面でのみ呼称できるものでした。呼称者と被呼称者の格差が大きい場合には姓すらも直言をタブー視したりする風習が厳然と存在していました。このため、水戸黄門の名は、光圀が徳川御三家の一統である水戸藩藩主「徳川光圀」と直言することを避けるために広く用いられてきた別称です。
「水戸黄門」の「水戸」は、光圀の領地である常陸国水戸藩を指します。
では、「黄門」は何を指すのでしょう。
「黄門」は唐の官名で、「黄門侍郎(こうもんじろう)」(または「給事黄門侍郎」)の略称です。黄門侍郎は、中国皇帝に近侍して勅命を伝える職務です。
日本の官職で、「黄門侍郎」と職掌が似ているのが「中納言」職です。
徳川光圀は「権中納言」です。(ちなみに、徳川御三家のうち、尾張徳川家と紀州徳川家は「大納言」で、水戸徳川家は「中納言」でした)
日本の律令制下の官職名・部署名を同様の職掌を持つ中国の官称にあてはめたものを、「唐名」といいます。「中納言」の唐名が「黄門侍郎」、略して「黄門」です。
というわけで、冒頭のクイズに戻ります。
いずれも呼び名に官職名を含んでいます。
歴史は今も生きています。
役所名や官職名の名残が、人名として今に繋がっている例がいくつもあります。
「隼人」(はやと)
「主水」(もんど)
「主計」(かずえ)
「主悦」(ちから)
「内匠」(たくみ)
「左衛門」「右衛門」
「左兵衛」「右兵衛」