教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

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きょうは何の日 9月14日

生麦事件 1862年9月14日(文久2年8月21日)

 

1862年9月14日(旧暦では文久2年8月21日)、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩島津茂久の父・島津久光の行列に遭遇した騎馬のイギリス人たちを供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)しました。 「生麦事件(なまむぎじけん)」です。

 

横浜市のHPに掲載されている『ドキュメント生麦事件』巻末にある「旧東海道 生麦歴史散歩」です。

 

「ベネッセ教育情報」より引用します。

生麦事件はなぜ外国との戦争にまで発展したのか?生麦事件のポイント5つ

 

生麦事件とは?
生麦事件とは、1862年8月21日に生麦村で発生した日本人による外国人殺傷事件です。外国人を殺したのは薩摩藩藩士、殺されたのはイギリス人。

イギリス人は薩摩藩主の父を主とする大名行列を馬に乗ったまま横切ったとして殺害されました。江戸時代の日本では大名行列を横切ることができるのは、飛脚(ひきゃく)と産婆(さんば)だけとされていたのです。

薩摩藩士たちは突然イギリス人に斬りかかったわけではなく、何度も馬から降りてよけるようにと身振り手振りで伝えていました。ところがイギリス人たちは、「脇を通れ」と言われただけだと勘違いして、乗馬したまま通過しようとしたのです。

大名行列は道いっぱいに広がっていましたので、脇に避けることもできず、イギリス人たちは行列の中を逆走しながら進むことになりました。そして、とうとう藩主の父が乗る籠の近くまできてしまったのです。

薩摩藩士たちはしきりに「馬を降りて道を譲れ」と命令したところ、イギリス人たちは引き返そうとします。とはいえ馬ですので、すぐにUターンはできず、あちこちに動き回ることになってしまいました。

その行動に薩摩藩士は激怒。数人がイギリス人たちに斬りかかり、1名は死亡、2名は重症を負ったのです。

 

生麦事件のポイント5つ
■事件が起きたのは神奈川宿の手前の生麦村
生麦事件が起きた場所は、神奈川県の「生麦村」です。当時の生麦村は旧東海道(きゅうとうかいどう)の宿場町神奈川宿の手前の漁村でした。生麦村は徳川家康(とくがわいえやす)が江戸に入る前は、岸村(きしむら)と呼ばれていましたが、家康が江戸に入る際に生麦を献上したことから、生麦村と呼ばれるようになったと伝えられています。

大名行列の主は島津久光
生麦事件大名行列の主は薩摩藩主の父親、島津久光(しまづひさみつ)でした。島津久光は勅使(ちょくし)という天皇の使いを伴って、江戸から京都に戻る途中だったのです。島津久光らは、公武合体(こうぶがったい)を推し進めるために江戸に来ていました。公武合体とは、朝廷と幕府が一緒になって政治を行うことです。

■行列を横切ったのは4人のイギリス人
運悪く、薩摩藩主の父親が率いる大名行列に出くわしてしまったイギリス人は総勢四人でした。イギリスの生糸商人のマーシャル、ハラード商会のクラーク、上海から来日したリチャードソン、そして香港で活動するイギリス商人の妻ポロデールです。

このうち死亡したのはリチャードソン、負傷したのはマーシャルとクラークでした。

■激怒した薩摩藩士が無礼討ちにした
イギリス人たちに斬りかかったのは、大名行列に付き従っていた薩摩藩士たちでした。当時は大名行列を横切ることは産婆と飛脚のみに許されており、民衆は大名行列を横切ることはできませんでした。横切った場合は無礼打ちといって、藩士によって切り捨てることが許されていたのです。

つまり当時の日本のルールに則れば、何度も制止したのに聞かずに大名行列を横切ったイギリス人たちはルール違反です。ただし、言葉も習慣も違う外国人を問答無用で切り捨てた行為はこの後、大きな波紋を呼びます。

生麦事件により薩摩藩とイギリスの仲が悪化した
生麦事件薩摩藩とイギリスの仲を悪化させ、薩英戦争(さつえいせんそう)を引き起こします。なぜ生麦事件で、薩摩藩とイギリスが戦争状態になるまで、仲が悪くなってしまったのでしょうか。その理由の1つに当時の外国人を排斥しようとする風潮があります。

1862年当時、黒船来航により開国を迫られ200年続いた鎖国を解除して一部の港を開港していました。欧米諸国の圧力に屈した幕府の姿勢を快く思っていない武士が多く、「尊皇攘夷思想」(そんのうじょういしそう)が吹き荒れていた時期です。

尊皇攘夷とは天皇を敬う思想と外国人を排斥する思想が組み合わせられた政治思想です。尊皇攘夷思想を実現するために、行われたのが外国人の殺傷です。生麦事件以外にも外国人を殺傷する事件はいくつも発生しています。しかしながらそのほとんどは、「浪人」(ろうにん)と呼ばれる藩や幕府に所属しない武士たちによるものでした。
一方で生麦事件は、正式な薩摩藩士が引き起こした事件です。イギリスからすれば、日本の公務員が非武装の商人に斬りかかってきたわけですから、国をあげて抗議をするのは当然のこと。

幕府はイギリスからの要求を受けて賠償金の支払いに応じました。その金額は44万ドルです。幕府との交渉が完了すると、イギリスは艦隊を率いて薩摩に向かい、薩摩藩にも犯人の死刑と賠償金の支払いを請求しました。

ところが、薩摩藩では尊皇攘夷思想が蔓延し、外国人を排除しようとする動きが活発でイギリス側の要求を拒絶。するとイギリスは薩摩領内の攻撃を開始。薩摩藩の市街地の10分の1が焼失する大惨事となりました。結局薩摩藩は幕府からお金を借りて、賠償金としてイギリスに支払うこととなります。

 

生麦事件から学べること
生麦事件から学べることは「郷に入っては郷に従え」ということ。現代は江戸末期とは異なり、多くの日本人が簡単に異文化に触れることができます。家族旅行や修学旅行で外国を訪れることもあるでしょう。その際は、「国が違えば習慣が違うこと」を忘れないでおきましょう。

■郷に入っては郷に従えの精神があれば避けられた
イギリス人らが郷に入っては郷に従えの精神で、日本の言葉やルールをわずかでも学んでいれば、生麦事件の悲劇は回避できたかもしれません。

これは現代の日本人も注意すべきことです。たとえば、日本では誰しもがやっている手招きのボディサイン。日本では「こっちにきて」という意味ですが、アメリカでは「あっちにいけ」という意味。相手を立腹させてしまいます。

また逆ピースサインは、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドでは侮蔑のサイン。状況によっては発砲されてしまうリスクもあります。

こういったルール、常識の違いは無数に存在しますので、異なる文化圏を訪れる際は前もって情報収集をしておきましょう。

■多様性を受け入れる心があれば避けられた
生麦事件では、日本のルールを知らなかったイギリス人だけでなく、日本人、薩摩藩士側にも改善する余地はあります。当時の日本は諸外国を排斥しようとする論調が大半を占めており外国人を理解しよう、受け入れようと考える人は少数派でした。

外国人というだけで、浪士の襲撃を受けて被害を受けた方々も多数存在します。

もし日本全体が外国人を受け入れて文化を理解しようとするムードになっていれば、生麦事件は発生しなかったかもしれません。馬に乗って右往左往する外国人を見て、「言葉が通じなくてわからないのかもしれない」と、理解を示すこともできたでしょう。

■相手を理解して受け入れようとする気持ちを大切に
現代は多くの外国人が来日し、多くの日本人が海外を訪れる時代です。国際化が進む中で私たちが心に留めておかなければならないのは、自分と違う文化を持つ人々を理解しようとする気持ちです。

相手の国、文化を知りルールの違いを把握すること、違いを尊重することを忘れないようにしましょう。「違い」や「恐怖」から相手を排斥するのではなく、理解し合えるように対話することが大切です。