北海道キャンプ旅行 出発から14日目
1991年8月7日(水)
キャンプ場を後に、旭川へ向かう。神楽外国樹種見本林に立ち寄ったが、三浦綾子著『氷点』の舞台になったというほどの風情は感じられなかった。川村カ子トアイヌ記念館ではチセの見学をした。子どもたちは屈斜路湖以来、アイヌコタンがえらく気に入っている。
道央道を岩見沢ICで下りて、夕張を訪ねた。公園のバーベキューハウスでジンギスカンを食べ、町へと下った。途中、炭鉱のボタ山が残っていた。麓の方には、炭鉱時代の住宅と思われる建物も見える。空気に寂しさを感じる。そもそも夕張を訪れたのは、炭鉱の跡を見たかったからなのだが、「石炭の歴史村」は観光レジャー施設の中に組み込まれていて、高額の料金を払ってまで入る気はしなかった。観光と言えば、ここは只今売り出し中で、「めろん城」などというのもある。池田の「ワイン城」に真似たようだが、二匹目のドジョウはあまりおいしそうでない。スキー場も含めて、新生夕張のイメージづくりに必死だが、あの漂う空気の寂しさはいかんともしがたい。
※(補足)夕張市は、2006年6月20日、353億円の巨額赤字をかかえて財政破綻を表明しました。
夕張市はかつて石炭産業を基幹産業として発展し、1960年には人口11万6千人を有する「炭都夕張」として最盛期を迎えていました。夕張の炭鉱は、1990年には完全に閉山します。私たちが訪れたのはその翌年です。
人口は減少の一途を辿り、2005年には13000人にまで減少しています。財政破綻の最大の要因はそこにあります。
さらに、炭鉱に代わる基幹産業として観光施設への過大投資を続け、採算がとれなかったことも大きな要因の一つです。「石炭の歴史村」(1980年)「めろん城」(1985年)など、私たちが訪れたのは開業まもない時期でしたが、旅行記にある通りまるでウキウキ感がありません。破綻の予兆はすでにあったということです。
苫小牧への道中のくだもの屋さんで、名産の夕張メロンを買った。気前よく試食させてくれて、おおまけにまけてくれた。ここのメロンは味がいい。
※(補足)寄り道をしましょう。
立ち寄り先は、、美瑛・富良野、ニセコ、そして積丹岬です。訪問は2008年7月。
美瑛・富良野エリアは、北海道のなかでもっとも訪問回数の多い地域です。前田真三さんの写真が好きで、拓真館(美瑛にある前田真三さんの写真ギャラリー)も訪ねたことがあります。「北の国から」の舞台である麓郷の森へも足を運んだことがありました。そして何よりも、その自然風景に酔いしれました。
もっとも最近人気の「白金青い池」には行ったことがありません。「青い池」が広く知られるようになったのは、ここ10年ほどのことです。
今回は、美瑛・富良野の空と畑の風景(2008年撮影)を紹介します。
ニセコの沼と花をめぐるハイキングです。空気よし、景色よし、温泉よし。
ニセコと言えばニセコアンヌプリ、そして「羊蹄山」。「羊蹄山」は別名「蝦夷富士」と呼ばれる秀麗峰です。しかし、この山名には一言あります。
この山の元の名は「マテネシリ」です。アイヌ語の「まツネ+しル」(女の+山)が語源で、すぐ南東にある「ピンネシリ」(「ぴンネ+しル(男の+山)」、現「尻別岳」)と対の関係にあります。
「マテネシリ」山の麓を流れる尻別川の名は、アイヌ語名の「しル+ペツ」(山の+川=マテネシリからの豊かな水を集めて流れる川)に由来しますが、これがなまって、和人はこの川の周辺の地域名(現在の支庁名)を後方・羊蹄 (しりへ・し=しりべし)と呼ぶようになり、 そこにあるひときわ目立つ大きな山を「後方羊蹄山(しりべしやま)」と名づけました。
この名が簡略化されたうえ、読み方まで変化して、 いつの間にか羊蹄山(ようていざん)となってしまいました。
「マテネシリ」まで戻すかどうかは議論の余地があるでしょう。しかし和名にとどめるとしても、歴史や地理を踏まえて「後方羊蹄山(しりべしやま)」とすべきです。「羊蹄山(ようていざん)」は、歴史と地理に対する冒涜だと私は思います。
積丹岬の海は青く、「積丹ブルー」の名が付いています。この海の碧さとウニの美味さは、いまも記憶に鮮やかです。
さて、旅は1991年8月7日の苫小牧に戻ります。
苫小牧も雨模様だった。電話帳で銭湯とコインランドリーを探し、市内に入って道を聞いた。親切な人がいるもので、わざわざ町の地図をコピーして教えてくれた。教えられた通りにコインランドリーへ行き、洗濯をしたら、そこの主人が、乾燥をしておいてやるから、その間に風呂へ行ってこいと言う。親切に甘えて銭湯へ行った。その後もう一度洗濯をして、夕食を済ませ、フェリー乗り場へと向かった。
24時、八戸行きのフェリーが苫小牧港を出港。