教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

森と湖と実りの大地から ~北海道キャンプ旅行の記録~ ⑭

北海道キャンプ旅行 出発から15日目

1991年8月8日(木)

 
 浅い眠りの一夜が明けた。船の揺れが相当激しい。娘と妻はすっかり気分が悪くなってしまった。どうしたものか息子だけは至って元気で、朝食にと買っておいたパンを平気で食べていた。外は雨降りである。


 9時30分、予定通り八戸港に入港。今回は最後まで待たされての下船で、やっとのことで10時ごろ出発の運びとなった。

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八戸港に着いたフェリー

 

 三沢市は思いのほか寂しい街だった。これは単に天候の影響だけではあるまい。空港へ寄ってみたが、飛行機はなかった。自衛隊機の発着も見ることはなかった。すぐ近くに米軍基地の裏門があった。店先の英語の看板は特別な街を印象づけるには充分だが、岩国基地で見たそれと比べると精彩がなかった。守衛がゲートの手前で睨みをきかせている。そそくさと踵を返した。


 六ケ所村を訪れるに当たって、「すぺえす三沢」という反核燃運動の中心になっている事務所のお世話になる予定だった。東京の原子力資料情報室などの紹介で、早速手紙を出したところ、イベントの準備で案内は無理かも知れないがいつでも来てくださいという返事を貰った。事務所に電話をしてみたが留守番電話になっている。イベントの準備で出払っているらしい。止むなく予備知識なしで六ケ所の現地へ行くことにした。小川原湖畔の食堂で昼食を摂り、六ケ所へと向かう。


 海につながる小川原湖に架かる橋を渡って六ケ所村へと入っていく。折からの雨は一層激しさを増してくる。国道338号線の左手に鷹架(たかほこ)沼が広がる辺り、右手の海岸にむつ小川原港が見えてくる。現在改修整備の工事が進められており、ここが核燃施設への入り口となる。鷹架沼から尾鮫(おぶち)沼にかけて茫洋と荒れ地が広がる。その荒れ地の所々に「社有地への立入を禁止します むつ小川原開発株式会社」という看板が建てられている。この茫洋と広がる荒れ地こそ、むつ小川原巨大開発計画によって買収された2800haの土地である。

 

 少し古い話になる。人口1万人余の六ケ所村は漁業と農業を主な産業とする村である。夏の冷涼な気候と長い冬の厳しさから、多くの村民が出稼ぎに頼って生きてきた。決して豊かではなかったこの村に、1969年「むつ小川原開発計画」が持ち込まれた。大工業地帯が作られ、工場出荷額5兆円、工業従業員10から12万人になる予定であった。71年には、国・県・民間企業150社の共同出資による「むつ小川原開発株式会社」が設立された。県の出資は5億円余りである。さらに県は、財団法人「青森県むつ小川原開発公社」を設立し、県庁職員を多数出向させて、用地買収にあたらせた。72年12月から開始された用地買収は、78年までに計画の94%を終えていた。ところが、73年に第一次オイルショックが、78年に第二次オイルショックが発生し、計画は大幅に変更されることになった。工業関連の企業は一社も進出しないまま、79年には石油備蓄基地建設計画に様がわりした。石油公団は260haの土地を340億円で買い取り、そこに51基の巨大な石油タンクを建てて、それで終わった。資本金30億円のむつ小川原開発株式会社が抱え込んだ800億円(79年当時)の負債は、86年になると利子及び土地管理費などで1600億円に増えていた。こうした借金地獄の中に持ち込まれたのが、核燃サイクル施設の計画である。全国の各地で断られてきた計画を、青森県は85年4月9日いとも簡単に誘致決定した。750haの土地が725億円で売却された。それでも残金875億円は返済のあてがなく、借入金として増え続けている。広大な荒れ地もなお荒れるに任されている。土地を追われた農民は、新しい居住区で仕事の保障もなく、生活保護も受けられず、まさにその日暮らしを余儀なくされているという。(なおこの間の経緯については、核燃施設を受け入れさせるための工作として開発計画が用意されたのではないかという鎌田彗氏の推測もある。)


 国道沿いの荒れ地に異様な大看板がいくつも立っている。「最先端の技術を六ケ所に 総合技術で未来をひらく 三菱重工業株式会社」「先進の技術を六ケ所原子燃料サイクルに 石川島播磨重工業株式会社」「先端技術を三行社会に 株式会社東芝」……どれもみな大企業のものである。核燃はこうした大企業を儲けさせるためのものらしい。1兆数千億円が投資されるという。

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国道沿いの大看板①

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国道沿いの大看板②

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国道沿いの大看板③


 年明けの操業が予定されているウラン濃縮工場の建物を遠目に見ながら、六ケ所原燃PRセンターを訪れる。核燃施設が如何に必要で、如何に安全かを説明するために作られた建物である。受付でくれる資料袋には展望用の小型双眼鏡とメモ用のシャープペンが入っている。サービス抜群である。にもかかわらず、さらに大きくて立派なPRセンターが、現在建設されている。この上何をPRするのか知らないが、余程危険な施設だと自分たちも思っているのだろう。後ろめたさのある時って一杯一杯の言い訳をしたくなるものだ。


 2階の展望室からは核燃施設の建設予定地が見渡せる。大雨で眺望は良くないが、果てしなく荒れ地が広がる。太平洋に向かって立った時、正面に広がる大石平(おおいしたい)地区に低レベル放射性廃棄物貯蔵センターが設けられる。この土地の地下に、最終的にはドラム缶300万本分の核のゴミが埋められ、300年間監視されることになる。来年にも貯蔵の開始が予定されている。その左手にウラン濃縮工場の敷地がある。両方で360haあり、日本原燃産業株式会社が事業主体となっている。日本原燃産業株式会社という会社は、全国9電力会社と日本原子力発電が76%を出資(残りは39社が出資)している会社である。電力会社が原発から出る核のゴミを処分するために作った会社と言える。

※(補足)日本原燃㈱六ヶ所低レベル放射性廃棄物埋設センターでの埋設は1992年に始まりました。現在の累積本数は、約33万本です。


 展望室のずっと右手が弥栄平(いやさかたい)地区で、390haの土地に再処理工場の建設が予定されている。国家石油備蓄基地はその後方に位置する。再処理工場は、日本原燃サービス株式会社が事業主体である。この会社も前期10社が69%を出資(残りは98社が出資)しており、両社の取締役会長は電事連会長が兼務する。最新の資料によれば、着工が遅れ3回目の補正書が提出され、来年10月着工、1999年8月完工(7月30日、東奥新聞)の予定である。なお、併設される海外からの返還廃棄物貯蔵施設への受け入れ開始は、95年11月からの予定である。8月23日の朝日新聞によれば、事業許可申請に対する科学技術庁の1次審査が22日に終わり、原子力安全委員会原子力委員会に2次審査を諮問した。原子力安全委員会は秋に地元住民の意見を聞く公開ヒアリングを開く予定だという。いよいよ着工に向けての大詰めの段階を迎える。

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PRセンターから建設予定地を望む

写真右前方が再処理工場と高レベル貯蔵予定地

さらに右に石油備蓄基地

正面前方あたりが低レベル貯蔵予定地

さらに左に濃縮工場がある

※(補足)再処理工場とは、原子炉から出た使用済み核燃料の中から使用可能なウラン、プルトニウムを取り出す施設です。その最大処理能力は、800トン・ウラン/年で、これは100万kW級原子力発電所約40基分の使用済燃料を処理する能力に相当します。1991年当時の計画では1992年着工、1999年完工の予定でした。実際には1993年に着工され、約2兆1,900億円超の費用をかけて建設が進められ、2006年よりアクティブ試験(実際に使用済み核燃料を使った試験)を行っている状況です。ただ相次ぐトラブルで竣工は20数回にわたって延期され、施設面だけを見ても本格操業のめどは立っていません。

 

 PRセンターの道向こうには消防署が建っている。核燃施設の性格上すぐ近くにあることが必要なのだろう。振り向けば給食センターがある。こんな所にと思いつつ、さらに後方を見れば、立派な体育館が建っている。照明付きのグラウンドがある。プールがある。広大な駐車場がある。その敷地の一角に立てられた小さなプレートには、石油備蓄等の関連事業の見返りとして建設されたことを示す文字があった。荒れるがままの台地に建つ不似合いなほどに立派な体育館。異様な光景である。

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不似合いなほどに立派な体育館

 

 ウラン濃縮工場の正面ゲートへ行ってみた。警備員の物々しさに近づき難い空気を感じて止まった。工場の敷地は背の高いフェンスと有刺鉄線に囲まれている。その隙間から白と赤に塗り分けられた建物が見える。7月25日、県と六ケ所村、日本原燃産業による安全協定が締結された。村長の核燃凍結という選挙公約破りにより、六フッ化ウランが秋から搬入され、慣らし運転の後、年明けに本格操業となる見通しである。核燃施設全体にとってもこれは大きな一歩であり、反対運動も新たな局面を迎えることになる。濃縮工場に関して言えば、東京・青森間のウラン輸送沿線住民の安全の問題も、緊急の課題となっている。国道沿いに数カ所、反核燃の看板が建てられている。地元での反対運動には厳しいものがあるだろう。

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ウラン濃縮工場の正面ゲート

※(補足)ウラン濃縮工場は、1992年に150トンSWU/年規模で操業を開始しました。(SWUは、日本語では分離作業単位と呼ばれ、主にウラン濃縮において天然ウランから濃縮ウランを製造する際に必要な作業量を示す指標に用いられます。100万kWの原子力発電所で1年間に必要となる濃縮ウランの仕事量は、約120トンSWUになります。)現在の施設規模は450トンSWU/年です。ただし、トラブル等により、2013年以降は2018年の一時期を除き生産運転停止状態にあります。

※(補足)日本原燃のすすめる核サイクル事業は、「低レベル放射性廃棄物埋設センター」「再処理工場」「ウラン濃縮工場」のほかに、「高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター」と「MOX燃料工場 」があります。

「高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター」は、ガラス固化体にされた高レベル放射性廃棄物を、最終的な処分に向けて搬出されるまでの30~50年間冷却・貯蔵する施設です。1992年に廃棄物管理事業許可がおり着工し、1995年に操業を開始しました。
原子力発電所から発生する使用済燃料の一部を、フランスおよびイギリスの再処理工場に委託して再処理してきました。ガラス固化体の輸送は、1995年4月から開始され、2007年3月末までに1,310本がフランスより返還されています。フランスからのガラス固化体の返還は終了し、2010年3月からイギリスからガラス固化体の返還が開始されています。貯蔵容量2880本です。

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ガラス固化体の模型(PRセンターにて)

MOX燃料工場 」は、再処理工場から受け入れたMOX粉末を原料として、原子力発電所軽水炉)で使用するMOX燃料に加工する工場です。2010年に着工し、計画から2年遅れの2024年に完成予定です。

※(補足)青森県が核燃サイクル施設を誘致決定したのは1985年です。36年が経過しました。36年経ってなお完成しない理由を、冷静に問わなければなりません。そして立ち止まって、原発とウランをめぐる今日的状況を冷静に分析しなければなりません。どう考えても、「再処理工場」や「MOX燃料工場 」を完成させなければならない状況ではないのです。核の「ゴミ」をもうこれ以上出さないことを前提に、すでに出してしまった「ゴミ」の始末をどうするか、国民的課題として考える時が来ていると思います。

 

 三沢に戻ってすぺえす三沢を訪ねてみた。留守だった。残念ながらついに現地の声を直接に聞くことはできなかった。スーパーで買い物をして、夕食を摂り小川原湖畔キャンプ場へ向かった。米軍基地に隣接する市民の森公園の湖側にバンガローがある。午後6時、雨降りの湖畔には僅かばかりのキャンパーの他には人影はなかった。市民の森公園にある温泉浴場へ行ってみた。地元(と言っても三沢市街から来た人だろうけど)の人たちで賑わっていた。市外のもので140円(小人70円)、地元の人なら100円(同50円)で温泉に入れる。基地の見返りで建てられた施設なのだろう。それでも何でも人は訪れ、話に花が咲いている。初老の男性3人の会話に耳を傾けた。何を言っているのか皆目分からない。単語1つすら聞き取れない。小学生の頃、国語の授業で「どさ」「ゆさ」という青森の言葉を習った記憶がある。地域の言葉が脈々と生き続けている。厳しい寒さに鍛えられた言葉なのだ。そういえば青森の夏は異常に涼しい。道端の稲は穂が出ていない。本格的な夏がないままに、早い秋を迎えようとしている。老人の会話は一層短くなるのかもしれない。

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バンガローの前で

※(補足)小川原湖畔キャンプ場にあった簡素なバンガローは、きれいなコテージに建て替えられています。2021年夏季の利用料金は11000円。

三沢市民の森温泉浴場は、30年経った今も低料金。市外のもので220円(小人110円)、地元の人なら160円(同80円)で温泉に入れます。しかも、「温泉浴場は、源泉かけ流し、八甲田連峰に沈む夕日を眺めながら入浴を楽しめる。森と湖に癒されるリラックス空間です。」というすぐれものです。

 

 雨の中のバンガローで、静かに夜は更けていった。

 

 

 8月9日、夜が明ければ、あとは家路を走り続けるのみだ。

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岩手県内の東北道からたばこ栽培の畑が見える。

  そして、8月10日、帰宅。これまでの人生で最も長い旅行が終わる。