「イイクニ」ではない鎌倉幕府の始まり
「イイクニつくろう 鎌倉幕府」って、歴史の年代を覚える語呂合わせの代表的なフレーズでした。
「でした」……過去形です。
「イイクニ」は1192年のことで、この年が鎌倉幕府の始まりのはずでした。
ところが最近は、1185年が始まりだということになっています。
もしかして「イイハコ(いい箱)つくろう」と覚えるのかと思ってネット検索すると、案の定そうでした。みんな同じようなことを考えているようです。
小学校の歴史学学習で必ず覚える年代は、古い方から
645年 大化の改新
710年 平城遷都
794年 平安遷都
1192年 鎌倉幕府
でした。
このあまりにも有名な年代が変更されるとは……。
いったい何があったのでしょう。
1192年
1185年
源頼朝が諸国に守護・地頭の設置を認められる
「征夷大将軍」という肩書きを幕府の始まりとしていたのを、「守護・地頭の設置」をもって政権の始まりに変更したということです。
国ごとに置かれる「守護」は軍事・行政官で、荘園や公領ごとに置かれる「地頭」は税金集めなどを担います。
つまり、「名」から「実」への変更です。
でも、「征夷大将軍」=「幕府」ではなかったの?
そのへんの事情も含めて深掘りしてみましょう。
そもそも、「幕府」とはなんでしょう。
日本大百科全書(ニッポニカ)
幕府
大将軍の本営をいう。幕は帳幕のことで、軍隊が行動するとき随時に幕を用いてその陣を取り巻いて府としたところに語源がある。また一説には、幕は莫(大という意)ないしは漠のことで、昔中国で衛青(えいせい)という者が匈奴(きょうど)を征した際、大砂漠の中に設けた府、つまり軍営に基づくともいわれる。日本では近衛府(このえふ)の唐名、転じて近衛大将の居館をいった。のちに1190年(建久1)源頼朝(よりとも)が右近衛大将に任ぜられると、鎌倉の居館は幕府とよばれ、92年頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になったあとも引き続いてその居館をさしたことから、武家政権の首長およびその居館をいった。歴史学では、鎌倉・室町・江戸幕府のように将軍を首長とする武家政権そのものを意味する。
ブリタニカ国際大百科事典
幕府
武家による政治組織,政庁。元来,近衛府 (このえふ) の唐名で,のちには近衛大将軍,さらに近衛大将その人をも称した。中国では,出征中の将軍の府署をいった。武家の政庁としては,源頼朝が建久1 (1190) 年右近衛大将に任じられたところに名称の契機を求められるが,頼朝は右近衛大将をまもなく辞し,征夷大将軍の官職を望み,同3年これに任じられて以来,鎌倉,室町,江戸時代を通じて,征夷大将軍が武家政権 (→武家政治 ) の総帥の地位を表わし,その政権あるいは政庁を幕府と呼んだ。したがって各時代の武家政権または政庁を鎌倉幕府,室町幕府,江戸幕府と呼ぶが,この称呼は右近衛大将となんら関係がなく,武家政権を意味する歴史学的概念として用いられる。
まず、「幕府」の語源は中国にあることが分かります。
※史記抄(1477)一五「莫府は幕と莫と通ずるぞ、将軍は、いく処に幕を張て居程に、幕府と云ぞ」 〔史記‐李広伝〕
そして、日本では近衛府(このえふ)の唐名で、転じて近衛大将の居館を幕府とよんだということです。
※本朝文粋(1060頃)五・為清慎公請罷左近衛大将状〈菅原文時〉「帷帳無レ籌。何高二枕於幕府一」
1190年に源頼朝が右近衛大将に任ぜられたことから、鎌倉の居館を幕府とよばれたようです。
頼朝は右近衛大将を辞任し、1192年に征夷大将軍に任命されます。征夷大将軍になったあともその居館を幕府とよんだことから、武家政権の首長およびその居館を幕府というようになりました。
※吾妻鏡‐文応元年(1260)四月二六日「将軍家御居所者称二幕府一」
その結果、歴史学では、鎌倉・室町・江戸幕府のように将軍を首長とする武家政権そのものを意味するようになったということです。
余談ですが、
「右近衛大将」は近衛府のトップですが、貴族に与えられる官位で軍事的な色彩はありません。
一方、「征夷大将軍」は、蝦夷(えみし・えぞ)征討のため朝廷から臨時に任ぜられた総指揮官に由来する軍事的な役職です。721年に多治比県守(たじひのあがたもり)が「征夷将軍」に任命されたのが始まりで、「征夷大将軍」としては坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)がよく知られています。
頼朝が「征夷大将軍」になるまでのいきさつですが、まず1184年に平家を破って入京した源(木曽)義仲が征夷大将軍に任命されました。これは、義仲が自らの覇権を権威づけるために武門の棟梁にふさわしい官名としてこれを望んだためであったようです。その後、頼朝もこの地位を熱望しましたが、後白河法皇の反対にあい、法皇の死後1192年に至ってようやく実現したということです。
私たちは、とんでもない思い違いをしていたようです。
「征夷大将軍になれば幕府を開けて、日本のトップになれる、天下が取れる」
そんなルールなどなかったのです。
室町幕府の足利尊氏、江戸幕府の徳川家康の場合は、先例にならって征夷大将軍になって幕府を開いたのでしょう。しかし、それは後付けルールのようなものです。
私たちは、江戸幕府が終わって150年余を経た時代に生きています。
「いま」に立って、「そのころ」を眺めています。つまり、歴史上3つの幕府があったことを知った上で、鎌倉幕府成立の「そのころ」を見ているのです。
しかし、歴史の流れはそれとは真逆です。
頼朝は、平家を滅亡させ、朝廷に守護・地頭の設置を認めさせることで政権につきました。これが1185年です。
頼朝の居館は、1190年に右近衛大将に任じられたことから「幕府」と呼ばれました。
1192年に征夷大将軍に任命され、やがて征夷大将軍の居館や政権を幕府と呼ぶようになりました。
一般にイメージしている「鎌倉幕府」という呼称は、後世の人が「そのころ」を振り返って付けたものです。
それにしても、歴史は奥が深く、難しいものです。