教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

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きょうは何の日 5月23日

火葬禁止令廃止の日

 

明治政府は仏教での葬法としての火葬に反対した神道派の主張を受け入れ、1873(明治6)年7月18日に「火葬禁止令」太政官布告第253号)を布告しました。

しかし、仏教徒の反発が強く、また衛生面からも火葬が好ましいとの意見もあり、さらに都市部での土葬スペース不足という現実には逆らえず、約2年後の1875(明治8)年5月23日に火葬禁止令の解除が発令され、火葬禁止令は廃止されました。

 

明治政府は神道の国教化政策を行うため、1868(明治元)年3月28日に神社から仏教的な要素を排除する「神仏分離令」を出しました。「火葬禁止令」はそれと同軸延長線上のものです。
この一連の政策を、「廃仏毀釈」と言います。
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは、仏教を廃すること。「廃仏」は仏法を廃し、「毀釈」は釈迦の教えを棄却するという意味です。

 

参考までに、「火葬禁止令」が出されるまでの火葬の歴史をみてみましょう。

「一般社団法人日本火葬技術管理士会」HP所収の「火葬の歴史」より一部を引用します。

日本の火葬

1) 奈良時代までの火葬
 紀元 653 年に遣唐使随行し、唐僧の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう︓有名な物語・西遊記でお馴染みの孫悟空がお伴をした主人。実在の高僧)の弟子となり、帰国して法相宗の開祖となった高僧・道昭は、紀元 700年に遺命して自ら火葬に付された。これがわが国の火葬の起源だということが、続日本紀(しょくにほんぎ)に記されているため、歴史的な事実だとして長年にわたり広く信じられてきた。しかし、昭和 31 年に同志社大学の森浩一教授が大阪府堺市内にある陶器千塚古墳の火葬遺跡であるカマド塚などを発掘、紀元 600 年前後には、朝鮮半島から渡来した陶器工人の間で火葬が行われたことを示す窯形火葬墳墓を発見したため、火葬の起源が 100 年ほど遡ったことになる。
 道昭の火葬の翌年、701 年に朝廷は大宝律令を制定し、従前に引き続いて薄葬を推奨するとともに、火葬を初めて奨励した。703 年に第 41 代の持統天皇は、皇族として初めて飛鳥崗で自らの意思により火葬に付されたが、これは火葬の奨励策を朝廷自ら実践したものであり、その後は歴代の天皇、皇族や高級官吏及び地方豪族などの間に火葬が普及するに至った。
 第 53 代の淳和天皇は、「今、骨を砕いて粉とし、山中に投ずべし」という詔を出し、840 年に自らの火葬後の焼骨を京都、大原野の西山に撒骨させ、山稜を作らせなかったという。


2) 平安・鎌倉・室町時代の火葬
 平安時代も10世紀になると京都では、空也上人などの念仏僧(浄土教)が、鴨の河原や巷に満ちた死者や行旅死亡人に対して念仏を唱えながら火葬し、菩提を弔うことを盛んに行った。現代風にいえば社会事業活動、又はボランティア活動であった。
 その後、僧侶による火葬執行が常識になるとともに、貴族や豪族の間では火葬が全国的に普及した。
 鎌倉・室町時代には戦乱や天災で、飢饉が続き、悪疫の流行により死者が巷に満ちたので、僧侶による社会事業としての火葬が依然として行われていた。また、武士階級や庶民の間にも火葬が広く深く、伝播していった。


3) 江戸時代の火葬
 江戸時代の初期に幕府は、キリスト教を弾圧するため制度化して寺院に檀家の戸籍を把握させたので、寺院が墓地を管理したり、火葬を実施するのが一般的になった。また、5 人組制度を強化し、治安・検察に当らせたため、日常生活に互助共済を中心とする組織に発展し、祝い事や葬儀、火葬を自主的に共同して行うようになった。
 一方、鎌倉時代から伝来された儒教朱子学は、徳川幕府が奨励したため国学者儒学者、微視の間に普及したが、仏教を排斥する口実として火葬を非難したので、支配階級の間に火葬を嫌う傾向が強くなった。そのため、第 110 代、後光明天皇は、1654年に崩御されたが、歴代天皇の先例が破られ火葬に付されなかった。また、会津藩や萩藩は火葬を禁止したり、土佐藩では犯罪者の死体を火葬すべきことを定めたので、所によっては庶民が火葬を避ける傾向もあった。しかし、浄土真宗の盛んな新潟、富山、石川、福井の各県を含む北陸地方では火葬を全面的に支持し、また、江戸、京都、大阪などの人口密集地では埋葬地が限定されるため火葬に依存しなければならなかったので、大勢として火葬は全国的に行われてきた。

 

4) 明治時代・第2次大戦直後までの火葬
 1868年(明治元年)、明治新政府により神仏分離令が出され、排仏毀釈運動が盛んとなり、儒教関係者の強い要求により、1873年(明治6年)に政府は、火葬を禁止した。しかし、東京、大阪、京都などの墓地用地の少ない大都市は、市街地の環境衛生上、火葬の必要性を訴えたので、結局、2年後の1875年(明治8年)に火葬禁止が解除された。
 1884年(明治17年)に火葬に関する具体的な手続き事項を内容とする「墓地及び埋葬取締規則」が定められた。この太政官布告は第 2 次大戦直後まで存続し、新法の「墓地及び埋葬等に関する法律」(以下「墓埋法」という。)に引き継がれて現在に至っている。

 

Wikipedia」より引用します。

日本における火葬

火葬は、日本では最も一般的な葬法である。

ファイル:Cremation in Japan-J. M. W. Silver.jpg

江戸時代の火葬(1867年刊『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より)

歴史
縄文時代の遺跡からも、火葬骨が出土している。

弥生時代以降の古墳の様式の一つに「かまど塚」「横穴式木芯粘土室」などと呼ばれる様式のものがあり、その中には火葬が行なわれた痕跡があるものが認められている。それらは6世紀後半から出現しており、最古のものは九州で590年±75年の火葬が確認されている。 2014年(平成26年)2月、長崎県大村市弥生時代後期(2世紀頃)の竹松遺跡における長崎県教育委員会の発掘調査により、火葬による埋葬と見られる人骨が発見されている。これが検証のうえ認められれば、火葬の歴史はもっと古くから存在することになる。

文献記録上、日本で最初に火葬された人物は仏教僧の道昭(元興寺の開祖)で、文武天皇4年(700年)に火葬された。これについては『続日本紀』にやや長い記事があり(wikisouce)、72歳で没した際に遺言によって粟原寺で火葬されたという。『続日本紀』には「天下の火葬これよりして始まる」と記述されている。浅香勝輔は先行する火葬事例を確認しながらも「8世紀以降、仏教文化とともに、わが国の火葬習俗は始まったとするのが穏当」としている。現代でも「火葬にする」の意味で用いられる言葉として「荼毘に付す」がある。この荼毘(だび。荼毗とも)は火葬を意味するインドの言葉(パーリ語: jhāpeti「燃やす」)に由来し、仏教用語である。

続日本紀』によると、最初に火葬された天皇は、大宝2年(702年)に崩御し、殯(もがり)の儀礼の後、大宝3年(703年)に火葬された持統天皇である。

一般的には火葬の習俗はまず天皇や貴族、地方豪族などの上層階級から広がっていった、と説明されている。なお、大宝元年(701年)編纂の『大宝律令』には、行軍中の兵士や防人が死亡した際には火葬するという規定が含まれている。

万葉集』には

隠口の 泊瀬の山の 山際に いさよふ雲は 妹にかもあらむ
— 柿本人麻呂
と短歌で詠まれ、最愛の人を送る、最後の別れの煙が「いさよふ雲」であり、それはとりもなおさず妹と認識できると歌われており、万葉人特有のゆかしさと優しさが感じられると、日本での近代火葬炉開発の元祖である鳴海徳直は述べている。

日本では平安時代以降、皇族、貴族、僧侶、浄土宗門徒などに火葬が広まった後も、土葬が広く用いられていた。仏教徒も含めて、近世までの主流は火葬よりも死体を棺桶に収めて土中に埋める土葬であった。儒教の価値観では身体を傷つけるのは大きな罪であったほか、人口の急増で埋葬地の確保が難しくなる明治期に到るまでは、少なくとも一般庶民にとっては土葬の方が安上がりだったためとの説がある。比熱の高い(=温度が上がりにくい)水分や分子構造が巨大で複雑なタンパク質を多量に含んだ遺体という物質を焼骨に変えるまで燃やすには、生活必需品としても貴重だった薪を大量に用いる必要がある。また、効率よく焼くための高度に専門的な技術が求められるため、火葬は費用がかかる葬儀様式であった。

明治時代に入ると、東京の市街地に近接する火葬場の臭気や煤煙が近隣住民の健康を害している事が問題になり、警保寮(警視庁の前身)が司法省へ火葬場移転伺いを出した。この問題に際し明治政府は神道派が主張する「火葬場移転を検討するのは浮屠(仏教僧)が推進する火葬を認めたことになる。火葬は仏教葬法であり廃止すべき」との主張を採り、東京府京都府大阪府に土葬用墓地は十分に確保可能か調査するよう命じた。土葬用墓地枯渇の虞は低いとの報告を受けた直後の明治6年1873年)7月18日に火葬禁止令(太政官布告第253号)を布告した。

だが、都市部では間もなく土葬用墓地が枯渇し始めて、埋葬料が高騰したり埋葬受け入れが不可能となる墓地も出てきたりして混乱を招いた。仏教徒や大学者からは、火葬再開を求める建白書が相次ぎ、政府内部からも火葬禁止令に反対する意見が出て、明治8年(1875年)5月23日には禁止令を廃止している。

その後、明治政府は火葬場問題から宗教的視点を排して、公衆衛生的観点から火葬を扱うようになった。伝染病死体の火葬義務化に加えて、土葬用墓地の新設や拡張に厳しい規制を掛け、人口密集度の高い地域には、土葬禁止区域を設定するなどの政策を取った。また、大正時代より地方公共団体が火葬場設営に積極的になり、土葬より火葬の方が費用や人手が少なくて済むようになったこともあり、現代の日本では火葬が飛躍的に普及し、ほぼ100%の火葬率である。