教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 1月13日

咸臨丸出航記念日

 

1860(万延元)年1月13日(旧暦)、咸臨丸がアメリカに向けて出航しました。

 

江戸幕府の軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」が、江戸品川沖を出発したのが1860年(万延元年)の今日(旧暦1月13日)とされる。

その咸臨丸には、勝海舟(艦長)・福澤諭吉中浜万次郎(ジョン万次郎:通訳)らの遣米使節が乗っていた。日米修好通商条約の批准書の交換が目的であったが、日本人初の正式な太平洋横断航海でもあった。また、咸臨丸がアメリカ・サンフランシスコに到着した日は同年の旧暦2月26日で、その日は「咸臨丸の日」となっている。

咸臨丸は、木造でバーク式の3本マストを備えた蒸気コルベットであった。「咸臨」とは古代中国の書物『易経(えききょう)』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。

                            (雑学ネタ帳)

 

咸臨丸については、「じゃらん」の記事より紹介します。

咸臨丸(かんりんまる)とは、幕末期に江戸幕府保有していた初期軍艦。木造で3本のマストを持つ蒸気船である。「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。

洋式の軍艦としては、観光丸(外輪船)に次ぐ2番艦であるが、洋式のスクリューを装備する船としては初の軍艦である。幕府の船として初めて太平洋を往復したことから名を知られる。幕府の練習艦として用いられた後、戊辰戦争に参加するものの、軍艦としての機能は他艦に劣り、既に運送船の役割を担っていた咸臨丸は新政府軍によって拿捕される。明治政府に接収された後、開拓使の輸送船となった。

【艦歴】
1855(安政元)年7月、オランダのキンデルダイクにて起工。
1857(安政3)年3月、完成。8月4日(旧暦)、日本へ送られ、長崎海軍伝習所練習艦となる。
1860(万延元)年旧暦1月13日、日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団一行がアメリカ軍艦ポーハタン号にて太平洋を横断。咸臨丸はポーハタン号の別船として品川を出帆。旧暦2月26日(新暦3月17日)にサンフランシスコに入港。艦長は勝海舟

1862(文久元)年、小笠原諸島を巡視し、父島と母島を探検(艦長は小野友五郎)。
1866(慶応元)年、酷使が祟り、疲弊が激しく故障頻発していた蒸気機関を撤去。帆船となる。
1868(慶応3)年、戊辰戦争が起こる。
 旧暦8月19日、海軍副総裁榎本武揚の指揮で品川沖を脱走。
 旧暦8月23日、銚子沖で暴風雨に遭い、下田港に漂着。
 旧暦9月11日、咸臨丸は修理が遅れたため新政府軍艦隊に追い付かれ、新政府軍艦隊に敗北。乗組員の多くは戦死または捕虜となる。逆賊として放置された乗組員の遺体を清水次郎長清水市築地町に埋葬。

1871(明治3)年旧暦9月19日、北海道木古内町泉沢沖で暴風雨により遭難し、沈没する。
1887(明治20)年、清水次郎長清水市興津の清見寺に咸臨丸乗組員殉難碑を建立。
1984(昭和59)年、サラキ岬沖で鉄製の朽ちた錨が発見される。
2006(平成18)年9月20日、錨は咸臨丸のものと発表される。

 

「在ニューヨーク日本国総領事館」のHPに、咸臨丸にまつわる記事が掲載されています。

咸臨丸の太平洋横断の話


前列右から福沢諭吉(木村摂津守従僕)、

肥田浜五郎(軍艦操練所教授方)、浜口与右衛門(同)、

後列右から岡田井蔵(軍艦操練所教授方手伝)、

小永井五八郎(軍艦操練所勤番公用方下役)、

根津欽次郎(軍艦操練所教授方手伝)の面々。
遣米使節団と同じ時期に太平洋を越えた船が遣米使節護衛艦として派遣された咸臨丸です。1860年1月、咸臨丸は軍艦奉行木村摂津守と艦長勝麟太郎のもと約90名の乗組員を乗せて浦賀を出航します。連日連夜暴風雨に見舞われ、初めての大航海に日本人乗員は大変な苦労を強いられますが、同乗していたアメリカ海軍ブルック大尉以下の助力もあって、出航から37日後の2月22日無事サンフランシスコに入港しました。咸臨丸一行は、サンフランシスコで連日大歓迎を受け、サンフランシスコ市民は日本から来た珍しい一団の冒険心を称えたそうです。損傷箇所の修復を受けた咸臨丸は3月19日帰途につき、復路は大きな嵐もなく無事5月5日、浦賀に入港し、日本人初の太平洋横断航海は終わりました。一行の中には、通訳としてジョン万次郎の他、後に慶応大学を起こす福沢諭吉等がいました。咸臨丸の偉業を偲ぶものとしてサンフランシスコ西の端、太平洋を見下ろす一角、リンカーンパークに大阪市が寄贈した咸臨丸のサンフランシスコ入港100年の記念碑が建てられています。


咸臨丸こぼれ話1 咸臨丸乗組員の墓(最初の日本人墓地)

左から富蔵、峯吉、源之助の墓石

厳しい航海で衰弱した富蔵、峯吉の二人の水夫は、サンフランシスコ到着後まもなく病死し、出航後病死した源之助とあわせて三人は当地で厚く葬られました。現在、サンフランシスコ郊外、コルマ市の日系人墓地の一角に彼らの墓があります。


咸臨丸こぼれ話2 勝海舟の青い目の孫娘

艦長勝海舟

艦長を務めた勝海舟徳川幕府の役人で、海軍建設に功績がありましたが、合理的で開明的な精神の持ち主であったため、明治政府にも重用され長く指導的役割を果たしました。その息子梶梅太郎は、明治時代に国立のビジネス大学(後の一橋大学)創立のために政府から招かれていたウィリアム・ホイットニーの娘、クララと結婚します。二人の間には6人の子供が生まれますが、クララは末娘ヒルダとともにフィラデルフィアに帰ります。1974年、日本の新聞は、ヒルダが生まれ故郷を訪れ祖父勝海舟の墓参りをしたことを報じています。