教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 4月12日

世界宇宙飛行の日

 

1961(昭和36)年4月12日、世界初の有人宇宙衛星船であるソビエト連邦の「ヴォストーク1号」が打ち上げられました。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

1961年(昭和36年)のこの日、世界初の有人宇宙衛星船・ソビエト連邦のヴォストーク1号が打ち上げられた。

この歴史的な出来事は、全人類のための宇宙探査への道を開いた。

宇宙飛行士ガガーリン
宇宙飛行士ガガーリン

この日は国連が制定した国際デーの一つでもある。英語表記は「International Day of Human Space Flight」で、日本語では「国際有人宇宙飛行デー」とされる。2011年(平成23年)4月の国連総会で記念日とすることが採択された。持続可能な開発の目標を達成し、国家と人々の幸福を増進し、平和目的のために宇宙を維持することを目的としている。

宇宙船の「ヴォストーク(Восток)」という名前は、ロシア語で「東」を意味する一般名詞である。ヴォストーク1号は地球を一周し、無事に帰還。人類初の有人宇宙飛行に成功した。打ち上げから帰還までは108分だった。搭乗したユーリイ・ガガーリン少佐(Yuri Gagarin、1934~1968年)は、帰還後に宇宙から地球を見た時の感想を「地球は青かった」と表現したとされ、日本において名言となっている。

宇宙から見た地球
宇宙から見た地球

ガガーリンの言葉とされる「地球は青かった」は、日本においてのみ有名で、また原文の意味とは多少異なり、直訳だと「空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた」になるという。日本以外では、ガガーリンの地球周回中の言葉とされる「ここに神は見当たらない」の方が有名であるが、記録にはその発言が残っていない。色々な噂があるが、ガガーリンが宇宙へ赴いた最初の人類であることは確かである。

 

Wikipedia」の「ボストーク1号」より引用します。

ボストーク1号の特徴
ボストークの船体は乗組員用の再突入用モジュール(再突入カプセル)と、計器類、圧縮窒素、圧縮酸素、姿勢制御用のロケットなどがついた機械部から構成された。カプセルは再突入時の加熱に耐えるため断熱材で覆われていた。また、着陸の衝撃が乗組員に悪影響を与える恐れがあるため、カプセルには空中脱出用の射出座席が備えられていた。 万が一のミッション失敗の際に軌道で生存することを考慮に入れ10日間の生命維持用の備品を積んでいたが、それによる荷重制限でバックアップ用の逆推進エンジンは無かった。

なお、打ち上げにはクラスター方式のボストークロケット(R-7ミサイルの改良型)が使用された。

ファイル:Vostok spacecraft.jpg

打ち上げロケット最上段と結合した状態のボストーク宇宙船。

メンバー
乗組員:ユーリイ・ガガーリン
バックアップクルー:ゲルマン・チトフ
予備要員:アンドリアン・ニコラエフ
ミッションハイライト

ファイル:Vostokpanel.JPG

ボストーク宇宙船で使用された計器パネル。
ガガーリンは108分間の飛行の後、無傷で帰還した。地上7kmの位置で射出座席によりカプセルから脱出し、パラシュートで地上に降り立った(カプセルにもパラシュートがついていたが、減速用であり人間用ではなかった)。

ボストーク1号の姿勢制御は自動装置によって行われた。医療班もエンジニアも無重力が人間にどう作用するかがわからなかったためである。このため、緊急時にガガーリン自身が自動コントロールを解除するためのコードも封筒に入れて配置されたものの、地上管制官パイロットであるガガーリンが飛行制御をするのを防止するために締め出され、打ち上げ25分後まで安定軌道到達したかどうかも知らなかったという。ボストークは自らの軌道を変えることができないため宇宙船に姿勢を任せた。飛行中、ほとんどの姿勢は漂流にまかせた。ボストーク1号の自動システムが動いたのは、飛行中の逆推進のための姿勢制御、その他一時間程度であった。

逆推進は着地予定地より8000km手前、アフリカ西岸アンゴラ付近で42分間ほどの逆噴射によって行われた。再点火の後、再突入モジュール(カプセル部位)に備え付けモジュール(水と酸素のタンク)がワイヤでついたままで残っていることがわかった。この二つは本来10秒後に分離するはずだったが、10分たつまで分離しなかった。ボストーク1号は自然に回転したがモジュールが落ち、ワイヤが燃えてしまったため、適切な再突入状態に戻った。

1961年当時の国際航空連盟 (FAI) のルールでは公式な宇宙飛行となる条件にパイロットは必ず宇宙船と共に着陸することを要求していた。最初、ソ連ガガーリンはボストークと共に着陸したと主張したため、FAIもこれを認めたが、後になってガガーリンは、上記のようにカプセルから脱出して着陸したことが判明している。

ソ連の書記官FAIがボストーク1号の飛行記録を書き込んだ際に、発射場所はバイコヌールで北緯47°22′00″、東経65°29′00″としたが、実際は発射場所はチュラタム(レニンスク)近郊北緯45°55′12.72″、東経63°20′32.32″の位置であり、バイコヌールの南西250kmほどの位置にある。これは宇宙基地の場所を秘匿するために行われたものだと考えられる(なお、その後の1995年カザフスタンとロシアはチュラタムを正式にバイコヌールに改名している)。

再突入時のカプセルは現在コロリョフにあるRKKエネルギヤ博物館で展示されている。