教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

歴史教育の周辺(その17) 「終戦の日」を考える

終戦の日」を考える

 

8月15日は、第二次世界大戦終戦の日です。

歴史学習において、戦争の名称を「太平洋戦争」「15年戦争」「日中戦争」「『大東亜戦争』」などと使い分けることはあります。

また、8月15日が「終戦」なのか「敗戦」なのかが議論になることもあります。

しかし、「終戦」にしろ「敗戦」にしろ、その日が「8月15日」であることに疑義が生じることはまずありません。

 

8月15日が終戦の日であることは、日本の常識です。

 

しかし、この「日本の常識」は、どうも「世界の常識」ではないようなのです。

 

結論から言います。

終戦の日」は、第二次世界大戦終結終戦)日の日本に於ける呼称です。

 

天皇の大権に基づいてポツダム宣言受諾に関する勅旨を国民に宣布した文書である「終戦詔書」が1945(昭和20)年8月14日発布され、戦争終結が公式に表明されました。同日、天皇詔書を録音、翌15日正午、その内容はラジオ放送(玉音放送)を通じて広く国民に報じられました。

 

国立国会図書館のHPより引用します。

終戦詔書

    朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負イ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

御名御璽

昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣 男爵 鈴木貫太郎
海軍大臣 米内光政
司法大臣 松阪広政
陸軍大臣 阿南惟幾
軍需大臣 豊田貞次郎
厚生大臣 岡田忠彦
国務大臣 桜井兵五郎
国務大臣 左近司政三
国務大臣 下村宏
大蔵大臣 広瀬豊作
文部大臣 太田耕造
農商大臣 石黒忠篤

内務大臣 安倍源基
外務大臣兼大東亜大臣 東郷茂徳
国務大臣 安井藤治
運輸大臣 小日山直登

 

 

終戦詔書」の読みです。

詔書
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(かんが)ミ非常ノ措置ヲ以(もっ)テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク

朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇(そ)四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々(そもそも)帝国臣民ノ康寧(こうねい)ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々(けんけん)措(お)カサル所曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以(ゆえん)モ亦(また)実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾(しょき)スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固(もと)ヨリ朕カ志ニアラス然(しか)ルニ交戦已(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘(かかわ)ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之(しかのみならず)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終(つい)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯(かく)ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(せきし)ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内(ごだい)為ニ裂ク且(かつ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙(こうむ)リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(しんねん)スル所ナリ惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情(ちゅうじょう)モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚(しんい)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若(も)シ夫(そ)レ情ノ激スル所濫(みだり)ニ事端ヲ滋(しげ)クシ或ハ同胞排擠(はいせい)互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜(よろ)シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克(よ)ク朕カ意ヲ体セヨ
  御名御璽
  昭和二十年八月十四日
     各国務大臣副署

終戦詔書」の現代語訳を、朝日新聞「GLOBE+」より引用します。

現代語訳

私は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。

私は、日本国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらによる共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。

そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、すべての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、まさに日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとより私の本意ではない。しかしながら、交戦状態もすでに4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。それどころか、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)にわびることができようか。これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。

私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。日本国民であって戦場で没し、職責のために亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。さらに、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。考えてみれば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。しかし、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う。

私は、ここにこうして、この国のかたちを維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごすことができる。感情の高ぶりから節度なく争いごとを繰り返したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、そのために人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒めるところである。まさに国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動してほしい。

 

つまり、日本が敗戦を認めたのが1945年8月14日で、それを「玉音放送」というカタチで国民に告知したのが8月15日です。

 

敗戦を国民に告知するというのは国内手続きです。

ポツダム宣言を受諾したのですから、「敗戦」を受け入れることによって「終戦」させたということでしょう。8月15日は、玉音放送によって国民が終戦(敗戦)を知らされた日です。

 

ところが、正式な「終戦」というのは戦争をしている相手国との間で交わす手続きです。

8月14日に敗戦を受け入れることを対戦相手である連合国に通知します。そして、その正式な手続きが、9月2日に行われた降伏文書署名です。

「世界の常識」としては、9月2日が終戦日ということになります。

 

朝日新聞「GLOBE+」より引用します。

終戦の日」はなぜ8月15日なのか 「戦争が終わった日」は国によって異なる?
更新日:2023.08.09 公開日:2022.08.15

玉音放送に聴き入る人たち

玉音放送に聴き入る人たち=1945年8月15日正午すぎ、大阪・梅田の曽根崎警察署前

 

8月15日は「終戦の日」。日本では毎年、この日に追悼行事などが開かれるが、各国で戦争が終わった日は異なる。いったいどういうことか。
8月15日とはいったいどんな日なのか、改めて歴史を振り返りたい。


1945年のこの日の正午、昭和天皇がラジオを通じ、国民に対して戦争に負けたことを告げた。「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」で知られる「玉音放送」だ。

玉音放送の中では、連合国側が日本に降伏を勧告し、戦後処理の方針を示した「ポツダム宣言」を受諾することも触れられた。

つまり、この日は当時の多くの日本国民が戦争終結を知らされた日と言える。

ポツダム宣言受諾の昭和天皇の詔勅

ポツダム宣言受諾の昭和天皇詔勅朝日新聞社

 

だが、海外では一般的に、9月2日を戦争終結の日と位置づけている。1945年のこの日、日本が降伏文書に署名したからだ。

降伏文書の調印式は東京湾に浮かぶアメリカの戦艦ミズーリ号上であった。日本からは政府代表の重光葵(まもる)・外務大臣と、軍代表の梅津美治郎参謀総長が出席、文書に署名した。

アメリカなど多くの国がこの日を「対日戦勝記念日」(Victory over Japan Day=V-J Day)としている。

米戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書に調印する重光葵外相。テーブルの反対側で立っている左側の軍人はダグラス・マッカーサー元帥

米戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書に調印する重光葵外相。テーブルの反対側で立っている左側の軍人はダグラス・マッカーサー元帥=1945年9月2日午前9時すぎ、神奈川県横須賀沖

 

一方、中国では翌日の9月3日が戦勝記念日だ。2014年2月に全国人民代表大会全人代)が決定し、毎年、この日に記念行事を行うと定めた。

ロシアは2010年、9月2日を「第二次世界大戦終結の日」としたが、2020年になって、ソ連時代に記念日とされてきた9月3日に戻した。

日本と同じ8月15日を採用する国もある。

イギリスはこの日を対日戦勝記念日としている。韓国はこの日を日本の植民地支配からの解放日とし、「光復節」として公式行事を開いている。北朝鮮もこの日を祝日としているが、光復節とは呼ばず、単に解放記念日としている。

日本の植民地だった台湾には、韓国と同じように「光復節」があるが、日付は10月25日だ。1945年のこの日、台湾における降伏受諾式典が開かれたからだという。

 

「8月15日」=「終戦の日

この等式がなぜ疑いようのない「常識」としてあり続けているのか。

歴史学習の視座から、その深淵を問うてみる必要がありそうです。