教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 8月21日

女子大生誕生の日

 

1913(大正2)年8月21日、東北帝国大学(現:東北大学)が女子受験生3人の入学試験合格を官報に告示し、日本初の女子大生が誕生しました。

東北大学が「8月21日」を「女子大生の日」として日本記念日協会に申請し、2020年7月に登録されました。

 

合格した女子大生は、黒田チカ・牧田らく・丹下ウメの3人で、黒田と丹下は化学科、牧田は数学科でした。また、黒田は日本初の女性化学者となり、お茶の水女子大学名誉教授を務めました。

初の女子学生・黒田チカを含む学生集合写真(東北大学HPより)

 

関連する記念日として、4月20日の「女子大の日」があります。これは1901(明治34)年4月20日に日本初の女子大学である日本女子大学校(現:日本女子大学)が開学したことに由来します。

 

「女子大の日」と「女子大生の日」について整理をしておきます。

日本女子大学の「建学の精神」には次のようにあります。

人格教育を基本とする女子高等教育の発展
日本女子大学が創立された1901(明治34)年の当時は、あらゆる面で男女の不平等がみられ、女子の高等教育に対する一般の理解も、きわめて低い時代でした。そのような時代において、わが国で最初の組織的な女子高等教育機関である日本女子大学校を開校した成瀬仁蔵は、人格教育を基本とした女子高等教育のモデル校として、本学の発展と充実に努めました。

つまり、男女不平等(女性差別)社会にあって、女子の高等教育を担おうとしたということです。

これに対して当時の東北帝国大学は男子学生のみの大学であり、そこに3人の女子学生が誕生したということです。東北大の記念日申請は男女共同参画推進センター(現ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン(DEI)推進センター)が担っており、そのことがこの記念日の意味と意義を語っているように思います。

東北大学のHPより、「黒田チカ」のことを紹介します。

黒田チカについて
黒田チカは、1884年佐賀県の士族の家に生まれました。地元の佐賀師範学校女子部を卒業し、小学校の教師を務めた後に、上京、女子高等師範学校理科に進み、福井での教師経験を経て、東京女子高等師範学校助教授に着任することになります。この時期、東京女子高等師範学校に講師として出講していた東京帝国大学の長井長義教授、第五代校長であった中川謙二郎らの勧めや理解もあって、1913年東北帝国大学を受験、日本で最初の女子大学生となります。このとき29歳、社会人となってからの大学挑戦でした。東北帝国大学では化学の眞島利行教授のもとで学び、1916年には日本で最初の女性での大学卒業生となり(当時の大学は3年制)、学士号を授与されます。卒業後は母校である東京女子高等師範学校に戻り教授職を務める傍ら、1921年からイギリスのオックスフォード大学に留学、1924年から理化学研究所の嘱託として紅花の色素研究に従事していくことになります。こうした研究の甲斐もあって、1929年には東北帝国大学から学位論文「紅花の色素カーサミンの構造」で理学博士を授与されることになりました。これは日本で二番目の女性の博士号取得であり、化学分野では日本初となる快挙でした。
 その後も黒田チカはライフワークとして色素研究を進めていくこととなり、戦後は東京女子高等師範学校から新制大学となったお茶の水女子大学の教授職を担うことになります。こうした中、黒田チカは、タマネギの皮から得られるケルセチンに血圧降下の効果があることに着想を得、4件の特許を取得、1956年には日米薬品株式会社から血圧降下剤「ケルチンC」が発売されることになりました。

東北大学男女共同参画推進センター(現ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン(DEI)推進センター)では登録初年度の2020年8月21日に、記念シンポジウムを開催しました。シンポジウムには、最初の女子大生の一人である黒田チカのお孫さんにあたる名古屋大名誉教授の黒田幸太郎氏をお招きし、講演をいただきました。黒田氏の講演では、「黒田チカの生涯には、周りで支えてくれた多くのメンターの存在がいた」ことなどが語られました。

つまり、黒田チカさんは男子学生の中で学び、男性化学者の中で働いたわけです。お孫さん言われる「周りで支えてくれた多くのメンターの存在」の多くは男性であったと思われます。

ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン」とは、多様な人が働く組織の中で、それぞれの人に合った対応をすることで、それぞれがいきいきと働き、成果を出し続けるための考え方とされています。

「女子大生の日」に込められた思いを考え合いたいと思います。