今回は柏原宿から垂井宿まで歩いた2025年5月14日のたびの関ヶ原宿~垂井宿 (1里14町 5.7km)部分。
中山道を歩いていると、「○○陣地跡」という案内がいくつも出てくる。街道から離れているものが多いのでここでは取り上げていないが、名前を見ているだけでも面白い。私は京から江戸に向かって歩いているので、最初は西軍の武将の名前が出て来て、宿の中心を過ぎると東軍の名前になっていった。
関ヶ原宿の本陣跡から2㌔ほど進んだところに、「徳川家康最初陣跡」がある。
桃配(ももくばり)山という小山がそれで、大海人皇子がここに布陣して兵士に桃を配って勝利を得たという故事がある。家康はこの故事にならって最初の布陣を行った。
歴史というのは実に面白い。
野上に残る松並木。樹齢300年。この辺りに山内一豊が布陣した。
垂井の一里塚。国史跡で南塚を残している。江戸日本橋から112里目。
関ヶ原合戦の際、浅野幸長はこの辺りに布陣し、南宮山の毛利秀元等西軍に備えた。
広重画「垂井宿」。
西見付を描いている。石垣の上に土塁を築いた見付を両側に、中央には参勤交代の先頭、そして出迎える宿役人を描写している。
垂井宿西見付跡から。広重とは逆方向の写真になる。
垂井宿、本陣跡周辺の街並み。
八木牧夫さんの『中山道六十九次』に、「垂井宿は、…中山道で唯一大八車の使用が許可された」とある。裏を返せば、他では大八車の使用が禁止されていたということになる。気になったので調べてみた。
大八車は長さ240cm、幅75cm程度の荷車で、江戸で使われた。大阪ではべか車が使われ、前で綱を引いて後ろから押した。これは長さが180~360cmあって、100kgほどの荷を載せられた。(下の写真は、NHKデータ情報部編『ヴィジュアル百科江戸事情 第二巻産業編』に掲載のもの)
江戸幕府は、中山道に限らず街道での荷車(大八車・べか車)の使用を禁止した。
禁止の理由はいくつかあったようだ。
1つには、街道の路面を保つという政策がある。大型トラックの過積載で舗装道路が傷んでいる今日から考えると、荷車が走ると道がだいなしになるという考えは一応理解できる。
政治的には、宿駅制度の問題がある。宿駅の機能は運輸・通信・休泊を主とし、運輸と通信のためには宿人馬が、休泊には本陣・脇本陣などが置かれた。寛永期以降には、1日に東海道は100人・100匹、中山道は50人・50匹、他の街道は25人・25匹を常備することとされた。馬方は幕府の伝馬役を勤め、水運を担った舟方は幕府に運上金を納めていた。「規制緩和」は昔も今も悩ましい問題のようである。
地理的には急峻な地形が荷車輸送に適さないということもあったし、荷車の川渡しは不可能だった。川の問題で言えば、100kgの荷を積んだ荷車の通過に耐えるだけの架橋技術がなかったことも一因である。
なお、交通量が増大した江戸時代の末期、宿駅財政の困窮を背景として、宿駅の側から街道筋での荷車使用を許可する請願運動が起こるようになり、1862(文久2)年に幕府が全面許可している。
詳細は、以下の文章を参照のこと。
PDF「幕末期における旅人の移動手段としての荷車の登場」
PDF「道から見た江戸時代」
この先、東見付を過ぎると相川の渡しになる。
NHK・BSの「こころ旅」風に言えば、「2025年春の旅」はここまで。続きは「秋の旅」で…。
5月14日、柏原宿から垂井宿まで13.1kmのたびを終えて米原に戻る。1日の歩数、22602歩。2日間で28.1km、48697歩。
京都・三条大橋から垂井宿までの「2025年春の旅」は、街道部分に限るとちょうど100kmになった。それは中山道全体の5分の1にも満たない数字であり、しかもこの街道の大きな難所を含んでいない。中山道を歩いたなどと言える状況ではないが、それでも言えることがある。
街道歩きはおもしろい。
歴史やら地理やら、その他諸々雑学の「教材」が、至る所に転がっている。元教員であった私から見ると、これほど楽しい「教材研究」はない。授業の幅や厚みがずいぶん増しただろうなと、もはやありえない空想をする。現役の先生たちには難しいことだろうが、時間をかけて歩いてほしいと切に思う。