教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 2月11日

建国記念の日 

 

建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う日」として、1966(昭和41)年に定められました。

 

日本の「建国」がいつかははっきりしません。「建国記念日」ではなく「建国記念の日」となっているのはそのためです。

では、「建国をしのび、国を愛する心を養う日」がなぜ2月11日なのかというと…。

 

以下、「Wikipedia」より引用します。

建国記念の日

建国記念の日(けんこくきねんのひ)は、日本の国民の祝日の一つ。

国民の祝日に関する法律祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条は、建国記念の日の趣旨について、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定している。1966年(昭和41年)の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、翌1967年(昭和42年)2月11日(政令により規定)から適用された。

制定
世界で「建国記念日」を法律で定めて祝日とする国家は多いが、何をもって建国記念日とするかは、国によって異なる。日本では、建国の日が明確ではないが、建国をしのぶ日として法律に基づき「建国記念の日」が定められた。日付は政令に基づき、建国神話(日本神話)を基に日本建国日とされていた紀元節(1948年(昭和23年)7月、祝日法制定に際し廃止)と同じ2月11日にされた。

2月11日は、神武天皇(日本神話の登場人物であり、古事記日本書紀で初代天皇とされる)の日本書紀における即位日(辛酉年春正月、庚辰朔、すなわち、旧暦1月1日(『日本書紀』卷第三、神武紀 「辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮」))の月日を、明治時代にグレゴリオ暦での具体的な日付として推定したものである。

法令上の位置づけ
他の祝日が祝日法に日付を定めているのに対し、本日のみが「政令で定める日」と定められている。この規定に基づき、佐藤内閣が建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定め、「建国記念の日は、二月十一日」とした。

沿革
上述のとおり「建国記念の日」と定められた2月11日は紀元節と同日である。この祝祭日は、1948年(昭和23年)に制定された国民の祝日に関する法律附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止されたことに伴い、廃止された。

国会での審議
紀元節復活に向けた動きは、1951年(昭和26年)頃から見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党衆議院議員らによる議員立法として「建国記念日」制定に関する法案が提出された。しかし、当時野党第1党の日本社会党保守政党の反動的行為であるとして反対した為、衆議院では可決されたものの、参議院では審議未了廃案となった。

その後、「建国記念日」の設置を定める法案は、9回の提出と廃案を繰り返すも、成立には至らなかった。1963年(昭和38年)6月20日には、衆議院内閣委員会において、委員長永山忠則が法案の強行採決を行ったが、これに抵抗した社会党議員らに体当たりされ、入院するという一幕もあった。

具体的に何月何日を記念日とするかについても、議論があった。日本社会党日本国憲法が施行された5月3日(憲法記念日)、公明党(旧・公明政治連盟)設立者、創価学会会長の池田大作サンフランシスコ講和条約が発効した4月28日をそれぞれ提案した。民社党聖徳太子が十七条憲法を制定したとされる4月3日を主張し、朝日新聞も社説で同じ日付を提案した。

結局、名称に「の」を挿入した「建国記念『の』日」として“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるようにし、具体的な日付の決定に当たっては各界の有識者から組織される審議会に諮問するなどの修正を行い、社会党も妥協。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。

同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第2条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない。」と定めた。当の「建国記念日審議会」は、学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が1966年(昭和41年)12月9日に提出された。同日、佐藤内閣は「建国記念の日は、二月十一日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を定めて公布し、即日施行した。

建国記念日制定運動
建国記念の日制定に至る活動で神社本庁が1955年に紀元節奉祝国民大会運営委員会を設立するなど、主要な役割を果たした。さらに日本郷友連盟日本遺族会生長の家など保守系団体が加わり、建国記念の日制定を求める世論形成に寄与した。

サンフランシスコ講和条約が成った1951年前後から神道界、保守系・右翼系の人物や団体が「紀元節復活運動」を始めた。神社界をはじめとする諸団体が「紀元節奉祝会」を結成(事務局は神社本庁)し、全国的に活動した。1954年に神社本庁紀元節祭を行い、傘下の神社に2月11日を紀元節という名前で祝うよう通達した。生長の家谷口雅春が1955年(昭和30年)に「日本建国の理想の復活」を謳って以後、生長の家信者は紀元節の復活を求める運動をした(谷口にとって、建国記念の日制定は明治憲法復活と日本国憲法廃止のための第一歩であった)。これに対し、野党、民主団体、労働組合キリスト教者、歴史学者などが紀元節復活反対を表明した。

 

 

きょうは何の日 2月8日

郵便マークの日 

 

1887(明治20)年2月8日、当時の逓信省は「今より (T) 字形を以って本省全般の徽章とす」とした告示しました。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

1887年(明治20年)のこの日、「郵便マーク(〒)」が決定した。

逓信省(現:総務省日本郵政)が逓信の「てい」にちなんで甲乙丙丁の「丁」と決定し、2月8日に告知した。しかし、世界共通の料金不足マークである「T」と紛らわしいことが分かり、「丁」ではなくカタカナの「テ」を図案化した「〒」とすることが2月19日付けの官報で発表された。

「郵便マーク」と呼んでいるが、正確には日本工業規格(JIS)において「〒」は「郵便記号」と呼称されており、「郵便マーク」は「〠」(顔郵便マーク)を指す。また、郵便記号(〒)は日本国独自のものであり、日本国外では郵便記号として利用することはできない。

 

きょうは何の日 2月5日

長崎26聖人殉教の日 

 

1597年2月5日(慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命によって、京都と大阪で捕らえられ歩いて長崎まで護送されたフランシスコ会の宣教師6人、イエズス会パウロ三木ら3人、信徒17人が磔(はりつけ)の刑に処せられました。
1862年ローマ教皇ピウス9世によって26人全員が聖人に列せられ、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになりました。

 

長崎県のHPより紹介します。

日本二十六聖人殉教地
キリシタン禁教令により処刑された26人の殉教の地

元治2年(1865)、大浦の台地に「二十六聖人教会」(大浦天主堂)が建てられた。昭和25年(1950)、ローマ教皇ピオ十二世は、この地をカトリック教徒の公式巡礼地として指定した。殉教地は現在の西坂公園にあたり、昭和36年(1961)、列聖百年を記念して舟越保武作の記念碑が建設され、昭和37年(1962)今井兼次の設計による資料館と聖堂が建てられた。

 

きょうは何の日 2月2日

交番設置記念日 

 

1881(明治14)年2月2日、1つの警察署の管内に7つの「交番」を設置することが定められました。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

町の中に交番の建物を置き、そこを中心に制服の警察官が活動するという交番の制度は、1874年(明治7年)に東京警視庁が設置した「交番所」(交番舎)が世界初のものだった。当初は、建物はなく、街中の交差点などに警察署から警察官が出向いていたが、1881年より常設の建物を建てて警官が常駐する現在のような制度になった。

1888年明治21年)10月に全国で「派出所」(警察官の詰め所)、「駐在所」(外勤警察官が居住する施設)という名称に統一されたが、「交番」という呼び名が定着し、国際的にも通用する言葉になっているということから、1994年(平成6年)11月1日に「交番」(KOBAN)を正式名称とすることになった。

 

関連記事が「6月17日 おまわりさんの日」にあります。

yosh-k.hatenablog.com

おまわりさんの日

 

おまわりさんの日」は、1874(明治7)年6月17日に日本で初めて巡査制度が導入されたのと同時に、警察官(おまわりさん)という職業が生まれたことに由来しています。同年、交番制度もはじまりました。

 

「巡査」の語源について、「Wikipedia」には次のようにあります。

元は邏卒(らそつ:“巡邏の兵卒”の略)と称した。明治の頃、patrolに対する適切な日本語訳が存在せず、「察」(じゅんらささつ)を当て嵌めその省略形としたことが呼称の起こりである。

デジタル大辞泉によると、「巡邏」は、

1 見回って警戒すること。見回り。「暮れの町を巡邏する」
2 江戸末期、江戸市中を巡回警備した役人。邏卒

「査察」は、

状況を視察すること。物事が規定どおり行われているかどうかを調べること。

とあります。

警察官は市中を「巡邏する人」であり、それが「お巡りさん」「おまわりさん」という呼び方の起こりになったようです。

 

巡査制度」について「日本大百科全書(ニッポニカ) 」より引用します。

警察官の階級の一つ。巡査部長の下位にあり、全警察官定員の3割を占める。巡査の名称が最初に用いられたのは、1872年(明治5)の警保寮職制(太政官(だじょうかん)布告)においてであるが、当時の巡査は一等から三等までの3階級に分かれており、現在の巡査と異なったものであった。現在、警察官は、原則として巡査の階級で採用され、警視庁警察学校または道府県警察学校に入校、半年か10か月の教育訓練で第一線に配属される。なお、巡査長の制度が1967年(昭和42)から設けられているが、階級ではなく、巡査の実務の指導にあたる者の職名である。


警察庁HPより引用します。

交番・駐在所の歴史

 我が国に交番・駐在所が誕生したのは、明治時代である。
 明治4年、明治政府は、東京で3,000人の羅卒(らそつ)(現在の警察官)を採用し、屯所(とんしょ)(現在の警察署)を中心にパトロール等を行わせることとした。
 その後、東京警視庁が設置された7年には、羅卒(らそつ)を巡査と改称するとともに、巡査を東京の各「交番所」に配置した。ここでいう「交番所」には、当初は、現在の交番のような施設は置かれておらず、巡査が活動する場所として指定がなされているだけであった。巡査は、交代で屯所(とんしょ)から「交番所」まで行き、そこで立番等の活動を行った。
 同年8月、東京警視庁がこの「交番所」に施設を設置することを決定し、そこを拠点に周辺地域のパトロール等を行うこととなった。以降、施設の置かれた「交番所」が増えていき、14年には、「交番所」は「派出所」と改称された。
 「派出所」が全国に設置されるようになったのは21年のことであり、同時に、「駐在所」も設置された。「派出所」の施設を拠点に交替制勤務を行う警察官と、「駐在所」の施設に居住しながら勤務する警察官が、地域社会の安全の確保に当たるという、交番・駐在所を中核とする現在の地域警察の原型がここに生まれた。
 それから100年以上の月日を経て、平成16年4月1日現在、全国に交番は6,509か所、駐在所は7,592か所設置されている。この数は、全国の市町村数の約5倍であり、正に全国津々浦々に交番・駐在所が設置され、地域住民の生活に密着した警察活動の拠点となっている。

 

警視庁HPより引用します。

 交番と駐在所はどこが違うのですか。
A 交番や駐在所は、地域住民の身近な所にあり、警察官が勤務して、地域住民の皆さんのくらしの安全を守る活動をする拠点となっています。
交番は、主として都市部に置かれ、警察官が交替で警戒活動を行っています。
駐在所は、原則として1人の警察官が家族とともに地域に居住し、地域の安全を守る活動を行っています。

Q 交番制度が生まれた国はどこですか。
A 街の中に交番を置き、そこを中心に制服の警察官が活動するという制度は、明治7年に日本(東京)で生まれました。
当初は、建物はなく、街なかの交差点などに警察署から出向いて街を守っていましたが、雨の日や風の日など大変だったので、明治14年から交番の建物が建てられ、今のような制度で活動することになりました。

Q 「交番」という名前の由来はなんですか。
A 明治7年に東京警視庁に「交番所」が初めて設けられましたが、当時は、警察官が警察署から特定の場所に出向いて交替で立番する形をとっていました。
「交番所」の名前の由来は、「交替で番をする所」ということから「交番所」といったものと思われます。
この交番所はその後、建物を建てて、そこで仕事をする現在の形に変わり、明治14年3月に派出所と改称され、明治21年10月には「派出所」、「駐在所」という名前で全国統一されましたが、警視庁創設当時の「交番所」という名称がそのまま「交番」という呼び名で残りました。
なお、「交番」という名称が市民の間に定着し、国際語としてもそのまま通用するほどになっていることから、平成6年7月に正式名称を「派出所」から「交番」に改めると同時に近年、来日する外国人の増加に伴い、「交番」とかかわるケースも多くなってきていることから、外国人にも分かりやすいようにローマ字で「KOBAN」と書いたシンボルマーク入り案内表示板を設置しています。

Q 交番のシンボルである「赤灯」はいつごろからはじまったのですか。
A 明治7年8月に小区巡査屯所(現在の警察署)の目印として掲げたのがはじまりです。当時の東京警視庁は、管下を6大区、96小区に分け羅卒屯所(後に巡査派出所と改称)が設置されていました。明治14年4月に巡査派出所は、「紅ガラス」4枚、「白ガラス」2枚の六角形でした。
そして、大正15年2月に警察署、交番、駐在所に名称変更になった際に、赤色円形を目印として掲げました。
現在は、赤色円形のものは、ほとんどなくなっていますが、今も「赤灯」は地域の人々の安全・安心の灯として交番のシンボルとなっています。

Q なぜ、「KOBAN]と書くのですか。
A ある国の国有の文化などを類似のない外国に紹介するときは、無理に訳さないで発音のまま紹介しています。日本では、「相撲(SUMO)」「歌舞伎(KABUKI)」などがあります。
日本独自の制度である交番制度は、「KOBAN]システムとして、米国の大学教授D・H・ベイリー氏によって紹介されたり、英語文献にもKOBANの表記が見られ、次第に国際語として市民権を得るようになりました。

 

きょうは何の日 1月29日

南極昭和基地開設記念日

 

1957(昭和32)年1月29日、日本の南極観測隊が南極・オングル島に上陸し、「昭和基地」開設を決定した上陸式が行われました。「昭和基地開設記念日」はそのことに由来しています。

昭和基地」の名称は、建設された時の元号「昭和」にちなんでいます。南極観測船「宗谷」の老朽化・退役により、1962(昭和37)年に昭和基地は閉鎖し観測も中止されます。その後、砕氷船「ふじ」の就役によって1966(昭和41)年に基地は再開され現在に至っています。

 

旅行読売 × 読売旅行「たびよみ」のHPに「南極観測の拠点・昭和基地を知ろう」という記事が掲載されています。一部を抜粋して紹介します。

1月29日は「南極の日 昭和基地開設記念日」です。1957(昭和32)年のこの日、日本の南極観測基地昭和基地」が開設されました。今回は、南極観測隊の越冬隊に3回(第15次隊、第22次隊、第34次隊)参加し、隊長・副隊長を務められた佐藤夏雄名誉教授(国立極地研究所元副所長・現特別客員研究員)に、昭和基地についてのお話をうかがいました。


広さは1.8平方キロ! 68もの建物が立つ昭和基地
編集部:昭和基地の広さはどのくらいあるのでしょうか?

 

佐藤:越冬隊員が日常的に生活や観測・業務をしている活動範囲は、東西に約400メートル、南北に約400メートルです。通信アンテナ、燃料タンク、ヘリポート、夏季宿舎、観測設備としての大型アンテナなど各種アンテナの場所を含めた広さは、東西に約1500メートル、南北に約1200メートルです。

 

編集部:1キロ四方を超えるとは広いですね。その基地にはどんな建物があるのですか?

 

佐藤:昭和基地には現在、68棟の建物があります。中心的な建物は3階建ての管理棟で、食堂や厨房、隊長室、通信室、医務室、図書室、娯楽室などを備えています。そのほか、居住棟、通路棟、発電棟、作業工作棟、車庫、汚水処理棟、焼却炉棟、廃棄物保管庫、倉庫棟、環境科学棟、観測棟、情報処理棟、衛星受信棟、電離層棟、地学棟、基本観測棟、自然エネルギー棟などがあります。

 

編集部:昭和基地の建設の際は、あらかじめ、どこに何を建てるということが決まっていたのでしょうか?

 

佐藤:建物4棟や気象観測用タワーなどの設置はあらかじめ決まっていました。しかし、どこに建てるかは決まっていませんでした。日本が第1次南極観測で割り当てられたプリンスハラルド海岸の詳しい事前情報が無かったので、現地に到着してから適地を探すことになっていました。オングル島に日章旗を掲げて「昭和基地」と命名し、正式な上陸式を行ったのが1957(昭和32)年1月29日。基地の詳細な場所が正式に決定したのはその2日後の1月31日です。そこから基地の建設や越冬用機材・物資の搬入作業が始まり、その作業は砕氷船「宗谷」が離岸した2月15日まで続きました。基地に搬入した物資の総重量は151トンにも達し、約2週間という短期間で無線棟、主屋棟(食堂棟)、居住棟、発電棟の4棟を建設しています。

 

編集部:プリンスハラルド海岸付近は、南極の中でも到達するのが厳しいところだったと聞いたことがあります。どんな点が厳しかったのでしょうか?

 

佐藤:プリンスハラルド海岸は、それまでアメリカやイギリスなどが7回も上陸を試みるも、いずれも氷に阻まれて失敗している場所です。そのため、米海軍の報告書にはこの海岸は接岸不可能となっていました。また、この地域に関する情報は、ノルウェーの調査船が沖合を航行した時に、小型飛行機で撮影した航空写真しかなかったこともあり、砕氷船「宗谷」による接岸は大変困難であることが予測されました。

 

無線棟を建設する第1次隊

 

編集部:実際にたどり着くことも相当な困難だと思いますが、その前の準備段階で大変だったことは何ですか?

 

佐藤:南極観測の参加を政府が正式決定してから、南極へ向けて東京・晴海埠頭からの出港まで、わずか1年しかありませんでした。南極観測の参加は全くの未経験であり、かつ広範囲な関連分野で諸準備を急ぐ必要がありました。大きな問題点は、砕氷船をどのように準備するか、予想される巨額な経費をどのように調達するかです。最終的に砕氷船は、海上保安庁に所属する灯台補給船「宗谷」を大改造して使用することになりましたが、工期が1年足らずと短期間だったので困難を極めました。

 

編集部:もう一つの問題点だった経費はどのくらいかかったのでしょうか?

 

佐藤:国から支払われた総経費は約9億円です。そのなかで砕氷船「宗谷」の改造費は5億円を超え、昭和基地の建築関係の予算は約2500万円(文部省発行の『南極六年史』より)。参考までにその当時の国家予算は約1兆円です。

 

編集部:2020年度の国家予算は約102兆円ですから、単純比較すると総経費は900億円ほど……費用の膨大さがわかりますね。

 

佐藤:その他にも国内訓練や装備などにも多くの経費が必要でした。これらは国民を含めた多くの人々からの寄付により賄われました。寄付の総額は1億4000万円を超え、そのうちの1億円が朝日新聞社からのものです。準備でいえば、極寒地で経験のなさを補うため、大学の山岳部経験者が中心となり進めました。そのまとめ役を務めたのが西堀栄三郎さん、第1次南極観測隊の副隊長であり、越冬隊の隊長です。

 

南極観測によって生まれたプレハブ住宅
編集部:昭和基地には68棟の建物があるということですが、それらの建物は隊員が建てたのですか?

 

佐藤:通常、南極観測には観測隊員として、建築関係の専門家が1人参加します。この専門家の指揮の下に、観測隊員が中心となり、南極観測船「しらせ」乗員の助けも借りて作業をします。素人の観測隊員の集まりでも建設作業ができる工法があり、これを使って3階建ての管理棟も建設しています。

 

編集部:1人の専門家の指導があれば、素人でも3階建ての建物が建てられるのですか⁉ そんな画期的な工法とはどのようなものなのでしょうか?

 

佐藤:第1次隊以来用いられている、板パネルを組み合わせるプレハブ住宅の工法です。土台は直径60センチほどの円形チューブのピア基礎に鉄筋コンクリートを流し込み、床の高さを2〜3メートルにした高床式です。高床式にすることで風通しを良くして、ブリザードによる積雪が建物の後部に溜まらないようになっています。土台の上に床パネルを張り、その後に壁パネル、最後に屋根パネルを組み立てます。

第1次隊が建設した3棟のパネル組立式家屋は、日本建築学会南極建築委員会が基本設計を行い、竹中工務店が実施設計と製作を担当して開発した日本初のプレハブ建築です。あらかじめ国内で組み立て式部材を製作し、組み立てる訓練をした後に解体して運び、現地では部材の結合金具で留めると完成するように工夫されています。精選された材料を用い、日本で製作した建築部品を南極へ輸送し、建設工事には不馴れな観測隊員が行うので、部品は軽くて丈夫なこと、組み立てが簡単なこと、そして南極の建物として最も重要な役割である雪や強風・寒さから観測隊員を守ることが求められました。

 

第1次隊が完成させた建物

第1次隊によって建てられた主屋棟(食堂棟)。のちに娯楽棟(通称:バー)として使用され、現在は倉庫として使っている

編集部:組み立ての仕組みを簡素化することと、南極の厳しい気象に耐えることの二つは両立するのが難しそうですが、どのような工夫があったのでしょうか?

 

佐藤:設計時は昭和基地周辺の気象データが十分でなく、設計条件として最大積雪量2メートル、最大風速80メートル/s、最低気温-60℃に耐え、居住性を確保できる建物性能が必要でした。日本初の高性能プレハブ建築は、外壁・屋根・床に利用したパネルは厚さ10センチで、桧(ひのき)の枠材の両側に樺(かば)材の合板を張り付け、間に断熱材として西ドイツ(当時)製の発泡スチロールを挟んでいます。サイズはヘリコプターでも運べるよう、ヘリの搬出入ドアサイズを考慮し、1枚121センチ×242センチに統一。隊員2~3人で組み立てられるように、重量は4人で運べるよう1枚80キロ以下に制限しています。より軽く、より硬く、耐水性に優れた部材として、芯材は尾州桧(びしゅうひのき)の北面材を使用、表面には樺のベニヤを6枚重ねに接着した合板を採用。パネルの繋ぎ目は雪風が入らないようにゴムを間に挟み、締め付け金具で簡単に組み立てられます。

 

 

 

きょうは何の日 1月26日

文化財防火デー 

 

1949(昭和24)年1月26日、奈良県斑鳩町法隆寺金堂から出火し、国宝の十二面壁画の大半が焼損しました。

 

文化財防火デーは、文化財を火災・震災その他の災害から守るとともに、日本国民の文化財愛護思想の高揚を図る目的で、1955(昭和30)年に当時の文化財保護委員会(現在の文化庁)と国家消防本部(現在の消防庁)が制定しました。

 

東京消防庁のHPより引用します。

文化財防火デーの契機となった法隆寺金堂火災
昭和24(1949)年1月26日、奈良県斑鳩町法隆寺金堂から出火し、国宝の十二面壁画の大半が焼損しました。

法隆寺金堂火災(毎日新聞社提供)

法隆寺金堂火災(毎日新聞社提供)

当時ロンドン・タイムスの東京支局長であったフランク・ホーレー氏は
法隆寺は外国人にとっても非常に興味を持たれ、こんどの戦争中もフランスではパリ大学のオーボァイエという若い婦人が“金堂の研究”を発表、アメリカでも最近ワシントン博物館のアッカー氏が、日本での金堂研究を翻訳して出版したところ、大変売れ行きが良かったというほどで、こうした人たちが法隆寺が焼けてしまったと聞いたらどんなに悲しむことか。
・・・日本人はこうした“貴重なもの”の取扱いが全く下手でデタラメだ」と語っています。(1月27日の朝日新聞より)

法隆寺金堂の火災があって間もなく、国家消防庁長官(現総務省消防庁長官)は文部次官にあてて「国宝建造物等の防火態勢強化について」という通達を送り、その前文で「先般の法隆寺金堂の出火については、当庁においても早速係員を派遣し、現地調査すると共に、現存するこの種国宝の一部について検討せしめた所、その防火態勢はいずれも憂慮すべき状態にあり、今後大いに改善を図る必要が痛感された次第である」と述べています。

このような背景から、文化財防火デーが、昭和30(1955)年1月26日に定められ、これに関する文書が、国家消防本部(現総務省消防庁)と文化財保護委員会の連名で出されました。

それによると、趣旨は「1月26日は、昭和24年に法隆寺金堂が罹災した日にあたり、また火災の多い時節でもあるので、毎年この日を文化財防火デーとし、全国的に文化財防火運動を展開して、文化財を火災から護ろうとするにある」として、この運動の趣旨の普及徹底を図りながら、防火施設の点検と整備を行うよう指導するとともに、防火演習などを実施するように求めています。

 

 

きょうは何の日 1月23日

八甲田山の日 

 

1902(明治35)年1月23日、青森県の「八甲田山」へ雪中行軍に出かけた兵士210名が猛吹雪の中で遭難しました。八甲田雪中行軍遭難事件です。

訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故です。

 

この死の行軍は、1971(昭和46)年に刊行された新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』の題材となり、1977(昭和52)年にはこの小説を原作として『八甲田山』のタイトルで映画化もされました。

 

八甲田雪中行軍遭難事件については、「Wikipedia」にくわしくまとめられています。

同ページより、「遭難経緯」部分を引用します。

遭難経緯
第1日
1月23日午前6時55分に歩兵第5連隊は青森連隊駐屯地を出発。田茂木野において地元村民が行軍の中止を進言し、もしどうしても行くならと案内役を申し出るが、これを断り地図と方位磁針のみで厳寒期の八甲田山踏破を行うこととなった。

冬の八甲田山

天候悪化
午前中、小峠までは障害もなく進軍できたが、ソリ隊が遅れ始めたため大休止とし昼食を摂った。この時、天候が急変し、暴風雪の兆しがあらわれたことから、永井軍医の進言により、将校間で進退についての協議を行った。装備の乏しさと天候悪化を懸念し、将校らは駐屯地へ帰営することを検討したが、田茂木野村ではすでに案内人を断っていたほか、見習士官や長期伍長など下士を中心とする兵たちの反対もあり、行軍を続行した。

隊は悪天候と深雪などの苦難を経て、大峠から6kmの馬立場まで進んだ。ここから鳴沢にかけては積雪量が格段に増したために速度が落ち、食料と燃料などを積んだソリ隊は本隊より2時間以上遅れることとなった。神成大尉は第2、第3小隊計88名をソリ隊の応援に向かわせると共に、設営隊15名を田代方面に斥候を兼ねた先遣隊として先行させた。

午後5時頃、馬立場から鳴沢へ向かう途中でソリによる運搬を断念、積み荷は各輸送隊員が分担して持つこととなった。先遣隊として先行していた設営隊は進路を発見できず、道に迷っていたところを、偶然本隊と合流した。見習士官が先導する第2の斥候隊を派遣したが、日没と猛吹雪により田代方面への進路も発見できなくなったため、やむなく隊は露営地を探すこととなった。

第1露営地
午後8時15分、田代まであと1.5kmの平沢の森を最初の露営地と定めた。『遭難始末』によれば、幅2m、長さ5m、深さ2.5m、都合6畳ほどの雪壕を小隊毎に5つ掘り、1壕あたり40名が入った。覆いや敷き藁もなかったため保温性に乏しく、座ることもできなかった。

午後9時頃までには行李隊も全て露営地に到着し、各壕に餅と缶詰、および木炭約6貫匁(約22.5kg)ずつが分配された。しかし40人分を賄うには乏しい量であり、炉火も各壕で1つずつしかおこせなかったため交代で暖を取ることとなったが、着火に1時間余りを要し、炊事用の壕を掘ろうとするも、8尺(約2.4m)掘っても地面に届かず、やむなく雪上にかまどと釜を据えて炊事作業を始めた。炊事用の水も火で雪を融かして得る必要があったが、まず火が容易に点かず、さらに火で床の雪が融けて釜が傾くなど問題が続発し、炊事作業は極めて難航した。

第2日
帰営決定
1月24日午前1時頃、ようやく1食分の生煮えの飯が支給された。炊飯後の釜で温めた酒も分配されたが、異臭を帯びていて飲めなかった。将兵は壕の側壁に寄り掛かるなどして仮眠を取ったが、気温零下20℃以下に達しており、眠ると凍傷になるとして軍歌の斉唱や足踏が命じられた。このため長くても1時間半程度しか眠れなかった。出発は午前5時の予定だったが、多くの将兵が寒気を訴え、凍傷者が出る恐れが出てきた。午前2時頃、事態を重く見た山口少佐ら将校たちの協議の結果、行軍の目的は達成されたとして帰営を決定。隊は午前2時半に露営地を出発した。

遭難
隊は馬立場を目指すが、午前3時半頃に鳴沢付近で峡谷(ゴルジュ)に迷い込んでしまい、やむなく前の露営地に引き返すこととなったが、この時佐藤特務曹長が田代への道を知っていると進言。山口少佐は独断で「然らば案内せよ」と命じた。しかし佐藤は道を誤り、沢への道を下ったところが駒込川の本流に出てしまった。その頃は全員が疲労困憊しており、隊列も揃わず統制に支障が出始めた。山口は佐藤の言が誤りだったことに気付くが、元来た道は吹雪により消されており、隊は遭難状態となった。

崖登り
やむなく隊は崖をよじ登ることとなったが、登れずに落伍する者が出てきた。駒込川の沢を抜ける際、第4小隊の水野忠宜中尉(華族紀伊新宮藩藩主水野忠幹の長男)が卒倒して凍死し、将兵らの士気が下がった。

彷徨
隊は崖を登って高地に出たが、猛烈な暴風雪に曝されたため、目標を鳴沢上流の山陰に定め、安全な場所を求めてさまよった。「遭難始末」はこの日の天候は風速29m/s前後、気温零下20 - 25℃以下、積雪は渓谷の深い場所で6 - 9mという悪条件だったと推測している。このためこの間に将兵の4分の1が凍死または落伍した。特に行李の運搬手はわずかしか残らず、彼らもみな荷物を放棄していた。倉石大尉は夕刻になっても未だに炊事用の銅釜を背負っている山本徳次郎一等卒(生還)を見かねて釜をすてさせた。

第2露営地
この日の行軍は14時間半に及んだが、それでも前の露営地より直線距離にして約700m進むだけに留まり、夕方頃鳴沢付近にて見出した窪地を次の露営地と定めた。しかし、隊の統制が取れぬ上に、雪濠を掘ろうにも道具を携行していた者は全員落伍して行方不明となっており、文字通り吹き曝しの露天に露営することとなった。食糧は各自携行していた糒や餅の残りと缶詰があったが、凍結していてほとんど摂食不可能だった。隊は凍傷者を内側に囲むように固まり、軍歌の斉唱や足踏、互いに摩擦し合うなどして睡魔と空腹に耐えたが、猛吹雪と気温の低下で体感温度が零下50℃近く、前日からほとんど不眠不休で絶食状態ということもあり、多数の将兵が昏倒・凍死した。第2露営地はこの遭難で最も多くの死傷者を出した場所となった。

青森屯営
一方、青森では帰営予定日時になっても到着しない行軍隊を迎えに行くため、川和田少尉以下40名が田茂木野まで行き、午前0時まで待ったものの消息が得られなかった。この日は弘前第31連隊へ転出する松木中尉の送別会を催しており、出席者は「この場で行軍隊が戻ってきたらうれしい話だな」などと悠長に語り合っていた。

第3日
1月25日は夜明けを待って出発する予定であったが、凍死者が続出したため、やむなく午前3時頃、隊は馬立場方面を目指して出発した。この時点で死者・行方不明者合わせて70名を超えており、その他の者も多くが凍傷にかかっていた。方位磁針は凍りついて用を成さず、地図と勘だけに頼った行軍となっていた。

彷徨
隊は鳴沢の辺りまで一旦は辿り着いたものの、風も強く断崖に達したため引き返そうとしたが、前方を山に遮られ道を見失った。のちの後藤伍長の証言によれば、大隊本部の将校や神成大尉らの協議の末「ここで部隊を解散する。各兵は自ら進路を見出して青森または田代へ進行するように」と命令したとされる。また小原伍長の証言によれば、「天は我らを見捨てたらしい」というような言葉をこの場所で神成が吐いたとされる。このため、それまで何とか落伍せずに頑張っていた多くの将兵が、この一言により箍(たが)が外れ、矛盾脱衣を始める者、「この崖を降りれば青森だ!」と叫び川に飛び込む者、「いかだを作って川下りをして帰るぞ」と叫び、樹に向かって銃剣で切りつける者など発狂者が出てくるほか、凍傷で手が利かず、軍袴のボタンを外せぬまま放尿し、そこからの凍結が原因で凍死する者など死亡者が続出した。

ただし、実質的に隊の統制が失われていたことはともかく、生還した伊藤中尉は晩年に至っても「隊が途中で解散した」と巷で定説のように扱われている話を否定し続けた。

彷徨で興津大尉以下約30名が凍死。興津は昨晩から凍傷にかかり、櫻井看護長らが手当てをしたが、さらに後に生存者として発見された将兵を含む十数名が行方不明となった。長谷川特務曹長は雪原を滑落して道に迷い、彼に従っていた数名は午後2時頃に見出した平沢の炭小屋に滞在していた。炭小屋ではマッチで火をおこし暖を取ったが、みな激しい疲労からくる睡魔に襲われ、火の番をするのが困難になったため、翌1月26日午前3時頃に火事を恐れて火を消した。隊が第2露営地に戻った頃に山口少佐が意識障害となり、倉石は山口に遺言を訊ねた。後藤伍長はこの時山口が死んだものと判断したようである。

斥候隊
午前7時頃、やや天候が回復したのを見計らって、大隊本部所属の倉石大尉は斥候隊を募り、田茂木野方面に高橋他一伍長以下7名、田代方面に渡辺幸之助軍曹以下6名の計13名を送り出した。隊はしばし平静を取り戻したが、午前10時頃、1人の兵士が遠目に将兵の隊列が行進するのを見出して「救助隊が来た!」と叫び、他の者も「本当に来た!」「母ちゃ~ん!」と叫び始めた。倉石はラッパ手に命じて号音を吹かせようとしたが、ラッパが唇に凍りつき、腹の力も乏しくまともに吹けなかった。しかし午前11時まで待っても一向に隊列の様子が変わらないので、よく見ると救援隊と思っていたものは風に吹き荒らされる樹列だと判明した。

一方、高橋班の佐々木霜吉一等卒が馬立場付近で帰路を見出し、午前11時30分頃、戻ってきた高橋斥候長が帰路を発見し田茂木野方面へ進軍中と報告した。本隊は正午頃出発し、戻ってきた斥候隊について行った。この時点で隊は60名から14名(元の1/3以下)になっていた。午後3時頃馬立場に到着し、そこでもう片方の渡辺幸之助軍曹らの合流を待ったが、彼らはついに戻らなかった。高橋、佐々木の両名も重なり合うようにして凍死しているのを発見された。

隊は行軍を再開したが、中ノ森東方山腹に達したところで日暮れを迎え、さらに午後5時、カヤイド沢東方鞍部に着いた頃、倉石大尉が気づいた時には大橋中尉、永井軍医が隊列から離れて行方不明となっていた。永井や桜井龍造看護長などの医療班は、身体の限界を押して看護を続けた結果、自分たちも倒れてしまっていた。この頃には隊はばらばらになっており、倉石はカヤイド沢に降りて第3の露営地を定め、伝令を送ったが、人員は集まらなかった。

合流、第3露営
『遭難始末』によれば、午後11時頃、倉石大尉の一行は山口隊の捜索に出発し、午後12時頃に合流を果たして第3露営地に戻った。露営地では互いに大声で呼び、打撃を加えて昏睡を防ぎ、凍死者の背嚢を燃やすなどして寒さを凌いだものの多数の将兵が凍死した。

なお、この日と翌26日の記録は資料や証言者によって違いがあり、記憶違いか異なる側面かは定かでない。
倉石大尉の証言によれば、山口少佐ではなく先行した神成大尉の一行とはぐれており、25日深夜を回った26日午前1時に合流を目指して出発したが、同日中には合流できず、27日に至って神成らと再会し、協議の末ふた手に分かれることを決めたという。

また、後藤伍長の証言によれば、25日に山口少佐が死亡し、この日の夜の時点で生存者は71名いたが、田代に進むか田茂木野に戻るか方針が定まらず各自の任意行動となった。ここで倉石大尉は田代を目指すとして独り姿を消し、先導した水野中尉も雪に沈むなど凍死者が続出した。(山口の死亡は誤認とされる。また水野の死亡は通常24日とされる)

青森屯営
青森では、天候が前日よりも良かったこともあり、古閑中尉以下40名は幸畑で粥を炊いて帰営を待った。さらに一部の将兵田茂木野村の南端でかがり火を焚いて夜まで待った。しかし夜半になっても到着せず、屯営では行軍隊が三本木方面に抜けているのではと考え、三本木警察に電報を打ったが確認がとれず、翌日救援隊を派遣することを決定した。

第4日
1月26日、『遭難始末』によれば、倉石、神成両大尉と比較的元気だった十数名との協議の末、現在地から田茂木野までおよそ8kmと推測し夜明けを待って出発することとした。午前1時頃に将兵を呼集すると約30名になっていた[26]。前日の露営で山口少佐が再び意識障害となり、兵卒に背負われて行軍した。隊列は乱れに乱れ、先頭は神成、倉石と定まっていたが、他の者は所属も階級も関係なく、将兵たちが後から続く形となっていた。神成と倉石は前方高地を偵察しつつ進んでいた。

前日夜、後藤伍長は他の4、5名と共に露営中、飢えと寒さのため昏睡したが、幸運にも凍死せず26日朝に目覚めた。降雪もなく晴天だったが、周りに誰もおらず、見渡すと三々五々、将兵が点在して帰路を見定めようとしていた。そこで自分も高地に登ったところ、神成大尉、鈴木少尉らと出会い、以後行動を共にした。この日の天気は晴れ時々雪だった。

隊は夕方までに中の森から賽の河原の間(正確な位置は不明)に到着し4度目の露営をした。賽の河原までは通常なら徒歩で2時間の距離だったが、極度の飢えと疲労のために1日を要した。

救援隊による捜索
この日、村上一等軍医、三神少尉、下士卒60名の救援隊は屯営を出発した。途中村民を案内人として雇い大峠まで捜索活動を行ったが、案内人の調達に手間取り出発が遅れたことに加え、この日の気温は零下14℃で風雪も厳しく、案内人および軍医の進言により捜索を打ち切って田茂木野へ引き返した。

第5日
1月27日、生き残った隊は協議の末ふた手に分かれることとした。青森に向かって左手の田茂木野を目指す神成大尉一行数名と、右手の駒込澤沿いに進行し青森を目指す倉石大尉(山口少佐含む)の一行約20名である。なお、『遭難始末』では分隊した日付けを26日としているが、倉石の証言によれば27日が正しい。

倉石隊は駒込川方面を進むが、途中青岩付近で崖にはまってしまい、進むことも退くこともできなくなった。日没後は崖の陰に寄って夜を凌ごうとしていたところ、今泉三太郎見習士官が下士1名を伴い、連隊に報告すると告げ、裸になると倉石の制止を振り切り川に飛び込んだ[23]。のちに倉石は「川を下っていった」と述べているが、他の生還者の証言から川に飛び込んだのは間違いなく、3月9日に下流で遺体となって発見された。

神成隊は、目標に対し比較的正しい方角へ進んでいたものの、猛吹雪をまともに受けたため落伍者が続出し、隊は4名となった。やがて鈴木少尉も高地を見に行くと言い残し、隊を離れたが、そのまま帰ってこなかった。さらに及川篤三郎も危篤に陥り手当てもできずに死亡。ついには神成も倒れ、1月27日早朝、神成は後藤に「田茂木野に行って住民を雇い、連隊への連絡を依頼せよ」と命令した。後藤は朦朧とした意識の中、危急を知らせるために、単身田茂木野へ向かった。

救援隊による捜索と後藤伍長発見
救援隊は捜索活動を再開した。田代まで行き、行軍隊と接触しようと、尻込みする案内人を説得して出発した。午前10時半頃、三神少尉率いる小隊が大滝平付近で雪中にたたずむ後藤房之助伍長を発見。後藤はこの時のことを「其距離等も詳かに知る能はず、所謂夢中に前進中救護隊の為めに救助せられたるものなり」と述べている。ここで雪中行軍隊の遭難が判明した。

発見時の様子については複数の説がある。

・1月29日付東奥日報によれば、救援隊が遠目に人らしいものが1、2歩動くのを認めて近付くと、後藤伍長が直立したまま身動きせず目だけをギロギロさせており、大声で呼び掛けると初めて気が付いた様子で言葉を発した。
・同紙の1月30日付号外によれば、救援隊に気付いて大声で叫び、気が緩んだのかその場で倒れた。この記述が29日の記事に続くものかは不明。
・同年7月23日発行の『遭難始末』によれば、目を開けたまま仮死状態で立っており、近付いて救命処置を施して約10分後に蘇生した。この説は以後『仮死状態で歩哨の如く立っていた』などと喧伝され、後に銅像が建立された。
神成大尉らの遺体発見
意識を取り戻した後藤伍長が「神成大尉」と言葉を発したため、付近を捜索すると約100m先に神成が倒れていた。神成は帽子や手袋も着けぬまま首まで雪に埋まっており、全身が凍結していた。軍医は腕に気付け薬を注射しようとしたが、皮膚まで凍っていたため針が折れた。やむなく口を開けさせ口腔内に針を刺した。何か語ったように見えたが、蘇生せずそのまま死亡した。すぐ近くで及川篤三郎の遺体も発見されたが、2名の遺体を運ぶことはできず、目印を付けて後日収容することとし、後藤と重度の凍傷で倒れた救援隊員の計2名の生存者を救護して田茂木野へたどりついた。

本部への報告
午後7時40分、三神少尉が連隊長官舎に駆け込み、大滝平での後藤伍長発見の報に加え、雪中行軍隊が「全滅の模様」であること、2時間の捜索で「救助隊60余名中、約半数が凍傷で行動不可かつ1名が重度の凍傷で卒倒」となったことを知らせた。行軍隊が田代に到達したものと信じていた青森歩兵第5連隊長の津川謙光中佐は、この報告を聞いて青くなった。

第6日
1月28日、倉石隊の佐藤特務曹長が発狂、下士兵卒を連れて川に飛び込み、岩に引っ掛かり凍死した[注釈 7]。倉石は数名を連れて崖穴に入ったが、山口少佐ら数名は川岸の場所にいた。どちらかといえば倉石のいる所の方が場所的には良かったので、倉石は山口に崖穴に来るよう勧めたが、山口は「吾は此処にて死せん」として拒んだ。山口に水を与える役目は、比較的動けた山本徳次郎一等卒が負った。

弘前隊の通過
この日の朝、八甲田山を逆方向から行軍してきた弘前隊は田代付近の露営地を発ち、鳴沢-大峠経由で田茂木野を目指した。この行軍では青森隊の遭難地を通過する際に遭難者を見たとする説がある(後述)。

第7日
1月29日、救助隊が神成大尉および及川伍長の遺体を収容し、各哨所も完成する。

弘前隊の青森到着
午前2時過ぎ、弘前隊は前日からの昼夜を分かたぬ強行軍の末、田茂木野に到着した。同隊は民家で食事したのち午前4時20分に再び出発し、午前7時20分に青森駅前に到着した。

第8日
1月30日、後藤惣助一等卒が倉石大尉らと合流した。

救助隊は賽の河原で中野中尉ら36名の遺体を発見した。この場所は倉石大尉らが駒込川の沢に下りていった道に当たる。「賽の河原」という地名は、以前にもここで凍死した村人が多数いたことに由来するといわれる。

第9日
1月31日午前9時頃、鳴沢付近で捜索に加わっていた人夫が、飛び出してきたウサギを面白半分に追いかけたところ、偶然炭小屋を見出した。人の気配がするので戸を開けてみると2名の生存者がおり、三浦武雄伍長と阿部卯吉一等卒を救出した。朝まで生きていたというもう1名の遺体も発見した。三浦、阿部の両名は軍医の質問に対し、25日朝に露営地から出発したところまでは覚えているが、それ以降は記憶がなく、気づいたら小屋に飛び込んでいたと証言している。小屋周辺では16名の遺体を発見した。この際、田村少佐は陸軍省に「生存者12名」と電報を打つが、すぐさま「生存兵卒2、遺体10」と訂正している。なお、三浦は3月14日に入院先で死亡した。

鳴沢では他に水野忠宜中尉以下33名の遺体を発見し、大滝平付近で鈴木少尉の遺体を発見している。1902年2月6日付萬朝報に「故に某将校は鈴木少尉の死体を発見せし時、『是れ死後二十時間以上を経しものに非ず。捜索今一日早かりせば』とて深く捜索の緩慢なるを遺憾とす」という記述が残っている。

倉石大尉らの発見
午前9時頃から倉石大尉らが崖を登り始め、午後3時頃、250mほど進んだ所で倉石、伊藤中尉ら4名が救援隊に発見された。生存者計9名が救助されたが、高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒は救出後死亡した。同時に救出された山口少佐も入院先にて2月2日に死亡した。

弘前隊の帰営
この日弘前隊は弘前市郊外の連隊屯営に帰営し、雪中行軍の全日程を終えた。

第10日
2月1日、賽の河原付近にて数名、按ノ木森から中ノ森にかけては十数名の遺体を発見した。

第11日
2月2日、捜索隊が大崩沢(平沢)付近で見出した炭小屋において、長谷川特務曹長、阿部寿松一等卒、佐々木正教二等卒、小野寺佐平二等卒の4名の生存が確認された。しかし佐々木、小野寺の両名は救出後死亡した。当初小屋には8名の生存者がいたが、うち比較的元気な3名は屯営を目指して出発したのち全員凍死し、永井軍医は付近から発された助けを求める声を聞いて外出したきり戻らなかったという。

午後3時頃には、最後の生存者となる村松伍長が古館要吉一等卒の遺体とともに田代元湯付近の小屋で発見された。村松は四肢切断し一時危篤となったが、かろうじて回復した。25日朝の遭難当時、村松は古館らと共に隊からはぐれ、青森を目指したが道を誤り、26日午後にこの小屋を見出した。中には茅が積まれていたがマッチが無かったため火をおこせず、翌日古館が死亡した。村松は付近で発見した温泉の湯を飲んで命をつないだが、30日以降は立てなくなり、以後は寝たまま雪を食べていたという。