教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 1月23日

八甲田山の日 

 

1902(明治35)年1月23日、青森県の「八甲田山」へ雪中行軍に出かけた兵士210名が猛吹雪の中で遭難しました。八甲田雪中行軍遭難事件です。

訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故です。

 

この死の行軍は、1971(昭和46)年に刊行された新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』の題材となり、1977(昭和52)年にはこの小説を原作として『八甲田山』のタイトルで映画化もされました。

 

八甲田雪中行軍遭難事件については、「Wikipedia」にくわしくまとめられています。

同ページより、「遭難経緯」部分を引用します。

遭難経緯
第1日
1月23日午前6時55分に歩兵第5連隊は青森連隊駐屯地を出発。田茂木野において地元村民が行軍の中止を進言し、もしどうしても行くならと案内役を申し出るが、これを断り地図と方位磁針のみで厳寒期の八甲田山踏破を行うこととなった。

冬の八甲田山

天候悪化
午前中、小峠までは障害もなく進軍できたが、ソリ隊が遅れ始めたため大休止とし昼食を摂った。この時、天候が急変し、暴風雪の兆しがあらわれたことから、永井軍医の進言により、将校間で進退についての協議を行った。装備の乏しさと天候悪化を懸念し、将校らは駐屯地へ帰営することを検討したが、田茂木野村ではすでに案内人を断っていたほか、見習士官や長期伍長など下士を中心とする兵たちの反対もあり、行軍を続行した。

隊は悪天候と深雪などの苦難を経て、大峠から6kmの馬立場まで進んだ。ここから鳴沢にかけては積雪量が格段に増したために速度が落ち、食料と燃料などを積んだソリ隊は本隊より2時間以上遅れることとなった。神成大尉は第2、第3小隊計88名をソリ隊の応援に向かわせると共に、設営隊15名を田代方面に斥候を兼ねた先遣隊として先行させた。

午後5時頃、馬立場から鳴沢へ向かう途中でソリによる運搬を断念、積み荷は各輸送隊員が分担して持つこととなった。先遣隊として先行していた設営隊は進路を発見できず、道に迷っていたところを、偶然本隊と合流した。見習士官が先導する第2の斥候隊を派遣したが、日没と猛吹雪により田代方面への進路も発見できなくなったため、やむなく隊は露営地を探すこととなった。

第1露営地
午後8時15分、田代まであと1.5kmの平沢の森を最初の露営地と定めた。『遭難始末』によれば、幅2m、長さ5m、深さ2.5m、都合6畳ほどの雪壕を小隊毎に5つ掘り、1壕あたり40名が入った。覆いや敷き藁もなかったため保温性に乏しく、座ることもできなかった。

午後9時頃までには行李隊も全て露営地に到着し、各壕に餅と缶詰、および木炭約6貫匁(約22.5kg)ずつが分配された。しかし40人分を賄うには乏しい量であり、炉火も各壕で1つずつしかおこせなかったため交代で暖を取ることとなったが、着火に1時間余りを要し、炊事用の壕を掘ろうとするも、8尺(約2.4m)掘っても地面に届かず、やむなく雪上にかまどと釜を据えて炊事作業を始めた。炊事用の水も火で雪を融かして得る必要があったが、まず火が容易に点かず、さらに火で床の雪が融けて釜が傾くなど問題が続発し、炊事作業は極めて難航した。

第2日
帰営決定
1月24日午前1時頃、ようやく1食分の生煮えの飯が支給された。炊飯後の釜で温めた酒も分配されたが、異臭を帯びていて飲めなかった。将兵は壕の側壁に寄り掛かるなどして仮眠を取ったが、気温零下20℃以下に達しており、眠ると凍傷になるとして軍歌の斉唱や足踏が命じられた。このため長くても1時間半程度しか眠れなかった。出発は午前5時の予定だったが、多くの将兵が寒気を訴え、凍傷者が出る恐れが出てきた。午前2時頃、事態を重く見た山口少佐ら将校たちの協議の結果、行軍の目的は達成されたとして帰営を決定。隊は午前2時半に露営地を出発した。

遭難
隊は馬立場を目指すが、午前3時半頃に鳴沢付近で峡谷(ゴルジュ)に迷い込んでしまい、やむなく前の露営地に引き返すこととなったが、この時佐藤特務曹長が田代への道を知っていると進言。山口少佐は独断で「然らば案内せよ」と命じた。しかし佐藤は道を誤り、沢への道を下ったところが駒込川の本流に出てしまった。その頃は全員が疲労困憊しており、隊列も揃わず統制に支障が出始めた。山口は佐藤の言が誤りだったことに気付くが、元来た道は吹雪により消されており、隊は遭難状態となった。

崖登り
やむなく隊は崖をよじ登ることとなったが、登れずに落伍する者が出てきた。駒込川の沢を抜ける際、第4小隊の水野忠宜中尉(華族紀伊新宮藩藩主水野忠幹の長男)が卒倒して凍死し、将兵らの士気が下がった。

彷徨
隊は崖を登って高地に出たが、猛烈な暴風雪に曝されたため、目標を鳴沢上流の山陰に定め、安全な場所を求めてさまよった。「遭難始末」はこの日の天候は風速29m/s前後、気温零下20 - 25℃以下、積雪は渓谷の深い場所で6 - 9mという悪条件だったと推測している。このためこの間に将兵の4分の1が凍死または落伍した。特に行李の運搬手はわずかしか残らず、彼らもみな荷物を放棄していた。倉石大尉は夕刻になっても未だに炊事用の銅釜を背負っている山本徳次郎一等卒(生還)を見かねて釜をすてさせた。

第2露営地
この日の行軍は14時間半に及んだが、それでも前の露営地より直線距離にして約700m進むだけに留まり、夕方頃鳴沢付近にて見出した窪地を次の露営地と定めた。しかし、隊の統制が取れぬ上に、雪濠を掘ろうにも道具を携行していた者は全員落伍して行方不明となっており、文字通り吹き曝しの露天に露営することとなった。食糧は各自携行していた糒や餅の残りと缶詰があったが、凍結していてほとんど摂食不可能だった。隊は凍傷者を内側に囲むように固まり、軍歌の斉唱や足踏、互いに摩擦し合うなどして睡魔と空腹に耐えたが、猛吹雪と気温の低下で体感温度が零下50℃近く、前日からほとんど不眠不休で絶食状態ということもあり、多数の将兵が昏倒・凍死した。第2露営地はこの遭難で最も多くの死傷者を出した場所となった。

青森屯営
一方、青森では帰営予定日時になっても到着しない行軍隊を迎えに行くため、川和田少尉以下40名が田茂木野まで行き、午前0時まで待ったものの消息が得られなかった。この日は弘前第31連隊へ転出する松木中尉の送別会を催しており、出席者は「この場で行軍隊が戻ってきたらうれしい話だな」などと悠長に語り合っていた。

第3日
1月25日は夜明けを待って出発する予定であったが、凍死者が続出したため、やむなく午前3時頃、隊は馬立場方面を目指して出発した。この時点で死者・行方不明者合わせて70名を超えており、その他の者も多くが凍傷にかかっていた。方位磁針は凍りついて用を成さず、地図と勘だけに頼った行軍となっていた。

彷徨
隊は鳴沢の辺りまで一旦は辿り着いたものの、風も強く断崖に達したため引き返そうとしたが、前方を山に遮られ道を見失った。のちの後藤伍長の証言によれば、大隊本部の将校や神成大尉らの協議の末「ここで部隊を解散する。各兵は自ら進路を見出して青森または田代へ進行するように」と命令したとされる。また小原伍長の証言によれば、「天は我らを見捨てたらしい」というような言葉をこの場所で神成が吐いたとされる。このため、それまで何とか落伍せずに頑張っていた多くの将兵が、この一言により箍(たが)が外れ、矛盾脱衣を始める者、「この崖を降りれば青森だ!」と叫び川に飛び込む者、「いかだを作って川下りをして帰るぞ」と叫び、樹に向かって銃剣で切りつける者など発狂者が出てくるほか、凍傷で手が利かず、軍袴のボタンを外せぬまま放尿し、そこからの凍結が原因で凍死する者など死亡者が続出した。

ただし、実質的に隊の統制が失われていたことはともかく、生還した伊藤中尉は晩年に至っても「隊が途中で解散した」と巷で定説のように扱われている話を否定し続けた。

彷徨で興津大尉以下約30名が凍死。興津は昨晩から凍傷にかかり、櫻井看護長らが手当てをしたが、さらに後に生存者として発見された将兵を含む十数名が行方不明となった。長谷川特務曹長は雪原を滑落して道に迷い、彼に従っていた数名は午後2時頃に見出した平沢の炭小屋に滞在していた。炭小屋ではマッチで火をおこし暖を取ったが、みな激しい疲労からくる睡魔に襲われ、火の番をするのが困難になったため、翌1月26日午前3時頃に火事を恐れて火を消した。隊が第2露営地に戻った頃に山口少佐が意識障害となり、倉石は山口に遺言を訊ねた。後藤伍長はこの時山口が死んだものと判断したようである。

斥候隊
午前7時頃、やや天候が回復したのを見計らって、大隊本部所属の倉石大尉は斥候隊を募り、田茂木野方面に高橋他一伍長以下7名、田代方面に渡辺幸之助軍曹以下6名の計13名を送り出した。隊はしばし平静を取り戻したが、午前10時頃、1人の兵士が遠目に将兵の隊列が行進するのを見出して「救助隊が来た!」と叫び、他の者も「本当に来た!」「母ちゃ~ん!」と叫び始めた。倉石はラッパ手に命じて号音を吹かせようとしたが、ラッパが唇に凍りつき、腹の力も乏しくまともに吹けなかった。しかし午前11時まで待っても一向に隊列の様子が変わらないので、よく見ると救援隊と思っていたものは風に吹き荒らされる樹列だと判明した。

一方、高橋班の佐々木霜吉一等卒が馬立場付近で帰路を見出し、午前11時30分頃、戻ってきた高橋斥候長が帰路を発見し田茂木野方面へ進軍中と報告した。本隊は正午頃出発し、戻ってきた斥候隊について行った。この時点で隊は60名から14名(元の1/3以下)になっていた。午後3時頃馬立場に到着し、そこでもう片方の渡辺幸之助軍曹らの合流を待ったが、彼らはついに戻らなかった。高橋、佐々木の両名も重なり合うようにして凍死しているのを発見された。

隊は行軍を再開したが、中ノ森東方山腹に達したところで日暮れを迎え、さらに午後5時、カヤイド沢東方鞍部に着いた頃、倉石大尉が気づいた時には大橋中尉、永井軍医が隊列から離れて行方不明となっていた。永井や桜井龍造看護長などの医療班は、身体の限界を押して看護を続けた結果、自分たちも倒れてしまっていた。この頃には隊はばらばらになっており、倉石はカヤイド沢に降りて第3の露営地を定め、伝令を送ったが、人員は集まらなかった。

合流、第3露営
『遭難始末』によれば、午後11時頃、倉石大尉の一行は山口隊の捜索に出発し、午後12時頃に合流を果たして第3露営地に戻った。露営地では互いに大声で呼び、打撃を加えて昏睡を防ぎ、凍死者の背嚢を燃やすなどして寒さを凌いだものの多数の将兵が凍死した。

なお、この日と翌26日の記録は資料や証言者によって違いがあり、記憶違いか異なる側面かは定かでない。
倉石大尉の証言によれば、山口少佐ではなく先行した神成大尉の一行とはぐれており、25日深夜を回った26日午前1時に合流を目指して出発したが、同日中には合流できず、27日に至って神成らと再会し、協議の末ふた手に分かれることを決めたという。

また、後藤伍長の証言によれば、25日に山口少佐が死亡し、この日の夜の時点で生存者は71名いたが、田代に進むか田茂木野に戻るか方針が定まらず各自の任意行動となった。ここで倉石大尉は田代を目指すとして独り姿を消し、先導した水野中尉も雪に沈むなど凍死者が続出した。(山口の死亡は誤認とされる。また水野の死亡は通常24日とされる)

青森屯営
青森では、天候が前日よりも良かったこともあり、古閑中尉以下40名は幸畑で粥を炊いて帰営を待った。さらに一部の将兵田茂木野村の南端でかがり火を焚いて夜まで待った。しかし夜半になっても到着せず、屯営では行軍隊が三本木方面に抜けているのではと考え、三本木警察に電報を打ったが確認がとれず、翌日救援隊を派遣することを決定した。

第4日
1月26日、『遭難始末』によれば、倉石、神成両大尉と比較的元気だった十数名との協議の末、現在地から田茂木野までおよそ8kmと推測し夜明けを待って出発することとした。午前1時頃に将兵を呼集すると約30名になっていた[26]。前日の露営で山口少佐が再び意識障害となり、兵卒に背負われて行軍した。隊列は乱れに乱れ、先頭は神成、倉石と定まっていたが、他の者は所属も階級も関係なく、将兵たちが後から続く形となっていた。神成と倉石は前方高地を偵察しつつ進んでいた。

前日夜、後藤伍長は他の4、5名と共に露営中、飢えと寒さのため昏睡したが、幸運にも凍死せず26日朝に目覚めた。降雪もなく晴天だったが、周りに誰もおらず、見渡すと三々五々、将兵が点在して帰路を見定めようとしていた。そこで自分も高地に登ったところ、神成大尉、鈴木少尉らと出会い、以後行動を共にした。この日の天気は晴れ時々雪だった。

隊は夕方までに中の森から賽の河原の間(正確な位置は不明)に到着し4度目の露営をした。賽の河原までは通常なら徒歩で2時間の距離だったが、極度の飢えと疲労のために1日を要した。

救援隊による捜索
この日、村上一等軍医、三神少尉、下士卒60名の救援隊は屯営を出発した。途中村民を案内人として雇い大峠まで捜索活動を行ったが、案内人の調達に手間取り出発が遅れたことに加え、この日の気温は零下14℃で風雪も厳しく、案内人および軍医の進言により捜索を打ち切って田茂木野へ引き返した。

第5日
1月27日、生き残った隊は協議の末ふた手に分かれることとした。青森に向かって左手の田茂木野を目指す神成大尉一行数名と、右手の駒込澤沿いに進行し青森を目指す倉石大尉(山口少佐含む)の一行約20名である。なお、『遭難始末』では分隊した日付けを26日としているが、倉石の証言によれば27日が正しい。

倉石隊は駒込川方面を進むが、途中青岩付近で崖にはまってしまい、進むことも退くこともできなくなった。日没後は崖の陰に寄って夜を凌ごうとしていたところ、今泉三太郎見習士官が下士1名を伴い、連隊に報告すると告げ、裸になると倉石の制止を振り切り川に飛び込んだ[23]。のちに倉石は「川を下っていった」と述べているが、他の生還者の証言から川に飛び込んだのは間違いなく、3月9日に下流で遺体となって発見された。

神成隊は、目標に対し比較的正しい方角へ進んでいたものの、猛吹雪をまともに受けたため落伍者が続出し、隊は4名となった。やがて鈴木少尉も高地を見に行くと言い残し、隊を離れたが、そのまま帰ってこなかった。さらに及川篤三郎も危篤に陥り手当てもできずに死亡。ついには神成も倒れ、1月27日早朝、神成は後藤に「田茂木野に行って住民を雇い、連隊への連絡を依頼せよ」と命令した。後藤は朦朧とした意識の中、危急を知らせるために、単身田茂木野へ向かった。

救援隊による捜索と後藤伍長発見
救援隊は捜索活動を再開した。田代まで行き、行軍隊と接触しようと、尻込みする案内人を説得して出発した。午前10時半頃、三神少尉率いる小隊が大滝平付近で雪中にたたずむ後藤房之助伍長を発見。後藤はこの時のことを「其距離等も詳かに知る能はず、所謂夢中に前進中救護隊の為めに救助せられたるものなり」と述べている。ここで雪中行軍隊の遭難が判明した。

発見時の様子については複数の説がある。

・1月29日付東奥日報によれば、救援隊が遠目に人らしいものが1、2歩動くのを認めて近付くと、後藤伍長が直立したまま身動きせず目だけをギロギロさせており、大声で呼び掛けると初めて気が付いた様子で言葉を発した。
・同紙の1月30日付号外によれば、救援隊に気付いて大声で叫び、気が緩んだのかその場で倒れた。この記述が29日の記事に続くものかは不明。
・同年7月23日発行の『遭難始末』によれば、目を開けたまま仮死状態で立っており、近付いて救命処置を施して約10分後に蘇生した。この説は以後『仮死状態で歩哨の如く立っていた』などと喧伝され、後に銅像が建立された。
神成大尉らの遺体発見
意識を取り戻した後藤伍長が「神成大尉」と言葉を発したため、付近を捜索すると約100m先に神成が倒れていた。神成は帽子や手袋も着けぬまま首まで雪に埋まっており、全身が凍結していた。軍医は腕に気付け薬を注射しようとしたが、皮膚まで凍っていたため針が折れた。やむなく口を開けさせ口腔内に針を刺した。何か語ったように見えたが、蘇生せずそのまま死亡した。すぐ近くで及川篤三郎の遺体も発見されたが、2名の遺体を運ぶことはできず、目印を付けて後日収容することとし、後藤と重度の凍傷で倒れた救援隊員の計2名の生存者を救護して田茂木野へたどりついた。

本部への報告
午後7時40分、三神少尉が連隊長官舎に駆け込み、大滝平での後藤伍長発見の報に加え、雪中行軍隊が「全滅の模様」であること、2時間の捜索で「救助隊60余名中、約半数が凍傷で行動不可かつ1名が重度の凍傷で卒倒」となったことを知らせた。行軍隊が田代に到達したものと信じていた青森歩兵第5連隊長の津川謙光中佐は、この報告を聞いて青くなった。

第6日
1月28日、倉石隊の佐藤特務曹長が発狂、下士兵卒を連れて川に飛び込み、岩に引っ掛かり凍死した[注釈 7]。倉石は数名を連れて崖穴に入ったが、山口少佐ら数名は川岸の場所にいた。どちらかといえば倉石のいる所の方が場所的には良かったので、倉石は山口に崖穴に来るよう勧めたが、山口は「吾は此処にて死せん」として拒んだ。山口に水を与える役目は、比較的動けた山本徳次郎一等卒が負った。

弘前隊の通過
この日の朝、八甲田山を逆方向から行軍してきた弘前隊は田代付近の露営地を発ち、鳴沢-大峠経由で田茂木野を目指した。この行軍では青森隊の遭難地を通過する際に遭難者を見たとする説がある(後述)。

第7日
1月29日、救助隊が神成大尉および及川伍長の遺体を収容し、各哨所も完成する。

弘前隊の青森到着
午前2時過ぎ、弘前隊は前日からの昼夜を分かたぬ強行軍の末、田茂木野に到着した。同隊は民家で食事したのち午前4時20分に再び出発し、午前7時20分に青森駅前に到着した。

第8日
1月30日、後藤惣助一等卒が倉石大尉らと合流した。

救助隊は賽の河原で中野中尉ら36名の遺体を発見した。この場所は倉石大尉らが駒込川の沢に下りていった道に当たる。「賽の河原」という地名は、以前にもここで凍死した村人が多数いたことに由来するといわれる。

第9日
1月31日午前9時頃、鳴沢付近で捜索に加わっていた人夫が、飛び出してきたウサギを面白半分に追いかけたところ、偶然炭小屋を見出した。人の気配がするので戸を開けてみると2名の生存者がおり、三浦武雄伍長と阿部卯吉一等卒を救出した。朝まで生きていたというもう1名の遺体も発見した。三浦、阿部の両名は軍医の質問に対し、25日朝に露営地から出発したところまでは覚えているが、それ以降は記憶がなく、気づいたら小屋に飛び込んでいたと証言している。小屋周辺では16名の遺体を発見した。この際、田村少佐は陸軍省に「生存者12名」と電報を打つが、すぐさま「生存兵卒2、遺体10」と訂正している。なお、三浦は3月14日に入院先で死亡した。

鳴沢では他に水野忠宜中尉以下33名の遺体を発見し、大滝平付近で鈴木少尉の遺体を発見している。1902年2月6日付萬朝報に「故に某将校は鈴木少尉の死体を発見せし時、『是れ死後二十時間以上を経しものに非ず。捜索今一日早かりせば』とて深く捜索の緩慢なるを遺憾とす」という記述が残っている。

倉石大尉らの発見
午前9時頃から倉石大尉らが崖を登り始め、午後3時頃、250mほど進んだ所で倉石、伊藤中尉ら4名が救援隊に発見された。生存者計9名が救助されたが、高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒は救出後死亡した。同時に救出された山口少佐も入院先にて2月2日に死亡した。

弘前隊の帰営
この日弘前隊は弘前市郊外の連隊屯営に帰営し、雪中行軍の全日程を終えた。

第10日
2月1日、賽の河原付近にて数名、按ノ木森から中ノ森にかけては十数名の遺体を発見した。

第11日
2月2日、捜索隊が大崩沢(平沢)付近で見出した炭小屋において、長谷川特務曹長、阿部寿松一等卒、佐々木正教二等卒、小野寺佐平二等卒の4名の生存が確認された。しかし佐々木、小野寺の両名は救出後死亡した。当初小屋には8名の生存者がいたが、うち比較的元気な3名は屯営を目指して出発したのち全員凍死し、永井軍医は付近から発された助けを求める声を聞いて外出したきり戻らなかったという。

午後3時頃には、最後の生存者となる村松伍長が古館要吉一等卒の遺体とともに田代元湯付近の小屋で発見された。村松は四肢切断し一時危篤となったが、かろうじて回復した。25日朝の遭難当時、村松は古館らと共に隊からはぐれ、青森を目指したが道を誤り、26日午後にこの小屋を見出した。中には茅が積まれていたがマッチが無かったため火をおこせず、翌日古館が死亡した。村松は付近で発見した温泉の湯を飲んで命をつないだが、30日以降は立てなくなり、以後は寝たまま雪を食べていたという。