教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 1月29日

南極昭和基地開設記念日

 

1957(昭和32)年1月29日、日本の南極観測隊が南極・オングル島に上陸し、「昭和基地」開設を決定した上陸式が行われました。「昭和基地開設記念日」はそのことに由来しています。

昭和基地」の名称は、建設された時の元号「昭和」にちなんでいます。南極観測船「宗谷」の老朽化・退役により、1962(昭和37)年に昭和基地は閉鎖し観測も中止されます。その後、砕氷船「ふじ」の就役によって1966(昭和41)年に基地は再開され現在に至っています。

 

旅行読売 × 読売旅行「たびよみ」のHPに「南極観測の拠点・昭和基地を知ろう」という記事が掲載されています。一部を抜粋して紹介します。

1月29日は「南極の日 昭和基地開設記念日」です。1957(昭和32)年のこの日、日本の南極観測基地昭和基地」が開設されました。今回は、南極観測隊の越冬隊に3回(第15次隊、第22次隊、第34次隊)参加し、隊長・副隊長を務められた佐藤夏雄名誉教授(国立極地研究所元副所長・現特別客員研究員)に、昭和基地についてのお話をうかがいました。


広さは1.8平方キロ! 68もの建物が立つ昭和基地
編集部:昭和基地の広さはどのくらいあるのでしょうか?

 

佐藤:越冬隊員が日常的に生活や観測・業務をしている活動範囲は、東西に約400メートル、南北に約400メートルです。通信アンテナ、燃料タンク、ヘリポート、夏季宿舎、観測設備としての大型アンテナなど各種アンテナの場所を含めた広さは、東西に約1500メートル、南北に約1200メートルです。

 

編集部:1キロ四方を超えるとは広いですね。その基地にはどんな建物があるのですか?

 

佐藤:昭和基地には現在、68棟の建物があります。中心的な建物は3階建ての管理棟で、食堂や厨房、隊長室、通信室、医務室、図書室、娯楽室などを備えています。そのほか、居住棟、通路棟、発電棟、作業工作棟、車庫、汚水処理棟、焼却炉棟、廃棄物保管庫、倉庫棟、環境科学棟、観測棟、情報処理棟、衛星受信棟、電離層棟、地学棟、基本観測棟、自然エネルギー棟などがあります。

 

編集部:昭和基地の建設の際は、あらかじめ、どこに何を建てるということが決まっていたのでしょうか?

 

佐藤:建物4棟や気象観測用タワーなどの設置はあらかじめ決まっていました。しかし、どこに建てるかは決まっていませんでした。日本が第1次南極観測で割り当てられたプリンスハラルド海岸の詳しい事前情報が無かったので、現地に到着してから適地を探すことになっていました。オングル島に日章旗を掲げて「昭和基地」と命名し、正式な上陸式を行ったのが1957(昭和32)年1月29日。基地の詳細な場所が正式に決定したのはその2日後の1月31日です。そこから基地の建設や越冬用機材・物資の搬入作業が始まり、その作業は砕氷船「宗谷」が離岸した2月15日まで続きました。基地に搬入した物資の総重量は151トンにも達し、約2週間という短期間で無線棟、主屋棟(食堂棟)、居住棟、発電棟の4棟を建設しています。

 

編集部:プリンスハラルド海岸付近は、南極の中でも到達するのが厳しいところだったと聞いたことがあります。どんな点が厳しかったのでしょうか?

 

佐藤:プリンスハラルド海岸は、それまでアメリカやイギリスなどが7回も上陸を試みるも、いずれも氷に阻まれて失敗している場所です。そのため、米海軍の報告書にはこの海岸は接岸不可能となっていました。また、この地域に関する情報は、ノルウェーの調査船が沖合を航行した時に、小型飛行機で撮影した航空写真しかなかったこともあり、砕氷船「宗谷」による接岸は大変困難であることが予測されました。

 

無線棟を建設する第1次隊

 

編集部:実際にたどり着くことも相当な困難だと思いますが、その前の準備段階で大変だったことは何ですか?

 

佐藤:南極観測の参加を政府が正式決定してから、南極へ向けて東京・晴海埠頭からの出港まで、わずか1年しかありませんでした。南極観測の参加は全くの未経験であり、かつ広範囲な関連分野で諸準備を急ぐ必要がありました。大きな問題点は、砕氷船をどのように準備するか、予想される巨額な経費をどのように調達するかです。最終的に砕氷船は、海上保安庁に所属する灯台補給船「宗谷」を大改造して使用することになりましたが、工期が1年足らずと短期間だったので困難を極めました。

 

編集部:もう一つの問題点だった経費はどのくらいかかったのでしょうか?

 

佐藤:国から支払われた総経費は約9億円です。そのなかで砕氷船「宗谷」の改造費は5億円を超え、昭和基地の建築関係の予算は約2500万円(文部省発行の『南極六年史』より)。参考までにその当時の国家予算は約1兆円です。

 

編集部:2020年度の国家予算は約102兆円ですから、単純比較すると総経費は900億円ほど……費用の膨大さがわかりますね。

 

佐藤:その他にも国内訓練や装備などにも多くの経費が必要でした。これらは国民を含めた多くの人々からの寄付により賄われました。寄付の総額は1億4000万円を超え、そのうちの1億円が朝日新聞社からのものです。準備でいえば、極寒地で経験のなさを補うため、大学の山岳部経験者が中心となり進めました。そのまとめ役を務めたのが西堀栄三郎さん、第1次南極観測隊の副隊長であり、越冬隊の隊長です。

 

南極観測によって生まれたプレハブ住宅
編集部:昭和基地には68棟の建物があるということですが、それらの建物は隊員が建てたのですか?

 

佐藤:通常、南極観測には観測隊員として、建築関係の専門家が1人参加します。この専門家の指揮の下に、観測隊員が中心となり、南極観測船「しらせ」乗員の助けも借りて作業をします。素人の観測隊員の集まりでも建設作業ができる工法があり、これを使って3階建ての管理棟も建設しています。

 

編集部:1人の専門家の指導があれば、素人でも3階建ての建物が建てられるのですか⁉ そんな画期的な工法とはどのようなものなのでしょうか?

 

佐藤:第1次隊以来用いられている、板パネルを組み合わせるプレハブ住宅の工法です。土台は直径60センチほどの円形チューブのピア基礎に鉄筋コンクリートを流し込み、床の高さを2〜3メートルにした高床式です。高床式にすることで風通しを良くして、ブリザードによる積雪が建物の後部に溜まらないようになっています。土台の上に床パネルを張り、その後に壁パネル、最後に屋根パネルを組み立てます。

第1次隊が建設した3棟のパネル組立式家屋は、日本建築学会南極建築委員会が基本設計を行い、竹中工務店が実施設計と製作を担当して開発した日本初のプレハブ建築です。あらかじめ国内で組み立て式部材を製作し、組み立てる訓練をした後に解体して運び、現地では部材の結合金具で留めると完成するように工夫されています。精選された材料を用い、日本で製作した建築部品を南極へ輸送し、建設工事には不馴れな観測隊員が行うので、部品は軽くて丈夫なこと、組み立てが簡単なこと、そして南極の建物として最も重要な役割である雪や強風・寒さから観測隊員を守ることが求められました。

 

第1次隊が完成させた建物

第1次隊によって建てられた主屋棟(食堂棟)。のちに娯楽棟(通称:バー)として使用され、現在は倉庫として使っている

編集部:組み立ての仕組みを簡素化することと、南極の厳しい気象に耐えることの二つは両立するのが難しそうですが、どのような工夫があったのでしょうか?

 

佐藤:設計時は昭和基地周辺の気象データが十分でなく、設計条件として最大積雪量2メートル、最大風速80メートル/s、最低気温-60℃に耐え、居住性を確保できる建物性能が必要でした。日本初の高性能プレハブ建築は、外壁・屋根・床に利用したパネルは厚さ10センチで、桧(ひのき)の枠材の両側に樺(かば)材の合板を張り付け、間に断熱材として西ドイツ(当時)製の発泡スチロールを挟んでいます。サイズはヘリコプターでも運べるよう、ヘリの搬出入ドアサイズを考慮し、1枚121センチ×242センチに統一。隊員2~3人で組み立てられるように、重量は4人で運べるよう1枚80キロ以下に制限しています。より軽く、より硬く、耐水性に優れた部材として、芯材は尾州桧(びしゅうひのき)の北面材を使用、表面には樺のベニヤを6枚重ねに接着した合板を採用。パネルの繋ぎ目は雪風が入らないようにゴムを間に挟み、締め付け金具で簡単に組み立てられます。