教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 4月6日

北極の日

 

1909(明治42)年4月6日、アメリカ海軍の軍人・探検家のロバート・ピアリー(Robert Peary、1856~1920年)ら6人が、世界で初めて北極点に到達したとされます。

 

Wikipedia」の「ロバート・ピアリー」より引用します。

ロバート・エドウィン・ピアリー(Robert Edwin Peary, 1856年5月6日 - 1920年2月20日)は、アメリカの探検家。ペンシルベニア州クレソン出身。

ロバート・エドウィン・ピアリー
西洋人として最初に北極点に到達したとされているが、探検の後援者には当時のナショナルジオグラフィック社などの実力者が多く、当時のマスコミを押さえての喧伝といわれる。

経歴
1891年から1897年にかけて、4度にわたるグリーンランド探検を行う。その間、現地のイヌイット女性との間に2児をもうけた。1898年には、このグリーンランド探検の功績に対して、王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた[1]。
1898年に初めて北極点到達に挑戦するが失敗し、凍傷で足指8本を失う。
1906年に4度目の挑戦で北極点まで280kmの地点まで到達。
1909年4月6日、ピアリーら6名が北極点に到達。
疑問点
1909年の探検から帰還後、元の仲間であるフレデリック・クックが「自分は、1908年4月21日に既に北極点に到達していた」と主張した。調査委員会が設けられたが、結局クックの訴えは退けられ、詐欺罪で収監となり、ピアリーが最初の北極点到達者と認定された。現在では、ピアリーが証人を買収したことがわかっているが、実際にクックは北極点の数百km手前までしか到達していなかったようである。

また、後の詳しい測量により、ピアリーらが北極点だとしていた点は正確には北緯89度57分(北極点から約6kmの地点)であったことが分かっている。また、ナビゲーションの技術を持つ者がいなかったにもかかわらず、旅程が不自然に順調であることなどから、到達そのものを疑問視する説もある。

もし初の北極点到達がピアリーでない場合、1926年のリチャード・バードによる北極点往復飛行か同年のアムンセン、ノビレ、エルズワースによる飛行船ノルゲ号での北極海横断飛行が最初の北極点「到達」となる。

 

きょうは何の日 4月3日

いんげん豆の日

 

1673(延宝元)年4月3日、いんげん豆を中国から日本に伝えたとされる隠元禅師(隠元隆琦)が亡くなりました。「いんげん豆の日」は、中国の隠元禅師の命日にちなんで制定されたといわれています。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

隠元禅師(1594~1673)は中国・明の禅僧で、江戸時代前期に来日して日本黄檗宗を開祖した人物。来日後、将軍徳川家綱により厚くもてなされ、中国にいた時と同じ萬福寺というお寺を京都・宇治に創建した。また、いんげん豆を禅の普茶料理(精進料理)の材料として普及させた。

 

講談社」のHPより引用します。

地球を4分の3周して伝来したインゲン豆
今日、4月3日は「インゲン豆の日」に制定されています。ゆかりの深いある人物の命日にちなんでいるのですが……おわかりになるでしょうか?

気になるその人物とは、「隠元」さん。そう、インゲン豆の「インゲン」とは、人の名前にちなんでいたのです。隠元和尚は中国・明生まれの僧侶で、、承応3年(1654年)に日本に渡りましたが、その際に中国の書物や物品を持ち込んだといわれています。

たとえば、「煎茶」の文化や、読経をするときに使う「木魚」を日本に紹介し、「西瓜」や「筍」なども隠元和尚とともに日本にやってきたという説があります。インゲン豆も隠元和尚が江戸時代の日本に持ち込んだ野菜のひとつです。

インゲン豆のはもともとアメリカ大陸で栽培されており、中国には大航海時代のヨーロッパを経由して伝わりました。地球を4分の3周して日本まで届いたことになります。

インゲン豆は安価なうえに栄養価も高い作物で、分類上は緑黄色野菜となります。タンパク質が豊富なのはもちろん、ビタミンやミネラル、カルシウムも多く含まれており、リシンなどの必須アミノ酸もバランスよく摂取することができます。豆の中では糖質量が少なくダイエット向きですが、あんこにして食べると砂糖が入ってしまうので注意が必要です。

インゲン豆はいろいろな食べ方で楽しむことができます。若いうちはさやごと食べられますし、成長した種子は煮豆や白あん、甘納豆にすることもできます。イギリスでは、甘辛いソースでインゲン豆を煮た「ベイクドビーンズ」という食べ物が国民食になっているなど、インゲン豆は世界中で食べられています。

 

Wikipedia」の「いんげんまめ」より引用します。

インゲンマメ隠元豆、眉児豆、Phaseolus vulgaris)はマメ亜科の一年草。別名、サイトウ(菜豆)、サンドマメ(三度豆)、ゴガツササゲ(五月豇豆)。

主に西日本でフジマメ(藤豆、別名・センゴクマメ(千石豆)、アジマメ(藊豆)など)のことを「インゲンマメ」と呼ぶ地域があり、両種は混同されやすいが、別種である。

歴史
メキシコなど中央アメリカ、南米アンデスの原産とされる。古代からインゲンマメ南北アメリカ大陸での主要作物となっており、アステカ帝国では乾燥させたインゲンを税の物納品目として徴収していた。コロンブスによるアメリカ大陸発見時に、アメリカ全土に広がったとされる。

ヨーロッパには、コロンブスの二度目の航海の後に持ち込まれたが、当初はアメリカ原産であることは知られず、カズラの新種と思われていた。16世紀には育てやすく食べやすい作物として栽培されるようになった。特にギリシャなど地中海沿岸地域では、ソラマメ中毒にならない健康に良い豆として受け入れられていた。

フランスはこの豆の利用に熱心で、様々な料理を作った。中でも若いインゲンを莢ごと調理する料理、アリコ・ヴェルが好まれ、そのためにフラジョレという専用の品種を作った。他の国も豆料理をフランス料理風の名でよぶ場合が多くなり、今日でも英語圏では莢ごと食べる方法をフレンチスタイル、フレンチビーンとよぶ。

16世紀末にヨーロッパを経由して中国に伝わり、17世紀に日本に伝わったといわれている。1654年の江戸時代、明からの帰化僧・隠元隆琦が日本に持ち込んだとされることからこの名がついた。実際にはフジマメ(藤豆、フジマメ属)を持ち帰ったという説もある。このためかどうか不明だが、上方(関西)では伝統的にフジマメをインゲンマメと呼び、インゲンマメはフジマメ、サヤインゲンは三度豆と呼ぶ。

 

 

きょうは何の日 3月29日

マリモの日 

 

1952(昭和27)年3月29日、北海道・阿寒湖のマリモが国の特別天然記念物に指定されました。

 

「tenki.jp」より引用します。

3月29日は 「マリモの日」。丸くて大きいマリモの群生は世界で阿寒湖だけ !!
柴山ロミオ
2015年03月29日

3月29日は 「マリモの日」。丸くて大きいマリモの群生は世界で阿寒湖だけ !!

阿寒湖のマリモは、丸さも大きさも数の多さも世界一!!


マリモといえば、阿寒湖に生息している藻の丸いかたまり、と何気なく思い浮かべることができますが、実は、マリモが丸く、大きく、しかも数多く見られるのは、世界で唯一、阿寒湖だけなのです。3月29日は「マリモの日」。阿寒湖一帯では今、世界自然遺産の登録をめざし、地域一丸となって取り組んでいます。

 

世界のマリモは丸くないのがほとんど。丸い形のマリモの 「群生」 は阿寒湖だけ
マリモは、丸い形の一つ一つが一個体なのではありません。もともとは細い繊維状の藻で、丸い形は生物学的にいえばマリモの「集合体」ということになります。
細い繊維状のマリモは日本やヨーロッパなど、北半球の緯度が高い地域に広く分布しています。そのうち、丸い形のマリモが生息するのは、約40カ所。さらに、丸い形のマリモが数多く“群生”するのは、日本の北海道の阿寒湖と、アイスランドミーヴァトン湖だけでした。
ところが、ミーヴァトン湖では2010年代に入り、工場の排水が原因でマリモが壊滅してしまい、2014年にはマリモの数はわずか2個になってしまいました。
こうしてとうとう阿寒湖が、丸い形のマリモの群生が観測できる最後の地となったのです。


なぜ阿寒湖のマリモだけが丸く大きくなるのか? その秘密は絶妙な “風”
丸いマリモは、阿寒湖の中でも特に北側のチュウルイ湾付近に生息しています。同じ阿寒湖でもほかの場所では丸くありません。湖底に漂う「浮遊型」や、岩の表面に付着する「着生型」がほとんどです。世界のマリモを見ても、丸くないのがほとんどです。では、なぜ阿寒湖のチュウルイ湾付近のマリモだけが丸くなるのでしょう。

チュウルイ湾のあたりはいつも風が強く吹きます。この強い風によってマリモはつねに波に揺られた状態になります。すると、はじめはユラユラと動いていたマリモが、回転をはじめます。しかも、波に流されて遠くへ行ってしまうことなく、その場でクルクルと回り続けるのです。これによって全体的に光を浴びることができるので、満べんなく光合成ができ、下側になった部分が腐ることなく丸く成長できるのです。

この回転は、チュウルイ湾ならでは風によって起こります。春になると(といっても、道東では5月の下旬ごろ)、チュウルイ湾には風速7~10mの強い南風が吹きます。この強い風が湖底に水の流れを作るので、マリモが回転するのです。風が強すぎるとマリモは岸に打ち上げられてしまいますが、風が弱すぎると波が湖底に届かずマリモは回転できません。強すぎず弱すぎず、この絶妙な風によって、チュウルイ湾のマリモは丸く大きく成長できるのです。


本物のマリモを観察できる施設は2カ所、神秘の阿寒湖で奇跡のマリモ
阿寒湖で自生するマリモを生で見ることはできませんが、阿寒湖畔ではマリモを観察できる施設が2カ所あります。
・「マリモ展示観察センター」……阿寒湖の北側、チュウルイ島にある施設です。マリモの生態を紹介する展示があります。島に行くためには、約1時間半、遊覧船に乗って移動します。
・「阿寒湖畔エコミュージアムセンター」……マリモ以外にも、淡水魚や動植物などが紹介されています。
マリモの生息地であるチュウルイ湾は保護区域なので、普段は許可なく一般の人は立ち入ることはできませんが、年に数回、釧路市などが主催して、地元の小中学生や一般人を対象に、生育地への立ち入り観察会を実施しています。この観察会はマリモを直接観察することができる貴重な機会です。

1952(昭和27)年の3月29日、阿寒湖のマリモが国の特別天然記念物に指定され、この日が「マリモの日」となりました。そこから約60年、釧路市では、阿寒湖とその周辺の湖沼群を世界自然遺産に登録しようと、2012年から活動を開始しています。
阿寒湖は、冬は2月12日にご紹介した「フロストフラワー(霜の花)」が見られたり(http://www.tenki.jp/suppl/romisan/2015/02/12/1861.html)、世界で唯一のマリモが群生したりと、実に神秘的な湖です。今年の冬、道東は悪天候が続きましたが、そろそろ雪どけの季節です。神秘の湖「阿寒湖」を、一度訪れてみてはいかがでしょうか。

 

きょうは何の日 3月26日

カチューシャの唄の日 

 

1914(大正3)年3月26日、島村抱月しまむら ほうげつ、1871~1918年)と松井須磨子(まつい すまこ、1886~1919年)が起こした劇団「芸術座」が、トルストイの『復活』の初演を行いました。この中で歌われた『カチューシャの唄』が大流行しました。

 

Wikipedia」より引用します。

『カチューシャの唄』(カチューシャのうた)は、1914年(大正3年)に発表された日本の歌謡曲、ならびに同楽曲を題材にした同年製作公開の日本の短篇映画である。楽曲の作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平。劇団芸術座の第3回目の公演である『復活』の劇中歌として、主演女優の松井須磨子などが歌唱した。また『復活唱歌』の題名で、松井の歌唱によるレコードが発売された。歌詞の「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は爆発的な流行語となった。

 

1  カチューシャかわいや わかれのつらさ
   せめて淡雪 とけぬ間と
   神に願いを(ララ)かけましょうか


2  カチューシャかわいや わかれのつらさ
   今宵ひと夜に 降る雪の
   あすは野山の(ララ)路かくせ


3  カチューシャかわいや わかれのつらさ
   せめて又逢う それまでは
   同じ姿で(ララ)いてたもれ


4  カチューシャかわいや わかれのつらさ
  つらいわかれの 涙のひまに
  風は野を吹く(ララ)日はくれる


5  カチューシャかわいや わかれのつらさ
   ひろい野原を とぼとぼと
   独り出て行く(ララ)あすの旅

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

『カチューシャの唄』の作詞は島村抱月と相馬御風(そうま ぎょふう、1883~1950年)、作曲は中山晋平(なかやま しんぺい、1887~1952年)。『復活』の劇中歌として、主演女優の松井須磨子などが歌唱した。また、1914年5月に『復活唱歌』の題名で、松井の歌唱によるレコードが発売された。歌詞の「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は爆発的な流行語となった。


記念日「カチューシャの唄の日」は東京都新宿区神楽坂に事務局を置く一般社団法人・松井須磨子協会が制定。同法人は2023年(令和5年)1月26日に設立した団体。大正時代に活躍した日本初の新劇女優・松井須磨子と日本近代演劇の父・島村抱月の功績をたたえる顕彰活動を行っている。

松井須磨子協会

記念日を通して、多くの人に「カチューシャの唄」とともに松井須磨子島村抱月の功績に関心を持ってもらうことが目的。記念日は2023年に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。

 

 

きょうは何の日 3月23日

世界気象デー 

 

1950(昭和25)年3月23日、世界気象機関条約が発効し、世界気象機関(World Meteorological Organization:WMO)が発足しました。
「世界気象の日」(World Meteorological Day)は、WMOが発足10周年を記念して1960(昭和35)年に制定しました。

 

気象庁のHPより引用します。

世界気象デーについて
WMOは、昭和25年(1950年)3月23日に世界気象機関条約が発効したことを記念し、 毎年3月23日を「世界気象デー」として、気象業務への国際的な理解促進を目的にキャンペーンを行っています。

 

世界気象デーのテーマ ~ 世代を超えた気象、気候、水の未来(2023年)~
“The future of weather, climate and water across generations”
世界気象機関(WMO)は、1950 年(昭和 25 年)3月 23日に世界気象機関条約が発効したことを記念して3月 23日を「世界気象デー」としており、毎年、気象業務への国際的な理解促進のためのキャンペーンを行っています。
今年は WMO の前身である国際気象機関(IMO)が 1873年(明治6年)に創立されてから 150 周年であり、世界気象デーのテーマは、これまでの気象業務の歴史と将来の発展を見据えて「世代を超えた気象、気候、水の未来」となっています。
気象をはじめとした自然現象に国境はなく、世界の気象業務は、各国の国家気象機関が国際気象機関(IMO)や WMO を通じて互いに協力することで発展してきました。今日では当たり前のように世界中で観測データが交換され、天気予報の発表が行われていますが、これは長年にわたる国際協力の成果と言えます。
近年、科学技術の発展により観測や予報の技術は飛躍的に進歩しています。私たちには、気象情報を社会の様々な場面で活用し、気候変動への対応など将来世代のために行動することが期待されています。

 

World Meteorological Organization (WMO)のHPによると、

2024年の世界気象デーのテーマは「At the frontline of climate action(気候変動対策の最前線で)」です。

きょうは何の日 3月20日

LPレコードの日 

 

1951(昭和26)年3月20日、日本初のLPレコードがレコード会社の日本コロムビア株式会社から「長時間レコード」の名前で発売されました。

第1号は米コロムビア原盤による、ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルによるベートーヴェン交響曲第9番(2枚組。レコード番号WL-5001/2)の輸入販売でした。価格は、当時の値段で2枚組で5000円と、非常に高価でした。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

LPレコードについて

LPレコード(25cm)

LPレコードは、毎分約33回転(33 1/3rpm)、標準は直径12インチ(30cm)で収録時間は30分である。直径10インチ(25cm)のものもある。それまでの材質がシェラック(樹脂)のSP盤(Standard Play)に対し、素材がポリ塩化ビニールとなったことで、丈夫で薄く軽くなり高密度で長時間の録音が可能になった。

長時間の再生できるので、LP盤(Long Play)と呼ばれる。また、在来レコードより音溝(グルーヴ)が細いことからマイクログルーヴ(microgroove)、回転数から33回転盤とも呼ばれる。長時間の記録できることから、クラシック曲の収録やアルバムとして使用された。

世界で初めてLPレコードの量産・商品化に成功したのはアメリカのコロムビア・レコード社で、1948年(昭和23年)に世界初のLPレコードが発売された。アメリカやイギリス、日本など各国のレコード会社もこれに続き、LPレコードは普及が進み、遂には世界のアナログ盤の標準媒体の1つとなった。

 

きょうは何の日 3月17日

漫画週刊誌の日 

 

1959(昭和34)年3月17日、日本初の少年向け週刊誌『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』が発刊されました。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

1959年(昭和34年)のこの日、日本初の少年向け週刊誌『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』が発刊された。

 

週刊少年マガジン』について
講談社が発行する漫画雑誌で、現在は毎週水曜日に発売されているが、創刊当初は木曜日発売で定価は40円であった。

週刊少年マガジン』創刊号

(表紙の写真は横綱・朝汐太郎)

その当時のキャッチコピーは「ゆめと希望の少年マガジン」で、主力作品は連続小説が大半を占めていた。最初はヒット作には恵まれず、ライバルである『週刊少年サンデー』に水を空けられている状況が続いた。

しかし、1965年(昭和40年)のちばてつや「ハリスの旋風」を皮切りにマガジンの快進撃が始まり、「巨人の星」「あしたのジョー」の2大スポ根マンガで一気に少年雑誌としての地位を不動のものとした。その他にも「ゲゲゲの鬼太郎」「天才バカボン」なども連載を始め、1967年(昭和42年)1月にはついに100万部を突破した。

 

週刊少年サンデー』について
小学館が発行する漫画雑誌で、現在は毎週水曜日に発売されているが、創刊当初は火曜日発売で定価はマガジンよりも安い30円であった。

週刊少年サンデー』創刊号

(表紙の写真は読売巨人軍長嶋茂雄

「サンデー」という誌名は「この雑誌を読むとまるで日曜日のように楽しい気分に浸れるように」という初代編集長・豊田亀市が名付けた。創刊前には「小学館の新児童誌」と宣伝され、実際、創刊から10年近くの間、学年誌の延長線上にあり、読み物や付録などが充実していた。

創刊号のラインアップは手塚治虫「スリル博士」、横山隆一「宇宙少年トンダー」、寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎」、藤子不二雄海の王子」、益子かつみ「南蛮小天狗」であった。

創刊号の売上げはサンデーが30万部、マガジンが20.5万部でサンデー側に軍配が上がり、マガジンも5号から30円に値下げした。これ以降もお互い張り合って雑誌の総ページ数を増やしていった。

1960年代半ばには手塚治虫「W3」がマガジンからサンデーに移籍する「W3事件」が起き、1960年代末には「天才バカボン」がマガジンからサンデーに移籍するなど、その後もライバル間の争いは続いた。

 

「一般社団法人 日本雑誌協会」のHPより、直近の印刷証明付部数(印刷部数公表)を調べてみました。

週刊少年ジャンプ

    算定期間            印刷証明付き発行部数
第59回:2022年10月~2022年12月        1,260,000
第60回:2023年1月~2023年3月         1,257,273
第61回:2023年4月~2023年6月         1,176,667
第62回:2023年7月~2023年9月         1,160,833
               年間平均部数    1,213,750


週刊少年マガジン

    算定期間            印刷証明付き発行部数
第59回:2022年10月~2022年12月        441,000
第60回:2023年1月~2023年3月         404,167
第61回:2023年4月~2023年6月         370,083
第62回:2023年7月~2023年9月         358,167
              年間平均部数    393,354


週刊少年サンデー

    算定期間            印刷証明付き発行部数
第59回:2022年10月~2022年12月        171,818
第60回:2023年1月~2023年3月         164,231
第61回:2023年4月~2023年6月         160,417
第62回:2023年7月~2023年9月         153,333
              年間平均部数    162,292

 

マガジンとサンデーの関係で言えば、今はマガジンがサンデーの2.5倍ほどの発行部数になっています。

それらのさらに上に、『週刊少年ジャンプ』(集英社)があります。少年ジャンプは1968年創刊で、翌69年から週刊になりました。

週刊少年ジャンプ』は、1994年12月末発売の1995年3・4号で653万部という日本国内における漫画雑誌の最高発行部数を記録しました。「SLAM DUNK」「ドラゴンボール」「るろうに剣心」「キャプテン翼」「こちら葛飾区亀有公園前派出所」など、メジャーな作品が満載の時代でした。