教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 4月24日

植物学の日

 

1862(文久2)年の旧暦の4月24日、植物学者の牧野富太郎(1862~1957年)が土佐国佐川村(現:高知県高岡郡佐川町)で生まれました。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

1862年文久2年)のこの日(旧暦の4月24日)、植物学者の牧野富太郎(まきの とみたろう、1862~1957年)が土佐国佐川村(現:高知県高岡郡佐川町)で生まれた。

その家は近隣から「佐川の岸屋」と呼ばれた商家で、雑貨業と酒造業を営む裕福な家だった。そして、彼は幼少のころから植物に興味を示していたと伝わる。

 

牧野富太郎

 

牧野博士は「日本の植物学の父」といわれ、独学で植物分類学を研究し、94歳でこの世を去るまでの生涯を植物研究に費やした。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。

また、新種・変種約2,500種を発見・命名した。佐川小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。

牧野博士が死去した翌年の1958年(昭和33年)4月、博士の業績を記念した建物として、高知市五台山に「高知県立牧野植物園」が開園した。

 

 

1999年(平成11年)には園内に「牧野富太郎記念館」(内藤廣設計)が新設され、博士が収集した蔵書、直筆の原稿、植物画など58,000点を収蔵した牧野文庫を始め、植物に関する研究室や、博士の生涯に関する展示などがある。

 

 

2008年(平成20年)4月には南園に東洋の園芸植物を観賞できる「50周年記念庭園」が誕生した。園内には「博士ゆかりの野生植物」など約3,000種の植物が栽培されている。また、同園では4月24日を「マキノの日」としており、この日は入園が無料になるほか、園内の植物観察ツアーなど、特別なツアーが開催される。

 

マキノの日

 

 

ウェザーニュース」に掲載された記事より紹介します。

「日本植物学の父」牧野富太郎の誕生日。「人間は植物に感謝して生きなさい」

2023/04/24 13:19 ウェザーニュース

4月24日は「植物学の日」でもあります。「日本植物学の父」「植物の神様」などと呼ばれる牧野富太郎(まきのとみたろう/1862~1957)の生まれた日であるため、制定されました。

現在、放映されているNHK連続テレビ小説(朝ドラ)『らんまん』の主人公、槙野万太郎のモデルは牧野富太郎です。

牧野富太郎はどのような思いで植物に向き合っていたのか、幕末の文久2年に生まれ、昭和32年まで生きた牧野富太郎はどんな人物だったのか、植物学の日(牧野富太郎生誕の日)に、その一端を探ってみましょう。


「雑草という植物などない」
日本に自生する植物は約7000種といわれます。牧野はそのうち1500種以上に学名を付けました。そして今も、日本の植物の約300種は、牧野が付けた学名が使われています。たとえば、ケヤキキンモクセイクチナシなどの学名は牧野が付けました。

「植物の精」「植物の愛人」を自称していた牧野は、植物をとことん愛した人物でした。

「雑草という植物などない。名がないなら、付ければよい。一つ一つの草花にはそれぞれに違いがあって、それぞれに精一杯生きているんだ」

牧野はそうした言葉も残していると伝わります。


尋常ならざるツバキ愛?
牧野がとりわけ愛した植物の一つにツバキがありました。「ツバキはわが日本の名花で、あのとおりの美花を開き葉をあわせて大いに鑑賞せらるべき資格を備えたもの」と激賞しています。

日本中のあらゆるツバキを集めて、ツバキ園を造ることまで提案しています。さらに、ひと山すべてをツバキで埋め尽くすツバキ園まで考えたようですから、牧野のツバキ愛はいささか度を超していたかもしれません。

そのツバキは、漢字では「椿」と書きます。しかしこれは、漢名ではなく和字(国字)なのですが、そのことも牧野は指摘しています。

「椿」は「峠」「榊」「働」などと同じく、もともとは中国の漢字ではなく、日本で作られた漢字、すなわち和字で、ツバキは春に盛んに花を咲かせるため、木偏に春と書いて「ツバキ」と読ませるようになったということです。


カキツバタは「杜若」でも「燕子花」でもない!?
牧野は1500種以上の植物に名前を付けただけに、植物の名称、特に漢字の使い方には厳しい目を向けています。

たとえば、初夏に花を咲かせるカキツバタ。『万葉集』にも詠まれた歌があるように、カキツバタは日本では古くから親しまれてきた植物です。

このカキツバタは漢字で「杜若」や「燕子花」と書き、これは多くの辞書にも載っています。しかし牧野は、これはおかしい、間違いである、と断じています。

中国に「杜若(トジャク)」という草があって、日本の学者がこれをカキツバタであると信じたことから、カキツバタ=杜若という「間違い」が始まってしまったと嘆いています。

江戸時代前期の俳人で、俳聖ともいわれる松尾芭蕉に「杜若われに発句のおもひあり」の一句がありますが、牧野にかかると、これも「おかしい」ということになりそうです。

同様に「カキツバタは断じて燕子花ではない」とも言い切っていて、カキツバタを燕子花であると思っている学者たちの「お顔を拝見すると思わずハハハハハハと笑いたくなる」とまで書いています。

生涯、信じるわが道を突き進んでいった牧野富太郎。物言いも、歯に衣着せぬところがあったようです。


「植物の名前はすべてカタカナで書くのが望ましい」
カキツバタだけでなく、ケヤキを「欅」、アジサイを「紫陽花」、フキを「蕗」、ショウブを「菖蒲」、スギを「杉」などと書くことも「誤用である」と断じていて、古典学者などを除けば、植物の名前はすべてカタカナで書くのが望ましいと主張しています。

この考えは1887(明治20)年以来変わらないと、1943(昭和18)年に書いているから、少なくとも56年間は一貫していたようです。

しかし、2023年の現在も、これらの漢字は辞書に載っています。この現状を牧野は草葉の陰で嘆いているかもしれません。


愛妻への思いから付けられた植物の名
牧野は1890(明治23)年、満年齢で26歳のとき、10代半ばの壽衛子(すえこ)と結婚し、その後、13人の子供を授かっています(壽衛子の前にも、妻と呼べる女性がいたと伝わります)。

牧野は土佐の富裕な商家に生まれた「いいところの若(わか)」で、壽衛子は彦根藩の士族の娘という高い身分で裕福な家の出です。

当初は牧野の実家から援助があり、牧野自身も東京大学に職を得たのですが、一家の生活費に加え、牧野の研究費、植物採集の旅費など、莫大な金銭を必要としたため、食費にも事欠くほどの貧乏暮らしが続きました。その困窮生活を支えたのは壽衛子でした。

牧野は次のような言葉も残しています。

「私が終生植物の研究に身を委ねることが出来たのは何といっても、亡妻壽衛子のお蔭が多分にある」
「よくもあんな貧乏生活の中で専ら植物にのみ熱中して研究が出来たものだと、われながら不思議になることがある。それほど妻は私に尽くしてくれた」

壽衛子は50代半ばで亡くなりました。同時期に仙台で発見したササに、牧野は「スエコザサ」(和名。学名は「ササエラ・スエコアナ・マキノ」~正式にはラテン語で表記)と名づけました。


「人間は植物がないと生活できない」
牧野は「(人間は)植物に感謝せよ」と熱く語り、次のような言葉を残しています。

「植物は人間がいなくても少しも構わずに生活できるが、人間は植物がないと生活できない。ならば、人間と植物とを比べると、人間のほうが弱虫といえよう。
人間は植物にオジギをしないといけない。衣食住は人間にとって、必要欠くべからざるものである。人間のその要求を満足させてくれるものが植物である。
人間は植物を神様だと尊崇し、礼拝し、感謝の真心を捧ぐべきなのだ」

牧野富太郎生誕の日に、噛み締めたい言葉です。


牧野は満90歳ごろまで植物採集に出かけ、93歳まで徹夜もしたというから、驚かされます。

行年は94。存分に生ききり、大きな足跡を残した人生だったといえるでしょう。

 

参考資料など
牧野富太郎 なぜ花は匂うか』(著者/牧野富太郎、発行所/平凡社)、『草木とともに 牧野富太郎自伝』(著者/牧野富太郎、発行所/KADOKAWA)、『牧野富太郎 雑草という草はない 日本植物学の父』(著者/青山誠、発行所/KADOKAWA)、『牧野富太郎 植物博士の人生図鑑』(編者/コロナ・ブックス編集部、発行所/平凡社)、『MAKINO』編者/高知新聞社、発行所/北隆館)、『牧野富太郎 植物の神様といわれた男』(著者/横山充男、イラストレーター/ウチダヒロコ、発行所/くもん出版)、『牧野富太郎 日本植物学の父』(文/清水洋美、絵/里見和彦、発行所/汐文社)、『もっと知りたい牧野富太郎』(著者/池田博田中純子、発行所/東京美術)、『牧野富太郎ものがたり 草木とみた夢』(文/谷本雄治、絵/大野八生、解説/田中伸幸、発行所/出版ワークス)、『日本の365日を愛おしむ』(著者/本間美加子、発行所/飛鳥新社)、『俳句の花図鑑』(監修/復本一郎、発行所/成美堂出版)、『四季の花の名前と育て方』(監修者/川原田邦彦、発行所/日東書院本社)