教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 4月9日

大仏の日

 

752(天平勝宝4)年4月9日、奈良・東大寺の大仏が完成し、開眼供養会が行われました。

 

東大寺のHPより引用します。

盧舎那(毘盧遮那)仏

仏さまは正しくは盧舎那(るしゃな)仏もしくは毘盧遮那(びるしゃな/ヴァイローチャナ)仏と言い、その意味は、知慧と慈悲の光明を遍く照し出されているほとけということである。インドのカピラ城に生まれた釈尊は29歳のときに出家し、以後6年間難行苦行を重ね、ついに尼連禅河(にれんぜんが)のほとりの菩提樹下で大いなる宗教体験を得られた。『大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)』は時間と空間を超えたほとけとなられたその瞬間の釈尊のお姿を描いたお経で、偉大で、正しく、広大なほとけの世界を、菩薩のさまざまな実践の華によって飾ることを説いている。このお経によれば、鳥の声、花の色、水の流れ、雲の姿すべてが生きとし生けるものを救おうとされるビルシャナ仏の説法なのである。大仏尊像の台座の周りの蓮弁には「蓮華蔵世界」と呼ばれている毛彫図が刻まれているが、これはそうした『華厳経』の説く「悟りの世界」を絵に表わしたもので、われわれ一人ひとりの存在ばかりでなく、あらゆるものが無限のつながりと広がりをもち、これらすべてのものが、ビルシャナ仏の光明に包まれているという考えを美しく表現している。


盧舎那大仏と大仏殿

正倉院に伝わる聖武天皇の遺愛の品々は、天平時代の華やかさを思わせる。だが天皇治世中の政治・社会情勢は決して穏やかなものではなかった。長屋王の変に象徴される権力闘争、光明皇后の兄弟たちを死に追いやった天然痘の流行、九州での藤原広嗣の反乱と、10年以上にわたる激変が続いた。聖武天皇はこうした世の中を癒し、国家の安泰と民衆の幸福をはかるには仏教思想による以外にないと、仏教への傾斜を強められたのであろう。藤原広嗣が反乱を起こした天平12年(740)以降、天皇平城京を離れて幾度か都を遷されたが、その間の天平13年(741)、恭仁京(くにきょう)において国分寺国分尼寺建立の詔を出し、天平15年(743)には紫香楽(しがらき)宮で盧舎那大仏造顕の詔を出された。国分寺の場合は『金光明(きんこうみょう)最勝王経』と『法華経』を、大仏発願は『華厳経』を拠としている。国分寺の正式名「金光明四天王護国之寺」に見られるように、一国を単位として国と民衆の安寧を祈るという趣旨が、2年後の大仏造顕の場合はその範囲をはるかに超えて、「動植咸くに栄えむ」と華厳の円融無礙(えんゆうむげ)の世界を望まれ、大仏造立のために「一枝の草、一把の土を持て像を助け造らん」と願う人々の協力を求められた。こうして天平12年に河内の知識寺(ちしきでら)に行幸して盧舎那仏を拝されて以来、天皇は華厳の教えに対する理解を深めておられたが、天平感宝元年(749)には正式に『華厳経』をもって根本とする旨を表明されたのである

さて、天平17年(745)の平城還都以来、東大寺前身の金鍾山寺(きんしょうさんじ)の寺域で再開された盧舎那大仏の造立は、金光明寺造仏所、のちの造東大寺司によって工事が進められ、3カ年8度の鋳継ぎにより天平勝宝元年(749)10月に仏身が鋳造、翌々年には大仏殿も造営され、同4年(752)4月には盛大な開眼供養会(かいげんくようえ)が執り行なわれた。この大事業は、勧進に当たって民衆の力を結集した行基菩薩や初代の東大寺別当良弁僧正など、多くの人々の協力があって実現したが、そのことを象徴して、東大寺聖武天皇行基菩薩・良弁僧正と、開眼の導師を勤めた婆羅門僧正菩提僊那(ばらもんそうじょうぼだいせんな)の4人による「四聖建立の寺」とも称される。

平安時代になると、早くも大仏さまの背部に損傷が見られたり、傾斜を止めるために背後に盛り土をするなど補修工事がなされたが、斉衡2年(855)、大地震により頭部が落ち、修復がなされた。一方、大仏殿をはじめ諸伽藍も、天災や失火などにより修復を迫られることが多かった。こうした事業や寺院本来の教学活動のための財源を得るため、この時代には荘園が営まれていたが、平安時代末期になると、東大寺はその荘園をめぐって様々な紛争に巻き込まれ、ついに治承4年(1180)、平重衡(たいらのしげひら)の兵火によって伽藍の大半が灰燼に帰した。

東大寺の復興造営に大きな功績を残したのは重源上人であった。上人は養和元年(1181)、61歳で勧進職に任じられて以来、後白河法皇源頼朝の援助を受けながら20数年間の後半生を復興事業に捧げた。まず宋の鋳物師陳和卿(ちんなけい)の協力を得て、頭部や左手など大仏さまを補鋳、文治元年(1185)に開眼供養を行なった。続いて大仏殿再建のための用材確保に苦慮したが、周防国(すおうのくに)と備前国東大寺造営料所に当てられてからは造営が急速に進み、建久6年(1195)に落慶供養会が営まれた。さらに翌年には大仏殿の両脇侍と四天王が僅か半年で造られたという。以後、境内の諸伽藍が次々と再建され、鎌倉時代の盛時を生み出した。

室町時代に入ると、東大寺はもはや昔日の勢いはなくなっていたが、それに拍車をかけたのは永禄10年(1567)の三好・松永の兵火であった。大仏殿、戒壇堂、浄土堂、唐禅院、四聖坊などが焼失した。大仏さまは山田道安によって補修され、仮屋も建てられたが、やがて仮屋は大風で倒れ、100年近く風雨にさらされた。その痛ましい姿を見て大仏殿再建の志を抱いたのが公慶上人で、貞享元年(1684)、江戸幕府に大仏殿修造を願って許され、同3年から大仏鋳造に着手、仏頭と蓮弁18枚を補鋳、元禄5年(1692)に開眼供養が行なわれた。また同時に大仏殿の再建も進められたが、天平・鎌倉期の規模を踏襲することは当時の経済事情が許さず、現在見られるような東西を約6割に縮小した形で再建され、宝永6年(1709)に落慶供養が盛大に行なわれた。しかし中門や廻廊が完工するにはさらに30年を要した。

この世界最大級の木造建造物はその後焼けることなく明治時代を迎えたが、傷みが激しく、軒は副柱でかろうじて支えられるという状態で、明治39年(1906)から解体修理に着手、内部に鉄骨を用いて補強するなど新しい工法を併用して明治45年(1912)に完成した。しかし屋根工事に問題があったらしく、時折殿内に雨水が見られるようになったことから、昭和48年(1973)から7年の歳月をかけて大修理が行なわれ、同55年(1980)秋、落慶法要が盛大に営まれた。

 

大仏建立に関するお薦めの1冊です。

『新装版 奈良の大仏 (日本人はどのように建造物をつくってきたか) 』
香取忠彦 (著), 穂積和夫 (イラスト)   草思社 (2010/2/23) 1760円

※旧版は1981年に出版されました。

奈良の大仏の建造は、日本が統一されてから初めて行われた国家的な規模の大事業であった。史上空前の大鋳造仏建設の波瀾に富んだ全過程を描いた力作。ソフトカバー新装版になって再登場。」(Amazonより)

自己肯定感はほめれば育つってもんじゃない

朝日新聞に「多事奏論」というコラム欄がある。その筆者の一人である岡崎明子さん(くらし報道部・科学みらい部次長)の直近の記事の一部を抜粋して紹介する。

 

2024.3.30 朝日新聞「多事奏論」

自己肯定感も自己愛も
「ほめて育てる」親は不適切?
              くらし報道部・科学みらい部次長 岡崎 明子

 

 ……。

 世代でくくることへの違和感はあるが、Z世代の60%以上が上司に「人前でほめられたくない」と考えているという調査結果もある。……金沢大の金間大介教授の著書「先生、どうか皆の前でほめないで下さい」では、自己肯定感の低さが背後にはあると指摘している。
 ……。
 心理学者の榎本博明さんは「ほめるだけでは、自己肯定感は育たない」と喝破する。今の時代の子育ては、自分の思い通りにならないとすぐ心が折れる、注意されると「自分が否定された」と過剰反応するような子どもを量産しているという。「自己肯定感は、厳しい状況を自分の力で乗り越えたときに高まるもの。 特に頑張っていないのにほめられても高まらないし、自己評価を他者に依存させてしまうことにつながるんです」
 ほめ言葉は子どものやる気と自己肯定感を上げると、露ほども疑ってこなかった。……。

 「ほめて育てる」の発祥の地、米国でも、ほめすぎが自己愛を肥大させるという負の側面が問題になっているそうだ。サンディエゴ州立大のジーン・トウェンギ教授によると2000年代以降、自愛性人格が強い大学生が急激に増えているという。そしてその価値観を植え付けたのは、多くがその親だと指摘する。
 その指摘に再びハッとして、グッときた。子どもをできるだけ叱らず、ほめて育てたいという考えの裏には、「子どもに嫌われたくない」という親自身の自己愛も潜んでいるのではないか。
 「ほめて育てる」が広がったのは、昭和の終わりころだ。でもそれが、子どもの自己肯定感を下げ、親と子どもの自己愛を増長させているとしたら――。それは、不適切にもほどがある。
 令和の子育てはどうあるべきか。私自身も価値観の転換を迫られている。

 

「ほめて育てる」教育が言われるようになったのは1980年代のこと。「ほめる」ことと対をなして、「みんなの中では叱らない」ことも言われた。

私は、教師としても親としても、ほめることが苦手で下手だった。教師としての私は、ほめることはあまりしなかったけれど、評価し認めることはしてきたと思う。それも子ども個々よりも、学級集団が対象であることが多かった。学習集団であれ仲間集団であれ、集団の成長を評価し認めることはあっても、同時にさらに高次の次の目標を与えることが常だった。

「自己肯定感」という言葉は、1990年代に外国の人権教育プログラムが紹介されるなかで出会った。人権教育を推進する任務に就いていたこともあり、自己肯定感を育てることには積極的に取り組んだ。

 

Z世代は、「ほめほめことば」に始まり“ほめほめシャワー“を浴び続けて育った世代である。何が起こっているのだろう。

 

「人前でほめられたくない」……自己肯定感の低さが背後にはある

 

「ほめるだけでは、自己肯定感は育たない」

「自己肯定感は、厳しい状況を自分の力で乗り越えたときに高まるもの。 特に頑張っていないのにほめられても高まらないし、自己評価を他者に依存させてしまうことにつながるんです」

 

「ほめて育てる」  ほめすぎが自己愛を肥大させるという負の側面

子どもをできるだけ叱らず、ほめて育てたいという考えの裏には、「子どもに嫌われたくない」という親自身の自己愛も潜んでいるのではないか。

「ほめて育てる」が子どもの自己肯定感を下げ、親と子どもの自己愛を増長させているとしたら――。

 

確認しましょう。

ほめる ≠ 自己肯定感が育つ

つまり、

自己肯定感は、厳しい状況を自分の力で乗り越えたときに高まるもの。

特に頑張っていないのにほめられても高まらないし、自己評価を他者に依存させてしまうことにつながる。

 

まずは、親も教師も、自分の足でしっかりと立つことではないだろうか。

きょうは何の日 4月6日

北極の日

 

1909(明治42)年4月6日、アメリカ海軍の軍人・探検家のロバート・ピアリー(Robert Peary、1856~1920年)ら6人が、世界で初めて北極点に到達したとされます。

 

Wikipedia」の「ロバート・ピアリー」より引用します。

ロバート・エドウィン・ピアリー(Robert Edwin Peary, 1856年5月6日 - 1920年2月20日)は、アメリカの探検家。ペンシルベニア州クレソン出身。

ロバート・エドウィン・ピアリー
西洋人として最初に北極点に到達したとされているが、探検の後援者には当時のナショナルジオグラフィック社などの実力者が多く、当時のマスコミを押さえての喧伝といわれる。

経歴
1891年から1897年にかけて、4度にわたるグリーンランド探検を行う。その間、現地のイヌイット女性との間に2児をもうけた。1898年には、このグリーンランド探検の功績に対して、王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた[1]。
1898年に初めて北極点到達に挑戦するが失敗し、凍傷で足指8本を失う。
1906年に4度目の挑戦で北極点まで280kmの地点まで到達。
1909年4月6日、ピアリーら6名が北極点に到達。
疑問点
1909年の探検から帰還後、元の仲間であるフレデリック・クックが「自分は、1908年4月21日に既に北極点に到達していた」と主張した。調査委員会が設けられたが、結局クックの訴えは退けられ、詐欺罪で収監となり、ピアリーが最初の北極点到達者と認定された。現在では、ピアリーが証人を買収したことがわかっているが、実際にクックは北極点の数百km手前までしか到達していなかったようである。

また、後の詳しい測量により、ピアリーらが北極点だとしていた点は正確には北緯89度57分(北極点から約6kmの地点)であったことが分かっている。また、ナビゲーションの技術を持つ者がいなかったにもかかわらず、旅程が不自然に順調であることなどから、到達そのものを疑問視する説もある。

もし初の北極点到達がピアリーでない場合、1926年のリチャード・バードによる北極点往復飛行か同年のアムンセン、ノビレ、エルズワースによる飛行船ノルゲ号での北極海横断飛行が最初の北極点「到達」となる。

 

きょうは何の日 4月3日

いんげん豆の日

 

1673(延宝元)年4月3日、いんげん豆を中国から日本に伝えたとされる隠元禅師(隠元隆琦)が亡くなりました。「いんげん豆の日」は、中国の隠元禅師の命日にちなんで制定されたといわれています。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

隠元禅師(1594~1673)は中国・明の禅僧で、江戸時代前期に来日して日本黄檗宗を開祖した人物。来日後、将軍徳川家綱により厚くもてなされ、中国にいた時と同じ萬福寺というお寺を京都・宇治に創建した。また、いんげん豆を禅の普茶料理(精進料理)の材料として普及させた。

 

講談社」のHPより引用します。

地球を4分の3周して伝来したインゲン豆
今日、4月3日は「インゲン豆の日」に制定されています。ゆかりの深いある人物の命日にちなんでいるのですが……おわかりになるでしょうか?

気になるその人物とは、「隠元」さん。そう、インゲン豆の「インゲン」とは、人の名前にちなんでいたのです。隠元和尚は中国・明生まれの僧侶で、、承応3年(1654年)に日本に渡りましたが、その際に中国の書物や物品を持ち込んだといわれています。

たとえば、「煎茶」の文化や、読経をするときに使う「木魚」を日本に紹介し、「西瓜」や「筍」なども隠元和尚とともに日本にやってきたという説があります。インゲン豆も隠元和尚が江戸時代の日本に持ち込んだ野菜のひとつです。

インゲン豆のはもともとアメリカ大陸で栽培されており、中国には大航海時代のヨーロッパを経由して伝わりました。地球を4分の3周して日本まで届いたことになります。

インゲン豆は安価なうえに栄養価も高い作物で、分類上は緑黄色野菜となります。タンパク質が豊富なのはもちろん、ビタミンやミネラル、カルシウムも多く含まれており、リシンなどの必須アミノ酸もバランスよく摂取することができます。豆の中では糖質量が少なくダイエット向きですが、あんこにして食べると砂糖が入ってしまうので注意が必要です。

インゲン豆はいろいろな食べ方で楽しむことができます。若いうちはさやごと食べられますし、成長した種子は煮豆や白あん、甘納豆にすることもできます。イギリスでは、甘辛いソースでインゲン豆を煮た「ベイクドビーンズ」という食べ物が国民食になっているなど、インゲン豆は世界中で食べられています。

 

Wikipedia」の「いんげんまめ」より引用します。

インゲンマメ隠元豆、眉児豆、Phaseolus vulgaris)はマメ亜科の一年草。別名、サイトウ(菜豆)、サンドマメ(三度豆)、ゴガツササゲ(五月豇豆)。

主に西日本でフジマメ(藤豆、別名・センゴクマメ(千石豆)、アジマメ(藊豆)など)のことを「インゲンマメ」と呼ぶ地域があり、両種は混同されやすいが、別種である。

歴史
メキシコなど中央アメリカ、南米アンデスの原産とされる。古代からインゲンマメ南北アメリカ大陸での主要作物となっており、アステカ帝国では乾燥させたインゲンを税の物納品目として徴収していた。コロンブスによるアメリカ大陸発見時に、アメリカ全土に広がったとされる。

ヨーロッパには、コロンブスの二度目の航海の後に持ち込まれたが、当初はアメリカ原産であることは知られず、カズラの新種と思われていた。16世紀には育てやすく食べやすい作物として栽培されるようになった。特にギリシャなど地中海沿岸地域では、ソラマメ中毒にならない健康に良い豆として受け入れられていた。

フランスはこの豆の利用に熱心で、様々な料理を作った。中でも若いインゲンを莢ごと調理する料理、アリコ・ヴェルが好まれ、そのためにフラジョレという専用の品種を作った。他の国も豆料理をフランス料理風の名でよぶ場合が多くなり、今日でも英語圏では莢ごと食べる方法をフレンチスタイル、フレンチビーンとよぶ。

16世紀末にヨーロッパを経由して中国に伝わり、17世紀に日本に伝わったといわれている。1654年の江戸時代、明からの帰化僧・隠元隆琦が日本に持ち込んだとされることからこの名がついた。実際にはフジマメ(藤豆、フジマメ属)を持ち帰ったという説もある。このためかどうか不明だが、上方(関西)では伝統的にフジマメをインゲンマメと呼び、インゲンマメはフジマメ、サヤインゲンは三度豆と呼ぶ。

 

 

きょうは何の日 3月29日

マリモの日 

 

1952(昭和27)年3月29日、北海道・阿寒湖のマリモが国の特別天然記念物に指定されました。

 

「tenki.jp」より引用します。

3月29日は 「マリモの日」。丸くて大きいマリモの群生は世界で阿寒湖だけ !!
柴山ロミオ
2015年03月29日

3月29日は 「マリモの日」。丸くて大きいマリモの群生は世界で阿寒湖だけ !!

阿寒湖のマリモは、丸さも大きさも数の多さも世界一!!


マリモといえば、阿寒湖に生息している藻の丸いかたまり、と何気なく思い浮かべることができますが、実は、マリモが丸く、大きく、しかも数多く見られるのは、世界で唯一、阿寒湖だけなのです。3月29日は「マリモの日」。阿寒湖一帯では今、世界自然遺産の登録をめざし、地域一丸となって取り組んでいます。

 

世界のマリモは丸くないのがほとんど。丸い形のマリモの 「群生」 は阿寒湖だけ
マリモは、丸い形の一つ一つが一個体なのではありません。もともとは細い繊維状の藻で、丸い形は生物学的にいえばマリモの「集合体」ということになります。
細い繊維状のマリモは日本やヨーロッパなど、北半球の緯度が高い地域に広く分布しています。そのうち、丸い形のマリモが生息するのは、約40カ所。さらに、丸い形のマリモが数多く“群生”するのは、日本の北海道の阿寒湖と、アイスランドミーヴァトン湖だけでした。
ところが、ミーヴァトン湖では2010年代に入り、工場の排水が原因でマリモが壊滅してしまい、2014年にはマリモの数はわずか2個になってしまいました。
こうしてとうとう阿寒湖が、丸い形のマリモの群生が観測できる最後の地となったのです。


なぜ阿寒湖のマリモだけが丸く大きくなるのか? その秘密は絶妙な “風”
丸いマリモは、阿寒湖の中でも特に北側のチュウルイ湾付近に生息しています。同じ阿寒湖でもほかの場所では丸くありません。湖底に漂う「浮遊型」や、岩の表面に付着する「着生型」がほとんどです。世界のマリモを見ても、丸くないのがほとんどです。では、なぜ阿寒湖のチュウルイ湾付近のマリモだけが丸くなるのでしょう。

チュウルイ湾のあたりはいつも風が強く吹きます。この強い風によってマリモはつねに波に揺られた状態になります。すると、はじめはユラユラと動いていたマリモが、回転をはじめます。しかも、波に流されて遠くへ行ってしまうことなく、その場でクルクルと回り続けるのです。これによって全体的に光を浴びることができるので、満べんなく光合成ができ、下側になった部分が腐ることなく丸く成長できるのです。

この回転は、チュウルイ湾ならでは風によって起こります。春になると(といっても、道東では5月の下旬ごろ)、チュウルイ湾には風速7~10mの強い南風が吹きます。この強い風が湖底に水の流れを作るので、マリモが回転するのです。風が強すぎるとマリモは岸に打ち上げられてしまいますが、風が弱すぎると波が湖底に届かずマリモは回転できません。強すぎず弱すぎず、この絶妙な風によって、チュウルイ湾のマリモは丸く大きく成長できるのです。


本物のマリモを観察できる施設は2カ所、神秘の阿寒湖で奇跡のマリモ
阿寒湖で自生するマリモを生で見ることはできませんが、阿寒湖畔ではマリモを観察できる施設が2カ所あります。
・「マリモ展示観察センター」……阿寒湖の北側、チュウルイ島にある施設です。マリモの生態を紹介する展示があります。島に行くためには、約1時間半、遊覧船に乗って移動します。
・「阿寒湖畔エコミュージアムセンター」……マリモ以外にも、淡水魚や動植物などが紹介されています。
マリモの生息地であるチュウルイ湾は保護区域なので、普段は許可なく一般の人は立ち入ることはできませんが、年に数回、釧路市などが主催して、地元の小中学生や一般人を対象に、生育地への立ち入り観察会を実施しています。この観察会はマリモを直接観察することができる貴重な機会です。

1952(昭和27)年の3月29日、阿寒湖のマリモが国の特別天然記念物に指定され、この日が「マリモの日」となりました。そこから約60年、釧路市では、阿寒湖とその周辺の湖沼群を世界自然遺産に登録しようと、2012年から活動を開始しています。
阿寒湖は、冬は2月12日にご紹介した「フロストフラワー(霜の花)」が見られたり(http://www.tenki.jp/suppl/romisan/2015/02/12/1861.html)、世界で唯一のマリモが群生したりと、実に神秘的な湖です。今年の冬、道東は悪天候が続きましたが、そろそろ雪どけの季節です。神秘の湖「阿寒湖」を、一度訪れてみてはいかがでしょうか。

 

きょうは何の日 3月26日

カチューシャの唄の日 

 

1914(大正3)年3月26日、島村抱月しまむら ほうげつ、1871~1918年)と松井須磨子(まつい すまこ、1886~1919年)が起こした劇団「芸術座」が、トルストイの『復活』の初演を行いました。この中で歌われた『カチューシャの唄』が大流行しました。

 

Wikipedia」より引用します。

『カチューシャの唄』(カチューシャのうた)は、1914年(大正3年)に発表された日本の歌謡曲、ならびに同楽曲を題材にした同年製作公開の日本の短篇映画である。楽曲の作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平。劇団芸術座の第3回目の公演である『復活』の劇中歌として、主演女優の松井須磨子などが歌唱した。また『復活唱歌』の題名で、松井の歌唱によるレコードが発売された。歌詞の「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は爆発的な流行語となった。

 

1  カチューシャかわいや わかれのつらさ
   せめて淡雪 とけぬ間と
   神に願いを(ララ)かけましょうか


2  カチューシャかわいや わかれのつらさ
   今宵ひと夜に 降る雪の
   あすは野山の(ララ)路かくせ


3  カチューシャかわいや わかれのつらさ
   せめて又逢う それまでは
   同じ姿で(ララ)いてたもれ


4  カチューシャかわいや わかれのつらさ
  つらいわかれの 涙のひまに
  風は野を吹く(ララ)日はくれる


5  カチューシャかわいや わかれのつらさ
   ひろい野原を とぼとぼと
   独り出て行く(ララ)あすの旅

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

『カチューシャの唄』の作詞は島村抱月と相馬御風(そうま ぎょふう、1883~1950年)、作曲は中山晋平(なかやま しんぺい、1887~1952年)。『復活』の劇中歌として、主演女優の松井須磨子などが歌唱した。また、1914年5月に『復活唱歌』の題名で、松井の歌唱によるレコードが発売された。歌詞の「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は爆発的な流行語となった。


記念日「カチューシャの唄の日」は東京都新宿区神楽坂に事務局を置く一般社団法人・松井須磨子協会が制定。同法人は2023年(令和5年)1月26日に設立した団体。大正時代に活躍した日本初の新劇女優・松井須磨子と日本近代演劇の父・島村抱月の功績をたたえる顕彰活動を行っている。

松井須磨子協会

記念日を通して、多くの人に「カチューシャの唄」とともに松井須磨子島村抱月の功績に関心を持ってもらうことが目的。記念日は2023年に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。

 

 

きょうは何の日 3月23日

世界気象デー 

 

1950(昭和25)年3月23日、世界気象機関条約が発効し、世界気象機関(World Meteorological Organization:WMO)が発足しました。
「世界気象の日」(World Meteorological Day)は、WMOが発足10周年を記念して1960(昭和35)年に制定しました。

 

気象庁のHPより引用します。

世界気象デーについて
WMOは、昭和25年(1950年)3月23日に世界気象機関条約が発効したことを記念し、 毎年3月23日を「世界気象デー」として、気象業務への国際的な理解促進を目的にキャンペーンを行っています。

 

世界気象デーのテーマ ~ 世代を超えた気象、気候、水の未来(2023年)~
“The future of weather, climate and water across generations”
世界気象機関(WMO)は、1950 年(昭和 25 年)3月 23日に世界気象機関条約が発効したことを記念して3月 23日を「世界気象デー」としており、毎年、気象業務への国際的な理解促進のためのキャンペーンを行っています。
今年は WMO の前身である国際気象機関(IMO)が 1873年(明治6年)に創立されてから 150 周年であり、世界気象デーのテーマは、これまでの気象業務の歴史と将来の発展を見据えて「世代を超えた気象、気候、水の未来」となっています。
気象をはじめとした自然現象に国境はなく、世界の気象業務は、各国の国家気象機関が国際気象機関(IMO)や WMO を通じて互いに協力することで発展してきました。今日では当たり前のように世界中で観測データが交換され、天気予報の発表が行われていますが、これは長年にわたる国際協力の成果と言えます。
近年、科学技術の発展により観測や予報の技術は飛躍的に進歩しています。私たちには、気象情報を社会の様々な場面で活用し、気候変動への対応など将来世代のために行動することが期待されています。

 

World Meteorological Organization (WMO)のHPによると、

2024年の世界気象デーのテーマは「At the frontline of climate action(気候変動対策の最前線で)」です。