ナイチンゲール・デー
「ナイチンゲール・デー」は、1920(大正9)年に赤十字社がイギリスの看護師フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820~1910年)の誕生日にちなんで制定しました。近代看護の基礎を築いたナイチンゲールの功績を称えることを目的としています。
「雑学ネタ帳」より引用します。
1820年のこの日、両親の2年間の新婚旅行中にトスカーナ大公国の首都フィレンツェで生まれ、フローレンスと名付けられた。フローレンス(Florence)は、イタリア語のフィレンツェ(Firenze)を意味する英語である。古代ローマ時代、花の女神フローラ(Flōra)の町としてフロレンティア(Florentia)と名付けたことが語源とされている。
裕福な家庭であり、フランス語・ギリシャ語・イタリア語・ラテン語などの外国語、経済学、数学、天文学、美術など高い教育を学んで育った。後に貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにして、人の役に立つ仕事がしたいと思うようになり、当時の看護婦となった。
ナイチンゲールは、1853年から1856年の間にクリミア半島などで行われたクリミヤ戦争の野戦病院で、負傷兵たちへの献身的な看護活動に従事し、看護の重要さと貴さを社会に広く認識させた。また、統計に基づく医療衛生改革を行い、イギリスではナイチンゲールを統計学の先駆者としている。
1860年、ロンドンの聖トーマス病院に付属してナイチンゲール看護学校(フローレンス・ナイチンゲール看護師助産師学校)を設立した。これは世界初の宗教系でない看護学校であり、現在はロンドン大学を構成するカレッジの一つであるキングス・カレッジ・ロンドンの最も大規模な学部の一つとなっている。
「われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸せのために身を捧げん」という言葉を残している。90歳でこの世を去った。現在、聖トーマス病院の敷地内にフローレンス・ナイチンゲール博物館がある。
ナイチンゲールの誕生日にちなんで、5月12日は1965年(昭和40年)に国際看護師協会(ICN)が制定した「国際看護師の日」、1990年(平成2年)に厚生省(現:厚生労働省)が制定した「看護の日」にもなっている。
「Wikipedia」の「フローレンス・ナイティンゲール」より、「クリミア戦争へ」の章を引用します。
しかし、1854年にクリミア戦争が勃発すると、転機が訪れた。ロンドンタイムスの特派員ウィリアム・ハワード・ラッセル(英語版)により、クリミア戦争の前線における負傷兵の扱いが後方部隊で如何に悲惨な状況となっているかが伝えられるようになると、一気に世論は沸騰する。ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固める。
1854年頃の写真
事態を重くみたシドニー・ハーバート戦時大臣は、ナイチンゲールに戦地への従軍を依頼する。10月21日、ナイチンゲールはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かい、11月に到着した。しかし、兵舎病院は極めて不衛生であり、官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されていなかった。さらに現地のホール(英語版)軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護婦団の従軍を拒否した。ナイチンゲールらは、病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいった。しかし味方がいないわけではなかった。ヴィクトリア女王はハーバート戦時大臣に対し、ナイチンゲールからの報告を直接自身に届けるよう命じた。ハーバートはすぐにこれを戦地に送り、病院内に貼り出させた。ナイチンゲールと看護婦団、そして傷病兵らは元気付けられた。
こうした経緯を経て、彼女はスクタリ病院の看護婦の総責任者として活躍した。後に判明することであるが、着任後に死亡率は上昇 (42%) したものの、『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転した。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれた。看護婦を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来する。夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人(または光を掲げる貴婦人)」とも呼ばれた。ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようである。本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる。
ナイチンゲールが考案した「鶏のとさか」と呼ばれる円グラフ。
クリミア戦争での負傷兵たちの死亡原因を、予防可能な疾病、負傷、その他に分けて視覚化している。
ナイチンゲールの従軍後の1855年、戦時省と陸軍省が合併すると若干事態は好転した。新陸軍省は衛生委員会を組織し、現地へ調査団を派遣した、そして、ナイチンゲールの報告どおり、病院内を衛生的に保つことを命令した。この命令の実施により、2月に約42%まで跳ね上がっていた死亡率は4月に14.5%、5月に5%になったことが後に判明した。兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測された。
この間もナイチンゲールは陸軍内の政治的トラブルに巻き込まれる。もっとも大きなものは、ナイチンゲールの辞令の任地に最前線であるクリミア半島が含まれていないことを楯に、ホール軍医長官がその活動を制限したことだった。最終的には、この部分を修正した女王名による新たな辞令が届くが、これは1856年の講和直前のことであった。
1856年3月30日パリで平和条約が締結され、4月29日にクリミア戦争が終結する。7月16日には病院の最後の患者が退院した。