教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

保護者とは子育て協働の関係でありたい③

教室の学びを確かなものにするには、家庭での支えが欠かせません。しかしそれは、教師と保護者が目標を共有できていなければ、実りは望めません。

 

今回は2005年の記録です。

 

 

おうちの方へ特集号 2005.4.22


子は親の鏡  ドロシー・ロー・ノルト


けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる
「可愛そうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
子どもを馬鹿にすると、引込み思案な子になる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱り続けてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう
励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
褒めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ
愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる
守ってあげれば子どもは強い子に育つ
分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ
やさしく、思いやりを持って育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、
子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

 

「子どもが育つ魔法の言葉」(PHP文庫 ドロシー・ロー・ノルト著 石井千春訳)より

 

 皇室の会見で引用されてすっかり有名になった詩を紹介しました。人権教育では以前から注目されていた作品です。作者のドロシー・ロー・ノルト(Drothy Law Nolte)は、1924年1月12日生まれのアメリカ人で、40年以上にわたって家族関係についての授業や講演を行い、家庭教育の子育てコンサルタントの第一人者です。著書『子どもが育つ魔法の言葉』(1998年刊・アメリカ)は、世界中で多くの共感を呼び、とくに日本では130万部を超す大ベストセラーです。


 『子どもが育つ魔法の言葉』の「はじめに」に、この詩の生い立ちが書いてありますので抜粋してご紹介します。


はじめに - 詩「子は親の鏡」の生い立ち


 詩「子は親の鏡」を書いたのは、1954年のことです。当時わたしは南カリフォルニアの新聞に、豊かな家庭生活についてのコラムを連載していました。わたしには、12歳の娘と9歳の息子がいました。地域の公開講座で家庭生活に関する講義を行い、保育園で子育て教室の主任を務めていました。後に、この詩が、世界中の人々に読まれることになるとは、まったく予想だにしていませんでした。
 わたしは、詩「子は親の鏡」で、当時の親御さんたちの悩みに答えたいと思っていました。どんな親になったらいいのか、その答えをこの詩に託したのです。50年代のアメリカでは、子どもをきびしく叱ることが親の役目だと思われていました。子育てで大切なのは、子どもを導くことなのだと考える人はあまりいなかったのです。
 子どもは親を手本として育ちます。毎日の生活での親の姿こそが、子どもに最も影響力を持つのです。わたしは、詩「子は親の鏡」で、それを表現したかったのです。
 この詩は、長い間、様々な形で人々に親しまれてきました。アポットラボラトリー支社ロスプロダクツによって、詩の短縮版が病院で配布されました。そして、新しく親になる何百万人というお母さん、お父さんに読まれてきました。この詩はまた、10ヵ国語に翻訳されて世界中で出版されました。そして、子育て教室や教員セミナーのカリキュラムの一部として、教会や教室で使われてきました。この詩が、親御さんたちのよき道案内となり、励ましとなってくれればとわたしは願ってきました。わたしたち親は、子育てという、人生でいちばん大切な仕事に取り組んでいるのです。
「中略」
 わたしは、最終的に、この行を「親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る」と書き直しました。今の世の中では、常に正直であることは不可能でしょう。しかし、正直であることの大切さだけは、子どもに伝えなくてはならないのです。
 この本の冒頭には、詩「子は親の鏡」が掲げてあります。これは、このような経緯を経て完成した最新のものです。
「中略」
 子どもは、本当に日々親から学んでいます。そして、大人になったとき、それを人生の糧として生きていくのです。


※授業参観、家庭訪問が控えています。子どもの育ちを一緒に考えていきましょう。

 

 

 

おうちの方へ特集号 2005.6.16


後悔しなくてもいいように…

 

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 6月12日の朝日新聞に掲載されたベネッセ教育開発センターの調査結果と、昨年の6月27日の朝日新聞に掲載された日本子ども社会学会の調査結果を紹介しました。個々の子どもを全国平均に合わせる必要など全くないのですが、我が子の有り様を客観的に見つめ直す指標にはなるかと思います。


 「自分が好き」と思える感情をセルフエスティーム(自己肯定感)と言いますが、近年の教育学の研究によると、セルフエスティームが高いほど学力が高いという相関関係が指摘されています。セルフエスティームというのは、乳幼児期の包み込まれ感覚で根が育ち、学童期に認められ自信を増すことで幹を太くしていきます。叱るよりも褒めることが大事なのは、そのことと深く関係しています。


 そうは言っても、高学年になって家庭学習「ゼロ」は問題外。学習習慣の確立がいかに大切か、ベネッセ調査の中高校生の悲鳴が物語っています。後悔先に立たず、いや、転ばぬ先の杖。ここは一つ心を鬼にしてでも、この時期に最低1時間は机に向かう習慣をつけたいものです。


 小学校生活最後の夏休みを控えています。親子で一度じっくり語り合う時間をもってほしいと思います。

 

 

 

おうちの方へ特集号 2005.8.23


「悩むチカラ」を子どもたちに


 20年ほど前、ある雑誌がいじめ問題の特集を組んだ時、小文を書かせてもらったことが事がありました。その雑誌にカウンセラーの伊藤友宣さんという方の連載記事があって、多くの示唆を受けた記憶があります。先日、書店の新刊書コーナーで久方ぶりに氏の名前を目にし、『悩むチカラ』と題された著書を買い求めました。今回は、その内容を少しばかり紹介したいと思います。

 

 「悩むチカラ」とは、なにかが気になったら、気になったものの正体を一つのイメージとして捉えられるようになるまで(気になったものの正体をしっかり突き止めるまで)、自分の課題として、心にとっておくことのできる習性のことである。


 「右脳(左脳が論理脳であるのに対して、右脳は感情脳、イメージ脳)がいきいきと活発化するとき、思いは突如広がったり微細なものへ凝集したりする。その視野の広がりや視点の置きどころの柔軟自在の変容が、実は、『悩むチカラ』のポイントである。」「漠然とした焦点の定まらない曖昧さが、なんやかやの右脳に湧いてくるプラスイメージを誘い、さらに、自分のプラスイメージが周りの人や物のプラスイメージを呼びこんでいく。とにかく、さて困ったことになったというときにいらいらしない、すぐさま煮つまってしまわない、ゆとりのある悩みの保留こそが、『悩むチカラ』のありようである。」「『真剣な愉しさ』は『悩むチカラ』と同義語なのである。」


 今の世の中、「悩むチカラ」が欠けていることが気になると、伊藤さんは言います。課題として持ち続ける力にこだわってきた私には、我が意を得たりの感がします。勝ち負けではない、一緒にやっていくしかないときにこそ「悩むチカラ」が必須で、悩むべき時には静かに明るく深く、心の中のイメージを輝かせて悩めという指摘が、私を勇気づけてくれました。

 

 「悩むチカラ」が、豊かに根を下ろし得る土壌はどこかといえば、人間一人ひとりの「心」である。

 

 心は三つの心で全体が構成されるものとする。(フロイト)
 aは我(エゴイズム)で、自分の欲を晴らし、自己の可能性を追求してやまない心である。
 bは超自我(スーパーエゴ)で、他人を気づかい、他人に認められてこそ充足できる心である。
 aとbは互いに反発しあいながら常に対立と葛藤をくりかえしてこそ、幅のある人格cが育つ。つまり、「自我(エゴ)が確立する」というのはこのことを指している。


 超自我(スーパーエゴ)と我(エゴイズム)のバランスが、やがて自我(エゴ)の確立を約束するという心のあり方が、もっともっと一般的になる必要がある。
 子どもの我(エゴイズム)が強く出ているとき、横から親の超自我(スーパーエゴ)が口を出して、強く出すぎの子の我(エゴイズム)を抑えようと力めば、たちまち子の我(エゴイズム)と親の超自我(スーパーエゴ)の反発とのいがみあいが起こって、なんのことはない、子の心の内部の二つの心、我(エゴイズム)と超自我(スーパーエゴ)の葛藤の余地がなくなってしまう。
 親に子が絶望しがちなのは、親がこれを平然とやらかすことが親子の関係というものだと思いこんでいるからである。そうではなくて、親は、子の自我(エゴ)に向かって自分自身の自我(エゴ)からの発信を心するのである。すると期せずして、子の自我(エゴ)から親の自我(エゴ)への返信も自然に起こり得るというもの。「悩むチカラ」の装置として、心のしなやかでしたたかなありようを確かにしていけるのは、親と子の対話の成立によってでしかないのである。
 我(エゴイズム)と超自我(スーパーエゴ)の内面での相克が可能なのは、自己の自我(エゴ)と近親者の自我(エゴ)の対話が成立してこそである。

 
      (出典:伊藤友宣『悩むチカラ ほんとうのプラス思考』PHP新書)

 

 

おうちの方へ特集号 2005.10.21


言葉が子どもの心に届くとき


 昨日の新聞に、中学1年の男子生徒が母親に暴力をふるい、首を殴られたことによる外傷性くも膜下出血で母親が死亡したという「事件」が報じられていました。少年の供述によれば、母親への暴力は小学校6年の頃に始まり、その原因は、顔を見れば勉強しろと口うるさく言われたからだということです。まわりの生徒たちの証言では、成績はトップクラスだったといいます。--母親の子どもへの叱咤激励は、子どものやる気を喚起せんがためのものだったのでしょうが、結果としてその言葉は子どもの心に届きませんでした。


 さて、「教育の日」の事業として「心に届いた言葉」を子どもたちから募っています。すでに何人かの子が応募用紙を提出しています。いくつかを紹介しながら、言葉が子どもに届くとはどういうことなのか、一緒に考えてみましょう。

 

一人ひとりみんなちがうねんから、それでいいやん。

私は背が低いので、「背小さいなあ」「チビやなあ」とよく言われる。お母さんにそのことを言った。すると、「みんな一人ひとりいろんなところを持ってんねん。みんなみんなちがうねんから、背が高かろうが、低かろうが、それはそれでいいねん。そんなこと気にしな。」と言ってくれた。そのとき、とても勇気づけられた。一人ひとりみんなちがっていいんだと思った。

 

大丈夫、○○なら絶対いけるって。頑張りや。

勉強が思うようにうまくいかなかったとき、この言葉で元気が出たし、だんだんできるようになっていったから、うれしかった。

 

夏の大会はだめだったけど、秋の大会の時またがんばればいいやんか。

ソフトボールの試合の日、負けて家に帰ったとき、お母さんが、「夏の大会はだめだったけど、秋の大会の時またがんばればいいやんか。」と言ってくれた。それで秋の大会もまたがんばろうと思えた。

 

次またがんばろう。

サッカーの県大会があって、試合に負けたとき、コーチが「次またがんばろう。」と言ってくれて、次の県大会でがんばろうと思えた。

 

大丈夫。自分自身がんばればいい。

 私がピアノの発表会の時、ピアノの先生が、「大丈夫。まちがっても、精一杯がんばればそれでいい。」と、そう言ってくれたので、勇気が出た。 

 

将来、夢持つんやったらおっきな夢持ちや。

友だちと帰っているときに、友だちが走っていたので、通りかかったおじさんが、「がんばってるな、将来オリンピック選手になんのか。」と言ってきたので、友だちが「どうかなあ。」と言うと、「将来、夢持つんやったらおっきな夢持ちや。」と言ってくれた。

 

私らがいるから心配しな。

私がいじめにあっていたことを知った友だちが、落ち込んで泣いている私に、「私らがいるから心配しな。今度何か言われたら、すぐ私らに言ってきいや。」と励ましてくれた。その時、とてもうれしくて元気になった。そして、私にこんないい友だちがいてうれしいと思った。

 

 

 こうして見てくると、子どもの心に届いた言葉って共通点があると思われません? エネルギーがちょっと萎えてきたときに、ふわふわとした温かさと柔らかさでそっと包んでくれる言葉。そして、その言葉に元気をもらい、エネルギーをプラスに転じているのです。--そう言えば、大人の私たちだって掛けてほしい言葉は同じですものね。